異次元からの手


 タキシード仮面とちびムーンが、亜美たちの方へ歩み寄ってくる。
「亜美ちゃん、怪我はない?」
 ちびムーンが訊いてきた。
 変身しているにも拘らず、普段と同じ会話をしてしまうのが、ちびうさだった。自分たちだけしかいないのなら、それでも構わないのだが、今は海野もなるちゃんもいる。なるちゃんは、薄々自分たちの正体に気付いているだろうが、海野はまだ知らないはずである。もちろん、今気を失っているひとみなどは、知る由もない。
「あたしは、大丈夫なんだけど………」
 答えながら、亜美は海野をちらりと見た。
 タキシード仮面が、その亜美の仕草に気付いた。海野に目を移す。顔から、血の気が失せていた。脂汗が、額に浮いている。
「どうした?」
 亜美に尋ねた。
「捻挫のようなんだけど………」
 亜美は曖昧に答えてから、タキシード仮面にしか聞こえないように、小声で付け加えた。
「ヒビがはいっているかも………」
「そうか………」
 タキシード仮面は頷くと、なるちゃんに肩を借りている海野に近付いた。
 膝をついて、海野の痛がる右足首に、そっと手を触れた。
 タキシード仮面の右手が、淡い光を放った。
「………え!?」
 海野は驚いた。瞬時に痛みが消えたからだ。足はもう、なんともない。嘘のように痛みが引いている。
 タキシード仮面のヒーリング能力だった。亜美やうさぎ、美奈子もなども同様のヒーリング能力を持っているが、彼の力はズバ抜けていた。例え瀕死の者でも、瞬時に回復させてしまう程の治癒能力を持っている。セーラー戦士の中で、トップクラスのヒーリング能力を持つセーラーマーキュリーでさえ、彼の能力にはかなわなかった。
「もう、大丈夫だ」
 タキシード仮面は立ち上がった。
「ありがとうございます。すばらしい能力ですね」
 感動したように、海野は礼を言った。
「彼女は僕たちが引き受けますから、水野さんも行ってください」
 海野は、地面に倒れているひとみに目を向けてから、亜美に言った。
 彼も気付いているのだ。亜美は思った。
 今更隠したところで、どうなるわけでもない。亜美は肯いた。
「気を付けてね」
 なるちゃんもそう言ってくれた。

「まだ、亜美ちゃんとちびうさに、連絡が取れないの?」
 さすがに、うさぎも心配になってきた。レイとみちるも、敵に操られたのである。ふたりの身に何もないとは、考えられない。
「通信機は使えないの?」
 美奈子が訊いた。うさぎと守護神の四人の女の子は、それぞれ腕時計型の通信機を持っている。緊急のときなどは、それで連絡を取り合っている。
「呼び出してはいるんだけど、亜美には繋がらないんだ。ちびうさは、持ってないしね」
 アルテミスは答えた。
 その後を、ダイアナが続けた。
「衛様も、宇奈月さんを助けたあと、連絡が取れなくなっています」
「連絡ができない事情が、あるのかもしれないわよ」
 レイが言う。
「そうね。普通の人が一緒にいるのでは、連絡ができないかもしれないわ」
 みちるも同意を示す。そういう可能性は、もちろんある。
 そんなとき、上から元基が降りてきた。
「せつなちゃん」
 元基はせつなを呼ぶ。
 せつなは、パソコンのディスプレイの前のシートに腰を降ろしていた。自分の名を呼ばれたせつなは、呼んだ本人の方に顔を向けた。
 元基が入り口に立って、こちらを見ている。
「今、レイカさんから電話があったんだ。大学のパソコンに、変なメッセージが入っているらしい。せつなちゃんに来てくれって言ってる」
「メッセージが?」
 せつなは少し驚いた。前回のメッセージは、自分にしか分からないものであった。しかし、今の話からすると、今回のメッセージはレイカにもはっきりとメッセージだと分かるものらしい。
「調べてみる必要はあるわね」
 はるかは、ちらりとせつなを見る。せつなは頷く。
「分かりました元基さん。レイカさんには、すぐに行きますと伝えてください」
 せつなは長い髪を掻き上げると、シートから立ち上がった。
「分かった。伝えておくよ」
 元基は上へ戻っていった。
「罠ってことも考えられるよ」
 元基が立ち去ってすぐに、まことは言う。もちろん、その可能性の方が高い。敵は、こちらの能力を知っている可能性があるのだ。知った上で、罠を張っていることだってありうるのだ。用心するに、こしたことはない。
 はるかとみちるが、せつなに付いていくようだ。既に、上に上がろうとしている。
「せつな、充分注意して行ってね。レイカさんが、操られている可能性もあることを忘れないで………」
「大丈夫よ、ルナ」
 せつなは微笑んでみせた。

 気を失ったひとみを、保険室まで運ぶ必要があったので、亜美たちはすぐには十番中学を離れなかった。
 海野となるちゃんのふたりに、任せてもよかったのだが、気絶した人間というものは、実際の体重より重く感じるものである。
 海野はスポーツマンではく、勤勉少年であった。したがって、同年代の男子の平均より、体力は劣るほうだった。なるちゃんは女の子である。海野ほどの力もない。
 タキシード仮面が、運び役を買って出た。この場合は、仕方がなかった。
 両腕で、抱き抱えて運んだ。かなり重く感じたが、口には出さなかった。
 ちびムーンが手伝おうとしたが、かえって邪魔になりそうな気がしたので、彼女の機嫌を損ねないように気を使いながら、丁重に断った。亜美が上手く取りなしてくれたことも幸いして、ちびムーンは以外にあっさりと納得してくれた。
 校庭のほぼ中央にいたせいもあって、保険室まではかなりの距離があった。
 さすがのタキシード仮面も、その距離を抱いたままで運ぶには無理があった。足もとに、多くの生徒たちが倒れていたことも、運ぶことが困難になる要因のひとつだった。
 保険室は、校庭側から行ったほうが近かったが、なるちゃんの提案で、校舎の中を通ることになった。校舎の中の方が、まだ倒れている生徒の数が少ないという理由からだった。
 下駄箱に到着した時点で、タキシード仮面は、抱いていたひとみを、背中でおぶさる方法に変更した。なんで始めから、背中に乗せなかったのだろうかと、少しばかり後悔したが、やはり口には出さなかった。
 亜美だけがそのことに気付き、クスッと笑いながら、
「衛さんにしては、珍しいミスですね」
 と、小声で言った。
 いつも、完璧なまでの行動をとっていた衛を見てきたから、そのちょっとしたミスが、亜美にとって衛が、より近い存在に感じられたのだろう。衛には、あまり見せたことのない笑顔だった。
 普段の亜美は衛に対しては、どこかうさぎに遠慮して話している節があった。衛もそのことに気付いてはいたが、それが亜美という女の子なのだろうと納得していた。だから、今、自分に対して屈託のない笑顔を見せた亜美に対し、衛は今まで以上に親近感を覚えた。亜美は衛の心の中で、「うさぎの仲間」という存在から、初めて「衛自身の仲間」という存在へ昇格した。
 保険室までは、それから五分もかかってしまった。
 保険室にはだれもいなかった。職員室にでも行っていたのだろうか。保険の先生の姿も見えない。
 ふたつあるベットのうちの片方にひとみを寝かせ、タキシード仮面は一息付いた。
「ご苦労さまでした」
 亜美が小声で、労をねぎらってくれた。そういった心づかいは、嬉しいものである。
 タキシード仮面は、白い歯を見せた。
 窓の外を見た。何の変化もない。
 何の変化もないことが、かえってタキシード仮面の心を不安にさせた。頭の中で、警報が鳴った。
 プルートは、十分後にシールドを解くと言っていた。だが既に、プルートと別れてから、三十分以上経っている。なのに、シールドは張られたままだ。シールドを解けない、何らかの事態が起こったと考えられる。
 プルートの身に何か起こったのだとすれば、それはそれでいて、必然的にシールドは解けてしまう。シールドが張られたままだということは、彼女は無事なはずなのだが、シールドが解けない状態にいると考えられた。自分たちの知らないところで、何らかの変化が起きたと考えるのが正しい。
 タキシード仮面の気の乱れを、亜美も敏感に感じ取っていた。
 周囲の雰囲気が一変した。
 何か、異常が発生している。だが、何だか分からない。
 この何とも言い表せぬ不快感に、海野もなるちゃんも気付いた。
 ちびムーンも何かを感じて、身を強張らせた。
 肌が泡立ち、全身の毛が逆立った。
「気を付けろ! 何かくる!!」
 タキシード仮面は振り返って、一同に注意を促す。
 だが、振り返ったタキシード仮面は、目を大きく見開いたまま、凝固してしまった。
 金縛りにあったように、一瞬身動きができなくなるほど、我を忘れた。
 天井から伸びてきた巨大な黒い手が、今まさにひとみを掴もうとしている。
 いや、正確には天井ではない。天井があるとおぼしき場所には、黒く大きな穴が、ぽっかりと開いている。
 その穴から、巨大な手が伸びているのだ。
「別次元から、襲ってきたの………?」
 亜美も両手で口もとを覆った。
 海野となるちゃんは、保険室の壁際まで後退している。ふたりとも、明らかに脅えた表情をしている。
「くっ!」
 タキシード仮面はひとみを守ろうと、ベッドの上に立った。そのタキシード仮面を、巨大な手が、まるで虫でも払うかのように、いとも簡単に払いのけた。
「ぐっ!」
 ガードしたつもりだったが、そのあまりにもの強大な力に、タキシード仮面は払い飛ばされていた。
 校舎側のガラス窓を突き破り、そのまま校庭の中央部まで飛ばされてしまった。
「タキシード仮面!!」
 ちびムーンが、飛ばされたタキシード仮面を追って、破れたガラス窓から外に出た。
 タキシード仮面は、起き上がってこれない。
 ベッドに寝かされていたひとみを、巨大な黒い手が、鷲掴みにした。
 亜美には、変身している余裕がなかった。
 黒い手は、ひとみを鷲掴みにしたまま、天井の穴から異空間に戻ろうとする。
 亜美は咄嗟に、ひとみの両足を抱えるようにして、通常空間に引き戻そうとした。力一杯引き戻そうとしたが、もともと非力の亜美である、力の差は歴然としていた。
 タキシード仮面が、ちびムーンとともに戻ってきた時には既に、巨大な黒い手は、かき消すようになくなっていた。天井の穴も消えている。
 恐怖に震えている、海野となるちゃんがいた。ひとみと亜美の姿が見えない。
「亜美ちゃんは………?」
 ちびムーンは、誰に問うともなしに訊いていた。答えてくれる者はいない。
 ふたりは連れ去られてしまったのだ。あの巨大な黒い手に………。
「くそっ!」
 タキシード仮面は保険室の壁を、拳で叩いて、自分の不甲斐なさに怒りを露にした。自分が付いていながら、まんまと敵にふたりを拉致されてしまった。
 壁に叩き付けられた拳から、赤い血が滲んだ。
 悔しさに、身が震えた。
 ちびムーンは、こういうときはどういう風に慰めればいいのかと、悩んでいた。亜美がいれば、いつものように亜美に教えてもらうのだが、今、その亜美が敵にさらわれてしまった。
 小鳥の囀りが、耳を打った。
 西の空が、黄昏に煙っている。
 いつも間にか、通常空間に戻っていたのだ。