child−3 チルドレン


 目の前の花壇は、荒れ果てていた。手入れする者が誰もいないのだから、それも当たり前だった。
 ここへ来たばかりの頃は、それでも色とりどりの綺麗な花が咲き乱れていた。チューリップやタンポポ、朝顔やひまわりくらいは分かるが、花の種類をそれほど知っているわけでない。それでも美しい花々を愛でるのは好きだった。
「ここにいたのか………」
 背後から声が投じられたので、一美は首を巡らせた。五十鈴が所在なげに佇んでいる。
「なんか、用?」
「別に………。特に用事があるわけじゃない」
「監視? 零貴さんにでも言われたの? あたしから目を離すなって」
「まさか! 勘ぐりすぎだよ」
 五十鈴は呆れたように小さく笑った。
「強いて言えば、七海が泣き出したとき困るからかな」
 肩を竦めた。
 一美は嘆息しながら立ち上がった。
「零貴さんは?」
「街へでかけているわ」
「ひとりで?」
二葉(ふたば)九椚(くぬぎ)を連れてった」
 五十鈴は言いながら、歩み寄ってきた。
「ママが提案したゲーム。どう思う?」
「くだらない」
 一美は短く答えて、真っ直ぐに五十鈴の目を見た。
「やれって言うのならやるしかないのが、今のあたしたちの立場よ」
「投げやりだね」
「あたしは零貴さん大嫌いなの」
「それは知ってるけどね」
 五十鈴が小さく息を吐くように言うと、一美はその横をすり抜けるようにして後ろへ回った。
「五十鈴。体の具合はどうなの?」
「良好だよ。心配ない」
 五十鈴が振り向いた時には、一美は既に自分に背中を向けていた。
「近頃、能力が不安定みたいだから、ちょっと心配なんだけど」
「大丈夫だよ。一美にそんなに心配されると、かえって気味が悪い」
 五十鈴の言葉に一美は無言で肩を竦めると、そのままその場から立ち去っていった。
「………ゲームをやる頃くらいまでは、保つと思うよ」
 歩き去っていく一美の背中に、五十鈴は小さく語りかけるように言った。聞かせるつもりはなかった。強いて言えば、自分に言い聞かせたかったのだ。

 一美が部屋に戻ると、何やら芳ばしい香りが漂ってきた。甘くて、美味しそうな匂いだった。
「どうしたの?」
 わいわいと楽しそうな妹たちに、一美は声を掛けた。
「八重ちゃんがクッキーを焼いたんだよ!」
 口の周りにいっぱい食べカスをくっつけて、七海が振り向いてきた。七海は妹弟の中で、一番の年下だった。今年、ようやく三歳になる。
「へぇ、八重がそんなことできるなんて、知らなかった」
 本当に感心して、一美は言った。
「お母さんに教えてもらったんだ。お母さん、お菓子作り上手だったから」
「ママって、お菓子作れるの?」
「零貴ママじゃないよ。あたしの本当のお母さん」
「本当のお母さん?」
「七海にはよく分からない話か………。今度、七海も作ってみる?」
「うん! やるやる! 七海、クッキー作る!!」
「じゃ、今度教えるね」
 七海の頭を撫でながら、八重は寂しげに言った。明るく行動的な八重が、そんな表情を見せることは今までなかったから、一美は少し不安になる。
「体の具合、思わしくないの?」
「え? そんなことないよ、一美お姉ちゃん。ぜんぜん元気だよ!」
「さっき、廊下走り回ってたもんね!」
 クッキーをボリボリ頬張りながら、六月は言った。
「そう。なら、いいけど………」
「一美お姉ちゃんも食べて! 早く食べないと、あいつらに全部食べられちゃうよ」
 八重が示す先に目を向けると、テーブルの周りに蟻のように群がっている三人の男の子の背中が見えた。物凄い勢いで、クッキーを食べまくってる。
「残ってなさそうだよ」
 諦めたように、一美は笑った。
「あっ! こらぁ!! 全部食べるなぁ!!」
 拳を振り上げながら八重がテーブルに駆け寄ると、蜘蛛の子を散らすように三人は逃げていった。もちろん、テーブルには喰いカスしか残っていない。
「この次までオアズケね」
 三人を追いかけ回す八重を見ながら、一美は小さく微笑んだ。この次が、本当に来ればいいと、そう願いながら。

 熱帯夜だったと言うこともあり、ベッドに潜り込んだものの、八尋はなかなか寝付けないでいた。クーラーは部屋にあるのだが、付けたまま寝ると母親に怒られるので、扇風機で我慢していた。
 体が妙に火照っていて、パジャマも汗でぐっしょりと濡れてしまっている。喉もカラカラに乾いてしまっていた。
 せめて喉の渇きくらいは癒そうと、八尋は部屋を出ると、一階の台所へと向かった。
「あれ?」
 台所に向かう途中に居間がある。その居間から、明かりが漏れていた。話し声も聞こえる。両親は、まだ起きている時間だったようだ。
「怖いのよ、あたし………」
 母親の声だった。八尋は思わず足を止め、息を殺して聞き耳を立てた。
「あの子、最近おかしいわ。今朝だって、突然………」
「怪我のことか?」
「ええ、そうよ。あの子、二階の自分の部屋で寝ていたのよ? それなのに、いつどこであんな怪我をするのよ? 起きて出歩いていたならまだしも、そんな様子はなかったわ」
「ああ、確かに、昨夜は夜中に出掛けた形跡はなかった。それに部屋で転んだくらいじゃ、あれ程の怪我はしない」
 両親は、自分の怪我について話しているようだった。八尋は無意識のうちに、自分の右足の膝小僧に手を当てた。朝目が覚めたら、膝に転んで付いたような擦り傷があったのだ。血は乾いていたので、朝方の怪我ではなかった。しかし、寝る前にはそんな怪我はしていなかった。どこでそんな怪我をしたのか、八尋自身覚えていなかった。強いて言えば、いつも見る夢の中で、逃げる途中に転んだことぐらいしか思い当たらない。しかし、それは夢の中での話である。現実の話ではない。
「医者に診せてみるか………」
 父親が言った。
「夢遊病かもしれん。俺たちの気付かない間に外へ出て、それで転んだのかもしれない」
「あの子の目を見ると、時々ゾッとすることがあるわ。何でか分からないんだけど、とても怖い気分になるのよ………」
「気にしすぎだ。初めての子供ができて、気持ちが高ぶっているんだ」
(初めての子供?)
 父親は妙なことを言った。
「初めての子供」
 確かにそう言っていた。母親が妊娠をしているのは、八尋も知っている。あと半年もすれば、自分はお兄ちゃんになる。両親からそう告げられていた。自分も、まだ見ぬ弟か妹の姿に期待を寄せ、胸躍らせていた。それが「初めての子供」なのだとしたら、自分は何なのか。自分は両親の子供ではないと言うのか?
「………ええ、そうかもしれないわね」
 しばしの沈黙のあと、母親の呟くような声が聞こえた。
「でもあたし、自信がないわ。この子が生まれたあと、今までと同じように八尋と接しられるかどうか。だって、八尋は………」
「八尋は俺たちの子だ。母親のお前が、そんなんでどうするんだ?」
「ごめんなさい、そうね………」
 八尋はそっと、その場から立ち去った。
 足音を忍ばせ、自分の部屋に戻った。知らず知らずのうちに、涙が溢れ出てきた。
「俺は、お父さんとお母さんの本当の子供じゃないんだ………」
 悲しかったから涙が出たのではない。知らなかったことに、今まで気付かなかったことに対して、悔しかったから涙が出たのだ。