鬼の八
その日はとうとう、「鬼」は姿を現さなかった。
徹夜が二日も続くと、いくら若いと言っても体力が続かない。もちろん、授業中に襲ってくる猛烈な睡魔には勝てなかった。うさぎもまことも美奈子も、午前中は爆睡状態である。
「亜美ちゃん、目の下にクマが……」
なるちゃんは、亜美の顔を覗き込む。
揃って下校するために、正門の前で待っていたうさぎたちの元へ、亜美がフラフラとした足取りでやって来た。うさぎたちとは違って、授業中に居眠りなどしない亜美は、二日間一睡もしていない状態なのだ。隈だってできる。
「どうしたの? みんなして」
事情を知らないなるちゃんが、不思議がるのも無理はない。うさぎたちも目の下に隈こそできていないが、頬は痩け、顔色も良くない。
「まぁ、明日は日曜日だし、みんなゆっくり休んでよね」
「ふわ〜い」
四人は揃って、気のない返事をした。
なるちゃんと別れ、フラフラとゲームセンター“クラウン”に向かう四人の元に、ルナが走り寄ってきた。うさぎを連れて、火川神社に行くつもりらしい。
「衛さんと相談したんだけど、事件のことをきちんとレイちゃんに説明した方がいいってことになったの。『鬼』の次の狙いは、レイちゃんの弟の可能性が一番高いから」
ルナは皆に、衛と協議した結果、決まった事柄を説明していた。
「でもさぁ。その木村の言ってることって信用できるの? 自分が助かりたい一心で、鬼に嘘を教えたって事はない?」
美奈子の疑念は最もだった。
「あの状況では嘘は付けないだろうって、衛さんは言ってた。自分の命が助かったんで、安心してあとからいろいろと出任せを言ってたみたいだけど」
「じゃあ、あたしたち三人は、レイちゃんの弟クンの身辺警護に回ればいいのね?」
美奈子が確認をする。
「火野邸には、まこちゃんと亜美ちゃんが行ってくれる? 美奈子ちゃんは沢田兄弟のお兄さんの方に行ってもらいたいの。沢田の方は、あくまでも念のためだけどね」
「あたしひとりで?」
「既にアルが行ってるわ。ずっと張り付いているの」
そう言われれば、ここんとこアルテミスの姿を見ていない。知らないところで、地味な仕事をしているらしい。
「あとから、衛さんも合流するわ」
その衛は同時刻、警視庁で若木と会っていた。
「ありがとうございます。さすがですね」
資料がごっそり入ったA4サイズの茶封筒を受け取りながら、衛は軽く頭を下げた。
「このくらいはなんでもない。だが、相手が正真正銘の『鬼』だったとはね……。さすがの総監も驚いてたよ。君たちに協力を要請していてよかった……と言うべきなのかな」
若木は心中複雑そうな笑みを浮かべる。連続殺人事件犯人が、実は「鬼」でしたなどとは、相手が桜田女史でなければ信用してもらえないところだろう。マスコミが喜びそうなネタだが、事件の関係者の中に大物政治家の息子がいるとなると、今は公にすることはできない。だから、若木が単独で、極秘に行動しているのだ。
「どうします? 殺人事件の重要参考人として、茨城童子さんに任意出頭を要請しますか?」
「どうやって取り調べを行うんだよ……。任せるよ。君らにしか頼めないことだ」
「犯人を抹消することになりますよ?」
「仕方ないだろう。政治的な処理は、こっちでうまくやる」
「分かりました」
レイは火川神社にいてくれた。
おじいちゃんの入院している十番病院で、看病をしている可能性もあると考えられていたが、レイはレイの事情で火川神社に留まっていた。
先日の一件があって、おじいちゃんと顔を合わせ辛いと言うのだ。昨夜も火川神社に帰ってきていたと、レイは言った。美奈子とまことから、火野邸でレイの姿を目撃したと聞いていたが、うさぎはそのことについて真偽を確かめるつもりはなかった。
「ゴメン。そんな大きな事件が起こっていたなんて、全然知らなかった……」
うさぎとルナから、「鬼」の事件を聞かされたレイは、申し訳なさそうに項垂れた。ルナはあまり会話に加わらなかった。うさぎとルナのふたりがかりでレイを問い詰めるような形になるのを、嫌ったからだ。
「気にしないでよレイちゃん。あたしたちが連絡しなかったんだから」
「でも、あたしの弟が事件に絡んでいる……ううん、もしかしたら、原因を作ったかもしれないのに……」
「やっぱり、レイちゃんの弟なんだ」
「うん。母親は違うんだけどね。あたしのママは、あたしがまだ小さいときに病気で亡くなったから……。ママはね、この火川神社で亡くなったの。いろいろあってね、実家のここに帰ってきてたのよ」
レイは表情を曇らせた。その理由は、うさぎは何となくだが想像できた。レイは現在十七歳である。弟の勝が中学三年生だから、十四歳か十五歳である。レイの母親が亡くなったのは、レイが小学校へ上がる少し前だと聞いているので、彼女が三歳か四歳の頃だろう。そうなると、レイの母親が亡くなったときには、勝は既に生まれていたことになる。レイの母親が実家の火川神社に戻ってきていた理由も、その辺が絡んでいたのだろうということは、想像に難しくない。
「あの子に、会わなきゃいけないわね」
ややあって、思い詰めたような表情をレイはうさぎに向けた。「鬼」の腕を勝が持っているとするならば、尚更である。
「今日この後、なんとか時間を作って会うようにするわ。明日の日曜日は、駄目そうだから……」
そしてレイは、そこまで言ってから、泣き出しそうな顔になる。
「どうして駄目なの?」
だからうさぎは聞き返した。とても嫌な予感がしたから、尋ねずにはいられなかった。
「明日の日曜日は、結納なの」
レイは吹っ切れたような表情で、笑顔を作った。
「レイちゃん……」
こんなにも悲しい笑顔を、うさぎは初めて見た。胸が締め付けられ、言葉が詰まってしまった。
ルナがレイの足下に近寄って、神妙な顔を上げた。
「レイちゃん。彼、レイちゃんの弟じゃない?」
「え?」
レイは俯いていた顔を上げ、ルナが示す方に向けた。
戸惑ったような表情で、自分の方を見て佇んでいる勝の姿が、そこにあった。
勝が戸惑っていたのは、姉の方に見知らぬ人物―――うさぎがその場にいたからであった。きまり悪そうに、うさぎの顔をチラチラと見ている。
「あたしに話があるんでしょ?」
勝が自分の元を訪ねてきた理由が分かったから、レイは詰問するように声を掛けた。もっとも、それも先程うさぎとルナから、「鬼」の事件の内容を聞かされていたからではあるのだが。
だから、社交辞令は抜きにした。実際、レイは弟の勝と直接会うのは半年ぶりのことだった。それも、「会った」と言えるほどのものではない。正確には「すれ違った」というべき程度のものだった。言葉も交わさなかった。
レイは年に数回、父親と外食を共にするのだが、その時に勝は同席しない。父と階堂と、そして自分の三人だけだ。場合によっては、その父さえも来ないときがある。
うさぎは口を挟まないことにした。遠慮がちにふたりが距離を取り、無言で様子を伺っている。勝のことは、姉であるレイに任せるしかない。
勝の方は、どう話を切り出していいものかどうか、困惑したように表情を歪めている。それもそうだろう。「鬼」の話など荒唐無稽すぎで、普通の人なら簡単には信じてくれないことだからだ。一笑に付されてしまう可能性だってある。だから勝は、必死に言葉を選んでいる様子だった。
「『鬼の腕』はどこにあるの?」
いきなりの核心を突いたレイの言葉に、勝は大きく目を見開いて、姉の顔を見詰めた。
どうして知っているんだ……!?
言葉には出していないが、その表情が如実にそう物語っていた。
「どこにあるの?」
レイは神秘的な瞳を真っ直ぐに勝に向けて、重ねて尋ねた。第一声と比べると、随分と口調が柔らかくなっていた。
「……今は、部屋にある」
消え入りそうな声で、勝は答えた。
「なんでそんなものを盗んだの?」
「きょ、興味があったんだ。鬼の腕のミイラを見てみたかった。それに……」
勝は一瞬、言い淀む。レイが続けろという風に視線を送ると、母親に叱られた子供のような顔をして、
「鬼が本当に自分の腕を取り戻しに来るのか、確かめてみたかった」
そう言って、下を向いてしまった。
レイは一瞬だけ天を仰いだ。心の動揺を抑えるように大きく息を吸い込むと、時間を掛けてゆっくりと吐き出した。
「鬼の本体の方の封印を解いたのも、あなたなの?」
「表向きはそうなっているんだけど、本当は俺じゃない」
「だれなの? その人が、あなたを焚き付けたの?」
レイの表情が険しくなった。姉の態度が変わったことを、勝は敏感に感じ取っていた。ビクリと体を震わせた。
「鬼の封印を解いたのはだれなの?」
レイの再度の問い掛けを受けて、勝は観念したように口を開く。
「さ、佐倉さん……。あの人、そういうのに興味があって、調べてたんだって。それで、先月京都に行ったときに、その鬼が封印されている祠を探し当てて、封印を解いたって。伝説通り、自分の腕を鬼が取り返しに来るかどうか、面白いから試してみなよって言われたんだ。そして、腕が封印されている場所を教えてくれたんだ」
レイは怒りのために、全身の血が逆流するのを感じていた。
「鬼の腕は、火野の家にあるのね?」
高ぶる気持ちを抑え込むように無理矢理息を吸い込むと、レイは念を押した。
「うん。ある」
勝は肯く。
「明日あたしが受け取る。後のことは、あたしに任せなさい」
「え!? でも……」
「大丈夫。任せなさい」
レイは母親のような目で、勝の顔を見た。勝は困惑しながらも肯いた。
「でもレイちゃん。明日は……」
遠慮がちに、うさぎが声を掛けた。先程、明日は結納だとレイは言っていた。そんな時間があるのだろうか。
「結納は火野の家で略式で済ませてしまうの。あたしのパパも先方も、とても忙しい人だから。なんだかんだ言っても、結局は自分の仕事方が優先になってしまうのよ。だから、何とか時間は取れると思うわ」
「うん……」
うさぎは複雑な表情で肯いた。
「問題は、今夜をどう乗り切るかね」
レイがそう呟くと、勝の表情が一瞬で強張った。
「この札を持っているといい」
衛の声だった。いつの間に来たのか、衛は勝の背後に立っていた。見覚えのある御札を、勝に手渡している。
「その札を持っていれば、鬼からは姿は見えない」
衛はわざわざ高尾山の麓の村へ行き、老婆に確認を取ってきたと言う。
「間違いない。実際に、俺が体験している」
半信半疑の勝に、衛はそう告げた。
「あなたは、鬼に会ったんですか?」
「昨夜、君の知っている木村が鬼に襲われてね。偶然その場に居合わせた。その札を持っていたお陰で、鬼は俺の存在に気付かなかった」
「木村が……!?」
「大丈夫。彼は殺されずにすんだ」
木村の口から勝の名が出たことは、衛は伏せることにした。今は、余計なトラブルを増やしてしまうような軽はずみな言動は避けるべきだと、考えてのことだ。
「怖かったら、火川神社に泊まってもいいわよ。ここの周囲には強力な結界が張ってあるから、邪な心を持つ妖魔の類は、おいそれとは入って来れないから」
その通りだと言わんばかりに、上空で旋回しているフォボスとディモスが声高らかに鳴いた。
「いや、帰るよ。俺はここに泊まれるような身分じゃないし……。泊まったことが分かれば、姉さんに迷惑が掛かるよ。……母さんが怒るから」
「分かったわ。その人の言うことは信用できるから、安心なさい。明日まで辛抱して」
「うん。ゴメン、姉さん……」
晃はトボトボと、火川神社の階段を降りていった。フォボスとディモスが、それとなく上空から警護している。
「大丈夫だとは思うが、念のために今夜も警備はしておこう」
「亜美ちゃんとまこちゃんが、既に行ってるわ」
ルナが答える。
「沢田の方で、美奈子ちゃんとアルが衛さんを待ってるわ」
「そうか。じゃあ、俺はそっちに向かおう」
「みんなに迷惑掛けてるね」
レイがポツリと言った。うさぎがすぐさま、違うという風に首を横に振る。
「あたしたち、ちっとも迷惑だなんて思ってないよ」
「ありがとう……」
「とにかく、明日だよね。レイちゃんが受け取った鬼の腕は、あたしたちが責任を持って、元あった場所に返すから」
「うん。頼りにしてる」
レイはようやく、うさぎがよく知っている笑顔を見せてくれた。
うさぎたちが立ち去っていった後も、レイは火川神社を動かなかった。明日まで、もう誰とも会わないと決めていた。明日で自分の人生が決まってしまう。それも、自分が望んでいた未来とは、全く別の。
ドラマの世界であれば、自分を本当に必要な人物が現れて、最後の最後で大逆転劇を演じてくれるのだろうが、生憎と自分にはそんな人物はいない。
「ママ……。あたしはどうしたらいい?」
縋るように母の遺影に話し掛けたが、母は微笑みを浮かべているだけで、何も答えてはくれなかった。
玄関が開く音がした。
自分を呼ぶ階堂の声が聞こえた。
どうしていつも、この人はこういうときに現れるのだろうかと思う。自分が悩んでいるとき、苦しんでいるとき、決まって階堂は自分の前に現れてくれる。そして、適切な助言を与えてくれる。いつもいつも、最後の最後で自分を救ってくれるのは階堂だった。
そして今日も、階堂はレイの前に現れた。
「何故、病院に来ない?」
階堂の声は優しかったが、明らかにレイを咎( めていた。)
「お爺様と口論になったからか?」
「……」
「答えなさい」
階堂は慰めてくれるばかりではない。時には厳しく、レイを叱ってくれる。ただ優しいだけの男ではないのだ。だからレイは、階堂を信頼していた。だから彼に惹かれた。
レイが答えないでいると、階堂は困ったように短く嘆息した。
「お爺ちゃんは……」
絞り出すように、レイは言う。
「お爺ちゃんは、あたしのことどう思っているの? 今回のこと、どう思ってるの? どうして止めてくれないの?」
その言葉は階堂に対してと言うより、この場にいないレイの祖父に向けられたものだと思えた。
「レイ。君の人生だろう? 君が決断しないでどうする。いや、もう心は決まっているね。誰かに強く後押しをしてもらいたいだけだ」
「……!」
図星だった。レイは唇を噛む。階堂は言葉を続けた。
「よしんば、誰かに後押しをしてもらって決断を下したとしよう。だがそれは、君の心の中で逃げの口実になる。あの時、あの人にこう言われたからと、その決断が謝った判断だと指摘されたときの言い訳にできる。お爺様は、君にそんな逃げのための口実を作ってもらいたくないんだ」
「だけど! だけど、もう少し何か言ってくれてもいいじゃない! お爺ちゃんはあたしが邪魔なの!? あたしが火野の人間だから? 自分の娘を不幸にした、火野の血を引いているから? だから見捨てるの!?」
乾いた音が響いた。それが自分の左頬が、階堂の掌で叩かれた音だと気付くまで、かなりの時間が必要だった。
レイは赤く腫れた自分の左頬に冷たい左手を当てながら、驚きの表情で階堂の顔を見詰めていた。階堂に本気で叩かれたのは、これが初めての経験だった。どんなにきつく叱るときでも、レイが聞き分けのないことを言っても、階堂は今まで決してレイに対して手を挙げたことはなかった。
レイは逆上しなかった。必死で自分が叩かれた理由を考えた。
「お爺様のことを悪く言うのは、わたしが許さない」
はっきりとした口調で、階堂はそう言ってきた。レイはその理由を、目顔で問うた。
「お爺様からは、内緒にしておいてほしいと頼まれていることがある。だがどうやら、そのことを話しておかなければならないようだ」
階堂はそう言いながら、スーツの内ポケットから銀行の通帳を取り出した。
「予感をしていたのだろうな。持って出掛けなければならないと感じ、出掛けに内ポケットにしまってきた」
レイの前に差し出した。見ろと言うことなのだろう。
レイは通帳を受け取った。まず初めに驚いたのは、通帳の名義が自分になっていたということだ。もちろんレイ自身は、そんな口座の存在など今まで知らなかった。
「これ……」
レイは通帳を開いて、記載されている事柄を確認した。毎月定期的に、一定の金額が父親の名義で振り込まれている。
「君の養育費だ。火野先生の指示で、わたしが毎月、お爺様のもとに持参している」
階堂は「振り込んでいる」とは言わなかった。
「そうだ」
レイの疑問に気付き、階堂は肯く。
「わたしは現金を持参している。その現金を、お爺様の依頼でこのような方法を取って、預金している」
養育費のことは、今まで考えてもみなかった。T・A女学院の学費は、父親が支払ってくれていることは知っていた。T・A女学院は、祖父の収入で通うには学費が高額すぎる。だが、まさか、養育費までも父親が面倒を見てくれているとは、思ってもいなかった。自分は祖父が養ってくれているものだと、今の今までそう思っていた。レイの中で、何かが音を立てて崩れていった。
「……だからなの?」
レイは通帳を見詰めながら、小刻みに体を震わせる。
「パパから養育費までもらっていたから? だからお爺ちゃんは、パパに逆らえないの?」
自分の結婚に反対しないのは、その為ではないかとさえ考えた。
「違う。よく見てみなさい」
だが階堂は、首を横に振った。レイは言われるまま、通帳にもう一度目を落とした。
何かが変だ。そう、この通帳には……。
「そうだ。一度も引き落とされてはいない」
そうなのである。毎月きっちりと振り込みがされているが、三分の二ほど埋まっているこの通帳には、引き落とされた跡がない。
「ご自分の手で君を育てたいと、お爺様は仰った。だが、自分がいつまで健康で働けるのかは分からない。もしものことがあった場合、君が困らないようにと、その金は蓄えていて欲しいと仰られた。何があっても、レイは火野家には頼らないだろう。その時のために、その金は残しておかなければならないと」
「……」
「お爺様は分かっておられる。レイ、君のことを一番分かっているのは、お爺様だ。お爺様のお心を、分かってあげなさい」
レイは涙が止まらなかった。ただ通帳を、大事そうに抱き締めて、ひっそりと涙を流した。