事件の始まり


 五時を知らせる鐘が、静まり返った教室に響いた。
 パソコンを操作していた亜美は、顔を上げて、彼女の左横の窓から、外に目を移した。
 西の空が橙色に染まっている。
 そういえば、昼間より、少し涼しくなったような気がする。
 今年の夏は、猛暑だった。
 おかげで夏休みの間は、仲間たちと海やプールへ行く機会が、去年より多かった。
 それが直接な理由ではなかったが、夏休み前に計画していたことの半分も、勉強ができなかった。
 来年は受験である。
 亜美は迷っていた。医大の附属高校を受けるか、仲間たちと同じ、普通科の十番高校を受けるかに、である。
 彼女の現在の成績なら、医大の付属高校にも充分入れるのだが、それよりも仲間たちと別れてしまうということのほうが、亜美を迷わせていた。
 自分の夢を追いかけることよりも、仲間のほうを大事にしてしまうのが、亜美という女の子だった。
 亜美はうさぎたちと出会う前は、無口な女の子だった。
 学校の休み時間も、ひとり、教室で参考書を読んでいる時間が多かった。クラスメートと雑談をすることは、殆どなかった。
 だからというわけでないが、クラスメートからは、忌み嫌われていた。理由は他にあった。彼女が常に、学年でトップクラスの成績を残していたからである。
 世間は彼女を、天才少女と呼んだ。世間がそう騒げば騒ぐほど、彼女から友達が去っていった。
 自然とひとりでいる時間が増えた。ひとりでいる時間が増えれは増えるほど、亜美は参考書を読んでいる時間が多くなった。
 結果として、彼女の成績は更に上がった。
 学校でトップから地域でトップ、都内でもトップに立つと、全国レベルでトップに立つまでには、それほど時間はかからなかった。
 友達が、更に減った。
 親友だと思っていた友達も、彼女を妬むようになった。嫌がらせをする者もいたが、亜美があまりにも無関心だったので、終いには飽きてしまって、嫌がらせをしなくなった。
 母親は医者だった。都内にある有名病院で外科医をしている。忙しいこともあって、家にいる時間より、病院にいる時間のほうが多かった。
 父親は日本画家だった。亜美は父親から、いろんなことを学んだ。そして、父親も色々なことを亜美に教えた。亜美の現在の趣味のひとつであるチェスも、父親から教わったものだった。亜美は父親を、母親以上に愛していた。しかし、亜美をよく理解してくれた父親は、妻と離婚したことで、亜美を残して家を出ていってしまった。
 亜美は家庭でもひとりぼっちになってしまった。
 そんな時、亜美はうさぎという女の子に会った。活発で、元気で、屈託のない女の子だった。亜美にないものを、うさぎはたくさん持っていた。うさぎから、様々なことを学んだ。
 亜美は明るくなった。外へ遊びに行く機会も増えた。
 うさぎに友達が多かったことも幸いして、亜美にも新しい友達ができた。なによりも、信じ合える仲間ができたということが、亜美の人生を大きく変えていた。

 亜美は外へ向けていた視線を、教室の中へと戻した。
 教室の中は、薄暗くなっていた。
 彼女の使っているパソコンのディスプレイが、やけに明るく感じられる。
 新学期が始まったばかりだということもあって、五時を回ると、校舎内に残っている生徒は、殆どいなかった。スポーツ部の部員だけは、秋の新人戦に向けて、校庭で練習に励んでいる。
 亜美はパソコンの電源を切ると、額に僅かに浮いた汗を、ハンカチで拭った。
 長時間座っていたせいで、汗を掻いたのだろう。立ち上がったとき、スカートのお尻の部分が、少し湿っていることに気づいた。下着にもいささか違和感がある。
 亜美は机の横のフックから鞄を外し、帰り支度を始めた。
 もうそろそろ、先生が見回りに来る頃だった。
 コンピュータ室を使う許可を受けているから、怒られはしないのだが、五時まわっているので、家へ帰れと言われることは、容易に想像できた。
 今日は塾がないので、もう少し学校に残っていてもいいのだが、先生がそれを許してくれそうになかった。
 突然、コンピュータ室のドアが開いた。
 亜美は先生が見回りに来たのかと思い、ドキリとして顔をドアに向けた。
 ドアのところに立っていたのは先生ではなかった。
 女の子がひとり、誰かを捜しているかのように、部屋の中をキョロキョロと見回している。
「あ、やっぱりここにいたな………」
 女の子は亜美を見つけて微笑むと、明るい声でそう言った。
 亜美も知っている顔だったので、安心して笑顔を作った。
「なあに? ひとみちゃん。あたしを捜してたの?」
 亜美は、ドアの前に立つ女の子に尋ねてみた。
 女の子が亜美を見つけたとき、「やっぱり」と言ったので、自分を捜していたのだろうと推測した。こういう、ちょっとした言葉のやりとりでも、亜美は相手の気持ちを察することができる。
「うん。借りてた参考書を返そうと思って………。ないと、亜美ちゃん困るでしょ?」
 女の子はコンピュータ室に入ってきた。
 女の子の名前は、有坂ひとみ。亜美のクラスメートである。彼女の父親が、亜美の母親が勤めている病院に入院していることで、最近親しくなった友人だった。
 ひとみは亜美の横まで歩いてくると、自分の鞄から参考書を取り出して、亜美に返した。
 亜美にとっては、もう必要のない参考書だったのだが、わざわざ捜してまで返しにきてくれたので、「ありがとう」と礼を言って、受け取った。
「お父様の具合、どう?」
 亜美は受け取った参考書を、大事そうに自分の鞄にしまいながら、訊いた。
「もう、すっかりいいみたい。じきに退院できるって………」
 そう答えるひとみは、とても嬉しそうだった。
 彼女の父親は胃ガンだった。だが、発見が早かったことが幸いして、胃の三分の一を取り除いただけで、後は心配ないということだった。
 ひとみの父親の手術を、亜美の母親が執刀した。特に難しい手術ではなかったのだが、ひとみにとっては亜美の母親は、自分の父親の命の恩人だった。
 亜美もひとみを、手術の間じゅう元気づけてくれた。
「きっと、大丈夫だから………」
 そう言って微笑む亜美は、まるで天使のように見えた。
 亜美の言う通り、手術は成功した。ひとみは涙を流して、亜美に感謝した。
「お見舞に行きましょうか?」
 亜美は尋ねた。
 少女亜美にとって、病院は自分から母を奪った、憎むべき相手だった。それなの今自分は母親と同じ、医者を目指している。当初は、母親に自分のことを気にしてもらいたかったかがために、医者になろうという素振りをしていたが、今は違っていた。真剣に、医者になろうと努力していた。そういう自分は、やはり母の子なのだろうと思ってしまう。
 亜美は精神的に、大人になっていた。
「うん」
 満面に笑みを浮かべて、ひとみは頷いた。彼女にとって病院とは、父親を助けてくれた、恩人そのものなのである。

 亜美の母親が勤めている病院は、総合病院である。
 待合室を兼ねているロビーには、幼稚園児から老人、松葉杖を突いている者から妊婦までが、ごった返しているという状態だった。
 患者を窓口へ呼ぶアナウンスをBGMに聞きながら、ふたりは奥のエレベーターに乗った。
 ひとみの父親は、この棟の五階に入院していた。
 「有坂優太郎」と書かれた札の付いている病室に入る。部屋は個室だった。
 有坂氏は、自分の見舞いに来てくれたふたりを、笑顔で迎えてくれた。
 亜美が以前に会ったときより、顔色は大分よくなっているように見受けられる。
「具合、いいみたいね」
 ひとみは、病院の向かいに側にある花屋で買ったお見舞の花を、窓際の花瓶の横に置くと、父親に言った。
「ああ、さっき、水野先生が検診にいらしてね、あと一週間ぐらいで退院できるだうって、おしゃってたよ」
 有坂氏の言う水野先生とは、もちろん亜美の母親のことだ。
 父親の退院が約一週間後と聞かされると、ひとみの表情は今まで以上に明るくなった。
「素敵! お父さん!!」
 ひとみはベッドの上の父親に、抱きついて喜んだ。
 亜美は羨ましげに、そんなふたりを見ていた。
 ふと亜美は、有坂氏の枕許に、家族の写真が飾ってあるのに気がついた。四‐五年前の写真なのだろうか。一緒に写っているひとみは、小学生の頃のようだった。そして、有坂氏と奥さん、更にもうひとり、小学生らしき男の子。年格好からして、ひとみの兄のように思えた。
 亜美は有坂家の家族構成は、知っているつもりだった。有坂氏の手術の際も、奥さんとひとみと、有坂氏のご両親の姿しか見かけていない。術後のお見舞い人々の中にも、この少年に当てはまるであろう人物は、亜美は見かけなかった。もちろん、亜美の知らない間での見舞いも、多数あったはずなのだろうが、何よりも、ひとみ本人から、彼女に兄弟がいるという話を聞いていない。
 じっと写真を見ている亜美に、ひとみが気付いた。
「ひとみちゃんに、お兄さんがいるのね………」
 亜美は笑顔で訊いてみた。
 しかし、対照的に、ひとみは悲しそうな顔になった。
「うん………。いたの………」
 ぽつりとひとみは答えた。
 亜美は勘のいい女の子である。ひとみから返ってきた答えが現在形ではなく、過去形になっていたことに気付いて、まずいことを訊いてしまったと後悔した。
 ひとみは買ってきた花束を手に取ると、「入れ替えてくるね」と笑顔を見せてから、萎れかけた花の入った花瓶を持って、病室を出ていった。
 そんな自分の娘を見送りながら、有坂氏は亜美に対し、
「気を悪くしないでください」
 と、言った。
 亜美は、自分の方に非があると思っていたので、
「いえ、わたしの方こそ、余計なことを訊いてしまって………」
 と、申しわけなさそうに答えた。
「いや………」
 有坂氏はかぶりを振った。
「わたしがいけないのです。あの子の気持ちも考えず、こんな写真を飾っていたから………」
 枕許の写真を示しながら、有坂氏は言う。
「一緒に写っているのは、お察しの通り、わたしの息子です。ひとみの三歳年上の兄でした」
 有坂氏は続けた。
「もう、七年も前のことです。………事故で亡くしました」
 亜美は無言で聞いていた。
 有坂氏は二‐三秒間瞼を閉じると、再び話し出した。
「息子はパソコンが好きでした。いや、ただ好きというだけでなく、プログラミングに関しては、天才的な才能を持っていました。………あの日も、わたしのオフィスのパソコンを使いに、息子は会社ヘ遊びに来ました」
 有坂氏は、コンピュータ・ゲームのプログラマーだった。有坂氏の会社のゲームは非常に面白く、出すもの全てがヒットしていた。
 息子のパソコン好きは、そういった環境も影響しているのだろうと、有坂氏は言う。
「事故は、わたしの留守の間に起こりました。オフィスの入っているビルが、突然爆発したのです。テロかという噂も流れましたが、その後の調査でも、結局は原因不明の爆発事故として、片付けられました」
 そう語っている有坂氏からは、激しい憤りが感じられた。
「わたしのオフィスを中心に起こった爆発らしく、オフィスは見る影もありませんでした」
「ご遺体は、発見されたのですか?」
「いえ………」
 有坂氏は、首を横に振った。
「息子の遺体だけではありません。オフィスにいただろう、わたしの会社の者たちの遺体も、ついに発見されませんでした………」
「みなさんのご遺体もですか………?」
 腑におちない点だったので、亜美は念を押すような聞き方をしてしまった。聞いてしまってから、刑事のような聞き方をしてしまったなと、少しばかり後悔した。
 有坂氏は特に気にしている様子もなく、重々しく頷いてみせた。
「不思議ですね………」
「ええ。だから、わたしには、息子が死んだとは思えなかったのです。恥ずかしい話ですが、わたしは今でも、息子がどこかで生きているのではないかと、思っているんですよ………」
 有坂氏はそう言うと、少し照れ臭そうに笑った。
 ちょうど話が途切れた時に、花瓶に花を差し替えて、ひとみが戻ってきた。
 ひとみの表情には、病室を出ていったときの暗さはなく、いつもの明るい笑顔が戻っていた。
 亜美は、ひとみのことが気になっていたので、その笑顔が見れたことで、ほっとした。
 有坂氏は枕許の写真を、そっと伏せた。
 亜美はそのとき、娘に気を使う、父親の姿を見ていた。