ひかるの心配


「ふたりとも、気をつけて帰りなさいよ」
 廊下を下駄箱に向かって歩くうさぎとなるちゃんに、担任の桜田春菜先生が声をかけた。男子生徒に人気の高い、美人の先生である。専門は保健体育らしいのだが、十番中学では、英語を教えていた。情報通の海野によれば、四人姉妹の長女だそうだ。一番下の妹さんは、有名なバレリーナだということだった。そろそろ三十路を迎える歳らしいのだが、結婚の予定は当分ないようである。
「はあ〜い」
 うさぎとなるちゃんは、いつもの軽い声で返事をする。
「あ、そうだ………」
 春菜先生はうさぎの顔を見て、何かを思い出したようだった。真顔でうさぎの顔を見る。
 うさぎは何事かと首を傾げながら、春菜先生の顔を見た。
「月野さん、ちゃんと宿題やってくるのよ」
 先生の言いたいことは、そのことだった。
 拍子抜けしたうさぎは、曖昧に笑うしかなかった。
 春菜先生と別れて、下駄箱で靴を履き変えていたうさぎとなるちゃんに、一足先に帰っていたはずの、海野が声をかけてきた。
「何よ、アンタ用があるって、先に帰ったんじゃないの?」
 なるちゃんがつっけんどんに言った。いつも思うことなのだが、なるちゃんは海野に対しては、なぜかこういう口調になってしまう。別に嫌っているわけではないらしいのだが、どうしてもストレートに会話ができないのだというが、なるちゃん本人の意見だった。
 海野も特に気にしている様子もなく、普段のように話し始めた。
「うさぎさんに、お客さんですよ。正門のところで待ってますケド」
 同年代にも敬語を使ってしまうのは、海野の癖だった。初めは抵抗があったが、今ではすっかりこの海野の言葉使いに慣れてしまっていた。
「お客さん? あたしに………?」
 つま先を地面でトントンと突き、靴を履き整えると、うさぎは再び言った。
「あたしを、わざわざ学校まで尋ねて来るなんて………。もしかして、まもちゃんかなぁ………」
 うさぎは、両手を胸の前で軽く握り、恍惚とした表情になっていた。
 なるちゃんは、また始まったか、という風に俯いてみせた。
「違いますよ」
 うっとりとした表情のうさぎを、全く無視しているかのように、海野はあっさりと否定した。ずれた瓶底眼鏡を、右手の人差し指で直す。
 うさぎはズルッとコケた。なるちゃんは、くすくすと笑う。
「あ………」
 うさぎはまぬけづらで、海野を見た。
 海野はさらりと言ってのけた。
「女の子ですよ」
「ああ、そう………」
 がっかりしたようなうさぎを尻目に、海野は付け加えた。
「芝公園中学の制服を着た、ちょっと可愛い女の子でしたけど………」
 その海野の言葉に、なるちゃんが何故かむくれてみせたのだが、うさぎは気がつかなかった。

 正門のところで待っていたのは、ひかるちゃんだった。
 うさぎたちの姿を見つけると、ひかるちゃんは微笑んで見せたが、すぐに心配ごとがあるような表情になった。
 うさぎもそれが気にかかったが、自分からは尋ねようとはしなかった。なんとなくだが、理由は分かっていた。美奈子のことだと思う。しかし、うさぎからは切り出せない話題だった。
「今日は、ひとり………?」
 十番街方面に遊びに来るときは、ひかるちゃんはたいてい美奈子と一緒なので、なるちゃんが不思議がった。
 ひかるちゃんは小さく頷くと、何か言いたげに、うさぎの方を見た。
「な、なに………?」
 うさぎは少し、ドギマギして訊いた。
「美奈、昨日と今日と、学校休んでるんだけど………。何か知らない………?」
 ひかるちゃんは、探るようにうさぎを見る。
 うさぎは冷汗ものだ。
「何かって………?」
 取り合えず、惚けてみた。
「あの、元気を絵に描いたような美奈が、二日間も学校を休むなんて、滅多にない事なのよ………。それで、達の悪い風邪でもひいたんじゃないかと思って、美奈ん家にお見舞に行ったのよ。そしたら、友達の家に泊まりに行ってて、お母さん分からないって言うの」
「美奈子ちゃんが学校に行ってないこと、お母さん知ってるの………?」
「言えないわよ。美奈んとこのお母さんて、結構厳しいのよ。学校サボってるなんて知ったら、もうカンカンよ………!」
 さすがは小学校からの、美奈子の親友だけはある。家庭の内情も、少しは知っているようだ。それに美奈子の立場も、ちゃんと考えてくれている。
「友達って、だれだか分かんないの………?」
 本当の理由を知っているうさぎには、とても白々しくて訊けないことだったが、真剣に心配しているらしい、なるちゃんの口からは、あっさりとその言葉が出てきた。
「十番中学の友達としか、お母さんも知らないって言うの。わたしの知ってる、十番中学の美奈の友達っていったら、うさぎちゃんしか知らないから………」
 ひかるちゃんは、ちらりとうさぎを見てから、
「本当に知らないんだ………」
 と、残念そうに言った。
 うさぎはこんなにも、美奈子のことを心配しているひかるちゃんに対し、後ろめたさを感じながらも、
「美奈子ちゃん、どうしちゃったんだろうね………」
 と、さらりと言えてしまう自分に、無性に腹が立った。
 うさぎはふと、視線を感じて振り向いてみた。
 亜美とまことの姿が、十メートルほど離れた歩道に見えた。
 ふたりは、先に行くという合図をうさぎに出すと、きびすを返して歩き出した。
 うさぎは合図に頷いて見せたあと、ひかるちゃんの方に向き直った。
 ひかるちゃんは、どこか遠くを見るようにしながら、呟くように言う。
「中一の夏ぐらいから、美奈って変わっちゃったのよね………。なんて言うか………、付き合いが悪くなったって言うか………。ひとりで行動するのが多くなったって言うか………。大好きだったバレー部の部活も、中二になった頃からあまり出なくなったし………。わたしの知らない、何かが変わっちゃったのよね………」
 ひかるちゃんの言葉にドキッとしながらも、うさぎは平然を装って、黙って聞いていた。
 なるちゃんが、ちらりとうさぎを見た。なるちゃんも、ひかるちゃんが美奈子に対して、感じていることと同じことを、うさぎに対して感じていたのだ。
 ただ、なるちゃんがひかるちゃんと違っていることは、なるちゃんはある程度その理由を、推測できているということだった。もちろん、うさぎ本人の口から聞いたわけではないが、たぶん間違いないと思う。しかし、なるちゃんはうさぎにそのことを確かめようとはしない。聞いたところで、何の力にもなれないことを、なるちゃんは分かっているのだ。
 だから、あえて聞くことはしない。
「美奈子ちゃんのことだもん。そのうち、あっけらかんとして帰ってくるわよ」
 不安げなひかるちゃんに、うさぎには、そう言ってやることしかできなかった。
「そうかなぁ………」
 ひかるちゃんの不安は、まだ消えていないようだった。
 もう、何の策もない。うさぎは困ってしまった。何も言うことができない。
「大丈夫よ、きっと」
 なるちゃんが、うさぎの意見をフォローしてくれた。
「そうそう」
 畳みかけるように、うさぎは頷く。
 心配顔だったひかるちゃんに、笑顔がもどってきた。
「そうよね」
 ひかるちゃんは、頷いてみせた。
 うさぎもほっとして、思わず微笑んでいた。

 美奈子は通路を歩いていた。真っ赤な絨毯が敷き詰められている。
 通路のところどころに、衛士が直立の姿勢のまま立っていた。その右手には、槍が持たれていた。以外にシンプルな槍である。R.P.Gでの初期の装備だな、などと思ってしまう。
 美奈子が衛士の前を通過するたびに、衛士は恭しく頭を下げる。
 ドレスがうざったいと思いながらも、アフロディアを演じるためには、必要なアイテムだということは分かっていた。胸が大きく開いているドレスなので、少々恥ずかしい。まことほどのボリュームのある胸なら、何とか格好もつくのだろうが、成長過程の美奈子の胸はこのドレスでは引き立たない。
 長い裾を、引きずるようにして、しゃなりしゃなりと歩く。城の中では、アフロディアを演じろと、アルテミスにきつく言われていた。
 アフロディアの知らない侍女が、慇懃な会釈をしながら、すれ違っていった。
 美奈子はミネルバの部屋に、彼女がいないことを、ひどく不安に思っていた。四剣士の姿も見えない。
 嫌な予感がする。
 行動が制限されているため、表だって動くことができない。それはアルテミスも同じで、どこへ行くにも、監視の目が付いてまわった。どこに隠しマイクが仕掛けられているか分からないので、迂闊に通路で話すこともできなかった。
 美奈子の部屋の隠しカメラとマイクは、アルテミスが細工をしてくれた(具体的に、どのような細工をしたのかは、美奈子は知らない)ので、話がある場合は、自分の部屋ですればいいのだが、やはり不便である。
 今日一日、城の中を見てまわって気づいたのだが、城の中には、アフロディアの知っている人物が、殆どいなかった。自分の知らない人物が、高い位についているのである。
 当時、アフロディアがキャッスルにいたころの、クイーンの腹心の部下たちの姿が全く見えない。
 そんなことは、あるはずのないことなのである。
 美奈子は、自分の不安が的中してしまったことを、今日一日で確信した。
「こんなところで、何をされているのです?」
 背後から声をかけられ、美奈子は立ち止まった。気配を全く感じなかったが、声をかけた者は、美奈子のすぐ後ろにいた。
「アドニス………」
 美奈子は憎々しげにその名を呟くと、体を巡らした。
「あまり動きまわられると、迷子になりますよ………」
 アドニスは蔑んだような目で、美奈子を見ていた。その視線が、振り向いた美奈子の、大きく開いた胸元に移動するのを、美奈子は見逃しはしない。
「あたしの城よ。迷子になるわけないじゃない!」
 きつい口調で言った。胸を見られたことも気にくわなかった。
「おお! そうでしたな………」
 アドニスはわざとらしく、驚いてみせる。美奈子は唾を吐き捨てたい気分になった。
「………しかし、相変わらずお美しいですな………」
 アドニスは目を細める。
「どうもありがとう」
 お前などに誉められても嬉しくはない、と思いながらも、礼の言葉を返す。と、突然アドニスは美奈子の右腕を掴むと、自分の方へ引っ張り寄せる。
 突然のことにバランスを崩しながら、美奈子はアドニスの眼前まで引き寄せられる。
 アドニスは美奈子の腰を抱くようにすると、顔を近づけてきた。
「あなたさえその気なら、優雅な暮らしをさせてやってもいいと思っている」
「冗談は、顔だけにしておきなさいよ」
 甘く囁くようなアドニスの言葉だったが、美奈子がすんなりその言葉を受け入れるはずもない。
「いいのですかな? わたしをあまり拒むと、ミネルバの身に、不幸が降り注ぐことになるが………」
「アドニス、お前!」
「よく、お考えになられることです。王家の血筋が手に入るのなら、わたしはあなたでもミネルバでも、どちらでもよいのですよ」
「くっ………」
 美奈子は悔しげに唇を噛む。キッとアドニスを睨み返すが、次の瞬間、美奈子はアドニスに唇を奪われていた。
 パチン!
 乾いた破裂音がし、美奈子の体はアドニスから離れた。
「姫、あなたは今夜、わたしの部屋に来るのです」
「いいかげんにして!」
「残念だが、あなたには選択の余地はない。妹の身が大事なら、わたしに従うしかないのですよ」
 アドニスの高笑いが響く。
 美奈子はもう一度平手打ちをしたやりたかったが、その気持ちを抑え、くるりときびすを返して歩き出した。
「どちらへ行かれるのですかな………」
「部屋に帰ります!」
 背後にアドニスの嫌らしい視線を感じていたが、美奈子は振り返らなかった。
「心の準備をしておきなさい」
 アドニスの声は、強制的な響きがあった。
 背を向けたまま美奈子が、アカンベーをしているなどとは、この時アドニスは夢にも思わなかっただろう。

 アドニスは背後に強烈な殺気を感じ、身を強張らせた。心の動揺を相手に気取られぬよう、努めて平静を装って、ゆっくりとした動作で振り向いた。
 殺気を放つ者の見当はついていた。
「やはり、貴様か………」
 アドニスの視線の先には、アルテミスがいた。十メートルも離れているのだが、彼の放つオーラは、アドニスを圧倒していた。さすがのアドニスも、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
 アルテミスは静かにこちらを見ていたが、その瞳には底知れぬ怒りが秘められていた。
「アマトスとパポースのときも、同じ事を言ったのか?」
 低く押し殺したかのような声だった。並の相手なら、声だけで震え上がっただろう。
「あのふたりに訊いたのか? ………いや、そんなはずはないな。だれも知らぬはずのことを、なぜ貴様は知っている?」
「俺たちを甘く見ないことだ」
「だが、アフロディアは俺の部屋に来るぞ。妹可愛さに、その身を売りにな………」
 勝ち誇ったようにアドニスは言う。
「おめでたいやつだな。残念だが、そうはならないよ。以前とは状況が違うんだ」
 アルテミスは不敵に微笑んでみせた。そのままくるりときびすを返す。
「負け惜しみだな。貴様がどう足掻いたところで、アフロディアは貴様のものにはならんぞ!」
 アルテミスの背中に突き刺さるように、アドニスの声が響いた。アルテミスはピタリと歩みを止めた。
「お前はまだ、彼女がアフロディアだと思っているのか?」
「何!? どう言うことだ!?」
「今の彼女は愛野美奈子なんだよ。貴様が知っているアフロディアではない。思い通りになると思ったら、大間違いだ」
 アルテミスは背を向けたまま言うと、再び歩を進めた。
 アドニスはアルテミスの言葉の意味の全てを理解できぬまま、悔しげに、その背中を見つめるしかなかった。