罠
通常空間に戻った十番街は、何事もなかったかのように、その普段の機能を取り戻していた。
街ゆく人々も、まるで、自分たちが気を失っていた事実などなかったかのように、何食わぬ顔で往来している。
「あたしたちの苦労なんて、知らないのよね………」
みちるは、ぽつりと言った。
「どうしたのよ、みちる………。らしくないよ」
そんなみちるの呟きを聞いていたはるかが、微笑みながら答えた。
「………ちょっとね………」
みちるは曖昧に答えただけだったが、はるかにもせつなにも、彼女の言いたいことは分かっていた。ただ、ふたりとも、口には出さなかっただけである。
ふたりが軽く微笑んでくれたので、みちるはそれ以上は何も言わなかった。
程なく、三人は目指すKO大学に到着した。
「………!」
キャンバスに立ち入った途端、三人は、妙な違和感を身体全体で感じていた。
「嫌な感じね………」
はるかは言いながら、瞳は油断なく辺りを見回している。
せつなもみちるも、同様に辺りの気を探っている。
まわりは何の変化もない。
キャンバスを歩く学生も、普段と何ら変わりはないようだった。
「気のせいだったのかしら………」
はるかは、ふたりを見る。だが、三人が三人とも違和感を感じたということは、やはり普通ではない。大学内に、何か異変があったのに違いない。
「とにかく、レイカさんのところへ行きましょう。今となっては、それ自体が罠かも知れないけど、行かなくては何の解決にもならないわ」
「そうね。虎穴に入らずんば虎児を得ずね」
せつなが言うと、みちるは頷いてみせた。
三人は、大学内に足を踏み入れる。
「!!」
突然、身体が浮いた。
いや、落下したのだ。
足もとを見ると、床がなかった。
闇の中を、三人は真さかさまに転落する。
「くっ! やはり、罠だったのね!」
はるかは、舌打ちする。
落下が止まらない。下が見えない。
堕ちてゆくという感覚は、あまり気持ちのいいものではない。ましてや終わりが見えないのである。このまま、地獄まで堕ちていくのではないかと錯覚するほど、そのホールは不気味だった。
「ウラヌス………!」
「待って!!」
変身しようとするプルートを、せつなは止めた。
自分を止めたからには、せつなには何か考えがあるはずだと、はるかはせつなの方に目を向けた。
先ほどまで、バランスを崩して落下していたせつなだったが、今は上と思われる方向に、彼女の頭が見えた。せつなの長い髪が、上に向かって伸びているように思えた。
落下している中、せつなは両目を閉じて、精神を集中させていた。
おぼろげに、異常な気配が感じ取れた。
「そこっ!」
せつなは自分のバッグから、コンパクトを取り出して投げた。
ガツン!
コンパクトは、闇の中で鈍い音を立てた。
だしぬけに、光が戻ってきた。
急に、身体が重くなったような気がした。
落下していると思われた身体に、普段の地上にいる感覚が戻ってきたからだ。
両足が、地面を感じている。
「幻覚………?」
みちるは今、自分たちが味わっていた感覚を、そう解釈していた。
せつなは幻覚が消えた後、自分が投げたコンパクトの方向に歩いていく。
みちるは、そのせつなを目で追った。
せつなの歩いていった先には、一台のパソコンがあった。
「パソコンで、幻覚を作ったの………?」
そんなことができるはずはないと、みちるは思った。だが、今度の敵は、そんな不可能を可能にしている相手なのだ。自分たちの常識では考えられないことを、いとも簡単にやってのけてしまうような相手なのだ。
パソコンのディスプレイは、破壊されていた。せつなが、コンパクトを投げつけた結果だった。
キャンバスに入ったときの違和感は、もうなくなっていた。
「研究室に行ってみるわ。もしかしたら、本当にレイカさんがいるかもしれないし………」
「そうね。このまま帰るってわけにも、いかないものね」
せつなが言うと、はるかは少し肩をすぼめて見せながら、同意を示した。
研究室に、レイカはいた。
せつなが来るのを、首を長くして待っていたようだった。
「もう………! せつなってば遅いじゃない!」
レイカがせつなの姿を認めたときの、第一声だった。
研究室には、せつなだけが入っていった。はるかとみちるは、廊下で待つことにした。
レイカがふたりに対し、面識がなかったからである。気を使って、話しづらくならないようにという、ふたりの心づかいだった。
「せつなが来るのが遅いから、メッセージが消えちゃったじゃない」
レイカは不満げに言った。
やはり、そうか。せつなは思った。メッセージそのものが、彼女たちをおびき寄せるための罠だったのだ。せつながパソコンを壊したことによって、作戦が失敗したと判断した敵が、今度はメッセージの逆探知を恐れて、通信を切ったのである。
「侮れないわね………」
廊下で、せつなとレイカの話を聞いていたみちるは、そう言ってはるかを見た。
はるかは軽く頷いてから、
「大したやつね」
と、答えた。
「敵は既に、あたしたちの正体を知っている。知っているからこそ、さっきのような罠を張ったんだ」
「でも、はるか。それにしては、子供だましの罠よ。あたしたちの命まで奪おうという、そういう罠ではなかったわ」
「悪戯か………」
「え!?」
「子供の悪戯を見ているような気がしてきたわ………」
はるかは、考え事をするような仕種をしてみせた。無言のまま、腕組みをした。
「確かにそうね………」
みちるも同感だった。上目遣いにはるかの表情を見たあと、研究室の方に視線を移した。
不意に、通信機のコール音が鳴った。連絡用にと、出かける前に美奈子の物を借りたのだ。
「メッセージはどうだった?」
ルナの声が訊いてきた。
「罠だったわ」
答えるのは、はるかだ。
「罠!?」
「そう驚かなくてもいいわよ。もう、カタはついたわ」
「そう、ならいいんだけど………」
ルナは少し言葉を切ってから、
「それより大変なのよ」
そう言った。
「大変って?」
みちるが聞き返した。
「亜美ちゃんが、敵にさらわれちゃったのよ」
「亜美が!?」
「ええ。詳しいことは後で話すわ。三人とも、司令室に帰ってきて」
「分かったわ」
通信を切った。
ほんの少しだけ開かれた扉の隙間から、はるかはせつなに合図を送った。
せつなは頷くと、先に戻っててくれというような目配せをした。せつなには、レイカのご機嫌を取るという、難問がまだ残っていたのだ。
「すまない。俺が付いていながら………」
司令室の空気は重かった。衛に責任があるわけではなかった。だが、衛自身がひどく責任を感じてしまっている。だれも、慰めの言葉をかけられなかった。かけられる状態ではなかった。
「相手の出方を待つしかないわね………」
はるかとみちるより、十五分程遅れて戻ってきたせつなが、ぽつりと言った。
この状況では、彼女たちには何もできない。相手が動いてくれるのを、待つしかないのである。それは、とても辛いことだった。助けにいきたくても、捕らわれている場所が分からないのである。動きようがない。
「衛さんの話だと、敵は異空間を操る能力もあるようだけど………」
みちるは、ちらりと衛の方を見てから言った。
ちびうさが、それは本当のことだと口を挟む。
みちるは別に、衛のが嘘を言っているとは思っていなかったが、それでもちびうさは、衛を必死に弁護した。
亜美とひとみがさらわれた責任なら、自分にもあると思っているからだ。
みちるはそんなちびうさを見て、安心しなさいというふうに、優しく微笑んだ。
司令室の入口の扉が開き、うさぎとまことが入ってきた。
「海野氏となるちゃんの様子はどう?」
入ってきたふたりに、美奈子が声をかけた。
亜美とひとみがさらわれたことを、司令室で聞いたセーラー戦士たちは、アルテミスの指示で、うさぎとまことが十番中学にいくことになった。中学で事情を聞いたふたりは、タキシード仮面とちびムーンには司令室に行くように伝えたあと、海野となるちゃんを家まで送ってきたのだ。
「海野は大丈夫なんだけど、なるちゃんが随分興奮してた………」
「でも、なんとか今は落ち着いたよ」
うさぎに続けて、まことが皆に報告した。
「目の前で友達がさらわれたんだから、仕方ないわよね」
レイは、なるちゃんに同情しているようだった。そう言ってから、無神経なことをいってしまったような気がして、軽く口を押さえるような仕草をした。衛に対して嫌みを言ったつもりはなかったのだが、そうとも取れる言い方をしてしまったことに、心の中で反省をした。
衛は何も言わなかったが、神経が過敏になっているので、気分を害してしまったかもしれなかった。
「これ以上、うだうだ考えていても、埒があかないわ」
しばしの沈黙ののち、はるかが口を開く。
「明日は、敵が指定した三日間の最後の一日だ。敵も必ず動く。そのときに、一気にケリをつけるしかないと思う………」
「全人類を粛正するだなんて………。いったい、どういうつもりかしらね………」
美奈子は、口もとに軽く拳を当てて言ってみたが、答えてくれる者はいなかった。美奈子の疑問は、全員の疑問でもあるのだ。
「今日はもう遅いわ。うさぎちゃんたちは、帰ったほうがいいわね」
ルナが言った。横でアルテミスも頷く。ダイアナが、お気に入りのちびうさの頭の上に乗った。ルナから、ちびうさと一緒に戻るように言われているのだ。
「ルナはどうするの?」
うさぎは訊いた。衛のことが気になるのか、ちらりと彼の方を見た。
衛はパソコンの前で、何か考え事をしているようだった。
ルナも衛の方に、一瞬目を向けてから、答えた。
「あたしはアルと、もう少し今日のことを調べてみるわ。何か分かるかもしれないし………」
「だったら、あたしも手伝うわよ」
うさぎは衛の方をちらちらと見る。口にこそ出さないが、相当気になっているようである。
「………いや、せつなも手伝ってくれると言っている。君たちは戻って、明日に備えてくれ」
アルテミスがうさぎを見、更に一同を見渡しながら言う。その視線が、衛のもとで止まった。
衛の目は、自分も残ると意思表示している。
アルテミスは、ゆっくりと頷いてやった。
「じゃあ、今日は解散しよう」
アルテミスは、解散を宣言した。