体育の時間
六時間目は体育だった。
得意中の得意の科目だ。体育なら、だれにも負けないと言う自信がある。
男子生徒は、校庭の大部分を使用して、サッカーをやっている。試合などという、大層なものではない。お遊び程度のゲームである。
体育は授業だとは言っても、試合形式でやっているのだから、もう少しまじめにプレイしてもらいたいものだと、愛野美奈子は思った。白い歯を見せて、ダラダラとプレイしている生徒が目立つ。真剣にやっているのはサッカー好きの一部の生徒や、サッカー部員くらいのものだ。近頃の男子は、だから軟弱者と言われるのだ。
自分などは、例え鉄棒であろうとも真剣に取り組む。一年生の頃は、前方抱え込み宙返りなど初歩的な技は、しょっちゅうやっていた。
もちろん、その度に、先生にはこっぴどく怒られた。中学校程度の鉄棒の設備でその技をやるには、危険すぎるのである。技がやれてしまうこと自体、先生からは不思議がられていた。
そういえば、最近は滅多にやらなくなった。特に理由はない。ただ、やっていなかっただけである。本当に、それ以上の理由はない。
だが、今日の体育は、その鉄棒だった。久しぶりにやってみようかとも思う。やってみようと思ってしまったら、歯止めがきかなくなるのが、美奈子という女の子だった。
「美奈、危ないことしちゃ駄目だよ」
元気一杯に準備運動をする美奈子の横で、勘のいい親友のひかるちゃんが先手を打って注意してきた。
「アハハハ………。大丈夫、大丈夫。ひかるちゃんは、心配性ね」
こう言われると、美奈子は何もできなくなる。ひかるちゃんは、美奈子の弱点をよく知っていた。美奈子は先手を打たれると、いきなり防衛側にまわってしまう。先手必勝タイプの美奈子は、相手に先を越されると非常にモロい面があった。
「はぁ………。つまんないなぁ………」
美奈子にとっては、逆上がり程度の技の練習など、わざわざ練習するまでもない。鉄棒も床運動も、プロ顔負けの腕前を持っている。きちんと練習すれば、オリンピックで金メダルを取ることも夢ではない。と、本人は思っている。
「美奈、あんたの番だよ」
ひかるちゃんが教えてくれた。
美奈子は仕方なく、鉄棒の前に立った。
先生がじろりと見る。その目は、余計なことはするなと訴えている。
「はぁ………」
大きく溜息を吐いて、鉄棒を握った。
ズーン。
何やら違和感があった。変な気分だった。
顔を上げてみた。
先生や、他のクラスメイトたちが驚いたように、辺りをキョロキョロとしている。
口々に、何かを叫んでいる。なのに、声が聞こえない。
美奈子は、自分の耳がおかしくなってしまったのではないかと思った。
「どうしたのよ、みんな………。何を探してるの?」
それでも、しっかり質問することは忘れなかった。だが、答えが返ってこない。そればかりか、だれひとりとして自分に気が付いていないようだった。
ひかるちゃんが何かを叫びながら、自分の方へ向かってくる。相変わらず声が聞こえない。
「ひかるちゃん!」
美奈子はひかるに自分の存在を知らせようとして、手を伸ばした。だが、ひかるちゃんの肩を叩いたはずの自分の手は、ひかるちゃんを素通りしてしまった。
「え!? う、うそぉ!!」
美奈子は、ひかるちゃんの身体を素通りしてしまった自分の手を、まじまじと見つめた。そして、自分の手と見比べる。
「どうなっちゃってるの!?」
頭の中が、パニックになりそうだった。状況が理解できない。
「セーラーヴィーナス!!」
突然声が響いた。女性の声だ。
「だれ!?」
美奈子は警戒する。この状況下で、自分のことをセーラーヴィーナスと呼ぶ者がいれば、ほぼ敵であると考えて間違いはない。仲間であれば、このような悪戯をするとは考えられない。美奈子の戦士としての勘が、声の主が敵であると告げている。
「あなたね。こんなおかしな真似をしたのは………!?」
防御の構えを取ったまま、叫ぶように訊いた。相手の位置が分からない。こんなとき、仲間がこの場にいてくれたらと、ちらりと思う。レイならば持ち前の霊感で、相手の位置を察知してくれるだろうし、亜美なら常に携帯しているポケコンを操作して、相手の正確な位置を割り出してくれるだろう。際だった索敵能力のない自分が、こういう場面になると歯痒くなる。
「おかしな真似!? これでもまわりに被害が出ないようにと、気を使ったつもりなんだけど………。わたしの虚空間は、お気に召しませんか?」
声はどこからともなく響く。声を頼りに相手の場所を特定することは困難だ。
「虚空間!?」
「そう………。今、あなたはわたしの作った空間の中にいるのよ。心配しないで変身していいわよ。あなたからは見えても、通常空間の彼女たちからは、あなたは見えないわ」
「………そのようね」
美奈子はこの会話の最中も、油断なく辺りの気配を探っていた。
「わたしの姿を捜しても無駄よ」
美奈子をあざ笑うかのように、女性の声が響く。
「わたしは通常空間にいるから、例え見つけられたとしても、あなたは攻撃すらできないわ。もっとも、わたしもだけど………」
「いったい、どういうつもりなの!?」
段々と、苛ついてきた。敵の真意を計りかねて、苛立ちを覚えてきた。
「ちょっとした、お遊びよ」
そう女性の声が聞こえたかと思うと、校庭の中央から、強烈な殺気が伝わってきた。
視線を向ける。
サッカーをしている男子生徒の中に、何か“得体の知れないもの”がいる。もちろん、男子生徒からは、その“得体の知れないもの”は見えない。
昆虫のようなモンスターだ。だんご虫を思わせる体型に、甲虫類のような六本の足。その中の人間で言えば手にあたるであろう一対は、カマキリのような大振りの鎌になっていた。
美奈子の背中に悪寒が走った。
「妖魔!?」
美奈子は、モンスターの正体が妖魔であると断定した。かつて戦ったことのある妖魔と、その昆虫型のモンスターは、同じ波動を持っているように感じたからだ。
「ヴィーナス・プラネット・パワー! メイク・アップ!!」
美奈子はセーラーヴィーナスに変身し、昆虫型の妖魔を迎え撃った。
「早い!?」
ヴィーナスは、その昆虫型の妖魔の動きに舌を巻いた。昆虫独特の、素早い動きを見せたのだ。
大振りの鎌が空を切り裂き、ヴィーナスを襲う。
しかし、ヴィーナスも伊達に四守護神のリーダーを名乗っている訳ではなかった。戦いの経験も、他の三人に比べれば一年先輩である。
妖魔程度の相手なら、一瞬のうちに動きを見切ることができる。
鎌の第二撃をひらりとかわすと、ヴィーナスは宙に身を踊らせた。妖魔は追ってはこれない。
校庭を見下す。
妖魔が宙に浮いている、自分を見上げた。
「クレッセント・ビーム!!」
一筋のビームが、妖魔の眉間に突き刺さる。
勝負はその一撃でついた。
眉間にビームの一撃を食らった妖魔は、そのままピクリとも動かなくなった。ショッカーの怪人に殺された人間のように、泡と化して消えた。
ヴィーナスは地面に着地すると、乱れた髪を掻き上げた。
「さすがね………」
先程と同じ、女性の声が聞こえてきた。
「今日のは挨拶代わりよ。また改めて、お邪魔するわね」
声の存在が、次第に遠くなっていくのが感じられた。「虚空間」も解けようとしている。
「いけない、もとに戻らなくちゃ………」
ヴィーナスは美奈子の姿に戻ると、鉄棒のところへ行った。
空間がもとに戻る。美奈子の身体は、通常空間に戻された。
何食わぬ顔で、逆上がりをする。
「何してるの? みんな………」
フィニッシュを華麗に決めると、未だ自分を捜してウロウロしている先生やクラスメイトたちに声をかけた。
「み、美奈!? あんた、どこ行ってたの!?」
ひかるちゃんは、目をまん丸にして驚いている。
「どこって、あたしはずっと、ここにいたわよ………」
もちろん、美奈子はとぼけてみせる。本当のことなどは、口が裂けても言えない。正体を秘密にしておくのは、変身ヒーロー(ヒロイン)の醍醐味である。
「だって、見えなかったわよ………」
ひかるちゃんはまだ信じない。他のクラスメイトも同じである。疑わしげな視線を、美奈子に向けている。
「勢いよく逆上がりしてたから、見えなかったんじゃない?」
冗談ぽく、美奈子は言った。
「また、大車輪でもしてたんじゃない?」
と、他のクラスメイトの声がする。冗談のように聞こえたが、美奈子なら本当にやりかねなかった。
先生が、じろりと美奈子を睨む。
「や、やぁねぇ先生!」
美奈子は例によって、笑って誤魔化すしかなかった。