鬼の参
式場での打ち合わせ室で説明を受けているレイは、終始無言だった。膝の上に置かれた自分の白い手の爪ばかり、見つめていたような気もする。
自分の意見は全く取り入れてもらえなかった。と言うより、尋ねられさえしなかった。話は全て、隣に座っている青年の背後に、姿勢を正して直立している女性秘書が進めていた。青年の父親の第一秘書らしい。自己顕示欲が強そうで、賢哲そうな女性だった。話の進行は、その女性が全てひとりで取り仕切っていた。隣の青年は時々ヘラヘラ笑うだけで、特に自分の考えを言うわけでもない。重要なことは、全て女性秘書任せだった。
「来月の第二土曜日が吉日ですね。その日の十二時からにしてください。披露宴は十五時から行います」
式場側の説明を、システム手帳を捲りながら聞いていたその女性秘書は、話の途中でパタリと閉じると、有無を言わさぬ口調でそう言ってきた。真っ赤な革製のカバーを掛けたシステム手帳だった。使い込んでいないのか、それとも新調したばかりなのか、表面は艶々と輝いていた。
「は?」
説明の途中であったものだから、式場関係者のその中年男性は、惚けたような表情で女性秘書の顔を見上げてしまった。
「来月の第二土曜日にしてください」
二度も同じことを言わせるな、といった口調で、女性秘書は言った。
「お、お待ちください! その日はもうご予約でいっぱいです。何せ六月週末の大安ですので、半年も前に全て埋まってしまっております。空きはありません」
「式場側のミスで、ダブルブッキングしたことにすればよろしいじゃないですか。日取りを変更させてください」
「む、無茶苦茶です!!」
式場側の男性は、さすがに声を荒げた。いくらなんでも、それは横暴すぎる。そんな理不尽なことが、まかり通るわけがない。
「できなければ他を当たります。民自( 党の火野先生のお嬢様と、公生) ( 党党首・佐倉先生のご子息の挙式ですよ? こちらの式場にとっても、悪い話だとは思えませんが?」)
「ですが、あまりにも急すぎます」
「あなたでは話になりません。責任者を呼んでください」
「急なお越しでしたので、只今こちらにおりません。わたくしが代理です」
男性が僅かに胸を張って見せた。女性秘書は、小馬鹿にしたように鼻先で笑った。
「それでは、あなたの責任において、このお話はなかったことにしてよろしいのですね?」
女性秘書のそのひと言に、式場の男性は息を飲んだ。
「わ、分かりました……。式場責任者と協議の上、ご連絡を致します。先程も申し上げました通り、只今責任者は留守にしております。お時間をください。申し訳ありませんが、本日のところはお引き取り願えませんか?」
苦渋の表情で、式場の男性は言った。女性秘書は、不機嫌そうに息を吐く。納得して引き下がるわけではないという意思表示なのだろう。
「それではあなたの顔を立てて差し上げますので、良い返事をお待ちしています。ただし、当方としても急いでおりますので、明日の正午までには返事をください。一秒でも遅れた場合は、例え良いお返事だったとしても、このお話はなかったことに致します」
「明日は十六時にお迎えにあがりますので、そのつもりでいてください」
ハンドルを握る秘書の女性は、赤信号で停車すると、バックミラーをチラリと覗き込みながら言ってきた。
秘書は「サカキ」というらしかった。自分の結婚相手である佐倉信幸が、先程そう呼んでいたのを耳にした。サカキはレイに対しては名乗らなかった。レイも尋ねるつもりはなかった。知ったからといって、何の意味もない。
朝方の火川神社に、いきなりこの黒いロールスロイスで佐倉信幸とともに現れ、勉強会の準備をしていたレイを拉致同然にロールスロイスに押し込んだ。あまりの横暴さに祖父も抵抗してくれたが、サカキに何事かを告げられると、必死に呼び掛けるレイに対して背中を向けてしまった。その背中を見た瞬間、レイは叫ぶのをやめた。
「所詮お前は、火野家の人間だ」
祖父の背中が、そう言っていたように感じたからだ。
その後レイは、ひと言も言葉を発しなかった。
車の中で、信幸がしきりとご機嫌を取るような言動をしても、レイは俯いたまま顔を上げなかった。式場でもそうだ。そして、その式場からの帰りの車の中でも、レイは言葉を忘れてしまったかのように無言だった。
相変わらず信幸は、くだらないギャグを織り交ぜながら、レイの機嫌を取ろうと躍起にやっているが、生憎とレイの耳には届かなかった。いや、聞こえてはいた。だが、何ひとつ、心に染み渡るような言葉はなかった。軽い上辺だけの言葉では、今のレイの心に響かないのだ。
ただ、サカキの冷たく突き刺さるような言葉だけは、空虚なレイの心に、土足で強引に踏み込んできた。
「よろしいですね?」
「お伺い」ではなかった。強制的な確認の言葉だった。
「拒否権はないのでしょう?」
だからレイは、せめて、ひとつだけでも嫌味を言いたくなる。
「心外ですね。わたくしは強制をしているつもりはないですよ? ただ、あまり聞き分けのないことを仰らない方が良いとは申しましたが」
それが強制ではなくて、何だと言うの? レイはそう言い返してやりたかったが、今度は自重した。言葉巧みに、はぐらかさせるのがオチだからだ。そういった意味では、相手の方が一枚も二枚も上手だった。伊達に秘書は務めていないようである。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
考えてみたが、レイ自身、よく分かっていなかった。気付いた時には、既に縁談がまとまっていたのだ。どうやら、自分があずかり知らぬところで、勝手に話が進んでしまっていたらしい。レイは縁談が完全に決まってから、相手を紹介されたのだ。この相手はどうか、ではなく、この相手と結婚をすることに決まったと。
同席していた階堂の沈痛な表情ばかり、印象に残っていた。
ロールスロイスは、日比谷公園を右手に見ながら、霞ヶ関方面へと向かう。信号をひとつ超えたところで、赤信号で停車した。ふと窓外に目を向けたレイは、ハッとなった。向かい側の横断歩道を、桜田門方面に渡っていく人混みの中に、見知ったふたりの姿を見付けたからだ。もちろん、その彼女たちが、向かい側で停車している車の中に、レイがいるなどとは夢にも思っていない。ふたりは、警視庁の方へ向かって歩いていく。
ロールスロイスは、そんなふたりとは逆の方に進路を変更していった。
社務所は妙に静かだった。
陽も傾き、だいぶ薄暗くなってきているのだが、電灯は灯されていなかった。
「おじいちゃん、ただいま」
玄関の鍵は開いていたから、留守のはずはなかった。祖父が戸締まりを忘れて出掛けたことは、今まで一度もなかった。几帳面な人なので、そういう「うっかりミス」をあまりしたことがない。
「おじいちゃん?」
呼び掛けてみても、祖父からの返事はなかった。奥からは物音ひとつ聞こえてこない。
「おじいちゃん、いないの?」
もう一度声を掛けてみたが、返事は帰ってこなかった。社務所に来る前に、神社の方も覗いてきたのだが、こちらにも祖父の姿はなかった。
レイは無性に不安な気持ちになった。親に置き去りにされた子供のように、急に心細い気持ちが湧き上がってきた。
居間を覗いてみても、祖父の姿は見えなかった。
「昼寝でもしてるのかしら……」
そんな可能性もあり得ると考えながらも、やはり祖父の姿をこの目で見るまでは安心できなかった。レイは廊下に戻り、奥の祖父の部屋へと向かった。
「おじいちゃん、入るわよ」
祖父の部屋の前で断りを入れ、レイは襖を開けた。
「おじいちゃん!?」
倒れていた。祖父が。
畳の上で俯せに倒れたまま、身動きひとつしない。レイは慌てて祖父の側に駆け寄った。
「おじいちゃん! おじいちゃん!!」
肩を揺り動かす。だが返事がない。
体温はあり、かすかだが呼吸はしていた。
「待ってて、おじいちゃん! 今、救急車呼ぶから!」
レイは即座に、廊下に設置してある電話の元へと向かった。
医師から受けた説明は、非常に分かりにくいものだった。気も動転していたので、普段より理解力も落ちていた。ただ、疲労が原因だということだけは理解できた。命に別状はないが、高齢ということもあり、しばらく入院して様子を見ることになった。
「大事に至らなくて、よかったですね」
ベッドに横たわる祖父の寝顔を、憔悴しきった表情で眺めているレイの背中に、階堂は声を掛けた。階堂はレイの父、火野誠剛( の第一秘書である。レイとは彼女が幼い頃からの付き合いで、またレイの初恋の相手でもある。)
気が動転してしまっていたレイは、119番へ掛けなければならないところを、無意識のうちに階堂の携帯電話の番号を押してしまっていたようだ。何をどう間違えればそう間違えることができるのか、冷静になって考えればおかしなことだが、今のレイはそれすらも考えるゆとりがない状態だった。
入院の手続き等の細かい処理は、全て階堂が引き受けてくれた。レイは医師からの病状説明の際に病室から離れた以外は、ずっと祖父の横に付き添っていた。ひとり部屋なので、回りに気を遣う必要は一切無かった。
「お爺様の着替えを取って参ります。社務所の鍵をお借りできますか?」
レイはまた無反応だった。呆然と祖父の顔を見つめている。
「レイ」
「え!? あ、ごめんなさい……」
「お爺様の着替えを取ってくる。社務所の鍵を貸してもらえないか?」
「あ、はい」
レイはふらふらと立ち上がると、右手でスカートのポケットをまさぐり、社務所の鍵を探す。だか、見つからない。
「左手に……」
「え?」
階堂に指摘され、レイは自分の左手に目を向けた。社務所の鍵が握り締められていた。どうやらずっと、鍵を握り締めたままだったようだ。
「お爺様の側にいてあげなさい。わたしがひとりで行ってくるから」
階堂はレイの左手から、彼女の体温が残っている社務所の鍵を受け取ると、ドアへと向かった。
「ありがとう、階堂さん……」
ドアノブに手を掛けたとき、背中にレイの声が投じられてきた。
「水臭いな」
ひと言そう言って、階堂は病室を後にした。
どのくらいベルを鳴らしっぱなしにしただろうか。かなり長い間、ベルを鳴らしていたような気がする。
うさぎは大きく溜息を付きながら、受話器を置いた。
「いないの?」
足下から、ルナの丸い顔が見上げてくる。
「お爺ちゃんも出ないなんて……」
うさぎは無意識のうちに、頭を左右に振っていた。
「いいわ。明日、あたしが火川神社に行って、様子を見てくる」
ルナは小声で言った。月野家の中だから、ルナはおおっぴらにしゃべることはできない。先程謙之が帰宅したので、今は家族全員が家の中にいることになる。
「ルナひとりで行くの?」
「アルがいたんじゃ、話しづらいこともあるかもしれないから。あたしひとりの方が、レイちゃんも気を遣わないと思うの」
明日は、うさぎは火川神社に行くことができない理由があった。まこととふたりで、高尾山付近の例の村に調査に行くことになっていたからだ。
夏菜からの依頼については、すぐに緊急ミーティングによって全員に伝えられた。その席で、翌日の皆の行動も決めたのだ。うさぎはまことともに、若木の車で高尾山の麓の村に調査に行くことに決まった。美奈子と亜美は、被害者たちと共に「鬼の腕のミイラ」を盗んできたのではないかと疑われている人物たちに、それとなく接触してみる手筈になっている。だから、ルナかアルテミスのどちらかしか、余裕を持ってレイの様子を見に行くことができないというわけなのだ。
うさぎとしては、今のうちにレイから直接事情を聞いておきたかったところなのだが、先程から何度も電話を掛けているのだが、一向に電話に出る気配がなかった。通信機は真っ先に試してみたが、こちらもコールするだけで、レイが答えることはなかった。まさか、レイの祖父が緊急入院し、レイが病室で付き添っているなどとは、想像もしていない。
「レイちゃんに会えたら、すぐに連絡ちょうだいね」
「うん。分かってる」
うさぎはやりきれない思いのまま、この日は就寝することになった。