悲劇
「マーキュリー、無事だったのね………」
「この通り、ピンピンしてるわ」
マーキュリーは明るく微笑み、軽く胸を叩いてみせた。無理をして、元気そうに振る舞っているようには見えなかった。怪我をしている様子も見受けられない。
セーラームーンも安堵の笑みを向けた。
「ひとみちゃんは………?」
「タワーの中にいるわ」
マーキュリーは後方の塔を振り返る。軽く微笑みながら、視線をセーラームーンに戻した。
「………せっかくみんなに来てもらったのに、もう終わっちゃったわよ」
「終わった!?」
タキシード仮面が訝しんだ。何が終わったというのか?
「すごーい! マーキュリーひとりで、悪い奴をやっつけちゃったのね………!」
ちびムーンは感心しきっている。
「本当なの? マーキュリー………」
セーラームーンも半信半疑だ。そんなに簡単に終わってしまうとは、思えなかった。今度の敵は、今までの敵とは違ったタイプの敵であるということを、彼女たちは痛感していた。今まで通り戦っていたのでは、この戦いに勝てないということも分かっていた。
マーキュリーがひとりで決着を付けてしまったというのなら、それはそれで素直に喜ぶべきことなのだが、どうも納得がいかなかった。
「本当よ」
マーキュリーはきっぱりと言う。疑われていることに腹を立てている感じもなく、いつもの笑顔を向けている。
「ひとみちゃんが待ってるわ。タワーに行きましょう」
マーキュリーは、セーラームーンの手を取って、数歩だけ歩いてみせた。
が、何を思ったのか、突然立ち止まった。
セーラームーンの腕を掴んでいた手を、振り払うように放した。
「………どうしたの?」
セーラームーンには、何が何だか分からない。分からないまま、マーキュリーを見つめ、彼女の次の言葉を待った。
「ダメよ………」
マーキュリーは呟くように言ってから、振り向く。
「え………!?」
余計に分からなくなった。何が、駄目だというのだろうか。
マーキュリーは真剣な眼差しで、セーラームーンを見つめる。
「この世界はあたしのものよ。みんなはもう、帰って!」
「マーキュリー!?」
思いもかけない言葉だったので、セーラームーンは言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「聞こえなかったの? 帰ってと言ったのよ」
少しばかり怒気を含めた口調で、マーキュリーは言った。
「マーキュリー………」
突然のマーキュリーの変わりように、セーラームーンは困惑している。
ちびムーンも驚いたような目を、マーキュリーに向けている。
「マーキュリー、どうしたの………!? 何を怒って………」
「帰ってって言ってるでしょ!?」
困惑するセーラームーンの言葉に被せるように、マーキュリーは苛立たしげに言い放つ。
そのあまりの剣幕に、セーラームーンは思わず首を窄めた。
「………あたしはこの世界が気に入ったのよ。助けになんて来なくてよかったのに………」
「おかしいよ、マーキュリー! みんな心配してたんだよ!! それなのに………」
ちびムーンが一気にまくし立てる。目を釣り上げ、明らかにマーキュリーの態度に対して怒りを表している。
だが、マーキュリーは冷たい視線をちびムーンに向けていた。
「助けに来られては、迷惑なのよ………」
セーラームーンもちびムーンも、言葉を失ってしまった。そんな風に、マーキュリーに言われるなど、夢にも思っていなかった。
「………さようなら………」
小さく呟くように言うと、マーキュリーは塔に向かって、ひとり走り出してしまった。
「あ………」
あまりの出来事に、セーラームーンはマーキュリーを追うことができないまま、
その場に茫然と立ちすくんでしまった。
マーキュリーの別れの言葉が、セーラームーンの頭の中を巡っていた。
「………さようなら………」
力のない、マーキュリーの声が、耳に残っている。
胸騒ぎがして、セーラームーンは顔をあげた。
走り去る、マーキュリーの背中が遠くなる。
そして、突然爆発した。
一瞬の出来事だった。
マーキュリーの腕が吹き飛んでよく光景が、スローモーションで見えた。
タキシード仮面の表情が凍った。
ちびムーンが、亜美の名を泣きながら叫んでいる。
そしてセーラームーンは、そのあまりの唐突の出来事に、我を忘れて、惚けたようにその場に立ちすくんでしまっていた。
その爆音は、塔に向かおうとしていたウラヌスたちや、未だ街を見物していたヴィーナスたちの耳にも届いていた。
六人は、一斉に塔を目指した。
爆発があったと思われる場所は、まだ少し煙がくすぶっている状態だった。
百メートルほど離れたところで、茫然としているセーラームーンと、地面に突っ伏して泣きじゃくるちびムーンを見つけた。
くすぶっている煙の近くに、タキシード仮面の姿があった。
何が起こったのか、六人にはまだ分からない。
「どうしたの? いったい………」
「何があったの!?」
ヴィーナスとウラヌスが、同時に訊いてきた。
セーラームーンからは、何の反応も返ってこない。完全に放心してしまっている。
「セーラームーン!!」
ジュピターが、セーラームーンの肩を両手で揺する。
「亜美ちゃんが………」
声を発したのは、セーラームーンの足下で泣きじゃくっていた、ちびムーンだった。
「亜美を見つけたの………!?」
マーズは、ちびムーンの正面に動いてから訊いた。
ちびムーンは、小刻みに肩を震わせている。
「亜美ちゃんが、死んじゃったの………」
涙でぐしゃぐしゃにになった顔を上げた。
「どういうことよ………」
マーズは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。マーズばかりではない。他の五人も、それは同じだった。
ちびムーンは、ボロボロと大粒の涙を流している。
そのちびムーンと、セーラームーンの様子を見れば、嘘ではないことは分かる。だが、容易に信じることができない。信じられないというのではない。その場に居合わせなかったという事実が、納得することを拒んでいるのだ。
「いったい、何があったの?」
ネプチューンは、ちびムーンの前で身を屈めた。細い指で、頬の涙を拭ってやる。
ちびムーンは泣きながら、先程起こったことを説明する。
ちびムーンの説明は、決して簡潔とは言えるものではなかったが、その内容は、その場にいる戦士たちに衝撃を与えるには、充分すぎるものだった。
「そんなことって………!」
ジュピターは絶句して、未だに煙のくすぶっている地点に目を向ける。
地面にかがみ込んでいる、タキシード仮面の姿が見えた。
セーラームーンは、まだ放心状態だった。
誰もが言葉を失って、立ちすくんでいる。
そのセーラー戦士たちに向かって、タキシード仮面がゆっくりと歩み寄ってきた。
手には、契れた腕のようなものを持っている。
マーズが両手で口を押さえた。
ヴィーナスは、思わず目を逸らしてしまった。
「悲しむことはないさ………」
タキシード仮面は低い声で言った。
皆、言葉の意味が理解できないでいる。仲間が死んだのに、悲しむことはないとは、どういうことなのか。
「天才だよ。敵は………」
プルートに、持っていた腕らしきものを渡した。
プルートは冷静な表情になって、その腕らしきものを観察した。
「………機械の腕………? ロボット、いえ、アンドロイド………!? それも、ものすごく精巧に作られているわ………」
プルートは驚く。縋るような目で、タキシード仮面を見る。
ウラヌスとネプチューンが、脇の方からその腕を覗き見ている。
「亜美と、アンドロイドの区別がつかなかったのか!?」
やや叱るような口調で、ウラヌスはセーラームーンに訊いた。
セーラームーンには、まだ何のことだか分からない。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ウラヌスのことを見ている。
「………無理ね。これだけ精巧に作られていると、一目見ただけでは区別はできないでしょうし、それに、この人工皮膚は人間の皮膚と全く変わらないほどの、素晴らしい出来だわ………」
プルートは関心したように言う。ウラヌスに、腕を渡す。
「確かに」と、ウラヌスも納得したようだった。
プルートは、ウラヌスがネプチューンに腕を渡すのを横目で見ながら、タキシード仮面に向き直る。
「タキシード仮面、相手は手強いわ」
いわずもがなのことを言う。
「亜美ちゃんじゃ、なかったの………?」
今更ながらに、セーラームーンは訊いてきた。
タキシード仮面は、にこやかに微笑みながら頷く。
ほっとしたように、セーラームーンはその場に座り込んでしまった。ほっとした拍子に、腰が抜けてしまったようだった。
「よかったな、偽物で………」
ジュピターが、自分にも言い聞かせるように呟きながら、ちびムーンの頭を撫でている。
ちびムーンにも、笑顔が戻っている。
「………まったく、セーラームーンは早とちりなんだから………」
マーズの嫌みにも、いつもの刺々しさはない。
「………さてと、こんな茶番はもうたくさんだ。そろそろ決着をつけてしまおう。この空間も長くないようだし………」
ウラヌスの言葉に、思い出したようにプルートが付け加えた。
「みんな、いま、この空間は、極めて不安定な状態なの。空間を維持するエネルギーが切れ掛かっているのよ。もう、長くはないわ」
「長くはないって………」
具体的な時間を知りたがったヴィーナスだったが、突然の騒音に、言葉を遮られてしまった。
「………!?」
その音は、その場にいた者全員の耳に届いていた。
この都市に来て初めて聞く、自分たち以外の「音」だった。それが、次第に近付いてくる。
「何の音………!?」
ヴィーナスは、辺りを見回す。それらしき「音」を発しているのが、どれなのか検討も付かない。
ブーン。
規則正しく聞こえてくる「音」は、渦を巻くような感じで、明らかに近付いてきているのが分かる。
「音」は、間近まで迫ってきている。
「………上だ!!」
タキシード仮面は叫ぶと同時に、ジャンプしていた。
空中で、ステッキをバトンのように回転させている。
タキシード仮面を目で追うような形になっていたセーラー戦士たちも、「それ」を捉えた。捉えたと同時に、散開するようにその場を飛び退いた。
ちびムーンだけが、行動が遅れた。
それにいち早く気付いたセーラームーンが、ちびムーンを自分の身体で包み込むようにして庇った。
「あうっ!!」
無数の「それ」の体当たりをモロに背中に受け、セーラームーンは苦しげに呻いた。
「セーラームーン!!」
「セーラームーン!!」
「それ」は昆虫の形をしていた。全体的な印象は、カブト虫を思わせる。だが、一見して、作り物だと分かる。その作り物のカブト虫が、大群で襲ってきたのだ。
「………ちっ!!」
カブト虫をはたき落としながら、ウラヌスは舌打ちする。とにかく、数が半端ではない。
マーキュリーがこの場にいたら、ポケコンで素早く計算して、正確な数を出してくれるのだろうが、敵に捉えられている今は、それは叶わない。もちろん、正確な数を把握したところで、何がどう変わるというわけでもなかった。
「くそっ! うざったいな………。シュープリーム………!!」
「駄目よ! ジュピター!!」
強力な技で一掃しようとしたジュピターを、プルートが慌てて制止した。不安定なこの空間で、大技を使うのは自殺行為だ。
「そ、そうか………!」
ジュピターは技を放つのをやめる。そのとき、つい、防御を解いてしまった。無数のカブト虫が、ジュピターに体当たりしてくる。
「くっ!」
低く呻いて、膝を付いた。
「キリがないわよ!!」
ラブ・ミー・チェーンを振り回しながら、ヴィーナスがぼやいた。叩き壊しても叩き壊しても、一向に数が減っているような気がしない。むしろ、増えているような感じさえした。
カブト虫は体当たりしてくるだけの攻撃だったが、これだけの数が一斉にくるのだから、ダメージは想像以上に大きい。
大技で一掃することができないため、一匹ずつ叩き落としているので、かなりの体力を消耗する。
“ここは、我らに任せてもらおう”
突然、声が響いた。
タキシード仮面の懐から飛び出した四つの翡翠が、光を放ちながら四方へ散る。すると、見えない壁に阻まれて、カブト虫たちは接近できなくなった。
結界を張ったのだ。
「気が利くじゃないの………」
ウラヌスは、有り難いとばかりに結界を見上げた。
「すまない。助かる」
タキシード仮面は、誇らしげに前世での部下たちを見る。
“さぁ、プリンス。お急ぎください”
クンツァイトの言葉は、暗に残された時間が少ないことを告げている。いつまでも、こんなところで足止めをくっているわけにはいかないのだ。
「よし、みんな行くぞ!!」
タキシード仮面の号令を受けて、戦士たちは、黒い不気味な塔に向かって走り出した。