笑顔
透き通るような青空だった。見渡すかぎり、青空が広がっている。
空をこんなにも美しいと感じたのは、何年ぶりだろうかと思う。
心地よい爽やかな風が、木々の葉を揺らしている。
陽射しは強かったが、湿気が少ないために、じめじめとした蒸し暑さはなかった。
気分は爽快だった。
有坂氏は午後の陽射しを身体一杯に浴びて、大きく背伸びをした。準備運動程度に軽く身体を動かしたついでに、背後にちらりと視線を投げた。
病院があった。自分が入院していた病院だった。
改めて、有坂氏は病院を振り返った。自分が寝ていた病室を見上げることができた。
思い返してみると、感慨深いものがあった。
「あら………。まだ、いらしたんですか?」
ふいに、道路側から声をかけられた。首を巡らせ、視線を向けてみる。若い娘だ。しかし、記憶にない。
「お荷物は、どうされたんですか?」
若い娘は、不思議そうな目をして、自分の方を見ている。
(ああ………!)
くりくりとした、若い娘の大きな瞳を見たとき、有坂氏はようやく、自分の目の前の女性がだれなのかを思い出した。
(………病院の看護婦だ)
すぐに気が付かなかったのは、彼女が自分の知っている看護婦のユニフォームを身に着けていなかったためだ。私服だと、こんなにも印象が違うものかと、有坂氏は思った。
「ああ、荷物は午前中に妻が持って帰ってくれたんですよ」
有坂氏はにこやかに答える。
「外は久しぶりなんでね………。散歩をしていたんです」
「今日は陽射しが強いですから、あまり無理をされると、また病院に戻らなくてはいけなくなりますよ」
看護婦は笑顔で、有坂氏を脅してくる。
「ははは………。そうだな、せっかく退院したのにすぐにとんぼ返りでは、水野先生に怒られてしまうな」
有坂氏は笑う。
看護婦の彼女も、それに答えるかのように微笑み、「では、お大事に」と言って、病院に向かって歩いていく。
(今日は遅出なのか………)
有坂氏は、看護婦のひらひらとしたミニスカートが、悪戯好きの風によってめくられることを僅かに期待しながら、彼女の名前が野々村弥生だったということを、ようやく思い出していた。
「お父さん。今、あのお姉さんのお尻を見てたでしょ」
図星を射され、ドキリとして振り返る。学校帰りの自分の娘が、頬を膨らませて立っていた。
娘の横にいるショートカットの女の子が、軽く会釈をする。
「お父さんたら、エッチなんだから………」
娘は言いながら、父親の左腕に、するりと潜り込んだ。
「よく、ここにいることが分かったな」
有坂氏は照れ隠しに、大袈裟に驚いてみせた。
「家に電話してお母さんに訊いたら、まだ帰ってきてないって言うから………。そしたら、亜美ちゃんが、もしかしたらまだ病院の近くにいるんじゃないかって言うから来てみたんだけど………。大正解だったわね」
ひとみは探偵顔負けの推理をしてみせてくれた友人を、頼もしげに見て、弾むような口調で父親に説明する。
亜美は照れ臭そうに微笑みながら、僅かに肩を竦めるような仕草をした。
ひとみは生き生きとしていた。父親の退院が、よほど嬉しいのだろう。翳りは微塵も感じられない。
彼女の異次元での記憶は、ルナとアルテミスによって、完全に消されていた。異次元での出来事は、ひとみにとってはあってはいけないことだと、判断したためである。あんな悲劇を、わざわざ記憶として残しておく必要はない。そう、考えてのことだった。
ひとみの記憶は、十番中学校で気を失ってから、同じ場所で亜美に起こされるまで、完全に消去されていた。記憶を封印したのではなく、一連の出来事そのものを、ひとみの記憶から抹消したのである。結果的にではあるが、亜美がセーラーマーキュリーであることも、ひとみの記憶には当然残っていない。
異次元の都市を無事脱出した彼女たちは、次に別の次元に隔離されていた、七年前に行方不明になっていた有坂氏の同僚たちを救出した。
救出してからが大変だった。同僚たち全員と、彼に関わる人物の全ての記憶を操作しなければならなかったからだ。七年前に起こった爆発事故そのものを、関係者全員の記憶から削除しなければならなかったのだ。そうしなければ、救出した彼らが社会復帰ができないし、彼らだけが助かって、なぜ、有坂氏の息子のたけるだけが行方不明になったままなのか、理由付けができない。たける少年は、あの日、交通事故で亡くなったという記憶に全てすり替えられていた。
だが、ただひとりだけ、操作できない人物がいた。
有坂氏である。
有坂氏は、異次元のセーラー戦士たちを捜すために、かなり無理をした。病床の身であったがために、体力的に限界にきていた。彼女たちが通常空間に戻ってきたきたときには、疲労のために憔悴しきっていたのだ。
記憶を操作するという作業はには、その本人の体力もそうとう量必要とする。憔悴していた有坂氏の記憶を操作することは、とてもできる状態ではなかった。
この大仕事をやって、一番バテたのが、ルナとアルテミスのふたりである。何しろ、地球全体をシールドしていた直後に、この作業を速やかに行わなければならなかったのである。関係者全員の記憶の操作を終わった頃には、放心状態になっていた。
更にそのあと、エナジーを奪われた人々の体力を回復させるため、セーラームーンが地球全域にヒーリング・エスカレーションを行った。タキシード仮面とちびムーンも協力してのだが、やはりとんでもなくハードな作業となった。
「もう、二度とごめんだわ………」
栄養ドリンクをしこたま飲んだあと、セーラームーンはげっそりとして言った。
「お父さん、もう家に帰ろうよ。お母さんも心配してるよ」
ひとみは父親の顔を見上げた。
「そうだな………」
有坂氏は頷くと、次に亜美の方へと視線を泳がせた。
どこか遠慮がちに、父娘の会話を聞いていた亜美は、「では、母に用事がありますので」と、やはり遠慮がちに言った。
亜美は会釈をすると、病院に向かって歩き出す。
「亜美さん」
有坂氏は呼び止めた。
亜美は歩みを止め、ひらりと身体ごと振り向いてくれた。
有坂氏は、熱い視線を亜美に向けていた。
「………ありがとう」
ゆっくりとした口調で言った。
ひとみは少し、不思議そうな顔をした。父親が、自分の友人に対して言った、「ありがとう」の意味がよく分からなかった。
有坂氏は、不思議そうな顔をしている娘に、軽く微笑んだ。ひとみも父親に微笑みを返し、亜美に対して「ありがとう」と礼を言った。
ひとみは父親が、入院中に何かと世話になった亜美に対して、感謝の意を示したのだと理解した。もちろん、有坂氏の「ありがとう」には、別の意味合いも含まれていたのだが、亜美はそんな父娘に対して、僅かに微笑んでみせた。
「亜美さん、今度家へ遊びに来てください。勇敢な、あなたのお友達もご一緒に………」
有坂氏は笑顔で言う。
亜美は少し驚いたような表情をしてみせたが、すぐに笑顔で頷いた。
「はい。ぜひ、そうさせていただきます」
亜美のその笑顔は、有坂氏の知っている凛々しい戦士としての顔ではなく、可憐な十五歳の可愛らしい笑顔だった。