child−1 一美
都会の街並みを急ぎ足で歩く人々は、他人のことに気を配らないことが多い。
自分の目的地に向かって真っ直ぐに歩く会社員たち。友人と談笑しながら、ダラダラと歩く若者たち。手を繋ぎ、ゆっくりとした足取りで歩く恋人たち。流行のローラーブーツで、人並みを押しのけるようにして移動していく子供たち。
自分たちの周りに気を配ることを忘れてしまった、都会の住人たち。お互いに干渉し合うことを嫌い、孤立していく現代の人々。
彼らは、自分の周りで起こっている事柄をあまり気にしない。自分たちに直接関わりのない事柄に関しては、無関心を装う。
そう。見えてはいるのだ。何が起こっているのかを。
ただ、そのことに関して干渉することをやめてしまっただけ。
何故ならば、自分に利益をもたらさない事柄だから。自分たちのマイナスにはなり得るが、プラスにはならない事柄だから。
だから、何が起こっても無関心を装う。見えているのに、見えていないフリをする。
昼下がりの渋谷の駅前で、二十代前半の男性が、小学校六年生くらいの女の子を突き飛ばしてしまったことに、この日何人の者が気付いただろう。そのまま立ち去ってしまった男性のことを咎めようと考えた者が、何人いただろう。
そして、実際には誰ひとりとして咎める者はいなかった。
倒れた女の子に手を差し伸べる者も、誰ひとりとしていなかった。
我、干渉せず。
この日の渋谷の駅前にいた人たちは、不幸にもそういった者たちばかりだった。
倒された女の子は、ゆっくりと立ち上がった。
服に付いてしまった汚れを、手でパタパタと払う。
右足の膝小僧が振り向けて、血が滲んでいた。
前方を凝視した。
自分を突き飛ばした男性の背中が、人混みに紛れていく。
やや俯き加減で、男性の背中を睨み付けた。
悲鳴が上がった。
「109」で買い物を終えた後、衛とうさぎは渋谷駅西口に向かって歩いていた。衛にスカートを買ってもらったうさぎは、すこぶる御機嫌だった。
「来週のデートの時に穿くね! また『109』に来ようね!」
「おいおい、今度は何を買わせる気だ?」
強請られる衛も悪い気はしない。スカートを買ってもらった後、「可愛い〜これ!」と叫んでいたタンクトップでも強請るんだろうと思いながら、衛はうさぎの楽しそうな横顔を見つめていた。今日買わされたスカートに比べれば、タンクトップの方が全然安いのだが、二つ目を強請らないところが、謙虚で可愛かった。きっと、ふたつもお強請りしたら怒られると思ったのだろう。
売り切れてしまっては大変だ。衛は明日にでもひとりで来てみようかとも思う。
「もうちょっと遊んで行きたいなぁ。まもちゃん、まだ帰らなくてもいいでしょ?」
「そうだな。取り敢えず、どこかで少し休もうか」
「うん! あたし、フルーツパフェ食べたい!」
うさぎは飛び上がらんばかりの喜びようだ。そんなうさぎの様子を見ていると、少しばかり嬉しくなる。衛は小さく笑みを浮かべた。
悲鳴が上がったのはその時だった。
最初の悲鳴だけでは、どこで悲鳴が上がったのか、特定することは難しかった。しかし、続いて聞こえてきた怒号と別の悲鳴のお陰で、どこから聞こえてきたのか確認することができた。
渋谷駅西口付近の地下鉄へと降りる階段の前だった。
「ま、まもちゃん!!」
信じられないものを見るような表情で、うさぎはその場所を指差した。
炎が上がっていた。あり得ない場所から。
「うわぁぁぁ! うわぁぁぁ!!」
男性の悲鳴が、その炎の中から聞こえてきていた。
炎は移動していた。よろよろとした、人の動きによく似ていた。
「人体発火だと!?」
衛はその炎が、人から上がっているのだとすぐに分かった。人が燃えているのだ。
「うさはここにいろ!」
うさぎにこの場に残るように言い置くと、衛は炎に包まれている男性(だと思われる)の方に向かって走った。
「助けてくれ!」
炎に包まれている男性は、泣きながら叫んでいた。
「何が起こったんだ!?」
手近にいた大学生風の男性を捕まえて、衛は尋ねた。
「分からない! 突然、燃え上がったんだ」
派出所から警官が走ってきた。手には消化器を持っている。
炎に包まれた男性は、既にその場に倒れて動かなくなっていた。
到着した警官が、燃えさかる炎に向かって消化器に向けた。
消化剤の白い粉が舞い上がる様を、少し離れた位置でうさぎは見ていた。
「?」
野次馬たちがひしめく中、そんな状況など無関心だと言う風に、少女が人混みから遠ざかるようにして歩いていた。
「あの子……」
歩き去る少女は、不自然なまでに無関心だった。近くで起こっている騒ぎに、全く興味を示さないのだ。気付かなかったわけではない。彼女は、その方向を見ていたのだから。
うさぎは、その少女に違和感を感じた。普通とは違う、何かを感じた。だから、後を追おうと思ったのだ。
しかし、それは叶わなかった。少女が自分に気付いたからである。
真っ直ぐに自分に向けられているその目は、どこか不気味だった。
何か、用ですか?
少女の口が、そう動いたように見えた。百メートルくらいの距離があるので、声は聞こえてこなかった。
うさぎの体は硬直した。その少女の瞳を見た瞬間に、体が石にでもなってしまったかのように動けなくなった。
そんなうさぎの様子を見て、皮肉ったような笑みを浮かべると、少女はその場から歩き去ってしまった。
「うさ、どうした?」
衛の声で、うさぎは我に返った。
「あ、まもちゃん……」
衛の顔を見上げて、うさぎは深く息を吐いた。
「顔色が悪いぞ」
衛は言いながら、うさぎを胸に抱き寄せた。まるで、自分の体温でうさぎの体温を測るかのように、衛は優しく包み込むようにしてうさぎを抱いた。
「気になる女の子がいたの」
「女の子?」
「事件のあった人混みの中から、何喰わぬ顔で出てきたの。追い掛けようと思ったんだけど、見つかっちゃった」
「………」
うさぎは衛の顔を見上げた。不安そうな衛の瞳が、自分を見下ろしていた。
「そしたら、金縛りにあったように動けなくなっちゃったの」
「その女の子、どっち行った?」
「う〜ん『109』の方に向かって歩いていったようにも見えたけど………。ごめん、よく分かんない」
うさぎとしては、少女の行動を全て見ていたわけではない。体が硬直してしまったあとは、気が動転してしまっていたので、そこまでは気が回らなかったのだ。
「………」
衛は無言で、アイドルの広告がでかでかと掲げられているビルを見つめた。今から追い掛けていったところで、この人混みの中では見付けることはできないだろう。
救急車のサイレンが、次第に近付いてきた。
炎に包まれていた男性は、既に灰となってしまっていた。白昼に起きたこの怪事件が、その後に起こる戦いに大きく関わってくることなど、この時のふたりには考え及ばなかったことだった。
スペイン坂に差し掛かったところで、少女はつと足を止めた。前方に見知った人影が現れたからだ。
少女は不快そうに顔を歪めて、その人影を見つめた。
「騒ぎを起こしたわね」
咎めるような言葉が、その人影から発せられた。赤い色の高いヒールの靴が、やけに目立った。同じ色のルージュが、妙に毒々しい。美人なのだが、どこか近寄りがたい雰囲気のある女性だった。短めのタイトスカートから伸びているすらりとした長い足が、言葉が終わると同時に僅かに向きを変えた。
「あたしの勝手でしょ」
無愛想に少女は答えた。前方の女性は、呆れたような笑みを浮かべる。
「フライングよ。行動を起こすのは、まだ少し早いわよ。あなたがそんなんだと、他の子たちに示しが付かないでしょ?」
「だから、監視に来たったわけ? 誰に聞いたの? 七海?」
「………」
女性は無言で肩を竦めた。その女性の後ろから、ふたつの人影が姿を現す。ふたつとも小さい。
「一美( 、勝手な行動は困るわよ」)
ふたつの小さな人影のうち、やや背の高い方が言葉を投げるように言ってきた。
「五十鈴( ………。六月) ( も………」)
一美と呼ばれた少女は、憎々しげに舌打ちした。
「ごめんね、一美ちゃん。でも、勝手な行動はよくないと思うよ」
もうひとつの人影が、おどおどしながら言ってきた。体の半分は、女性の後ろに隠している。背後から覗き込むようにして、言葉を投げ掛けてきたのである。歳は一美と同じか、それよりも少し下くらいの感じだった。
「あたしの行動を『見た』のは、六月ね………」
「ごめんなさい。『見る』つもりはなかったんだけど、七海が一美ちゃんのこと捜して泣くから………。それで、ママに話したの」
今にも泣き出しそうな口調で、六月は答えた。「ママ」と言うとき、チラリと女性の顔を見上げた。
「七海がギャーギャーうるさいんだよ。あの子は、アンタにしか懐かない。面倒見てもらわないと困るのよね」
意地の悪そうな目を更に細めて、五十鈴と呼ばれた少女は言ってきた。一美より大人びた雰囲気があるが、同じ歳だろうと思えた。
「はいはい、分かりましたよ」
諦めたように身を窄めると、一美は答えた。
「帰りゃいいんでしょ? 帰りゃ」
「一ヶ月後なら、思いっきり暴れていいから」
「今日だっていいじゃん。なんで来月なの?」
女性に対して、一美は文句を言う。約一ヶ月後の八月九日に起こすと言うことは、前々から決まっていた。しかし、その日でなければいけない理由はないはずだった。
「あら一美、知らないの?」
五十鈴が口を挟んできた。そんなことも知らないのか、と言うような口振りだった。
一美は挑戦的な視線を五十鈴に向けた。目で先を促す。
「八月九日は、ママの誕生日よ」
「そして、あたしとあなたが、初めて会った日でもあるわ」
女性が付け加えた。一美は一瞬唖然としたあと、突然笑い出した。
「笑わないでよ」
少しばかりはにかんだように、女性は表情を崩した。
「あなたに、そんなセンチメンタルな部分があるなんて、今まで知らなかったわ」
「あたしはロマンチストでもあるのよ」
「さてと」
もう一度楽しそうに笑ったあと、一美はくるりと反転した。
「一美ちゃん。帰んないの?」
「あたしはタクシーで帰るわ。零貴さんの運転、荒くて繊細なあたしには合わないの」
背を向けたまま一美は右手を降ると、渋谷駅方面に向かって歩き去ってしまった。
「いいの? ひとりで行動させちゃって………。また、何かしでかすかもよ?」
五十鈴が女性の顔を見上げた。
「あの子は頭の良い子よ。今日はもう何もしないわ。あのままタクシーに乗るわよ。タクシー代は踏み倒すかもしれないけど」
女性―――零貴は、やや吊り上がっている目を更に吊り上げた。
「ってことは、『タクシー運転手謎の焼死』ってニュースが、今晩辺り流れるわけね」
「あら、五十鈴がその気になれば、そんなもの証拠も残さず蒸発させることができるでしょ?」
「ちぇっ。後始末はあたしの役目ってわけ?」
「お願いね」
「ママのお願いじゃ、しょうがないか………」
五十鈴は諦めたような眉を寄せた。
「あ、そう言えば………」
思い出したように六月は言うと、天を仰ぎ見た。
「八月九日は、一美ちゃんの誕生日だった。ママとおんなじ誕生日なのね」
「え? そうだったのか?」
「うん。七海が言ってた」
「………さぁ、五十鈴、六月。帰るわよ」
零貴は言うと、ふたりを伴ってその場をあとにした。
少年が、横断歩道を渡っていた。歩行者用の信号機は「青」を示していた。だから、安心して渡っていた。
しかし、乗用車が突っ込んできた。明かな信号無視。
運転者は携帯電話を落とし、急ブレーキを踏んだ。
ああ、俺は何て馬鹿なことをしていたんだ。
運転手はそう思った。メールなどいつでも見れるのに、暇だったのでつい見てしまった。この道は通り慣れた道だった。住宅街ではあったが、自分が仕事をしているこの時間は、それ程人は通らない。だから、手押しのこの信号が「赤」になることはない。運転手は勝手にそう思っていた。運転手の身勝手な論理である。
だが、この日は違った。いつも「青」の信号が、「赤」になっていた。人が渡るところを殆ど見たことがない横断歩道を、人が渡っていた。
俺は不幸だ。
これから轢いてしまうであろう少年の不幸より、己の不幸を嘆いた。
運転手は目を瞑った。ドカンと言う衝撃。
何かが違う。
人を轢いたことは、もちろん今まで一度もない。しかし、今の衝撃は人を轢いてしまった衝撃ではないと、本能が伝えている。
じゃあ、何が起こった?
しかし、運転手が自分に起こった事実を確かめることはできなかった。何故なら、その運転手はブロック塀に激突したショックで、即死してしまったからだ。
乗用車は、少年を撥ねる直前に、何かに弾かれたように進路を変えていたのだ。