終章


 呼び鈴が鳴った。
 ドアを開けてみると、人間体のアルテミスがそこに立っていた。
「どうしたんだ? そんな恰好で」
 衛は少しばかり不思議そうな顔をした。
人間体(このかっこう)じゃないと、呼び鈴が上手く押せないんだよ」
 アルテミスは口を窄ませた。確かにネコの姿のままでは、ジャンプでもしないかぎりはボタンまで届かない。
「今日は、大学はどうしたんだ?」
 部屋に上がり込んだアルテミスが、衛に訊いた。
「あんな怪我したんだぞ。普通ならまだ入院してなきゃいけないはずなんだ。大学に顔を出せるわけがないだろう? 少なくとも、一週間ぐらいは大人しくしてなきゃならん」
 衛はオーバーに肩を竦めて見せた。警察の方には美奈子が説明してくれたらしく、午前中に若木刑事が確認に来ただけで、それ以上の事情聴取は必要ないとのことだった。だが、大学の方はそうはいかない。入院している病院こそ秘密になっているらしいが、事件そのものは知れ渡ってしまっているのである。刺されて次の日に、元気な顔をして大学に行けるわけがなかった。
「タイヘンだな、お前も………。さて、ネコの姿に戻るか」
「その恰好でいろよ。面白い酒が手に入ったんだ。ちょっと付き合えよ」
 ネコの姿に戻ろうとしたアルテミスを、衛が止めた。悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「酒? 昼間からか?」
「たまにゃいいだろ。『美少女』って酒知ってるか?」
「知らん。日本酒か、それ?」
「ああ。ラベルに描かれているイラストが、ほたるによく似てるんだ。今、持ってくるよ」
 衛は部屋の奥へと姿を消す。
「しゃーない。今日はトコトン付き合うか」
 アルテミスは諦めたように溜め息を付いた。


「ちびうさちゃん!」
 十番商店街を歩いていたちびうさは、背後からの声に振り向いた。
「ああ! ふみなお姉さん!!」
 声を掛けてきたのは、ふみなだった。大学の友人だろうか、彼女より小柄の女性と一緒だった。ちびうさの知らない顔である。
「リュックなんか背負って………。これからどこかに行くの?」
「うん。お家に帰るんだぁ」
「そうなんだ」
 ふみなは、ちびうさの言う「お家」の意味は理解していないが、にこやかに微笑んで肯いて見せた。
「ねぇ、お姉さん。お姉さんはまだ、まもちゃんのことが好き?」
「もちろんよ」
 ふみなの答えは早かった。唐突なちびうさの質問に、やや頬を赤らめながら答えた。
「でも、ライバルが強力よねぇ………。なんてったって、天下無敵の美少女戦士が相手なんだから」
 ふみなは少しだけ、肩を竦めて見せた。彼女は全てを知ってしまったようだ。
「お互い、がんばりましょうね」
 そう言うと、ふみなはウインクをしながら右手を差し出した。
「うん。がんばろうね」
 ちびうさは差し出された、ふみなの手を掴んだ。柔らかい手だった。
「じゃあね、お姉さん。また、会おうね!」
「またね、ちびうさちゃん。気を付けて帰ってね」
 ちびうさはふみなに別れを告げると、待っていたパラパラとともに一の橋の交差点方面へと駆け出していった。


「ええ〜〜〜!? フラれちゃったの、うさぎ!?」
 パーラー“クラウン”の指定席で、まことから話を聞いていた美奈子が、声を上げて驚きを示した。
「美奈、アンタ口元が笑ってるわよ」
 鋭い突っ込みを入れてきたのはレイである。美奈子は表向きは驚いて見せてはいるものの、込み上げてくる笑いをどうしても押さえることができなかったのだ。
「な、何を言うの、レイちゃん! この愛野キューピット美奈子サマが、アハ! 他人の不幸を喜ぶはずが、アハハ! アハハハハ………! ダメだ、やっぱり笑いが止まんない!!」
 美奈子は腹を抱え、しかも涙まで流して笑い転げている。
「まったく! イカサマ女神が………」
 レイはジト目で、馬鹿笑いをしている美奈子を見つめた。他人の不幸を喜ぶ愛の女神など、聞いたことがない。
「美奈ぁ、笑いすぎだよ」
 情報を持ってきたまことは、冷や汗をかきながら、美奈子を宥めている。ちなみに、今日のまことは“お客”である。
「ねぇ、何の話?」
 美奈子が爆笑している意味が分からない亜美は、隣のレイに尋ねた。
「ああ、亜美ちゃんはおととい塾に行ってたから知らないのか………。きのうは、話す時間がなかったしね」
「うさぎちゃんが、フラれたって………。まさか、衛さんに!?」
「違うわよ。ええっと、サッカー部の稲本君だっけ?」
「中村伸二クン」
「そうそう。その中村君に、うさぎがおととい告白されたんだって」
 レイは事のあらましを、亜美に話して聞かせた。話題の「カレ」の名前をど忘れてしていたが、まことが教えてくれた。
「で、その仲介に入ったうさぎの後輩の女の子ってのが、実は中村君のことが好きだったらしいのよ。うさぎにカレシがいることを知ってたから、取り敢えず会わせちゃっても、うさぎがゴメンナサイすると思ったんだって」
「中村クンてのが、うさぎを好きだったってことはホントらしいだけどね」
 レイの説明を、まことが補足する。ちなみに美奈子はと言えば、未だに腹を抱えてゲラゲラ笑っている。うるさいので、レイに隅に押しやられてしまった。
「うさぎにフラれて、ショックを受けているカレを、うさぎの後輩のカノジョが慰めて仲良くなろうって腹づもりだったらしいんだけど、うさぎの馬鹿がその場でゴメンナサイしなかったもんだから、計画を変更して、自らアタックしたらしいのよ」
「そしたら、意外にあっさりと、中村クンが墜ちちゃったってわけ。めでたし、めでたし」
 まことは話を締めくくった。
「けっこう、タイヘンだったのね。うさぎちゃん」
 亜美は妙に感心している。
「だいたい、贅沢なのよアイツ! まもちゃんて、素敵なカレシがいるのに、なんで他の男の子に告白されちゃうわけ? しかも、愛野美奈子サマを差し置いて!」
「結局アンタは、自分にオトコが寄り付かないのが不満なだけなんだ………」
「そう! 世のオトコどもはドコに目を付けてるんだかって、レイちゃん! 聞き捨てならないわね、その言葉!!」
 美奈子はレイに食ってかかる。
「ふたりとも、お店ん中なんだから、少しは遠慮してしゃべれよ………」
 パーラー“クラウン”でアルバイトもしているまことは、こう言うときでも気を遣わなければならない、損な役所だった。
「で、当の本人のうさぎちゃんは?」
 いがみ合っている美奈子とレイを無視して、亜美はまことに尋ねた。
「ああ、居残り勉強。この間の小テストの成績が、けっこう悪かったらしい。あたしと美奈は、今回はギリギリセーフ」
「え!? 事前にあたしが作ったミニテストでは、それなりの成績だったのに………」
「回答欄、一個ずつズレてたんだよ」
「あ、そう………」
 亜美はうさぎのおっちょこちょいに、項垂れるしかなかった。


 げっそりした表情で、うさぎは商店街を歩いていた。一年分の勉強を、一気にやったような気分だった。
「当分、教科書見たくないわ………」
 溜め息混じりに、うさぎは呟いた。と、
 ドン。
 人とぶつかった。相手の不注意だった。よそ見をしていて、うさぎとぶつかったのだ。
「あ、すみません!」
 相手は謝ってきた。近くの有名男子高の制服を着ていた。秀才君である。
「いえ、こちらこそ」
 ここでうさぎは初めて、相手の顔を見ることになった。
(あ!)
 心の中で叫んでいた。知っている顔だったのだ。
「あの………。ボクの顔に何か………?」
 見知らぬ女子高生に顔を見つめられた少年は、少しばかりどぎまぎしながら訊いてきた。
「ごめんなさい。知っている人によく似てたもので………。でも、人違いですね」
 柔らかな笑みを称えながら、うさぎは答えた。
「そう言われてみると、なんだかあなたとは、どこかでお会いしたことがあるような気がしますけど………。遠い昔にでも、会ったことがあるでしょうかね」
「そうかもしれませんね」
 彼は冗談のつもりで言ったらしかったが、うさぎは素直にその言葉を受け止めた。冗談で言ったことを、聞き流すどころか受け止められてしまった少年としては、笑うしかない。
「じゃあ、急いでるんで」
 少年は踵を返した。
 うさぎはその少年の後ろ姿を、人混みの中に消えるまで見送っていた。
 少年の来ていた男子校の制服が、とても懐かしかったからだ。