鬼の六


 うさぎはレイと通っている学校が違うことに、今日ほど歯痒い思いをしたことはなかった。同じ学校に通っていれば、校内で会うこともできるだろうし、よしんばそれができなかったとしても、登校してきているかどうかの確認はできる。しかし、学校も違い電話も通じない。緊急時の通信機でも連絡が取れない。そんな現状では、レイの動向が全く掴めないのだ。
 亜美が火川神社を経由して、登校してきてくれた。しかし、社務所には人の気配がなかったと言う。レイばかりではなく、レイの祖父も行方知れずという状態だった。
「誘拐……なんてことはないよね?」
「ふたり揃って?」
 美奈子の考えを受けて、まことが聞き返した。
「おじいちゃんもいないってことは、そういうことかも」
「でもレイだったら、誘拐犯くらいどうにかするんじゃないか?」
「う〜ん。そうよねぇ」
 自分たちは、ただの女の子ではない。その気になれば、普通の人間相手に後れを取るようなことはない。
「うさぎはどう思う?」
「ふぁ?」
 美奈子に話を振られたが、うさぎは上の空で聞いていたので、何について答えたらいいのか分からない。
「うさぎちゃん寝てたし……」
 横で亜美が苦笑している。
 昨夜は何事も起きなかった。結局寝ずの警護になってしまったから、全員徹夜である。うさぎは一端家に戻り、ルナと合流してから火川神社に行ってみたのだが、やはりレイとは会えなかった。念のためルナを火川神社に残し、まことと合流して朝を迎えたのだ。
 だから、午前中の授業は四時間とも爆睡してしまった。何度か教師に頭を小突かれたらしいのだが、全く気が付かなかった。
「こんなことやってたら、体力保たないよぉ……」
 昼食を食べながらうさぎが嘆いたが、それは皆も同じ意見だった。

 昼になると、だいぶ気分が落ち着いてきた。
 夕べはとうとう、一睡もできなかった。付添人用のスツールに腰を落とし、一晩中眠り続けている祖父の顔を見ていた。目を覚ましたときに、真っ先に迎えてあげたかったからだ。だが祖父は、とうとう一度も目を覚まさなかった。いや、実際には目を覚ましていた。その時レイは、疲労のためコクリコクリと居眠りをしていた。だから気付かなかった。祖父は自分の傍らにレイがいるのを確認すると、安心したように笑んで、再び眠りに入った。目を覚ましたのは、昼少し前といった時間だった。病室には、レイと階堂の姿があった。
「迷惑を掛けたな……」
 祖父はひと言だけレイにそう言って詫びると、また眠りについた。レイは祖父の声が聞けたことで、ようやく落ち着くことができたのだ。医師からは心配ないとは言われていたが、眠り続けている祖父を見ていると、やはり不安だった。このまま目を覚ましてくれないのではないかと思ったほどだ。祖父に逝かれてしまったら、自分はまたひとりぼっちになってしまう。
 祖父が目を覚ましたとき、何か声を掛けてあげようとあれこれ考えていたのだが、自分に向けられた祖父の顔を見たとき、言葉が詰まって出てこなかった。声を掛けてくれた祖父の声は、ひどく掠れていたが、レイにはそれで充分だったのだ。
「一度神社に戻りなさい。戻ってくるまでは、わたしがここにいるから」
 階堂にそう促され、レイは一度火川神社に戻ることにした。病院に泊まり込むつもりなので、自分の着替えも必要だ。階堂は祖父の着替えしか持ってこなかったからだ。
 昼過ぎに神社に戻り、そして階段でルナと会った。

「そうだったの……。いろいろ大変だったのね」
 レイから事情を聴いたルナは、同情的な眼差しを向けた。初めは元気のなかったレイも、気心の知れた友人(ルナ)と話をしているうちに、少し気分が楽になってきたようだ。会話の合間に、笑顔を見せるようになってきた。レイは膝を抱えるようにして、階段に腰を落としていた。
「お爺ちゃんは大丈夫。お医者様は、三‐四日で退院できるだろうって仰ってた」
 レイは何事か言いたげな間を置く。言葉に出すことを迷っているようだ。だから、ルナが先導する。
「結婚のこと?」
「……」
 レイは口を閉ざしたまま、コクリと肯いた。
「嫌なんでしょ?」
「……」
 力なく、首を縦に振る。肯くつもりはなかったが、その意志に反して首が動いてしまったという感じだった。レイ自身は、肯いたつもりはなかっただろう。
「どうして断らないの?」
「あたしには分からない……」
 それが正直な答えなのだろう。レイは俯いたまま、首を左右に振った。父親の仕事の道具となって結婚するのは、御免だった。好きでもない男との結婚は、もっと嫌だった。しかし、どうしても「嫌」と口に来ることができなかった。それがどうしてなのか、レイ自身はまだ気付いていないようだが、ルナにはそれが分かったような気がした。レイは誰か身近な人物に、結婚をはっきりと止めてもらいたいのだ。友人ではなく、恐らく身内の誰かに。誰も止めてくれないから、意固地になっているのだと感じた。でもそれは、ルナやうさぎたちが気付かせてあげては駄目なのだ。レイに最も親しい誰かが、レイに気付かせてあげなければならない。
 火川神社の長い階段を、規則的に叩く硬質な音を耳にして、レイは顔を上げた。女性が階段を上がってくるのが見えた。知っている人物ではない。お嬢様然としたその女性は、神社にはとても不釣り合いだと感じた。
 レイは立ち上がり、その女性に対して顔を向けた。初対面ではあったが、その女性は自分に用事があると直感したからだ。
 女性は階段の上から自分を見下ろしているレイに気付くと、不快そうに顔を歪めて、階段を上る足を速めた。レイと同じ壇上に立つと、
「火野レイさんですね?」
 ようやく声を掛けてきた。
 柔らかな春の日差しのような声だった。しかし、表情は柔和ではなかった。自分に対して、好意を持っているとは思えない表情をしていた。
「はい、そうです。あなたは?」
 レイは努めて冷静な声で尋ねた。
「申し遅れました。わたしくは、新藤清香(さやか)と申します」
 聞き覚えのない名前だった。自分に関係のある人物なのだろうかと、レイは思案する。傍らのルナは、女性の顔をジッと見上げていた。ルナの視線には、と言うより、ルナの存在そのものに気付いていないその女性―――新藤清香は、睨むような鋭い視線をレイに向けてきた。
政孝(まさたか)さんはどちら?」
「え!?」
「階堂政孝さんよ!」
 惚ける気か、と言わんばかりの勢いだった。
「今は病院にいます」
「病院!? 政孝さんに何かあったの!?」
「いえ、わたしの祖父の付き添いで……」
「どうして!?」
 新藤清香はレイに皆まで言わせない。
「え!? どうしてって……」
 詰め寄られて、レイは口籠もってしまった。新藤清香という人物が何者なのか、何となく想像することができた。恐らく、彼女が自分の父が階堂に紹介した女性なのだろう。階堂の婚約者だ。
「昨日から連絡が取れないから、もしやと思って来てみれば……」
「どうして火川神社(ここ)だとお思いになったのですか?」
「それはあなたが、一番ご存じじゃなくて?」
 清香は、挑むような視線をレイに向ける。
「あなた、結婚するそうじゃないの。どこぞの政治家の馬鹿息子だそうね。あなたのような人には、お似合いだわ」
「どういう意味ですか!?」
「子供のクセに、政孝さんに色香で迫るような破廉恥な女には、下男な馬鹿息子がお似合いだと言ってるの。それとも父親のために、自分の方から馬鹿息子に迫ったのかしら? お得意の色仕掛けで」
「何ですって!? 失礼じゃないですか!!」
 ここまで侮辱されれば、さすがにレイも声を荒げた。激高したレイに反応したのか、フォボスとディモスも応援に駆け付けてきた。清香の頭上スレスレに飛行し、彼女を激しく威嚇する。
「烏を(けしか)けるなんて、なんて野蛮な人なの!? 今後、一切政孝さんに近付かないで! そうなさらないと、あなたのお父様が困ることになりますわよ!」
 精一杯の虚勢を張って清香は言うと、逃げるように階段を降りていった。
「なんなの、あの失礼な人は!? あたし、引っ掻いてやろうかと思ったわよ!」
 ようやくしゃべれるようになったルナが、耳を真っ赤にして怒りを表している。
「あの人は、何であたしのところに来たんだろう……」
 それでもレイは、何故彼女が自分のところに来たのか、その理由の方が気になっていた。自分と階堂はもう終わっている。と、言うより、そもそも何もなかったのだ。自分は階堂にとって、妹のような存在でしかない。自分にとって階堂が、兄以上の存在であることとは根本的に違う感情なのだ。だけど、本当にそうだったのだろうか。
 階堂と、ただ一度だけ交わした口づけの感覚を思い出すかのように、レイは右手の人差し指で下唇を撫でた。あの時の階堂は、どんな気持ちで自分と唇を重ねたのだろう。その場の雰囲気に流されただけなのか、それとも……。
「レイちゃん!」
 ルナの自分を呼ぶ声に、レイは幻想の世界から戻ってきた。
「ごめん、ルナ……」
 レイは腰を折って階段に座りながら、理由もなくルナにただひと言詫びた。
「あとでうさぎちゃんとまた来るわ」
 弟の事件を切り出せるタイミングではなかった。ルナは仕切り直しをするために、間を置くことにした。
「病院の方にいると思う」
 少し安堵したような笑みを浮かべて、レイは答える。
「十番病院よ。510号室」
「うん。分かったわ」
 ルナは肯くと、階段を駆け下りていった。

 レイが病室に戻ると、祖父は上体を起こして、窓の外を眺めているところだった。階堂の姿は見えなかった。
「ただいま、お爺ちゃん。階堂さんは?」
「事務局に行ってくれておるよ。何もかも世話になってしまって……。彼も忙しい身じゃろうに」
 ついつい階堂の好意に甘えてしまっているが、彼とて自分の仕事があるはずなのだ。
「お前にも迷惑を掛けてしまった」
 祖父はレイと視線を合わせることを避けるかのように、ベッドに視線を落とした。
「迷惑だなんて、あたし思ってないよ。家族じゃない」
 レイは首を強く左右に振った。
「家族、か……」
 その言葉を噛み締めるかのように、祖父は小さく呟いた。
「お前の花嫁姿は、さぞかし綺麗だろうな……」
 その祖父の言葉の意味を、レイは瞬時に理解した。自分の挙式に、祖父は出席しないのだ。招かれていないのか、それとも自ら拒否したのか、それは分からないが。
「お爺ちゃんは、あたしが結婚しちゃってもいいの?」
「わしももう、そんなに長くはない」
 ポツリと祖父は呟く。しかし、レイはそんな答えを求めているわけではない。
「あたし、パパの出世の道具にされるのよ!? それでもいいの!?」
 語尾が微かに震えていた。自分たちがいる場所が病院だという認識は、どこかに飛んでいってしまった。思わず叫んでしまっていた。
 掛けて欲しい言葉。求めていた言葉が聞けない悔しさが、言葉となって口から飛び出していく。
「あたしは、十七になったばかりなのよ!?」
 祖父は目を閉じ、眉間に深い溝を作っていた。
「なんとか言ってよ、お爺ちゃん!!」
 その祖父の態度が、更にレイを苛立たせた。祖父が病人であるということも、レイは忘れてしまっている。
「……レイ。自分のことは、自分で決めなさい」
 祖父は顔をこちらに向けると、レイの目を真っ直ぐに見てそう言った。
「!」
 突き放されたような気がした。呼吸が一瞬停止したのが、自分でも分かった。頭の中が真っ白になってしまった。
 なんて叫んだのか、覚えていない。気が付くとレイは、病室を飛び出していた。
 廊下で階堂とすれ違った。
 驚いたような階堂の表情。自分を呼び止めようとする声が聞こえたが、足を止めるつもりはなかった。その声を振り払うようにして、レイは一気に階段を駆け下り、待合室を駆け抜け、
病院の外へと飛び出していた。
「レイちゃん!?」
 びっくりした表情のうさぎが、目の前にいた。レイは思わず、うさぎに抱き付いて泣き出してしまった。

 ひとしきり泣くと、気分がだいぶ落ち着いてきた。
 うさぎは、レイが泣いている間、黙って彼女のことを抱き締めていた。レイが人前で涙を見せるなどということは、余程のことがあったに違いない。すぐに想像したのは、レイちゃんのお爺ちゃんの容態が悪化してしまったのではないかということだったが、どうならそうではないようだった。うさぎの問い掛けに、レイは子供のように泣きながら首を左右に振って答えた。
 レイが流しているのは、悲しみの涙だ。悔しさの涙だ。レイがこれ程までに深い悲しみと悔しさを感じる何かが、ほんの数分前に起こったのだ。だからうさぎは、黙ってレイを泣かせてあげることにした。レイが自分から理由を話してくれるまで、待つことにしたのだ。一緒にいたルナも同様に、レイに声を掛けることはなかった。
 レイはそんなふたりに感謝した。下手な慰めや同情の言葉は、かえって神経を逆撫でしてしまう。気が済むまで泣かせてもらえたことが、本当にありがたかった。
「……ゴメン。取り乱して」
 顔を上げて、うさぎの顔を見てそう言った時は、かなり気分が楽になっていた。
 うさぎは母親のような笑顔を見せてくれた。
 近くに白いベンチがあったので、彼女たちはそこに移動することにした。ベンチにうさぎと並んで腰を下ろすと、ルナはうさぎの膝の上に飛び乗ってきた。
「みんな、心配してるよ」
 どう切り出そうかと、とても迷ったような沈黙の後、うさぎはそう言ってきた。レイは、「うん」としか答えなかった。うさぎは言葉を続ける。
「連絡も取れなかったし……」
「うん」
「お爺ちゃんのこと、知らなかったし……」
「うん」
「レイちゃん……」
「……」
「結婚しちゃうの?」
「分かんない……」
 レイは俯いていた。うさぎの視線はレイには向けられていない。敷地内を散歩する患者たちに向けられている。
「あたしは、やだな」
「どうして?」
「だって、レイちゃん、ちっとも幸せそうじゃないもん」
 レイは驚いて顔を上げ、うさぎの方に向けた。目が合った。うさぎも自分の方に顔を向けていた。戸惑いの色を浮かべているうさぎの瞳は、微かに潤んでいた。自分のことで、うさぎも悩んでくれている。そう考えると、申し訳ないような気分になった。
「あたし、分かんないの」
 レイはうさぎに向けていた視線を外し、自分の足下に落とした。仲間からはぐれてしまったらしい蟻が一匹、向かうべき方向が定まらずに、ウロウロと動き回っていた。
「パパの言いなりになるのは嫌。だけど、あたしが縁談を断ると、色んな人に迷惑が掛かるような気がするの。パパに迷惑が掛かるのは仕方ないと思う。自分の娘を、政治的に利用しようとしたんだから……。だけど、お爺ちゃんや階堂さんにも迷惑が掛かる。あたしは、それが怖いの。……それに、お爺ちゃんの考えが、あたしには分からない」
「お爺ちゃんは、なんて言ってるの?」
「あたしが決めろって……」
 重苦しい沈黙が流れた。この場で簡単に答えが出せるような問題ではないような気がして、うさぎは口を(つぐ)んだ。所詮は他人の自分が、どこまで干渉していいことなのか、分からなくなってしまったからだ。うさぎ個人の意見としては、好きでもない相手ならば結婚などして欲しくない。だけど、そんなこと自分が後押ししてしまってもいいことなのだろうか。ましてやレイは、自分が縁談を断った際の周りへの影響を考えて、ひとりで苦しんでいるのだ。
「あたし、思うんだけど……」
 黙ってふたりの会話を聞いていたルナが、ポツリと口を開いた。
「レイちゃんがどんな答えを出したとしても、お爺ちゃんはきっと、レイちゃんを応援してくれると思う。だから、自分で決めろって言ったんじゃないかな」
 ルナのその言葉は、レイの心に重く響いた。

「やっと見付けたわ!」
 鋭い矢のような声が、突如としてレイたちを襲った。その言葉に、身を貫かれたようにビクリとなって、レイは声の聞こえてきた方に顔を向けた。神経質そうに眉根を寄せたサカキが、逃亡犯を発見した刑事のような目で、こちらを睨んでいた。
「十六時にお迎えに上がると、申し伝えておいたはずです」
 それなのに、何故お前はこんなところにいるんだと、目顔で言われた。レイはカチンときた。
「あたしの祖父が倒れたのよ! 病院まで押し掛けてきたってことは、そのくらいの情報は掴んだってことでしょ!?」
「ええ、もちろん」
 当然という顔をして、サカキは肯いた。だから? と、再び目顔でサカキの意志が伝わってくる。
「だったら少しは遠慮して! あたしには、やらなければならないことがあるの!」
「あなたがやらなければならないことは、本日、わたしたちと式場へ赴くことです。お爺様の看護ではありません」
「ちょっと! 黙って聞いてれば、あんまりじゃないんですか!?」
 暴言とも取れるサカキの言葉に、黙ってふたりの話を聞いていたうさぎがキレた。身内の看護を二の次にしろなどとは、とても普通の人の考えだとは思えない。
「誰ですか? あなたは」
「あたしの親友よ」
 答えたのはレイだった。レイの表情にも、怒りが込められていた。
「……ご友人は、選んだ方がよろしいですね」
 うさぎを見て嘆息しながら、サカキは言った。直接的に言われたわけではないが、その言い種に自分への侮蔑が含まれていると感じたうさぎは、ムッとしてサカキを睨んだ。サカキはそんなうさぎを一瞥すると、再びレイに顔を向けた。女子高生の飛ばしてくる「ガン」など、屁でもないといった風だった。踏んでいる場数が違うのだろう。
「信幸様が車でお待ちです。さぁ……」
 サカキがレイに手を伸ばそうとすると、ふたりの間にうさぎが体を入れてきた。
「うさぎ!?」
「どういうつもりかしら? お嬢さん」
「レイちゃん嫌がってるじゃないですか!」
 冷徹な視線を向けてくるサカキに負けじと、うさぎは精一杯強がって睨み返す。
「レイちゃんは、お爺ちゃんの看病をするんです!」
「本人の意志は尊重されません。あなたのような人に言っても無駄でしょうけど、これは高度に政治的な問題なのです。お退()きなさい。怪我をしますよ?」
「退きません!」
「仕方ないわね……」
 サカキは呆れたような嘆息をすると、目にも留まらぬ早業でうさぎの右腕を掴み、くるりとうさぎの体を反転させると、後ろ手に締め上げた。あまりの早さに、うさぎは自分の身に起こったことを理解するのに、たっぷり五秒は掛かった。
「護身術には、少々の心得があるのよ」
 その言葉は、レイに対して向けられたもののようだった。その口振りから、「少々」と言うのは謙遜で、実はかなりの腕前なのだろうと推測することができた。なるほど、伊達に秘書官を務めているわけではないようだ。一癖も二癖もありそうな女性だった。
「わたしの言うことを素直に聞いて頂けませんと、このご友人の右腕が、一生使い物にならなくなりますよ? 幸い、ここは病院ですから、多少手荒なことをしても大事には至らないかもしれませんけどね」
 その目から、サカキが本気だと分かった。実際にそんなことをすれば事件になってしまうはずだが、その程度の傷害事件なら、政治の力でもみ消してしまうかもしれない。ルナがどうにかしてくれるかとも思ったが、彼女としてもサカキの動きを警戒して、迂闊な行動は控えている。飛び掛かることは簡単だが、その程度でサカキが怯rp>(ひる)むとは思えない。むしろ、うさぎが危険である。
 うさぎももちろん、身動きが取れない。しかし、右腕を後ろ手に締め上げられているはずなのだが、痛くも苦しくもなかった。悲鳴を上げられない程度に、サカキは手加減をしているのだ。とは言うものの、いつでもうさぎの腕をへし折れる状態ではあった。
 セーラー戦士に変身しさえすれば、こんな状況を打開するのは容易(たやす)いが、生身の人間を相手に、そんなことをするわけにもいかない。
「……分かったわ」
 ややあって、観念したようにレイは言った。
 うさぎが駄目だと、必死に首を左右に振るが、レイはそんなうさぎに笑みを送っただけだった。「ありがとう」の意味の笑顔だった。
「うさぎを放して」
 レイが言うと、サカキは僅かに首を捻って、レイに先に行くように指示を出した。レイは大人しく、その指示に従った。レイが動き出すのを確認すると、サカキはようやくうさぎの腕を放した。
「今度邪魔をしたら、手加減はしませんよ」
 威圧的な口調でそう言うと、サカキはくるりときびすを返して、足早に去っていった。
「レイちゃん……」
 うさぎは無力な自分に対して、情けなくて涙を(こぼ)した。レイの背中が、小さくなっていく。とても遠くに行ってしまったような気がして、うさぎの胸は苦しくて張り裂けそうだった。

 うさぎがレイと会ったことは、司令室に戻ったルナから、深夜になって通信で全員に伝えられた。レイの身に起こっていることの全てを、知っている範囲でルナは皆に話した。
「あいつ、ひとりで悩んで……。ひとりだけで、どうやって解決する気なのよ……」
 美奈子はやり切れない気持ちを抑えずに、一気に言葉として吐き出した。
「美奈の気持ちも分かるけど、あたしたちにもできることとできないことがあるわ」
 努めて冷静に、亜美は応じた。
「相談くらいしてくれたってさ!」
「何をどう相談するの?」
「え!?」
 思いもしなかった亜美の言葉に、美奈子は一瞬言葉を失ってしまった。
「だって、あたしたち友だちじゃん!」
「友だちだからこそ、踏み込んじゃいけない領域があるんじゃないかしら? これはレイちゃん自身が、自分で判断して決断しなければいけないことだと思うの。レイちゃんも、たぶんそれが分かってる。だから、あたしたちに黙っていたのよ」
「じゃあ! じゃあ、どうすればいいって言うのよ!?」
「何もできないわよ、あたしたちには……。だけどどんな形であれ、レイちゃんが自分で答えを出したのなら、それに対してあたしたちは、精一杯の応援をすればいいんじゃないかな。友だちとして」
「ふぅ……。あいつ次第、か……」
 通信機がけたたましいエマージェンシーコールを発したのは、美奈子が吐息を吐いた直後だった。
「まもちゃんのところに急いで!!」
 ルナの声は、上擦っていた。