第一章
青天の霹靂だった。
マンガイラスト同好会の二年後輩の女の子から、相談があると持ち掛けられ、指定された体育館裏に行くと、待っていたのは後輩ではなく、ちょっとハンサムな知らない顔の男の子だった。
「月野先輩。俺と付き合ってください」
突然の告白である。
告白してきた男の子は、自分のことを先輩と呼ぶからには年下なのだろう。真剣な眼差しで自分のことを見つめている。その真摯な瞳に、うさぎは圧倒されてしまった。
「一目見て、好きになってしまいました」
「い、いや、あの………」
うさぎは口ごもってしまった。告白されたのは、初めての経験だった。しかも、いきなりである。慌ててしまって、即座に断れなかった。
「返事は、あとでいいです」
困惑しているうさぎに気を利かしたのか、男の子はそう言うと、その場から走り去ってしまった。
「どうして、すぐに断らなかったのかな………」
部室に戻る気も失せてしまったうさぎは、今日はそのまま帰ることにした。大好きなマンガを読む気にもなれなかった。トボトボと歩いている途中で、溜め息混じりに自問してみた。
自分には衛がいるはずなのに、あの場では慌ててしまったこともあるが、すぐに断ることができなかったのだ。考えてみれば、告白されたのは初めての経験である。どう対処すればいいのかが分からなかったと言うのが、正直なところだ。それに、うさぎは状況に流されやすい性格だった。
「あの子、どう思ったかな………」
もじもじと口ごもってしまった自分を見て、あの男の子はどう感じのだろうか。妙な期待感を持たせてしまったのではないだろうか。
うさぎは自分の態度を反省したが、今となってはどうすることもできないのも事実だった。
ひとり悩んで歩いていると、いつの間にかパーラー“クラウン”の前に来てしまっていた。真っ直ぐ家に帰るはずだったのに、普段の習慣でここに来てしまったのだ。
「誰か、来てるかな………」
まことがアルバイトをするようになってから、うさぎたちがパーラー“クラウン”でお茶をする機会が増えた。以前は元基のいるゲームセンターの方が多かったのだが、比率で言えば完全に逆転してしまっていた。今では、週に三‐四回はパーラーの方でたむろしていることが多かった。お冷やだけで長居させてくれのは、パーラー“クラウンくらいのものだ。
「いらっしゃいませ!」
パーラーのガラス扉を開けると、まことの元気のいい声が出迎えてくれた。どうやら今日はアルバイトの日らしい。
「あちゃぁ………」
入ってきたうさぎを見るなり、まことが頭を抱えて嘆いた。
「へ!? なに、どうしたの?」
うさぎはまことが嘆く理由が分からない。が、その理由はすぐに判明することになる。
「うさぎちゃぁん、ちょっといらっしゃぁい!」
いつもの指定席から、美奈子が手招きしている。口調がいつになく丁寧である。美奈子に「ちゃん」付けされるなんて、最近では滅多にない。
「美奈P、何か変よ………」
そう言いながら、うさぎは“指定席”へと歩み寄る。メンツはけっこう揃っていた。美奈子の他には、レイと久々に遊びに来ているちびうさがいた。亜美の姿は見えない。きっと塾があるのだろう。
「あ、まこちゃん。あたしミルクティーね」
うさぎはまことに注文を告げると、席へと座った。お小遣いがあるときは、いくらなんでもお冷やだけで長居はしない。
パーラー“クラウン”における彼女たちの指定席は、店内の角にあった。その場所柄、扇形のテーブルが備え付けられ、椅子も扇形に固定されている。並んで座れば、六人が座ることができた。窓際にあるので、背後はガラスである。
一番奥にちびうさが座り、美奈子とレイはその両脇に座るようにしていた。人数が少ないので、間隔は充分に空いていた。美奈子が少しばかり奥に詰めたので、うさぎは美奈子が譲ってくれた場所に座ったのだ。
「うさぎちゃぁん。今日、な〜んか、いいことなかったぁ?」
美奈子は下から舐めるような視線を、うさぎの顔に向けた。顔はにこやかに微笑んでいるのだが、目が笑っていない。
「い、いいことって?」
嫌な予感がしたので、うさぎは取り敢えず惚けてみた。タイミングがあまりにも良すぎる。先程後輩の男の子に告白されたばかりである。美奈子の言う「いいこと」の意味が非常に心に引っ掛かった。先程の男の子の件のような気もするのだが、違う可能性だってありえる。ここは焦って墓穴を掘ってはいけない。だから様子見の為に、取り敢えず惚けて見せたのだ。
「ほぉぅ。とぉぼける気ぃ?」
美奈子はジト目でうさぎを見る。
レイは無言である。単行本を読みながら、アップルティーを飲んでいる。リンゴの香りが香ばしい。ちびうさはフルーツサンデーを食べていた。お供は何故か昆布茶である。三十世紀に昆布茶はないらしく、最近のちびうさのマイブームだったはずだ。
「惚けるって、何を?」
うさぎはもう一度だけ惚けてみた。まことが頭を抱えた理由が分かってしまった。嫌な予感はみごとに的中してしまったわけだ。要するに、美奈子にあの場面を見られたらしい。
「体育館の裏に、行ったわよねぇ?」
美奈子は尋問するように言ってきた。体育館裏。間違いない。「あれ」を見られてしまったのだ。
「い、行ったわよ」
うさぎは笑顔を作ったが、頬が引きつっていた。
「そこで、なぁんかあったわよねぇ?」
「見てたの?」
「見てましたよぉ」
美奈子は自分の注文したミルクティーを啜った。
ちょうどその時、まことがうさぎの注文したミルクティーを運んできた。
「美奈、あんまりうさぎを虐めるなよ。別にうさぎの方から告白したってわけじゃないんだろう?」
「それはぁ、そうなんだけどね。でも、相手が悪いわよぉ! よりによって、サッカー部のエースの中村伸二クンよぉ! まだ一年生だけど、既にレギュラーを獲得してるし、なんたって今度のユース代表にも選ばれてる、将来の日本サッカーを背負って立つ男の子なのよ!」
「へぇ、そうなの? そんな風には見えなかったケド………」
告白された男の子が、そんな凄い男の子だなどと知らなかったうさぎは、驚いたように目をまん丸にした。うさぎの反応を見た美奈子は、がっくりと項垂れる。
「アンタ、知らなかったの?」
「うん」
うさぎは素直に肯く。
「仕方ないわよ。うさぎちゃんは、衛さん一筋だもんね」
話を聞いていたらしい宇奈月が、会話に参加してきた。うさぎとしては、どんなに有名な男の子でも、衛の方が素敵に見えてしまうのだ。
「うさぎがまもちゃん一筋なのは当然として、まもちゃんてカッコいいから、大学でもモテるんだろうな………」
黙々とフルーツサンデーを食べていたちびうさが、ようやく会話に参加してきた。どうやら食べ終わったので、暇になったと見える。
「まぁ、確かにモテるわよねぇ………。この間KO大学でアンケート取ってんたけどさ、衛さんて抱かれたい男ナンバー・ワンだったわよ」
宇奈月が言う。彼女はKO大学の経済学部に通っていた。
「だ、抱かれたい男ナンバー・ワン!?」
これには流石の美奈子も驚いた。モテてるとは思っていたが、まさかそれほどまでとは思ってもいなかったのである。KO大学での衛は、女の子の間ではかなりの人気らしい。
「クールでいい男だから、みんながほっとくわけないじゃない! わたしだってシングルだったら、衛さんにアタックするかも」
宇奈月は、冗談とも本気とも取れる表情で言った。
「まもちゃんて、やっぱモテるんだぁ。だいたい、うさぎと付き合ってるってのが、納得いかないわ。うさぎとは月とすっぽんの差だもん」
「ちびうさぁ! あんたね! 久しぶりにこっち来て、あたしに喧嘩売ろうっての!?」
「だぁって、ホントのことじゃない! まもちゃんと付き合うのは、素敵なレディが相応しいわよ。もちろん、アンタのことじゃないけどね、う・さ・ぎ」
「キーッ!! 口の減らないガキだわね! アンタをこんな風に育てた、親の顔が見たいわよ!!」
「はい」
ちびうさがうさぎの前に鏡を差し出す。
「何よ、これ」
「親の顔が見たいんでしょ」
「う゛〜〜〜」
うさぎは唸るしかない。ちびうさを育てたのは、未来の自分なのである。
「なんか、旗色悪いわね、うさぎちゃん」
うさぎを見て苦笑する宇奈月だったが、彼女はちびうさが未来から来ていることを知らなかった。
「嵐は去ったみたいっすね」
うさぎとちびうさは、あの後二十分間も口喧嘩していたが、お腹が減ったらしく、仲良く家に帰っていった。時計を見れば、六時を回っている。月野家では夕食の時間だった。
「火野先輩、災難だったっすね」
浅沼一等がレイの向かい側に座る。彼がパーラーにやってきたときは、うさぎとちびうさの口論の真っ最中だった。彼女たちからは熱帯魚の水槽が邪魔で見えない、浅沼お気に入りの席で、ほとぼりが冷める待っていたのだ。
「あたしを気遣ってくれるの? 嬉しいけど、まこが焼き餅を焼くわよ」
「え!?」
「冗談よ」
浅沼のまことに対する気持ちは知っている。憂さ晴らしに、ちょっとからかってみたのだ。
「何よ浅沼ク〜ン。レイちゃんは気遣ってくれて、あらしは気遣ってくれらいわけ?」
「いえ、そういうわけじゃ………」
美奈子がヌッと顔を近付けてきた。女性の顔を間近で見ることになった純情少年は、顔を真っ赤にして僅かに身を引いた。
「らぁりぃぃ? くりごらえるるきら〜?(訳 なにぃ? 口答えする気かぁ?)」
美奈子が絡んだ。いつの間にか、ウォッカ入りのトロピカルドリンクを飲んでいる。もちろん、作ったのは宇奈月だ。マスターが未成年に対して、アルコール入りのドリンクを作るわけがない。
「美奈子さん、目が座ってますけど………」
「あはははは。ウォッカの量、ちょっと多かったかな? マスターが帰ってくるとマズイから、そろそろ帰ってくれる?」
あっけらかんと宇奈月が言う。鬼の居ぬ間のなんとやら。どうやらマスターが留守の間に、トロピカルドリンクを調合したらしい。
「だからあたしは止めたのに………。仕方ない。浅沼ちゃん、悪いけどレイとふたりで美奈を送ってってくんない?」
まことは肩を竦める。浅沼の伝票を自分のポケットに突っ込むと、顔の前で両手を合わせる。浅沼が注文したナポリタンとココアは、どうやらまことのオゴリになるらしい。
「え? あたしも行くの?」
自分の名前が出てきたことに、レイはいささか驚いた。浅沼が美奈子を送っていくのはだいたい予想できたが、自分まで行く必要はないだろうと考えていたのだ。
「ふたりだけじゃ危ないだろ?」
「そ、そんな! まことさん、俺を信用してないんですか!?」
「違う。美奈の方が、浅沼ちゃん襲うような気がして………」
「ありえるわね」
レイは腕を組んで肯く。既に美奈子は、テーブルに突っ伏して高いびきをかいていた。
「あのさぁ、まこちゃん」
三人が帰り、店の中に知り合いがいなくなったことを確認してから、宇奈月が口を開いた。
神妙な声だったので、まことは不審に思った。
宇奈月は、何か言い辛そうにしている。
「どうしたの、宇奈月ちゃん?」
「うん。さっきは言わなかったんだけど………。衛さんのことなんだけどね」
「衛さん? まもちゃんが、どうかしたの?」
まことは表情を曇らせた。宇奈月の様子から察するに、あまりいいことじゃないと感じたからだ。
「衛さんがって、訳じゃないんだけど………。あたしの学部の先輩にね、衛さんの幼なじみっ言うて女の人がいるのよ。その人、どうやら衛さんのことが好きらしくって、最近アタックを開始したみたいなのよ」
「え!? で、まもちゃんの方はどうなの!?」
「衛さんて、あの通りクールじゃない。本人は特に気に掛けている様子はないんだけど、端から見ると、けっこういい雰囲気なのよ。あたしの友達に衛さんが好きなコがいるんだけど、嫉妬しちゃって手が付けられないくらいだったのよ」
宇奈月は複雑な笑みを浮かべた。うさぎの前でその話題を出さなかったのは、もちろん彼女を気遣ってのことだ。
「まもちゃんに限って、そんなことはないと思いたいけど………。宇奈月ちゃん、この話はうさぎにはしないでくれる?」
「ええ、もちろん」
宇奈月は肯いてくれた。
次の日は快晴だった。
例の中村伸二君に、幸いにも校内で顔を合わせることがなかったうさぎは、今日は少し早めの帰宅をしていた。と、言うのも、大好きな部活をサボッたからだ。後輩の女の子に会えば、中村伸二君のことを訊かれるわけで、それを避けたかったと言う理由もあった。
何故か美奈子は学校を休んでいたので(実は二日酔いなのだが、うさぎは昨日のウォッカの件は知らない)、昨日の件を突っ込まれる相手がいなかったのは、うさぎにとってはラッキーだった。まことはそう言う突っ込みはしない女の子だったし、亜美は昨日の事件そのものを知らないはずだった。
「憂鬱だわ………」
うさぎは深い溜め息を付く。行く当てもなく十番商店街ぶらぶらと歩き、いつの間になら一の橋公園まで来てしまった。
ベンチに腰を下ろし、行き過ぎる人々をぼんやりと眺める。
「………うさ!?」
不意に声が掛けられた。うさぎが顔を上げると、そこには地場衛が佇んでいた。
「どうしたんだ? ひとりか?」
自分と待ち合わせをしている時以外、うさぎがひとりで一の橋公園にいる姿を初めて見た衛は、少しばかり心配そうな表情をしてみせた。誰かと喧嘩でもしたのだろうかと、推測してのことだった。
「うん」
うさぎは小さく肯いた。何と答えて良いのか、分からなかったからだ。
「あら? ガールフレンド?」
衛の背後から、女性の声がした。女性はゆっくりした足取りで、衛の横に並んだ。
「まもちゃん、この人は?」
ベンチに腰を下ろしたまま、うさぎは衛の顔を見上げた。
「ああ、大学の同級生だ」
「原崎ふみなです。宜しく」
暖かな笑顔で、女性が自己紹介をしてきた。綺麗な女性だった。気品のある整った顔立ちをしている。長い黒髪が美しい。
「つ、月野うさぎです」
うさぎはベンチから立ち上がり、自己紹介をすると、ペコリとお辞儀をした。
「ああ、あなたが月野うさぎさんだったの………。ホント、衛クン好みの可愛らしい方ね」
原崎ふみなと名乗った女性は、うさぎのことを知っている風だった。衛のことを「衛クン」と親しげに呼んだのが、うさぎは少しばかり気になった。
「宜しくね、うさぎさん。取り敢えずは、恋敵ってことになるけど」
「恋敵?」
「原崎!」
衛は咎めるような視線で、ふみなを見た。ふみなはチロリと舌を出し、僅かに肩を竦めた。
「ああ! まもちゃんだぁ!」
それぞれ三人が口を開こうとした時、底抜けに明るい声が間近で響いた。ちびうさの声である。
「まぁもちゃん!」
ちびうさが衛に飛び付いた。衛はそのちびうさを、ひょいと抱き上げる。
「あら可愛い!」
ふみなが、ちびうさの顔を覗き込む。
「こんにちは! まもちゃんの恋人の月野小兎( です」)
ちびうさは自己紹介をする。「小兎」と言う名は衛が付けてくれたものだ。二十世紀にやってきて、他人に名を名乗るときのためにと、衛が考えてくれたのだ。「ちびうさ」は愛称としては可愛いが、本名として名乗るべき名前ではない。
「月野って言うと………。うさぎさんの妹さん?」
「い、いえ。従姉妹なんですけど………」
「そう。でも、よく似てるわね。………?」
ふみなはちびうさの顔をマジマジと見つめていたが、一瞬だけ怪訝な表情をして衛に視線を向けた。
「ん? なんだ、原崎?」
自分の顔を見つめたふみなに対し、衛は尋ねた。
「………なんでも、ないわ」
ふみなは微笑んでから、軽くかぶりを振ると、
「困ったわね。月野さんの他にも、こんなに強力なライバルがいるなんて………」
ちびうさの方に視線を戻した。
「ライバル………?」
ちびうさは衛の顔を見上げた。衛はバツが悪そうに苦笑している。
ちびうさは勘のいい女の子である。ふみなが言った意味を、直ぐさま理解した。
「まもちゃん! あたしというものがありながらぁ〜〜〜」
衛に抱き抱えられているので、彼の顔が直ぐ近くにあった。ちびうさは怒りにまかせて、衛の両頬を引っ張った。
「はへはいは、ひひふは!!(訳 やめないか、ちびうさ)」
こうなってしまっては、いい男も台無しである。たまらず、ふみなが吹き出してしまった。
「彼女に掛かったら、衛クンも形無しね。………あら?」
コロコロと弾むように笑っていたふみなの表情が、僅かに曇った。
「あなたのお知り合い?」
怪訝そうな表情のまま、うさぎに目を向けた。
「え?」
何を言われたのか、うさぎは分からなかった。ふみなが目だけで、合図を送る。うさぎはその合図を追うように、後ろを振り返った。
少年が自分を見つめていた。歳はうさぎと同じか、やや上くらいに思えた。
「やっと、見付けた………」
少年はうさぎを見つめたまま、そう言った。微笑みながら歩み寄ってくる。
「………どなたですか?」
少年は自分を親しげに見つめているのだが、うさぎの記憶の中には、その少年はいなかった。
少年の足が、ピタリと止まった。
「ボクを覚えていないの?」
悲しそうな表情になった。
「うさぎぃ。例のサッカー部のカレじゃないのぉ? まもちゃんがいるからって、惚けたら可愛そうよ」
ちびうさが意地悪そうな声を出した。
「違うわよ」
まるで条件反射のように、うさぎは答えていた。いつものように口喧嘩をするつもりだったちびうさは、表情を曇らせた。うさぎの反応がおかしい。
「ボクを忘れてしまったのか?」
少年は真っ直ぐにうさぎを見つめていた。実直そうなその瞳は、真剣だった。
「ごめんなさい。人違いじゃないですか?」
うさぎとしては知らない相手であるから、そう言わざるを得ない。
「人違い………!?」
少年は戸惑いとも怒りとも取れるような、複雑な表情をした。唇が小刻みに震えているのが、うさぎからでも分かる。
「なんか、ふたりきりにした方がいいみたい………」
ふみなが変に気を回した。その場から立ち去るために、衛の腕を引っ張る。
衛はその手を振り払って、この場に留まることもできた。だが、何故かそれができなかった。
「あ………」
自分に背を向けてしまった衛の背中を見つめながら、うさぎは呆然とその場に立ち尽くす。まさか、自分を置いて衛が立ち去ってしまうなどとは考えてもいなかったからだ。うさぎは親に置き去りにされた子供のように、悲しい気持ちになった。
「あなたは誰なの!? わたしに何か恨みでもあるわけ!?」
やり場のない憤りは、見知らぬ少年に向けられるしかなかった。
うさぎに怒りをぶつけられた少年は、また、悲しげな表情を見せた。
「恨みなんか、あるわけがない」
少年は首を横に振った。
「ボクはずっとあなたが好きだったんだから………」
「え………!?」
うさぎは言葉を失ってしまった。見ず知らずの少年に告白されたのだから、無理もない。昨日に引き続き、これで二度目である。
「でも、困るわよ………」
ボソボソとうさぎは言った。注意して聞かなければ聞き取れないくらいの小さな声だったが、少年には聞こえたようだった。
「本当に、ボクを忘れてしまったんだね。セレニティ………」
少年は信じられないことを言った。
「セレニティ」
その名を知っている者は決して多くない。
「どうして、その名を!?」
うさぎは驚愕の視線を少年に向けた。
「あなたは、いったい誰………?」
うさぎは警戒心を強めた表情になった。「セレニティ」と言う名を知っている者は、極端に言えばふたつに分類できる。味方か、さもなくば敵か、である。
「この時代でも、あなたはボクを見てくれないのか………」
少年は瞳を伏せた。その場でしばし、考え込んだ。
「エンディミオン………。あの男さえいなければ………!」
少年は突然顔を上げると、憎々しげな表情で彼方を睨む。その視線の先は、衛が立ち去った方向だった。
一陣の風が吹き抜けた。
ほんの一瞬だったが、目を開けているのも困難な状況だった。
うさぎは思わず目を閉じ、体が風に飛ばされないように足に力を込めた。
うさぎが再び目を開けたときには、少年の姿は既にそこにはなかった。