鬼の七


 時刻は零時を少し回ったところだった。
 カチリという乾いた音が響いたので、衛は顔を上げた。
 木村は白金台にあるマンションで、独り暮らしをしていた。マンションとは言っても、今流行のウィークリーマンションである。部屋と共に家具一式もレンタルできるので、色々と買い揃える必要がない。大学在学中の期間限定で借りる場合は、けっこう都合がいい。月割りにすると若干料金が高めになるきらいがあるが、敷金や礼金が必要ないので、借りる際にまとまった資金がいらなかった。最も、木村自身が家賃を払っているとは思えないが。
 木村の部屋は、二階の角部屋だった。201号室である。
 そろそろとゆっくりドアが開き、木村が室内から出てきた。鍵を閉め、鼻歌を歌いながら階下を目指す。コンクリート製の階段をひょいひょいと降りると、マンションに面している通りへと出た。
 衛は素早く、電柱の影に身を隠した。
 木村は衛が隠れている電柱とは逆の方向に向かって、軽い足取りで歩き出した。五分ほど歩いたところに、コンビニがあるのを事前に確認している。木村は、そこに向かうつもりなのかもしれないと思った。衛は彼に気付かれないように、後を追うことにした。
 二分ほど歩いただろうか。不意に木村の足が止まった。
「ん?」
 何か異様な空気を、衛も感じていた。押し潰されるような圧迫感を、木村の前方から感じ取ることができる。
 恐らく木村も、何か異常を感じたから立ち止まったのだろう。怯えたように、しきりと辺りを見回している。
「ひぃぃぃっっっ!!」
 その木村が、突然悲鳴を上げた。そのままその場で、腰を抜かしてしまう。
 小山のような“それ”が、木村の前方に闇の中から出現した。
「ルナ! 鬼が出た!」
 衛は通信機に向かってそれだけ叫ぶと、ひらりと身を宙に躍らせた。
 満月の光を浴びて、衛はタキシード仮面に変身する。

“それ”は、正しく鬼であった。
 五メートルはあろうかという巨体はがっしりとしていて、鎧のような分厚い筋肉に守られている。腕が長く前屈みで、まるで類人猿のような体型だった。胸、腕、背中、足と、黒光りする体毛で覆われ、頭には大小二本ずつ計四本の角が生えていた。頭髪は長く、歌舞伎の獅子を思わせる。金色の瞳が炯々と輝き、耳まで裂けた巨大な口を大きく開け広げている。牙はないが、鋭い歯が二列に並んでいた。
「タキシード・ラ・スモーキング・ボンバー!!」
 タキシード仮面は木村の前に躍り出ると、直ちに迎撃を開始した。左肩越しに後方を見やり、木村に向かって「早く逃げろ!」と叫ぶ。しかし、完全に腰を抜かしてしまっている木村は、その場でバタバタと藻掻くだけで、逃げることができない。
「鬼」が咆吼を上げた。タキシード仮面は、前方に顔を戻す。
「鬼」と目が合った。スモーキング・ボンバーの直撃を受けているはずなのだが、「鬼」の体には(かす)り傷ひとつ付いていない。
「くそっ!」
 タキシード仮面は、スモーキング・ボンバーをもう一撃放った。しかし、直撃したかに見えた衝撃波は、「鬼」の手前で霧散してしまう。
「結界を張っているだと!?」
 タキシード仮面は驚愕した。「鬼」は防御のための結界を、自分の周囲に張り巡らしていたのである。
『腕を返せ!』
「鬼」が人間の言葉を発した。その目はタキシード仮面にではなく、その後ろで頭を抱え込んで震えている木村に向けられたものだった。
「腕?」
 タキシード仮面は、改めて「鬼」の体を観察した。先程は気付かなかったが、この「鬼」には右腕の肘から先が欠落している。
「お前は茨城童子か!?」
 タキシード仮面が問うた。羅生門に現れた鬼の名だ。
『人間が勝手に付けた名なぞ、我は知らぬ』
「羅生門で侍に撃たれた鬼だな?」
 タキシード仮面は、尋ね方を変えた。
「ふん! 小賢しい人間がおったものよ」
「鬼」は答えた。この「鬼」こそが、渡辺綱に倒された羅生門の鬼―――茨城童子のようだ。
『腕を返せ!』
「鬼」はもう一度、木村に向かって言った。そこでようやく、木村は前を見上げた。顎がガクガクと震えている。
『人間風情が!』
「ひぃっ!!」
「鬼」の一喝に、木村は震え上がる。
(ん? 妙だな……)
 タキシード仮面は、違和感を感じていた。「鬼」は先程から、全く自分を見ていない。無視しているのかとも思ったが、そうではないように思えてならない。目の前にいるはずの自分を、「鬼」は見えていないような気がするのだ。
「助けてくれ! 殺さないでくれ!!」
 木村は必死に懇願している。その姿は、無様だった。
『腕を返せ!』
「う、腕は俺は持っちゃいねぇ! 持ってるのは……!」
「待て! ヤツに教えるな!!」
「うるせぇ! 教えれば、こいつはそっちに行く! 俺は殺されないですむ」
「持っているやつが危険だとは、考えないのか!?」
「そんなこと、俺の知ったこっちゃねぇ! 火野だ! 火野のやつがあんたの腕を持ってるはずだ!」
「馬鹿野郎!!」
 タキシード仮面は木村を怒鳴りつけると、「鬼」に向かって三度スモーキング・ボンバーを放つ。だが、やはり効果がない。
『そうか、分かった』
「鬼」は満足そうに肯くと、のそりとした動作で身を反転させた。
「待て!」
 タキシード仮面が叫ぶが、「鬼」は気にも留めない。闇の中に溶け込むように、その場から姿を消してしまった。
 セーラー戦士たちが到着したのは、その直後だった。

「そんなっ……。たった今までこの場にいたのに、追跡することができないなんて……」
 ポケコンのキーを叩きながら、マーキュリーは信じられないといった風に、首を横に振った。
「どういうこと?」
 ヴィーナスが尋ねると、
「存在そのものが消失してしまっているの。あらゆる面から追跡を試みたんだけど、どれも追い掛けることができなかったわ」
 マーキュリーはもう一度、首を左右に振った。つまりは、完全に見失ってしまったということだ。
「誰か急いで火野勝のところに行ってくれ。鬼の腕を彼が持っているらしい」
「分かった。あたしとヴィーナス(みな)で行ってくる。タキシード仮面(まもちゃん)は?」
「こいつに、二−三尋ねたいことがある」
 タキシード仮面は顎を杓って、木村を示した。
「了解。行こうヴィーナス(みな)
 ジュピターとヴィーナスは、火野勝のもとへと急いだ。
 タキシード仮面はジュピターとヴィーナスを見送ると、腰を抜かしたまま動けない木村の前に歩み寄った。
「鬼の封印を解いたのは誰だ?」
「な、何の封印だって!?」
「さっきの鬼だ。腕とは別に、お前たちの中の誰かが、鬼本体の封印も解いたはずだ」
「さ、さぁ知らねぇな。お、俺には関係のないことだ」
 木村は何か知っていて、明らかに惚けている様子だった。そんな余裕が生まれてくるのも、自分の命が助かったからに他ならない。
「何か勘違いしてないか?」
 タキシード仮面は声のトーンを下げた。右手をすうっと、木村に向かって突き出す。木村はその掌から、衝撃波が放たれたことを知っている。木村の顔から、再び血の気が引いた。
「俺がお前を助けたと思っているのか?」
 低い抑揚のない声だった。木村はゴクリと唾を飲み込んでから、タキシード仮面の背後で成り行きを見ているセーラームーンとマーキュリーに向かって首を伸ばした。
「お、おい! あんたたちセーラー戦士だろ? こ、こいつが俺を殺そうとしている。助けろ! それがあんたたちの仕事だろ?」
 木村はセーラームーンとマーキュリーの体をジロジロと見る。こんな状況下でも、男性としての欲求の方が優先するらしい。
「ふざけないで!」
 ピシャリと言ったのは、マーキュリーだった。木村のその言い種と、自分たちを舐め回すような視線が、癪に障ったようだ。セーラームーンはタキシード仮面の意図が分かっているから、彼の行為に対しては何も口出しをしない。
「セーラー戦士ってのは、正義の味方なんだろ!? だったら、俺を助けるのが義務だ!」
「おめでたい人ね。テレビの見過ぎよ。残念だけど、あたしたちはテレビの変身ヒーローとは違うの。素直に、彼の質問に答えた方が、あなたの身の為よ」
「なっ……」
 木村は目を見開いたまま絶句してしまった。自分を助けてくれると考えていたセーラー戦士から見放されてしまったのだから、無理もないだろう。
「そう言うことだ。俺の質問に答えないと言うのなら、この場で命をもらう。俺がいなければ、どうせ鬼に奪われていた命だ。俺が自由にする権利があるよな?」
 タキシード仮面は、木村の言い種を真似てみた。彼の論理なら、そうなるはずだからだ。木村の表情は蒼白を通り越し、美白肌のように不自然に白くなっていた。
「ま、ま、待ってくれ! 本当に知らないんだ! だ、だけど、火野勝なら何か知ってるはずだ。今回の計画も、全部あいつが考えたことなんだ。お、俺はいいバイト料がもらえるからって、沢田に誘われただけなんだ!」
「何で、鬼に火野勝のことを教えた?」
「だっ、だって、全ての元凶はあいつじゃないか! あいつが鬼の腕を盗もうなんて言わなければ、俺が鬼に襲われることはなかったわけだしさ! あ、あいつは責任を取る義務があんだよ!」
「その口振りだと、貴様嘘を教えたな!?」
「へっ。へへへ……。教えるもんかよ! お、俺を殺したら腕の在処が分からなくなるぜ!」
「あんたって人は!」
 マーキュリーが憤怒する。この期に及んで、木村は自分たちと取引をしようとしているのだ。
「お、鬼が退治されるまで、俺を警護しろ! お、男は駄目だ。お前たちセーラー戦士が、俺に付きっ切りでいろ! さ、サービスも忘れんなよ」
「なんて人なの!?」
「もういい。お前は退場しろ」
「へ?」
 タキシード仮面の冷たいひと言に、間の抜けたような声を出した木村の目の前を、衝撃波が通過した。尻餅を付いている木村の股間付近のアスファルトが、粉々に砕ける。
「ひっ!」
 木村は失禁し、泡を吹いて気を失ってしまった。
タキシード仮面(まもちゃん)。ちょっとやりすぎじゃない?」
 らしからぬ行為をセーラームーンが(たしな)めるように言うと、
「こいつの態度を見ていたら、無性に腹が立った。だが、少しやりすぎたな」
 タキシード仮面は、自嘲気味に苦笑した。

 火野勝―――いや、代議士・火野誠剛の邸宅は、世田谷の一等地にあった。邸宅の周囲は高い塀に囲まれ、ただ一箇所の出入り口である豪奢な構えの門には、監視カメラが設置されている。
「『お金持ってますぅ!』な、感じの家―――って言うか、豪邸よね」
「だろ? あたしも驚いた。あるトコにはあるんだよ」
「門から玄関まで、ぜったいに歩くと五分以上は掛かるような気がする……」
 三メートル以上の高さがあるコンクリート製の塀を見上げて、ヴィーナスとジュピターは呆れあった。ジュピターは昨夜も火野邸に張り付いていたが、ヴィーナスは実際に訪れるのは今日が初めてだった。
「あいつ、ここにいれば、いい暮らしができたろうに……」
 ヴィーナスはレイのことを思い、ポツリと呟いた。学校こそ、天下のお嬢様学校のT・A女学院に通ってはいるものの、レイの暮らしぶりを見れば、決して贅沢をしているとは思えなかった。庶民の手に余るような高級ブランドものの私服を着こなしているわけでもなければ、桁違いの豪華なアクセサリーを身に付けているわけでもない。自分たちと大きな差があるとは、今まで感じたことはなかった。持っていないわけではないらしいが、必要な時以外はタンスの肥やしとなっていると、以前聞いたことがある。
「あいつがこのまま結婚しちゃったら、もう完全にあたしたちとは別の世界の人になっちゃうよね?」
「え? あ、ああ、そうだな……。あたしらとの付き合いは切れるよな、たぶん」
「お式には呼んでもらえないよね、きっと」
「うん、たぶんね。各界の著名人がたくさん来るんだろうから、あたしら凡人が行っていい場所じゃないと思うな。世界が違いすぎるよ」
「どうすんだろ、あいつ……」
「分かんないよ……」
 自分たちは、火野勝を襲うかもしれない「鬼」を警戒しなくてはならないはずなのだが、気持ちがどうしてもレイの方に向いてしまう。
「静かね、ここ」
「超高級住宅街だからね」
 沈黙に耐えられそうになかった。時刻は既に、二時を回っている。丑三つ時である。
 周囲は不気味なくらいに静かだった。通りからも離れているので、行き交う車の音も聞こえない。皆寝静まっているのであろうか。火野邸からも物音ひとつ聞こえてこない。最も、この三メートルの塀の外まで、邸宅の中の音が聞こえてくるとは思えなかったが。
 気配を感じた。
 殺気ではない。
 知っている気配だ。
「え!? レイちゃん?」
 薄闇の中に浮かぶシルエットは、レイのものだと感じられた。レイは豪奢な門の前に立ち、見上げるようにしている。自分たちの存在には、全く気付いていないようだった。レイらしからぬ行為だ。
 五分ほどそうしていただろうか。レイは突然向きを変え、自分たちに背を向けるような形で、門の前から立ち去っていった。自分の家に戻ってきたというよりは、単に見に来ただけというような印象を受けた。
「レイちゃん……」
 外灯の明かりに照らされたレイの背中は、自分たちが知ってる彼女の背中よりも、ひどく小さく見えるような気がした。