プリンセス・ミネルバ


 戦闘が止まった。
 誰もが可愛らしい指揮官に注目し、彼女の次の言葉を待っていた。
 ルナが足早に、セーラームーンのもとへ近付く。
「彼女はプリンセス・ミネルバよ。美奈子ちゃんの前世での妹の………」
 セーラームーンはルナからそのことを聞くと、キッと睨むようにミネルバを見据えた。
「ミネルバ、どうしてこんなことをするの!?」
 澄んだ声で、咎めるように叫び訊く。
 ミネルバの形のいい眉が釣り上がった。
「どうしてですって………!?」
 ミネルバの愛らしい顔が、怒りで歪んだ。
「わたしたちの地球移民計画を邪魔しておいて、何を言うの!」
「地球移民計画?」
 セーラームーンは首を傾げる。そんな話は、もちろん聞いたことがない。
「忘れたとは言わさないわよ、セレニティ」
 ミネルバは静かに言った。しかし、視線はセーラームーンを鋭く捉えている。
 ミネルバはセーラームーンを睨み付けたまま、言葉を続けた。
「金星は知っての通り灼熱の星。惑星上は硫酸の雲に覆われ、とても人の住めるような星じゃないわ。なのにクイーン・セレニティはあんな星に、お母さまを追いやった。実の妹だというのに………。自分は月に美しい王国を築き、優雅な生活を送っている。わたしはそれが我慢ならなかった」
 ミネルバはそこで言葉を切ると、興奮した自分の気を静めるように、深く息を吸った。
「セレニティ、あなたには分からないでしょうね………。マゼラン・キャッスルという封鎖された世界に暮らしていた、わたしたちの気持ちなど………。だからわたしたちは、地球に移りたかった。でも、お母さまはキャッスルがお好きだった。わたしもキャッスルを好きになろうとした。なのに、お母さまはわたしたちを置いて逝ってしまった」
 ミネルバの頬を、一筋の涙が流れた。
「わたしは誓ったわ。必ず地球に移民してみせると………。だけど、月のクイーン・セレニティがそれを許さなかった」
 ミネルバは、セーラームーンを憎悪の瞳で睨む。だが、セーラームーンは動じない。
「あたりまえじゃない! 地球にも人は住んでいたわ。その人たちを、どうするつもりだったの!?」
「共存する計画だったわ。それを………!」
「違うわ!!」
 ミネルバの言葉を、ルナが打ち消した。そのルナのあまりにもの迫力に、さしものミネルバも言葉を飲み込んでしまった。
「共存なんかじゃないわ! 抹殺しようとしたのよ。だから、クイーンがお怒りになった」
「そうだ。俺たちも、そんな計画は聞いてはいなかった」
 タキシード仮面、いや、地球国王子エンディミオンもルナに同意を示した。
「そんなはずはないわ! エンディミオン、あなたも騙されているのよ! アドニスが………」
「騙されているのはあなたの方よ、ミネルバ!!」
 ルナがミネルバの言葉を遮った。しかし、
「黙れ、ルナ!!」
 今度はアクタイオンが、ルナに食ってかかる。
「だからと言って、アフロディア様を人質にとっていいという法はない!」
 アクタイオンは声を荒げて言った。
 セーラームーンには、一瞬だれのことを言っているのか分からなかった。
 だれのことを言っているの? アフロディアって………。美奈子ちゃんのこと………?
「人質………?」
 セーラームーンはルナを見た。ルナの瞳は違うと言っていた。だが………。
「そうだ、人質だ」
 アクタイオンはセーラームーンに目をやると、話を続けた。
「アフロディア様は人質だったのだよ。我々に計画を強行させないためのな………。我々が計画を強行すれば、間違いなくミレニアムとの戦になる。だが、ミレニアムにはアフロディア様がいる。ミレニアムと戦うことは即ち、アフロディア様をも敵にするということ。もっとも、もし戦になったら、ミレニアムがアフロディア様を見せしめのために殺すということも考えられた。世間的には、プリンセス・セレニティを守る四守護神のリーダーとして迎えられたということになっていたが、実際は我々を動けなくするための人質だったのだよ」
 アクタイオンの身体は激しい怒りの為に、小刻みに震えていた。
 セーラームーンは信じられないというふうに首を振ると、俯いてしまった。
 他のセーラー戦士たちも同じである。四守護神結成の裏に、そんな事実が隠されていたとは、夢にも思っていなかった。
 他のセーラー戦士たちも、それぞれ特別の地位をもっていた。セーラーマーズは火星に住む火の一族の王女。セーラーマーキュリーは水星の軌道上にある、水の神殿の神官長の娘で神殿の巫女であった。セーラージュピターは、木星にある裁きの塔の番人の孫娘だった。それぞれ火、水、雷の力に長けており、プリンセスとは同じ歳であったことから、かねてから計画のあった四守護神に最適の人材と言われていた。そこにリーダーとして、プリンセスの従姉妹でもある、光の力をもつ金星の王女が迎えられるということで、だれもが絶賛したものだった。
 だが、それさえもクイーン・セレニティの政治的策略だったとしたら………。
「違う! 違うのよ、アクタイオン!」
 ルナはその全てを否定するかのように、大きくかぶりを振った。真実は別のところにある。そう言いたかった。
 だが、アクタイオンも一歩も引かない。そればかりか、少し寂しそうな目をしてルナを見た。
「ルナ、お前は悔しくはないのか? シルバー・ミレニアムでは、猫は聖なるものの使いとされていた。したがって王家の側近、特にクイーンとプリンセスに仕える側近は、猫の姿をしていなければならなかった。お前こそ猫にさえならなければ、四守護神のリーダーになれたかもしれないほどの、優秀な戦士だったではないか………」
 ルナは俯き、答えようとはしなかった。
「ルナ………?」
 セーラームーンはそんなルナを見て、困惑する。ルナが戦士だったなんて………。
 セーラームーンにはもう、戦う気力はなくなってしまった。
 知らないことが多すぎた。初めて聞かされたことが多すぎた。彼女の頭の中は、パニックになっていた。
「美奈子ちゃんは、いえ、プリンセス・アフロディアは今どうしているの? 彼女は今回の事を知っているの?」
 いままでずっと黙って聞いていたセーラーマーキュリーが、久しぶりに口を開いた。美奈子のことは、だれもが心配していることだった。彼女も今回の一件に絡んでいるのか。だとしたら………。
「今回のことは、姉さんはまだ知らないわ。でも、きっと賛成してくれるはずよ。姉さんには、マゼラン・キャッスルのクイーンになってもらうの。そのために、呼び戻したのだから」
 ミネルバが答えた。
 それを聞いたセーラー戦士たちは、全員ほっと胸をなでおろした。美奈子は今回の事を知らない。ならば、いずれミネルバの暴走は止めてくれる。確信はなかったが、美奈子がこんなことを、許すはずがない。全員がそう思った。
 しかし、この一瞬の気の緩みが、思いもよらない事態を招いた。
 一瞬の静寂は、タキシード仮面の放ったスモーキング・ボンバーによって、打ち消された。
「何………!?」
 その場にいた者全てが、事態がよく飲み込めていなかった。何が起こっているのか分からなかった。
 気がついた時には、タキシード仮面が屋上に立っていたはずのビルが、轟音とともに崩れていた。
 セーラームーンは、爆発によって崩れた、ビルの残骸に飲み込まれてゆくタキシード仮面の姿を、まともに見てしまった。
「え………?」
 まるでスローモーションの映画を見ているようだった。
 セーラームーンには、今自分が見てしまった映像が理解できなかった。セーラームーンの中の別の意識が、今起こったこと全てを否定していた。呆然と惚けたように、その場に立ちすくむ。
 次の瞬間、下腹部に激痛が走ったかと思うと、しだいに気が遠くなっていった。
セーラームーン(うさぎちゃん)! ルナ!!」
 マーキュリーは自分のほうに蹴り飛ばされてきたルナを抱きとめて、その蹴った本人を睨んだ。
「アラクネ! なにを………!」
 ミネルバも訳が分からない。作戦にはないことだ。
 アラクネは気を失っているセーラームーンを抱き抱えると、“シャンデリア”に向かって急上昇する。
「アドニス様のご命令です。ミネルバ様もいったんお退きください」
「アドニスが………?」
 ミネルバは訝しんだ。こんなことをする必要があるのか? この場にいるセーラー戦士を全滅させるだけの戦力は、まだ残っているはずだ。撤退する必要などはない。
「ミネルバ様、ここはいったん退きましょう。キャッスルへ戻って、アドニスめの真意も確かめねばなりません」
 アマトスの意見にミネルバは素直にしたがったが、納得したわけではなかった。
 姉、アフロディアがキャッスルで再会したのち、自分に対し「アドニスには、気をつけるのよ」と言っていたことを、ミネルバは今思い出していた。
「姉さん、わたしは間違っていないわよね………」
 ミネルバは、姉に確かめてみたいと思った。

「逃がすもんですか………!」
 セーラームーンをこのままさらわせる訳にはいかなかった。それでは何のための四守護神だかわからない。
 マーズがバーニング・マンダラを放つ。ジュピターのスパークリング・ワイド・プレッシャーがそれに続く。
 が、いずれも四剣士の迎撃にあい、アラクネには届かなかった。
 そればかりか、背後から妖魔の奇襲をうけ、バランスを崩したふたりは地面に落下してしまった。
 激しく全身を打ちつけて苦しむふたりに、マーキュリーが駆け寄る。その三人めがけてて、妖魔が迫る。
 マーズとジュピターは激痛で動けない。
 マーキュリーもふたりが気になっていたために、周囲に気を配るのを忘れていた。
 三体の妖魔はそれぞれ、マーキュリー、マーズ、ジュピターの胸のブローチを鷲掴みにする。
「………!」
 妖魔はブローチを無造作に毟り取ると、アラクネの方にほおり投げた。
「これは貰ってゆくぞ」
 アラクネは勝ち誇ったように、左手に持つ三つのブローチを掲げた。右腕にはセーラームーンが抱きかかえられている。気を失っているらしいセーラームーンは、ピクリとも動かない。
「ちくしょう!!」
 ジュピターが吠えた。
 セーラー戦士としての力を失った三人は、地球人の姿に戻ってしまう。
「ブローチがパワーの源ぐらい、我々も知っている。変身できぬまま、妖魔に嬲り殺しにされるがいい。………ベルグ、お前の好きなように料理しろ!」
 アラクネは高笑いすると、セーラームーンを抱えたまま“シャンデリア”の中へ消えていった。
 既にミネルバや四剣士、アクタイオンの姿もなく、最後に残ったのはベルグと呼ばれた、翼を持つひときわ不気味な形相の妖魔だけだった。
 ベルグは大空を滑空すると、亜美たち三人の前に降り立った。
 激痛のため、まだ自由に動けないレイとまことをかばうように、亜美が身構える。格闘が不得意な亜美の構えは、隙だらけだ。これでは戦う前から、結果は明らかだ。
「亜美、逃げるんだ!」
「わたしたちのことは、気にしないで………!」
 レイとまことはそれぞれ、亜美に逃げるように言う。亜美だけなら、この場から逃げることは可能だった。しかし………。
「そんなこと、できるわけないでしょう………!」
 亜美は叫ぶように言った。
 その亜美に向かって、ベルグが攻撃を仕掛ける。すんでのところで攻撃を躱したつもりだったが、もとよりベルグのほうがまともに攻撃する気がなかった。ベルグの目的は、別にあった。再度襲いかかる。
 衣類が裂ける音がした。
 ベルグは、亜美の制服の左肩から胸の辺りまで引き千切ると、その切れ端を持ってニタニタしている。
 亜美は真っ赤になると、露になった下着を隠すため右手を添える。
 ベルグが亜美に飛び掛かる。亜美は避けられない。
 右の脇腹辺りを引きちぎる。
 怖さのあまり、亜美はその場に座り込んでしまった。恐怖に身を震わせる。
 なおも亜美に危害を加えようとするベルグに、激痛をおしてまことが挑む。だが、いかんせん動きが鈍い。逆にベルグに胸倉を捕まれてしまう。
 そのまことを助けようとレイが掴みかかるが、反対に余っていた左手に、胸を鷲掴みにされてしまった。
 ベルグはふたりの制服を、胸元から力任せに引き千切る。
「………!」
 ベルグはいやらしく笑うと、三人を順に眺める。
 変身できない上に、胸を隠すために両手がふさがったままでは、もはや三人に勝機はなかった。
「公衆の面前で、思い切り辱めてから殺せとのご命令なんでね」
 ベルグは残忍そうに笑ってから周囲を見渡す。が、残念そうに舌を打った。
「ちっ。この騒ぎで周囲には人っ子一人いやしない………。よかったな、恥ずかしい思いだけはせずにすみそうだぞ」
「くそぉ!」
まことが反撃に転じた。胸が露わになるが気にしてなどいられない。反撃しなければこのままなぶり殺しになるだけだ。しかし、上空から地面に激突した後遺症は、未だに残っていた。動きにキレがない。渾身の右ストレートをベルグに簡単に躱され、多々良を踏んでしまった腹部に、強烈な蹴りが叩き込まれた。
「うぐっ!」
 胃の中のものが逆流する。まことは腹部を押さえて、その場に蹲ってしまった。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
 突然奇声をあげて、元基が突進してきた。ベルグにショルダータックルをお見舞する。
 ルナもベルグの顔に張り付いて、爪で引っ掻き廻している。
 だが、ふたりの善戦空しく、いともたやすくベルグに投げ飛ばされてしまった。
 妖魔ベルグは、再びレイや亜美、そして足下に倒れているまことを見て、にたりと笑った。締まりのない口から、よだれをだらだら流しながら次に襲いかかる獲物を選んでいる。
 次の瞬間────。
 弾丸のように飛び込んできたピンク色の物体が、ベルグを大きく弾き飛ばす。
「ムーン・フリスビー!」
 シュルルルル………。
 三日月型のフリスビーが、空を切り裂く。その先には、ベルグがいた。
 ヨロヨロと起き上がったベルグだったが、フリスビーによって頭と胴が泣き別れになってしまった。切断された首の部分から、緑色のドロドロとした液体が流れ出る。胴体の方は、なおも二‐三歩歩いて見せたが、やがてばったりと地面に倒れると、それっきり動かなくなった。
ちびムーン(ちびうさちゃん)………」
 ルナが、驚いたような口調で呟いた。
 見るとボロボロと大粒の涙を流している、セーラーちびムーンがいた。
「ごめんなさい。わたし、怖かったの………。もっと早く助けたかったのに、怖くて動けなかったの………。ごめんなさい………」
 あとはもう、言葉にならなかった。
 恐らくちびムーンも、この事態を知ってどこからか駆けつけてきたのだが、あまりの戦闘の激しさに、足が竦んでしまって動けなかったのだろう。しかし、そこは小さくてもやはり戦士なのである。仲間の絶体絶命の危機に、身体が勝手に動いてしまったのだ。
 ちびムーンは小さな身体を小刻みに震わせながら、泣きじゃくっている。
「気にすることはないよ、ちびムーン(ちびうさ)。今、こうやってあたしたちを助けてくれたじゃないか………。ありがとう………」
 まことはそう言って、ちびムーンを優しく抱きしめる。
 亜美が、レイが、優しい笑みを向ける。
 元基が頭を撫でてくれた。
「でも、これからが問題ね………」
 ルナが深刻な顔をして空を見上げた。
 まるで、これからの戦士たちの運命を暗示するかのように、空には暗雲が立ちこめていた。