child−4 二葉


 赤羽橋付近から見上げる東京タワーは、すぐにでも歩いていける距離のような錯覚を受けるが、実際に歩くとかなりの距離がある。「駅を出たらすぐにタワー」と言うのが理想なのだが、生憎とそんな便利な地下鉄は、二十一世紀の初頭になっても作られることはない。東京タワーへは、地下鉄を利用した場合、営団地下鉄日比谷線の神谷町駅か都営地下鉄三田線の御成門駅から歩いていくのだが、それでも普通に歩いても大人の足で十分は掛かる。のちに開通することになる都営地下鉄大江戸線の赤羽橋駅が一番近くなるわけだが、それでも七‐八分は掛かるのである。歩くのが嫌なら、バスを使うしかない。バスならば、降りると目の前が東京タワーである。
 そんな道程を、小学生くらいのふたり連れの女の子が、赤羽橋の交差点から桜田通りを昇って、聳え立つ東京タワーを目指し、歩いていた。
「二葉ちゃぁん、あたし疲れたよぉ………。まだ歩くの?」
「もうちょっとだから、辛抱して歩きなさい」
 明らかに疲労したようにダラダラと歩いているのは、あの六月だった。一緒に歩いているのは、先日の渋谷で行動を共にしていた五十鈴ではない。
 歳は五十鈴や一美と同じくらい。膝まである長い髪を、首の後ろの辺りから三つ編みにしている。瞳の大きな可愛らしい少女だった。背は、六月より僅かに高い程度だった。一美と同じくらいか。淡いピンク色のお洒落なナップサックを、重そうに背負っている。
「ウダウダ言ってると、置いていくよ! あたしだって、疲れてるんだからね!」
「なんで歩きなのよぉ。バス使えばよかったじゃない〜」
「うるさいわね! あんたがパフェなんて頼むから、お金がなくなるんじゃない! 帰りの電車賃しかないわよ!」
「ええ〜っ。二葉ちゃんだって、一緒になって頼んだじゃない〜。美味しい美味しいって食べたじゃない〜。あたしが悪いのぉ?」
「ええい、うるさい!!」
 立ち止まって駄々を捏ね始めた六月に、振り返ってピシャリと言うと、二葉と呼ばれた少女は先に立ってスタスタと歩き出してしまった。
 本来なら、麻布からタクシーを使って東京タワーまで行く予定だったのだが、時間潰しに立ち寄った喫茶店で予定外の出費をしてしまい、お金が足りなくなってしまったのである。
「ぶぅ〜〜〜」
 口を尖らせて唸りながらも、六月は渋々二葉のあとを追って歩き始めた。約束の時間までに、東京タワーに付かなければならないからである。
 キツクは言ったものの、責任は自分にもあるので、二葉も歩くスピードを落としていた。予定時刻までは、まだ時間に余裕がある。ダラダラと歩いていても、充分に間に合うと判断してのことだった。

「うわぁ………。おっきいねぇ………」
 東京タワーの下にようやく辿り着くと、六月は口をあんぐりと開けたまま、タワーを見上げて感嘆の溜め息を付いた。
「六月、アンタもしかして東京タワーを直に見るの初めて?」
「うん!」
 六月は瞳をキラキラと輝かせていた。
「二葉ちゃんは初めてじゃないの?」
「小学校に入ったばかりの頃、パパとママに連れられて、一度だけ来たことがある。あ、ママって言っても、零貴ママじゃないよ」
「二葉ちゃんの本当のパパとママのことだよね。大丈夫、それくらい分かるから」
「そ、そうだよね………」
 余計なことを言ってしまったと、二葉は下を向いてしまった。
「でも、羨ましいなぁ………。二葉ちゃんは、本当のパパとママのこと覚えてるんだもんね。六月のパパとママは、六月が赤ちゃんの頃に死んじゃったらしいから、よく分かんないんだぁ」
 そう言っている六月の顔は、以外にサバサバしたものだった。知らないだけに、何の感慨も湧かないのかもしれなかった。下手に知っているだけに、センチメンタルな気分になってしまう自分の心が、二葉は無性に腹立たしかった。思い出したくない時に限って、思い出は甦ってくる。何年か前に、本当の両親に連れられて東京タワーに遊びにきた思い出が、走馬燈のように巡る。はしゃいで走り回る自分の幻が、目の前を通り過ぎていった。
 横にいる六月は、相変わらず瞳をキラキラと輝かせて東京タワーを見上げていた。
「死んじゃったらしい」
 他人から聞かされたことであるらしく、それが果たして本当のことなのかどうかは、今となっては、六月には確かめる術はないだろう。両親の死を間近で見てしまっている自分とは、そこが決定的に違う点だった。
「六月。零貴ママをどう思う?」
「優しいよ。六月は好きだよ、零貴ママ。二葉ちゃんは?」
 逆にそう問い掛けられて、二葉は返答に詰まった。果たして自分は、零貴のことをどう思っているのだろうか。今まで、真剣に考えたことはなかった。
 十人の「兄弟姉妹」のうち、一美だけは零貴のことを「ママ」とは呼ばない。それが一美のささやかな抵抗であることは、自分も五十鈴も知っていた。自分も本当は、零貴のことを素直に「ママ」とは呼べなかった。それでも一美のような抵抗ができないのは、自分の弱さであり、どこかで零貴に対して恐怖を感じているからなのかもしれなかった。
 孤児院にいた自分の前に突然現れた零貴。
「これから、あたしがあなたのママよ」
 その時、零貴は優しい笑顔を浮かべて自分にそう言った。
 他にも大勢の子供たちがいるのに、何で自分なのだろうかと、その時の二葉は思った。自分は目立たない子供だった。仲の良かった友だちが次々と貰われていく中、取り残されたような気持ちになっていた。孤児院を出なければならない年齢になるまで、自分はきっとここで育つのだろうと、漠然と考えていた。
 そんな時に、零貴が現れた。
「二葉ちゃん?」
 黙り込んでしまった二葉のことを気に掛けて、六月は顔を覗き込んだ。
「いけない! あまりのんびりもしていられないな」
 全てを振り払うように二葉はそう言うと、近くに設置してあるプラスチック製のベンチシートに、足を投げ出すようにして腰掛けた。
「さて。みんなはどうしてるかな」
 二葉は背負っていたナップサックを降ろし膝の上に乗せると、中からA4型サイズのノートパソコンを取り出した。電源を入れる。
 親子連れが目の前を通り過ぎていった。三歳くらいの男の子が、物珍しそうに自分のノートパソコンを眺めていった。
「ばいばぁい!」
 六月がニッコリと微笑みかけながら、男の子に向かって手を振っている。どうやらこの親子連れは、帰路へと向かうところのようである。タワーに入らなかったことで、僅かにホッとしてしまう。
 夏休みともなると、やはり人の出は普段より多くなる。先月下見に来たときより、人の数が数段多い。特に、家族連れが多かった。
 先程の家族連れの後ろ姿を目で追うようにしていると、六月と視線が合った。六月は男の子に向けた笑顔と同じ笑顔を向けると、ちょこちょこと歩み寄ってきた。
「みんな準備できてる?」
 六月が覗き込んできた。
「ちょっと待って」
 真顔になって、パソコンに視線を落とした。既に画面は立ち上がっていた。二葉は素早くキーボードを叩き始めた。
「殆ど配置に付いてるわね」
 満足そうに二度ほど肯いた二葉だったが、すぐに表情を曇らせた。
「あ! あいつら〜。所定の場所にいないじゃない! さては、遊んでるわねぇ! 六月、ちょっといい?」
 いつの間にか、少し離れた位置で東京タワーを見上げていた六月を、二葉は呼んだ。
「なぁに、二葉ちゃん」
「双子の馬鹿に、念波飛ばして! いつまでも遊んでないで、所定のポジションに付けって」
「双子の馬鹿?」
三継(みつぐ)四吹(しぶき)のふたりよ」
「うん、分かった」
 六月は肯くと、大きく息を吸い込んで、宙を見上げるようにした。
「三継くん、四吹くん、聞こえる? え? 今、忙しい? 太鼓のゲーム? アソビットシティ? なに、それ」
 六月はまるで何者かと会話をしているかのように、独り言を言い始めた。その「独り言」を聞いて、二葉は頭を抱えた。
「………だからあたしは、あのふたりを秋葉原(アキバ)に行かせるのは反対だったんだ」
 そして、何やらまだ「独り言」を言いながら困った様子の六月に、再び目を向ける。
「六月! あいつらに、『ふざけんじゃない』って言ってやれ」
「うん、分かった」
 二葉に顔を向け、六月は肯く。
「ふたりとも、『ふざけんじゃない』って、二葉ちゃんが怒ってるよ。え? 二葉ちゃんなんか、怒ったって怖くない? あ、二葉ちゃんがキレそうだよ。拳をプルプルやってる。その場所から殴れるもんなら殴ってみろ? あ、二葉ちゃんが本気で怒った。あんまし聞き分けないと、六月も怒っちゃうよ? え? 反対に泣かせてやる? いいもん、分かったもん。こうなったら、一美ちゃんに言い付けてやる」
 ぷくっと頬を膨らませたあと、六月は静かになった。
「馬鹿双子、なんだって?」
 呆れた表情で、二葉は六月に尋ねた。
「一美ちゃんに言い付けるって言ったら、慌てて遊ぶのやめたみたい」
「ホントだ。所定の位置でスタンバってる………。よっとぽど、一美が怖いんだね。ま、分かるけどさ」
 大きく肩を竦めると、二葉は再びキーボードを操作し始めた。
「えっと、一美と七海は渋谷の駅前。馬鹿双子は秋葉原。五十鈴は後楽園遊園地。八重は池袋(プクロ)のサンシャイン60。九椚(くぬぎ)十球磨(とくま)新宿(シンジク)のアルタ前。そして、あたしたちは東京タワーっと」
 呟きながら、ポケットからパッションピンクの二つ折りタイプの携帯電話を取り出し、ダイヤルをプッシュする。
「ママ? うん、準備完了だよ。オッケー、カウントダウンね」
 二葉は六月に目を向ける。
「六月! 全員とシンクロして! カウントダウンを始めるよ」
「うん。りょうかい」
 六月は深呼吸をすると、瞼を閉じた。
 親子連れがまた、ふたりの目の前を通り過ぎていく。しかし、今度は二葉はそれには気付かなかった。ノートパソコンの画面を見つめたまま、ケータイを耳に当てている。
「ミッション開始まで、あと十秒。各自スタンバイ。五秒前! ………三、二、一。ミッションスタート!」