scene.5


 化学担当の白川教諭に放課後職員室に呼び出されたまことは、さんざん絞られてげっそりした表情で教室に戻ってきた。先日行った小テストの点数が、最悪だったからである。
「絵美菜、悪い! お待たせ!」
 教室のドアを勢いよく開けたまことは、自分の帰りを待っているはずの絵美菜に声を掛けた。が、彼女の姿が見えない。
「あれ? 絵美菜知らないか?」
 まことは近くにいたクラスメイトに訊いてみた。
「え!? 部活に行ったみたいよ」
「そうか、すまない」
 まことは小さく舌打ちすると、くるりと反転し、演劇部の部室に向かって全力疾走した。
「ひとりで動くなって、あれほど言ったのに!」
 走りながら吐き捨てるように言う。
 演劇部の部室に着くと、まことは乱暴にドアを開けた。
「絵美菜は!?」
「さ、さっき来ましたけど、気分が乗らないって言って、また出て言っちゃいましたぁ」
 まことの勢いに驚いたのか、琴音が少しおどおどした口調で答えた。
 まだ部員が揃っていないのか、活動らしい活動はしていなかった。早めに来た部員が、劇で使う小道具を作っているだけである。
「どこ行ったか分かるか?」
 自分の目の届かないところで、絵美菜の身に何かあったら一大事である。守ってくれと言われているうさぎに合わす顔がない。
「永嶺先輩は、気分が乗らないときはよくエレクトーンを弾きに音楽室に行くんです。ですから、今もたぶん………」
 答えたのは和恵だった。
 まことは改めて部室内を見回した。現在部室にいるのは、和恵と琴音、沙輝の三人だけだった。
「美奈も一緒に行ったのか?」
 部室に美奈子の姿がなかったので、まことは少しばかり期待した。美奈子が一緒に付いて行ってくれてれば、何も慌てる必要はない。しかし、
「いえ、愛野先輩は今日はまだ来てませんけど………」
 和恵は首を横に振った。
「ごめ〜ん、遅れちゃって。あれ?」
「ちっ!」
 呑気な声を上げて美奈子が部室に入ってくるのと、まことが飛び出していくのがほぼ同時になった。
「どうしたの? まこ」
 美奈子は目の前で狼狽している和恵に訊いた。
「永嶺先輩が音楽室に行ったって話したら………」
「まさか、音楽室へは絵美菜ひとりで行ったの?」
「はい………」
「す、すみません。あたしたち気が付きませんでした………。もっと気を付けなきゃいけないのに………」
 事の重大さにようやく気付いたのだろう、沙輝が今にも泣き出しそうな顔で言うと、和恵も琴音も不安そうに美奈子の顔を見つめた。彼女たちも心のどこかで、「呪い」なんて言うものを信じてなかったのだろう。しかし、まことと美奈子の慌てぶりに、事態は自分たちが考えている以上に深刻であると悟ったのだ。
「やっほー! あれ? どうしたの? そんな深刻な顔して………」
 恵利と志帆のふたりが部室に入ってきた。重苦しい部室の雰囲気に、ふたりは表情を曇らせた。
「とにかく、あたしも行って来るわ。大丈夫、まこが先に行ってるから」
 努めて美奈子は笑顔で言うと、演劇部の部室を後にして、音楽室へと向かった。

 広い音楽室には誰もいなかった。
 コーラス部は商業科の校舎にある第二音楽室を使用しているので、普通科の校舎にある第一音楽室は放課後は誰にも使用されることはなかった。
 絵美菜は芸術科目で音楽を選択していることもあり、放課後の入室を特別に許可されていた。音楽担当の生稲先生と個人的に親しいことも、放課後の入室を許されている理由のひとつでもあった。
「使用禁止?」
 絵美菜はエレクトーンに貼り付けてある張り紙に、首を傾げた。午前中の授業では問題なく使用できていたはずだ。その後の授業で故障でもしたのだろうか。
「仕方ないわね………」
 絵美菜は小さく溜め息を付くと、エレクトーンの横に並んで置かれているピアノの椅子に腰を掛けた。エレクトーンが使えないのならば、ピアノを弾くしかなかった。
「はぁ………」
 ピアノの鍵盤を見つめて、絵美菜は深い溜め息を付いた。エレクトーンは得意だが、ピアノは自信がなかった。しかし、折角音楽室まで来たのだから、少し弾いて気分を落ち着かせなければならない。
「よし!」
 絵美菜は深呼吸をしてから、鍵盤を叩いた。

「絵美菜!」
 まことは第ニ音楽室のドアを勢いよく開けた。
 複数の視線がまことに向けられた。皆、不思議そうにまことを見ている。
「え!?」
「絵美菜を捜してるの? でも、ここにはコーラス部の部員しかいないけど………」
 答えてくれたのは、まことと同じクラスの漆原里見だった。
「い、いや。絵美菜が音楽室に行ったって聞いたから………」
「ああ、だったら第一音楽室じゃない? あの子、たまにあそこでエレクトーン弾いてるから」
「第一音楽室?」
 音楽を選択していないまことは、音楽室がふたつあることを知らなかった。だから、音楽室と聞いて、商業科の校舎にあるこの第二音楽室に走ってきたのだ。
「普通科の校舎にあるわよ。位置的には商業科の校舎と同じよ」
「さんきゅう、うるちゃん!!」
 まことは反転して今来た廊下を戻った。階段の途中で、こちらに向かってくる美奈子と出会した。
「まこ! 絵美菜は!?」
「こっちじゃない! 普通科の校舎の音楽室だ!」
 どうやら美奈子も、音楽室と聞いて普通科の校舎にある第一音楽室は連想できなかったようだ。
 まことは階段十段分を一気に飛び降りた。
 その時、ふたりの耳にピアノの音色が聞こえてきた。
「ん? ピアノ!? エレクトーンじゃないのか!?」
「ピアノを弾きたい気分なんじゃないの?」
 第一音楽室に向かう途中、まことは美奈子が部活に遅れてきた理由を聞かされた。
 実は美奈子は、謎の呼び出しを受けてプール脇へ行ったらしいのだ。しかし、二十分待っても誰も来ないので、質の悪い悪戯だと思って戻ってきたと言うのだ。
「嫌な予感がするぜ」
 走りながらまことは呟いた。廊下を走るなと言う男性教師の怒鳴り声が聞こえだが、そんなことにかまっている暇はなかった。
「ピアノの音色が止んだわ………」
 美奈子は足を止めて耳を澄ました。先程まで聞こえていた美しいピアノの音色が。今ピタリと止んでしまったのだ。
「急ぐぞ!」
 まことは美奈子を促した。

 気分良くピアノを弾いていた絵美菜だったが、しばらく弾いているうちに、音色に異常があることに気付いた。僅かな音の揺らぎだったのだが、妙に気になった。
「中に何か落ちてるのかな?」
 絵美菜は立ち上がると、ピアノの背面に回った。中を覗き込んでみる。特に異常は見られなかった。
「気のせいか………」
 絵美菜は首を傾げ、ピアノの正面に戻ろうとする。
「絵美菜!!」
 まことの叫び声。
 何かが空を切って飛んできた。
 ビチッ!
 自分の背後で異様な音が響いた。硬いものが、柔らかい何かに当たった音のような気がした。
 絵美菜は背後のピアノを振り返った。
「!?」
 声にならない悲鳴を上げた。
「馬鹿! 早く離れろ!!」
 まことが怒鳴りながら走ってくる。
 しかし、絵美菜は動けなかった。恐怖のあまり、体が硬直してしまっていた。思考も停止してしまった状態だ。
「まこ! 絵美菜と伏せて!!」
 美奈子は叫ぶと、制服の胸ポケットからコンパクトを取り出した。再び絵美菜に向かって牙を剥いた“それ”に対してコンパクトを投げつける。クレッセント・ブーメランだ。
 風を切って突進したクレッセント・ブーメランは、正に間一髪のところで“それ”の首を切り落とした。
「なんだって、蛇がこんなとこにいるのよ!?」
 自分の手元に戻ってきたクレッセント・ブーメランを乱暴に掴むと、美奈子は誰に問うともなしに叫び訊いた。
 田舎の学校ならまだしも、都会の高校の教室に蛇が出現するなどとは、あまり聞いたことがない。
「絵美菜大丈夫か!?」
 まことは咄嗟に、絵美菜を押し倒す形で床に伏せていた。腕立て伏せの要領で自らの上体を起こすと、眼下の絵美菜に訊いた。
 しかし、絵美菜は恐怖のために震えるだけで、声が出てこなかった。
「取り敢えず警察だ、美奈! 若木っちに来てもらおう。他の連中じゃ当てにならない」
「オーケイ!」
 美奈子は肯くと、携帯電話を手に取った。

 若木トシオは、三十分程で十番高校にやってきた。応対は彼と仲の良い美奈子が行った。
 椅子に腰掛けて怯えるだけの絵美菜に、事情聴取はできないようだった。絵美菜に事情を聞いていた佐伯美佳は、小さく肩を竦めて若木を見た。
 若木も仕方ないな、と言う風に小さく肯いた。
美佳姉(みけねぇ)。少し落ち着いてから、あたしが訊いてみるわ」
「ええ、お願いね。何か分かったら、ケータイの方にメール送ってくれる?」
 若木の部下である佐伯美佳とも、美奈子は顔なじみだった。どうやら、事情聴取紛いのことを、美奈子はやらなければならなくなったようだ。
「皆本先生」
 頼むとばかりに美奈子の肩をポンと叩いた後、若木は絵美菜の手を握って励ましていた皆本に声を掛けた。
「彼女はもうけっこうです。誰か付き添わせて、今日は帰宅させてください」
「はい。ありがとうございます」
 皆本は礼を述べると、優しく絵美菜を立たせると、音楽室を後にした。
(あたしが付いていく)
 まことはアイコンタクトで美奈子にそう告げると、皆本たちの後を追った。
「………しかし、厄介な事件に首を突っ込んだものだな」
 皆本たちが音楽室を出ていくのを確認すると、若木は呆れたように美奈子に言った。

「絵美菜!!」
 皆本に付き添われ音楽室を出てきた絵美菜を待っていたのは、青ざめた表情の演劇部員たちだった。他にも夢や雪の姿も見える。
「絵美菜、ごめんね。あたしが変なこと言ったばかりに、怖い思いさせちゃって」
 夢は絵美菜にすがりつくと、ボロボロと大粒の涙を流した。
「もういいよ。もうやめよう。やっぱり、これは危険だよ」
「………大丈夫だよ、夢。ちょっとびっくりしたけど、少し落ち着いたから」
 絵美菜は笑顔を作ってみせたが、無理矢理作ったその笑顔は痛々しかった。
 それがかえって皆を不安にさせる。
「誰か、永嶺を家まで送っていってやってくれ」
 皆本が言うと、志帆、和恵、恵利の三人が送ると申し出てきた。
「有栖川、お前も一緒に行け」
 部活を早退することになるのだが、ある意味仕方がないと判断したのか、花月は夢にそう言った。
「ある。お前も付いていってやれよ。あの子たちだけじゃ不安だ」
 遠巻きに絵美菜たちを見ていた神部は、横にいる有馬に言った。本来なら皆本が付き添うべきなのだろうが、皆本には事件を校長に報告する義務があった。
「分かった。ほな行ってくるわ。さくらのこと頼んだで」
 有馬はそう言い残すと、生徒たちの方に小走りに駆け寄っていった。

「失礼致しました」
 校長室から出てきた皆本の表情は、明らかにやつれていた。周囲の反対を押し切って採用した台本だったが、やはり今までと同じように、予期せぬ事故が起こった。幸いにも大事には至らなかったが、この後どんな災いが降り掛かるか、分かったものではなかった。
「だから、言わないことじゃない」
 疲れ切った表情の皆本を、野崎は鼻先で笑い飛ばした。
「毒蛇に噛まれなかったからよかったものの、誰もいない音楽室で噛まれていたら、間違いなく永嶺は死んでいたんですぞ! この責任をどう取るおつもりですか? 皆本先生!」
「だけど、何で音楽室に毒蛇が………」
「それは警察が調べることです、生稲先生」
 未だに納得がいかない様子の生稲に、野崎は矛先を変えた。
「放課後の音楽室の出入りを、特定の生徒にだけ許すとは、差別ではないのですか? あなたの責任も軽くはありませんぞ!」
 放課後の音楽室の出入りを絵美菜に許可していたのは。他でもない生稲だったのだ。野崎に責められ、生稲は項垂れるしかなかった。
「台本は変更しますね、皆本先生」
 責任を追及され押し黙ってしまった生稲に嘲るような視線を投げ掛けた後、野崎は再び皆本に視線を戻した。
「いいえ、台本は替えません。校長の許可を頂きました」
「なんですと!! 校長は何を考えているのだ! わたしが掛け合ってくる!!」
「待ちなさい、野崎先生!!」
 校長室へ乗り込もうとした野崎を制止したのは、神部だった。
「どうしてあの台本を変更させたいのですか? あの台本に何があるって言うんですか? まさか野崎先生は、本当に呪いなんてものを信じてらっしゃるんじゃないでしょうね?」
「そんな馬鹿げたものを信じているわけではない!!」
「じゃあ、何があるって言うんです? あの台本に、何か都合の悪いことでも書かれているとでも?」
 神部は意識してゆっくりとした口調で言った。野崎の顔に、一瞬だけ動揺の色が浮かんだ。
「何をおっしゃりたいのか、わたしには分かりませんな」
 不服そうに舌打ちすると、野崎は足早に職員室を後にした。神部はその野崎の背中を、射るような視線で見つめていた。
「かんぴ、お前何か知ってて隠してないか? あの台本に、もしかして何か意味があるのか? それを知ってしまったから、優希は殺されたんじゃないのか?」
「何もない。気にしすぎだ」
 神部はそう言い残すと、職員室を後にした。