鬼の九


 日曜日の朝がやって来た。
 鬼は昨夜も姿を現さなかった。こうなると、かえって不気味だった。
 念のため、亜美とまことを沢田兄弟の自宅に張り付かせて、火野邸にはうさぎ、衛、美奈子の三人が来ていた。ルナとアルテミスは、司令室で待機中だ。
「何事も起きなければいいけど……」
 火野邸の高い塀を見上げて、亜美は呟くように言った。
「あたしは起こってほしいな。そうすれば、今日の結納は中止になるかもしれないし……」
 不謹慎なのは分かっている。しかし、うさぎは事件の発生を、鬼の襲撃を願わずにはいられない心境だった。
 鬼は自分たちでどうにかできる相手だ。しかし、レイのことは自分たちではどうすることもできない。当事者のレイですら、もうどうにもできない段階まで来ていた。だとしたら、第三者の介入を期待するしかない。うさぎの脳裏に浮かんだ第三者が、鬼だったにすぎない。
 衛も美奈子も、うさぎの心が分かっているから、その不謹慎な意見を正そうとは思わなかった。
 空は鉛色だった。厚く低い雲に覆われている。天気予報では、午前中の降水確率は80パーセントだった。
「今にも泣き出しそうな空だね」
 鉛色の空を見上げて、うさぎは言う。まるで、レイの心を反映しているかのような空模様だった。
 レイは一時間前に火野邸入りしていた。待機してくれている自分たちの姿を見付けると、にっこりと笑ってくれた。
 レイを案じ、火川神社からフォボスとディモスも飛来していた。上空を旋回する二羽のカラスは、きっとフォボスとディモスに違いないとうさぎは思っていた。
「お相手のご登場だ」
 抑揚のない声で、衛は言った。門に目を向けると、火野邸に黒いロールスロイスが入っていくのが見えた。
「始まっちゃうんだね」
 うさぎの声は、元気がなかった。

 弟の勝と、会っている時間が作れなかったことが、レイには気掛かりだった。
 鬼は間違いなく、今日この場に来る。昨夜行った祈祷で、そうお告げがあった。
 鬼は、来る。
 御札を身に付けているはずの勝が、鬼に襲われる危険性は少ないが、問題はこの火野邸に「鬼の腕」があるという事実だった。腕を探して、鬼は暴れ回るだろう。
 駐車スペースに階堂の車があったから、彼も来ているのだろうが、姿を見ることは叶わなかった。レイは火野邸入りするとすぐに、結納のための準備をさせられていたからだ。着付けには、レイが考えていた以上の時間が掛かってしまった。
 結納の儀は、滞りなく進行していた。
 仲人夫妻からの話も、全く耳に入らなかった。だいいち、この仲人夫妻が何者なのかすら、自分は知らない。結納の儀が始まる前に父から紹介を受けたのだが、父親にゆかりある方々だということだけしか分からなかった。結婚相手である佐倉信幸の母親が、自分を見て誉め言葉を贈ってくれたのだが、着物の柄を誉めたのだとレイには分かっていた。
 義母は同席しなかった。レイと義母はあまり仲が良くなかったから、それも当然のことだろう。体調が思わしくないので遠慮した、と、取って付けたような理由を、父は仲人夫妻と先方に説明していた。

 レイがその「空気」を感じ取ったのは、結納の儀が中程まで進行した時だった。
 異様な空気だった。凄まじい圧迫感。胸が締め付けられるような重苦しさ。
(来た!)
 戦士の表情に戻して、レイはこの日初めて顔を真っ直ぐに上げた。正面に座す、婚約者と言われている男が、怯えたようにビクリと体を震わせた。
 娘の体から発せられる刺すような気迫に、父親の誠剛も驚いたように座している娘の横顔を見た。
 まず聞こえてきたのは、女性の悲鳴だった。続いて聞こえてきたのは、階堂の「逃げろ!」という叫び声だった。
「騒々しいですな」
 信幸の父親である佐倉は呑気な声でそう言い、仲人夫妻と笑い合った。
 レイは弾かれたように腰を上げた。庭に面している障子を開け、廊下に出る。
「どこへ行く!? 待ちなさい、レイ!」
 咎めるような父の声が背中に突き刺さって来たが、レイは無視をした。
「勝、どこ!? 無事だったら、こっちに来て!!」
 レイは声を限りに叫んだ。
 再び悲鳴が響いた。
「どうしたと言うんだ!? 何故、勝のことを呼ぶ」
 さしも誠剛も、自分の屋敷の中で只ならぬ事態が起きていると悟ったのだろう。廊下のレイの元に歩み寄ってきた。
「階堂! 何事だ!?」
 大声で階堂を呼んだ。しかし、階堂からは返事がない。
「勝! どこにいるの!?」
 レイは弟の勝を、必死に呼び続けた。
「姉さぁん!!」
 泣きそうな顔をしながら、勝が左手側から廊下を走ってくる。小脇に細長い箱のようなものを抱えていた。鬼の腕が納められている木箱なのだろう。
「勝、どうした!? 何があった!? 屋敷で何が起こっているんだ!?」
「助けて姉さん! 俺、死にたくない!!」
 勝は父親の問い掛けを無視した。縋るように、姉の元に走り寄ってくる。勝の目には、姉の姿しか映っていない。
「御札はどうしたの!? 持っていないの!?」
「か、母さんに渡した……」
 勝は最悪の事態から母親を守ろうと、衛から渡された鬼除けの御札を、どうやら母親に持たせたようだ。その心遣いに対して、叱るわけにはいかない。
「勝くん! その木箱はまさか……。それをどうする気なんだ!?」
 血相を変えて、佐倉信幸が駆け寄ってきた。信幸は、火野邸で何が起こっているのか、まだ分かっていない。勝の手から、木箱を奪い取ろうとする。だが、それは勝本人が許さなかった。
「駄目だ! これは姉さんに渡す。あなたには渡せない!!」
「何を言っているんだ!? それは今日、僕が受け取るはずじゃなかったのか!?」
 どうやら信幸は、今日のこの結納の儀の後に、勝から鬼の腕のミイラが入った木箱を受け取るつもりだったらしい。ひょっとしたらこの男は、今世間で何が起こっているのかすら、知らないのかもしれない。
「あなたの口車に乗ったせいで、クラスメイトが三人死んだ!」
「何!? 死んだって、どういうことだ?」
 やはり、この男は何も分かっていない。
「あなたは、自分のしたことが分かっていないの!?」
 鋭い眼差しで、レイは信幸を睨み付けた。その気迫に信幸は怯んで、数歩後退った。
「今屋敷で何が起こっている? 説明しなさい」
 事態が分からない誠剛は、勝とレイに説明を求めた。しかし、のんびりと説明している時間はない。
「佐倉先生! 奥様! お逃げください!!」
 勝が走ってきた同じ方向から、今度はサカキが走ってくる。恐怖に頬を引きつらせ、必死の形相で廊下を走ってきた。
「坂木まで、何事だと言うのだ!?」
 佐倉がそう言って、ようやく重い腰を上げたとき、逃げてきたサカキを追うように、庭に黒い小山が出現した。
「何だ、あれは!?」
 誠剛の両目が、これ以上ないといほどに大きく見開かれる。
「ひぃぃぃぃっっっ」
 信幸が何とも情けない声を出した。
「何をそんなに驚いているの? あれは、あなたが京都で封印を解いた鬼じゃない。この腕を取り返しに、屋敷に来たのよ!」
「う、嘘だ! そんなはずはない!! そんなの迷信だ! まやかしだ!」
 信幸は鬼そのものを見ても、それが現実だとは信じられないようだった。全てが遊び半分だったのだ。勝は、この男の幼稚な遊び心に(そそのか)されて、躍らされていただけだった。
「あなたって人は!!」
「よ、寄るな! あれがこっちに来る!!」
 信幸はレイを突き飛ばした。着物姿のレイは、足を踏ん張ることができない。バランスを崩した。
「姉さん!」
 それを勝が支える。
『腕はそこ(・・)か……!』
 鬼の声が響いた。信幸は悲鳴を上げて腰を抜かした。母親の方に、泣きながら這ってゆく。
「くっ!」
「あ! 姉さん!!」
 レイは勝から木箱を奪い取ると、素足のまま庭へと飛び出した。鉛色の低い雲のせいで、昼間だというのに外は薄暗かった。まだ雨は降っていないが、時間の問題だと思われた。
「腕はここよ!! さぁ、取り返しに来なさい!!」
 レイは右の方に走って鬼を誘導する。とにかく、屋敷から少しでも鬼を遠ざけなければならない。
 レイは木箱を小脇に抱えたまま走った。しかし、着物を着ている状態では、それ程速くは走れないし、走りにくい。
 足が(もつ)れた。
 その場に倒れ込む。
 鬼が迫ってきた。
 レイはまだ立ち上がれない。
 鬼が左腕を振り上げた。
「レイ!!」
 何かが自分に覆い被さってきた。懐かしい臭いがした。
 記憶の奥にしまい込まれていたその臭いは、父のものだった。
 鬼が悲鳴を上げた。
 レイの手前に転がっている木箱が、何者かによって拾い上げられる。見覚えのある赤い大きなリボンがチラリと見えた。聞き覚えのある金属質のチャラリとした音が、レイの耳に届いた。

「こっちよ! いらっしゃい!!」
 木箱を小脇に抱えると、ヴィーナスは大きく跳躍した。レイの元から、鬼を引き離そうというのだ。
 そのヴィーナスを援護するように、ジュピターとマーキュリーが空に舞う。
 三人のセーラー戦士を追う鬼の背中に、穿(うが)たれた傷があった。ジュピターの電撃によって受けた傷だと思えた。先程鬼が悲鳴を上げたのは、ジュピターの攻撃を受けてのものらしい。
「レイ。怪我はないか?」
 やや苦しげな、父の声が耳を打った。
「パパ! もしかしたら怪我を!?」
 下にいる自分は、父の様子がはっきりとは分からない。しかし、父の声は明らかに普段とは違う響きがあった。
「わたしはお前に、怪我はないのかと訊いているんだ」
 厳しい口調を取り戻し、父は問うてきた。
「あ、あたしは大丈夫……」
 パパが守ってくれたから。そう続けようと思ったが、声にならなかった。
「そうか……。お前が無事なら、それでいい」
 父は苦痛に呻いた。やはり負傷している。
「姉さん! 父さん!」
「先生! レイさん!!」
 勝と階堂が駆け寄ってきた。
「父さん、しっかりして!」
 勝の呼び掛けに、父は答えられなかった。気を失ってしまったようだ。
「俺、救急車を呼んでくる!!」
 勝はそう言うと、屋敷へと走っていった。
「パパ! しっかりして!!」
 レイはようやく起き上がり、父の様子を見ることができた。スーツの背中が無惨にも裂け、激しく出血しているのが見て取れた。幸い傷は深くないようだが、出血がひどい。
「レイ、立てるか?」
 階堂が訊いてきた。レイは立ち上がったが、左足に痛みが走った。どうやら転んだときに捻ってしまったらしい。
 鬼の咆吼が響いた。仲間たちが、屋敷のどこかで鬼と戦っている。
「階堂さん。パパをお願い」
 レイは、意識をなくしたままの父の背中を見下ろした。父が、自分のことを身を挺して守ってくれた。レイには信じられないことだったが、紛れもない事実だった。
「佐倉の人たちは?」
「あの人たちは、真っ先に逃げ出してしまったよ。もう屋敷にはいない。仲人ご夫妻は、奥様と地下へ避難されている。三人とも怪我はない」
 自分たちも早く逃げよう。階堂はレイに右手を差し出した。
 再び鬼の咆吼が響いた。今度は、どこから聞こえてきたのか、だいたいの位置を把握することができた。あそこに仲間がいる。鬼と戦っている。
 レイは差し出された階堂の右手を見詰めながら、首を左右に振った。階堂の表情が曇った。
「階堂さん。パパをお願い」
 レイはもう一度、階堂に対してそう言った。
「どうした? 逃げるぞ」
 階堂は誠剛を抱えるために、腰を落とした。救急車を呼びに向かった勝も、そろそろ戻ってくる頃だ。
「あたしは逃げるわけにはいかないの。仲間のところに行かなくちゃ……ううん、帰らなくちゃいけないの(・・・・・・・・・・・)
 自分自身にも言い聞かせるように噛み砕いた口調で、レイは言った。
「仲間? 帰るって……」
 階堂はレイの言っている意味が分からなかった。だが、それは無理もないことである。
「お願いだから、パパを連れて安全なところまで逃げて」
 レイはそう言うと、右手を軽く振って見せた。掌から炎が吹き出し、それを握り潰した。
「!?」
 手品などではないことは、レイの表情を見ていれば分かる。階堂は、驚きの眼差しでレイの顔を見つめた。
「さよなら。階堂さん」
 レイは階堂に背を向けた。階堂は、レイの言った「さよなら」の意味が分からないまま、彼女の背中を見詰めている。
 背中に階堂の視線を感じる。戸惑っている呼吸が伝わってくる。
 レイの中には、まだ「迷い」があった。しかし、その「迷い」は鬼の咆吼によって打ち消される。
 仲間たちの元に、ゆかねばならない―――。
「マーズ……」
 躊躇した。体の震えが止まらなかった。
 大きく息を吸い込む。
「……クリスタル・パワー・メイクアップ!!」
 涙が零れた。階堂が息を飲んだのが、気配で分かった。
「さぁ、早く逃げて!」
 万感の思いを込めて、マーズ(レイ)は叫んだ。振り返ることはできなかった。涙で濡れた顔を、階堂に見せたくなかったからだ。
 仲間たちの元に向かうために、セーラーマーズは地を蹴った。
 大粒の涙が、もう一度零れた。

 鬼はまだ、火野邸の広い敷地の中にいた。屋敷の裏側に面した「裏庭」の部分だった。
 仲間たちはレイから鬼を引き離すことには成功したものの、回りの住宅への被害を考えると敷地の外に連れ出すわけにもいかず、狭い(と言っても、正面の庭と比べてという意味だが)の裏庭で鬼と戦うことになってしまったのだ。火野邸の回りは高級住宅が立ち並んでいる。被害を最小限に抑えるためにも、鬼を火野邸の外に出すわけにはいかなかった。
 仲間たちは苦戦していた。予想以上に鬼の体が頑丈で、なかなか決定打を与えることができないからだ。周囲への影響も考えて、強力な技を放てないというのも、苦戦を強いられているひとつの要因だった。
 マーズの参戦によって、仲間たちの士気が上がった。
「だいぶダメージを与えているはずなんだが、やつはかなりタフだよ」
 半ば呆れたように、タキシード仮面は言った。
 マーズは鬼の巨体を見上げる。
「腕を貸して」
「はい! 何すんの?」
セーラームーン(うさぎ)……。あんたって子は……」
 自分の両腕をマーズに差し出したセーラームーンに呆れて嘆き、怒ったフリをしながらも、マーズは笑っていた。セーラームーンの間抜けさが、なんだか妙に懐かしくて嬉しかった。自分のいるべき場所に戻ってきたという安堵感もあった。
「この状況で『腕』って言ったら、鬼の腕に決まってるでしょ!?」
「だって、分かんなかったんだもん!」
 脹れっ面を作るセーラームーンを横目に、マーズはジュピターから木箱を受け取っていた。戦いの中で、木箱はヴィーナスからジュピターに渡っていたようだ。
 マーズは木箱の蓋を開け、中から鬼の腕のミイラを取り出した。
「どうする気?」
 マーキュリーが訊いてきたが、マーズは意味深げに微笑んだだけだった。
「例の御札、持ってる?」
「これのこと?」
 セーラームーンは、老婆からもらった鬼除けの御札をマーズに手渡した。マーズはその御札をミイラの腕に貼り付けると、
「決着を付ける。援護して」
 仲間たちにそう言った。マーズの作戦がどういうものなのか分からなかったが、援護が欲しいというのならば言う通りにしよう。仲間たちは肯いた。
「行くわよ!」
 マーキュリーがシャボン・スプレーを放ち、鬼の視界を(さえぎ)った。ヴィーナスがクレッセント・ビームを放ち、鬼の注意を引き付ける。
 マーズが跳躍した。それに合わせてセーラームーンも跳ぶ。マーズの背後で、トワイライト・フラッシュを放った。ジュピターが、フラワー・ハリケーンをマーズの周囲で発生させた。これで鬼からは、光の中に舞う花弁に紛れてしまって、マーズの姿が見えにくくなるはずだ。
 鬼の鼻先に、マーズは肉迫した。ようやく鬼が、マーズに気付いた。
『我が腕を返せ、小娘。貴様が持っているのは分かっている』
「嫌よ!」
「ならば、貴様のその腕をもらうまでだ」
「どうぞ」
 マーズは右手を差し出した。鬼は大口を開けて、マーズの右腕に噛み付いた―――はずだった。しかし、鬼が噛み付いたのは、マーズが右手に持っていた自分の腕のミイラだった。
「黄泉の国へ、お還りなさい!」
 マーズはファイヤー・ソウルを放つ。凄まじい炎がミイラの腕を伝わって、鬼の口の中へと勢いよく流れ込む。
 口から紅蓮の炎を吹き上げながら、鬼は鉛色の天に向かって、断末魔の咆吼を上げた。
 ポツリポツリと、大粒の雨が落ちてきた。
 マーズは大きく息を吐いてから、背後を振り返った。仲間たちが並んで、自分の方を見ている。セーラームーンが、ニッコリと笑んだ。
「お帰りなさい、レイちゃん」
 マーズは少し照れながら、
「ただいま」
 そう答えてから、笑みを返した。