病室の影
その日は結局、買い物は早めに切り上げ、一同は家路についた。
気を失っていた人々は、セーラームーンの「ヒーリング・エスカレーション」によって、すぐに意識を取り戻した。そして、何事もなかったかのように、自分たちの本来の目的のために、その行動を再開させた。
うさぎたちは、その人々の変わり身の早さに半ば呆れたが、先の事件があまりにも現実離れをしすぎていたために、無理もないような気がした。いつもながら、一般の人々は、殆ど危機感を感じていない。なるようにしかならないという、現実に冷めた人々があまりにも多いのが、今のご時世だった。
十番商店街まで戻ってきたところで、うさぎたちは一端解散した。
精神的にかなり参っていたことのは、レイが送っていった。足下がおぼつかないことのは、レイに支えられるようにして、それでも自分の足でしっかりと歩いていった。
ちびうさも、ももちゃんを送っていくために、皆と別れた。ももちゃんは恐がってはいたものの、ことのほどショックを受けている様子はなかった。にこやかに雑談しながら、ふたりの小さな背中は、人波に紛れていく。
なるちゃんと海野も家に帰り、浅沼も同じく帰宅していった。
うさぎたちは家には戻らず、パーラー“クラウン”で時間を潰すことにした。夕方、今日の事件のことで、司令室でミーティングを行うことになっていたからだった。
「じゃあ、またあとでね………」
解散するとき、うさぎは小声で仲間たちに囁いた。
夕方、ゲームセンター”クラウン”の地下司令室に、セーラー戦士たちが集合した。
はるかたちにも連絡をしておいたので、全てののセーラー戦士が、司令室に集まっていた。
はるかに聞いて分かったことだったが、この十番街でも秋葉原と同時刻に、あのグロテスクな顔の一群が出現したらしかった。
更に後から来たルナたちの話によると、あの顔は、全世界的レベルで出現していたことが分かった。
「敵の真意が掴めないわね………」
はるかは言った。
「大した攻撃をしてくるわけでもない………。あの勘にさわるヘンな声だけだ」
まことがはるかに続いて言う。
今までとは違ったタイプの敵に、だれもがとまどいの色を示していた。
「せつなの言っていたS.O.S.と、何か関係があるかもしれないわね………」
言いながら、はるかはせつなに目をやっる。
それを受けるようにして、せつなは頷いてみせた。
「S.O.S.って?」
うさぎがせつなに訊いた。
全員の視線が、せつなに集まった。
「ええ、きのうのことなんだけど………」
せつなはきのう、大学の研究室で起こった怪事件のことを、皆に話した。
「場合が場合だけに、全く関係がないとは言い切れないな………」
衛が独り言のように呟いた。
せつなもはるかも、その意見に賛成するかのように頷く。
「問題は、この次にあの現象が起きたとき、どう対処するかだ」
アルテミスが言う。続けて彼は、
「これを見てくれ」
と、言って、月のホストコンピュータと連結している、自分のコンピュータのディスプレイを示した。
アルテミスが目で合図を送り、ダイアナにデータを呼び出させる。
音波の解析図のようだったが、うさぎや美奈子やまこと、もちろんちびうさにも何のデータなのか分からない。
「なぁに? これ………」
ちびうさが衛を見た。
何かにつけ、すぐに衛に助けを求めてしまう、ちびうさの癖だったが、今はそれほど違和感はなかった。うさぎに尋ねなかっただけ、ちびうさは利口だった。
「あの顔が出す音波か? アルテミス………」
衛がアルテミスに訊いた。
アルテミスは頷く。
「これはそれほど特殊な音波じゃない。確かに人によっては、ひどく神経にさわる音波ではあるようだけど………」
アルテミスは意を次いだ。
「この音波に、俺たちが合成した別の波長の音波をぶつける………」
アルテミスの説明にそって、ダイアナがシュミレーションの映像を一同に見せる。
「消えちゃったよ」
シュミレーションの映像で怪音波が消えると、ちびうさが驚いたように言った。
うさぎも感心したように、画面を見ている。
「つまり、こちらからこの音波を出して、怪音波を相殺するということね」
亜美は確かめるように目で、アルテミスを見た。
さすがはセーラー戦士たちの作戦参謀。やるべきことは、きちんとやっているようだった。
「さすがはアルテミス! やっぱりただのネコじゃないわ!!」
美奈子に褒められて、自慢するかと思われたアルテミスだったが、逆に神妙な顔つきになった。
「………だが、これだけじゃだめなんだ………」
「一時凌ぎですものね」
アルテミスのつぶやきを肯定するように、みちるが言った。
へ? という顔つきで、美奈子はみちるを見る。
「次の攻撃のでは僕が合成した音波が役に立つかもしれないが、敵も馬鹿じゃない。その次には波長を変えてくるだろう」
「いたちごっこになるわけか………」
アルテミスの言葉を受けて、まことが納得したように言った。
「もとを断たなければダメってことね」
レイは言う。
それを受けるように、美奈子はなるほどと頷いた。
ディスプレイの陰にいたルナが、一同の前に、ぴょんと飛び出してきた。
「映像を操作している者がいるはずよ。それを調査して、もとを叩かないと、何の解決にもならないわね」
ルナが、一同を見回しながら言った。
「それを探すのが大変だな」
ぽつりとはるかが言う。
「当てはあるわよ」
ルナは答えた。
そのルナの指示で、ダイアナは別の映像をディスプレイに映し出した。
「映像は、ネットワークを通じて送られていると思われます。こちらから、それを逆探知します」
ダイアナが説明する。
「そうすると、逆探知はあたしの仕事ね」
亜美が言う。
知識のある者が行えば、それだけ早く探査できる。
「役割分担を決めよう」
衛が事をまとめた。
探査役は衛を含め、亜美、みちる、せつな、レイの五人。残りの者たちは、アルテミスの合成した音波で、グロテスクな顔が放つ怪音波を、相殺する役にまわった。アルテミスたちは音波組の補佐を兼ねて、司令室で緊急時に備えることとなった。
「いったい、何の目的でこんなことをするのかしらね………。まるで、子供の悪戯みたいじゃない………」
美奈子がぼそりと言った。
口にこそ出さなかったが、それは全員、同じ意見だった。
亜美は仲間たちと別れてから、自分の母親のいる病院へと向かっていた。
母に伝えなければならない用事を、思い出したからだった。
母は今日は、宿直のはずだった。
方向的に同じであったため、まことも付いてきた。せつなも同方向に用事があると言って、一緒に向かうこととなった。
八時を過ぎていたために、辺りはすっかり暗くなっていた。
病院の前に差しかかったとき、三人は夜の闇の中、病棟の壁際に、何か人のようなものが見えたような気がして、立ち止まった。
目の錯覚ではなかった。三人が三人とも、同じものを見ていた。
一瞬見えた人影のようなものは、スウッと窓を素通りして、病室の中へと入っていった。
薄暗いので判然としないが、病室の窓は閉じられているようだった。その窓の内側に吸い込まれるようにして、それは消えた。
まことが生唾を飲み込んだ。
「ゆ、幽霊ってことはないよね」
まことは亜美とせつなを、代わる代わる見た。
せつなは頬を少し強張らせて、首を勢いよく左右に振った。意外にも彼女は、その手のものは苦手だった。
亜美は窓を見上げた。こういう場合の亜美は、常に冷静だった。常に冷静に、物事を把握しようとする。それは例え相手が幽霊であっても、例外ではなかった。
せつなも亜美以上に冷静な女性ではあったが、ただひとつ、幽霊だけは苦手であった。時空の扉の番人であった頃は、そんなものは怖がりはしなかったのだが、冥王せつなとして転生してからは、せつなとしての部分が、彼女の判断を鈍らせることもあった。
影は下から数えて五つ目の窓に、吸い込まれていった。
「あの病室は………!?」
叫ぶと突然、亜美は走り出した。
見覚えがあった。
影が吸い込まれていった病室────記憶が正しければ、あの病室は、ひとみの父
親の病室のはずだった。
亜美の様子に、ただごとではないと感じたまこととせつなのふたりも、亜美の後を追って走り出した。
タイミングよく到着したエレベーターに乗って、三人は上へと上がる。
「どうしたの? 亜美………」
エレベーターの中に入るとすぐに、せつなが訊いてきた。
「あの病室に、あたしの知っている人がいるんです」
詳しく話す間もなく、エレベーターは目指す階に到着した。
三人は急ぎ足で、有坂氏の病室へと向かう。
面会時間を少しばかり過ぎていたが、すれ違う看護婦も、特に三人を気にしている様子はなかった。
夜食の食器を片している看護婦が、知っている看護婦だったので、亜美は軽く会釈をして通りすぎた。
その看護婦はにっこりと笑って、亜美に答えた。
一言二言、挨拶程度の会話をすると、看護婦と別れた。
有坂氏の病室に着いた。
ドアをノックして、病室へ入る。
もしこの場にレイがいたなら、今回の事件は、この場ですぐに解決していたかもしれない。だが、レイはここにいない。レイほどの霊感を持つ者も、この場にはいなかった。それが結果的に、この事件の解決を遅らせることとなった。
病室へ足を踏み入れたとき、三人は何かが、スウッと有坂氏の体から離れたような感じがした。だが、三人にはそれがなんであるか分からない。気が付いたときには、もうその感じはしなくなっていた。
三人はお互い、顔を見合わせた。
今のがなんであったのか、答えを出す者はいなかった。
有坂氏の目が、ゆっくりと開いた。
有坂氏は深く息をつきながら、上体を起こした。
ひどく疲れているようだった。
「すみません、起こしてしまって………」
亜美は頭を下げて、まず詫びをいれた。
有坂氏は三人の姿を見ると、少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しく微笑んでくれた。
「夢を見ていたんだ………」
有坂氏は言った。
「不思議な夢だったな………」
遠くを見るような目だった。
亜美たち三人は、何も言えず立ちつくしていた。どう、答えたらいいのか、分からなかったのだ。分からないまま、黙って有坂氏の次の言葉を待った。
「息子が助けを求めていた。不思議な世界だった………。君たちが戦っていた。不思議な怪物と………」
「わたしたちが、戦っていた?」
亜美は思わず、訊き返していた。戦っていたというのは尋常ではない。
「君たちは何故、ここに来たんだ?」
反対に、有坂氏が質問してきた。突然の訪問に、気分を害しているという感じではなかった。口調はあくまでも優しかった。
亜美は、本当の理由を言おうかどうか、迷っていた。
だが、亜美の後ろにいたせつなが、
「おかしな光を見たもので………」
と、隠すことなく説明した。
亜美が、いいのかと、目で合図を送ったところ、せつなは微笑みで答えた。有坂氏には、隠す必要はないと、せつなが判断したのだ。
有坂氏は、三人を頼もしそうに見た。その眼差しの奥は、何か別のものを見ているようでもあった。
「わたしの見た夢も不思議だったが、君たちはそれ以上に不思議な人たちだな………。君たちに頼めば、なにもかも、全て上手くいくような気がしてくるよ………」
ゆっくりとした口調で、有坂氏は言った。
三人の女の子たちは、お互いに顔を見合わせた。
「どういうことでしょうか?」
代表して、亜美が尋ねる。
「わたしの見た夢が、どういった種類の物なのかは、わたしには分からない。だが、夢の中で、息子は救いを求めていた。このままでは、世界が滅びる危険があると言っていた」
有坂氏は、亜美の質問とは別のことを語った。
「世界が滅びる?」
聞き返したのは、まことだった。
有坂氏はまことを見ると、頷いてみせた。
「今、何かが起ころうとしているのは事実なようだ。君たちも知っているだろう、昼間のことは………? もっとも、わたしはただ、夢を見ただけだから、偉そうなことは言えないがね」
有坂氏は言葉を切って、フッと小さく笑った。
三人の女の子たちは、反応に困っていた。互いに顔を見合わせるだけである。有坂氏にかける、言葉が見つからない。
「すまない。なんでこんな話をしたのかな………。忘れてくれたまえ。わたしは、どうかしていたようだ………」
そう言って、有坂氏は照れ臭そうに笑った。
亜美たちは、これ以上何も訊けなくなってしまった。有坂氏の今の言葉は、暗にもうこの話題はやめにしようと言っているものだったからだ。
彼女たちはここで、大きなミスを犯していた。もしここで有坂氏に、もっと詳しく話を聞いていたら、もう少し早く、事件が解決していたに違いない。
だがこのとき、有坂氏の見た夢にどんな理由があったのか、このときの彼女たちに、分かるはずもなかった。