鬼の了


「おじいちゃん、おはよう!!」
 晴れやかな表情のレイが、勢いよくドアを開けて病室へと飛び込んできた。
「なんじゃ、そうぞうしい! ここは病室じゃぞ。静かに入って来なさい」
「おじいちゃん、今日退院できるんでしょ?」
 祖父に窘められているのだが、祖父が元気に退院できるという事実が嬉しいのか、レイの耳には届いていないようだ。
「学校が終わったら迎えに来るから、それまではいてよね!」
「わしゃ病院はキライなんじゃ。手続きが終わったら、すぐに退院したいんじゃが……」
「ダーメ! あたしが来るまで退院させないでって、婦長さんにお願いしてきちゃった」
「レイぃ……」
「いいじゃない! あたしの知り合いが、車で送ってくれるって! 覆面パトカーよ? そんな機会、滅多にないわよ?」
「願わくば、あまり乗りたくない車じゃな……。だいいち、私用で使っていいものなのか?」
「気にしない、気にしない! じゃ、行ってきます!」
 レイは跳ねるように反転すると、楽しげに病室を出て行った。
「……あんな顔もできるんですね」
 アコーディオンカーテンの陰から、レイの父・誠剛が姿を見せる。
「わたしに気付かんとは……」
「寂しいか?」
「ええ、少し」
 誠剛は小さく肩を窄めた。
「あ! そうそう!」
 再びドアが開き、レイが病室に半身を突っ込む。
「パパも退院できるんでしょ? ついで(・・・)に送ってあげるから、そのつもりでいてよね! じゃ!」
「……」
 呆気に取られている誠剛を尻目に、今度こそ本当に、レイは病室を後にした。
「わたしは、ついで、ですか……」
 誠剛は苦笑した。
「照れ隠しじゃろう。本当は、わしの方がついでなんじゃろうて」
「そんなことはないと思いますが」
 誠剛はもう一度苦笑してから、レイが出て行ったドアを見詰める。
「あんなレイを、初めて見たような気がします」
「この二−三年くらいかのう。新しい友だちができてから、あの子は随分と明るくなった。気付かなかったのか?」
「面目ない……。それに、レイはわたしに対しては、今まであんな風に接してくれたことはありませんでしたから」
「身から出た錆じゃ」
「耳が痛いです」
 誠剛は鼻筋に皺を寄せると、右手の人差し指で首筋を掻いた。
「……フィアンセを突き飛ばして、自分だけとっとと逃げてしまうような虚け者に、大事な娘をやるわけにはいかん! ……と、言ったそうじゃないか」
「階堂ですね? あのおしゃべりめ……」
 誠剛はバツが悪そうにする。
「レイは、政治家の嫁には向きません」
「それが分かっておるのなら、何故今回の縁談を進めた?」
「レイのやつが、いつものように拒絶すると思っておりました。こちらの思惑に反して受け入れられてしまい、正直戸惑ったのはわたしの方です」
「お互い、なんと言うか……。そういうところは父娘じゃな。変に片意地を張るところなどは、お前さんによく似ておる」
「誉められているとは思えませんな。お義父さん」
「誉めておらん」
「参りましたよ」
 誠剛は大きく肩を竦めた。そして(うつむ)いて、数秒間何事か思案を巡らせてから、おもむろに顔を上げる。
「……階堂が、秘書をやめさせてほしいと言ってきました」
「ほう。階堂くんが」
「自分は政治家には不向きだと……。わたしが勧めた縁談も、白紙に戻してほしいと言ってきましたよ」
「確かに、階堂くんは政治家には向かない。秘書としては非常に優秀だと思うが、彼は優しすぎる」
「ええ、そう思います。あやつは、『鬼』になれん男です」
「で、どうする気なのだ?」
「認めざるを得ないでしょう。わたしの顔に泥を塗りおって……」
「その割には、嬉しそうじゃないか」
「そう見えますか?」
「見えるとも」
 誠剛は苦笑すると、窓の方へと歩み寄った。
「さしずめ、お前さんが鬼の本体。階堂くんが右腕と言ったところかの」
「嫌な例えですね……。わたしが、切られたその腕を取り返しに行くとでも?」
「無理に取り返そうとせんでも、戻ってくる可能性もあるじゃないか」
「その口振りですと、お義父さんは気付いておられましたね?」
「当然じゃ」
「何もかも、ご存じなんですね」
「わしゃ、仙人じゃからな」
「恐れ入りました」
 誠剛は言葉尻に笑いを残しながら、小さく頭を下げた。
「もしそうなった時、あの男がどういう顔をしてわたしの前に現れるのか、それを考えると今から楽しくてね」
「彼の事じゃ。正々堂々と、お前さんに会いに行くじゃろうよ」
「そう思います。それまでは、お義父さんには元気でいて頂かねば」
「お前さんたち父娘は、揃ってわしを隠居させない気か?」
 そう言うと、楽しそうに笑った。
 誠剛は窓の側に立ち、外を眺めていた。その表情が緩む。
「レイの友だちというのは、女学院の学生ではないようですね」
「うむ。確か、今は十番高校に通っておるよ」
「あんなに楽しそうなレイを、初めて見ました」
 誠剛の目には、病院の外で待っていた仲間たちとともに、はしゃぎながら登校していく娘の後ろ姿が写っていた。