ACT6 ジュピター  (Part24)


 巫女(シャーマン)テラの死が、六年も経てから民に月への不信感を芽生えさせる種になろうとは。セレニティの部屋を後にしたエンディミオンは、憂い顔のセレニティを思い起こし、表情を曇らせていた。
 だが、気を取り直すように、頬をぴしゃりと叩くと、妹たちの部屋に入った。
「エンディミオン」
 母親(テラ)似のエアがはしゃいで駆け寄ってきた。
「今日ね、とっても綺麗な貝殻見つけたの。ガイアとエンディミオンに見てもらいたくて」
 広げた手のひらには、巻貝、二枚貝などの貝殻が宝石の如く磨かれて光彩を放っていた。エアはひとりで遊ぶのに事欠かない子であった。
 部屋の奥で座っていたガイアは、自分に視線を移したエンディミオンに、微笑を返した。
 ヴィーナスとしての記憶を取り戻したガイアは、情緒は安定しているものの、以前のような快活さが影を潜めた。今では、エアとでなければ、遊びに興じようとしなくなってしまった。
「本当に宝石のようだ。今度、一緒に行こう」
 エンディミオンが満面の笑みで返すと、エアは嬉しそうに頷いた。それから、エアのとりとめのない話に、エンディミオンは微笑ましく相槌を打つことに終始した。ガイアも、自分から口を開くことはなかったが、エアの持って来てくれた貝殻を大切に手にしつつ楽しそうに耳を傾けていた。
 エンディミオンには、ガイアがヴィーナスであろうと、自分の妹であることに変わりなく、エアと共に可愛い妹であった。
「時間ができたら、遊びに行こうな」
 そう何回妹たちに言聞かせて来たであろうか。実際に一緒に遊ぶ時間がなかったから、少しの間でも会話が楽しく貴かった。
 エアの口惜しそうな眼差しに、後ろ髪が引かれる思いで、エンディミオンは妹たちに一時の別れを告げる。
 水晶の淡い光が反射する神殿の廊下を歩くエンディミオンに声をかける者があった。
「エンディミオン殿」
 後ろ上方より、暗がりのなかから一羽の鴉が真紅の眼光を光らせ現れた。
「マースか。どうした?セレニティに何か?」
「そういうことではございませぬ。ただ、貴方が最近頻りにプ――セレニティの部屋においでなので。それが、よからぬ噂の種になっているのではないか、と」
「俺がセレニティに誑かされている云々か」
 エンディミオンは苦笑する。いつ頃からか、妹たちの部屋に立ち寄るよりセレニティの顔を見に行くことが多くなっていた自分に、今更ながら気付く。
 侍従のなかでそれを快く思っていない者もいるのであろう。彼らにとってみれば、セレニティは地球の女ではない。警戒して当然のことである。咎めるつもりはない。月と親交が開かれるまで軽はずみな行動を控えろという諫言である。
「わかった。自重しよう」
「それと、もうひとつ。気分を害されないで頂きたいのですが……地球の指導者たる貴方には伝えねばならないこと、です」
 マースには珍しく歯切れの悪い物言いであった。
「月への不信を煽る一連の噂、貴方の妹君エア様が関わっているようなのです」
「なっ」
 さすがにエンディミオンも言葉を失った。それから、妹に対する讒言に、俄かに怒りがこみ上がる。
「馬鹿なことをっ。いい加減なことを言えば、君とて許さん」
 エンディミオンの腕にオーラがたぎった。マースは更に後方へと身を翻しながら、酷薄な声で言い捨てる。
「それが、地球を代表する貴方の考えとして変わらないというのであれば、月とて考えねばなりません。このことをお忘れなきよう」
 飛び去るマースを苦々しげに見送りながら、エンディミオンは焦燥を募らせていた。刻の歯車が軋む音――そんな不吉な音が脳裏に反響した気がしていた。

 ある夜、朱雀の悲劇に起因する悪夢にうなされ、ガイアは目を覚ました。
 肩で息をしながら、青ざめた顔で頭を抑える。
 記憶を取り戻して以来、地球の民全てに糾弾されているような心持ちから脱け出すことができずにいた。だから、以前のように外界(げかい)に遊びに行く気も起こらない。
 自分のために、テラが死んだ。誰もが、自分を責めている。
 ガイアはそう思っていた。その苦しみを分かち合えるのは、同じ境遇に生まれたエアだけのはずであった。
「エア?」
 エアの姿が寝台になかった。

 エアは玉座に腰掛けていた。
 あらかじめ立場に一線を引くとして玉座に座することを嫌うエンディミオンは、この「王の間」を利用することはほとんどない。
 臣下はおろか名もなき民に混じり、政務に勤しむことを好む。未だに、この惑星の政情も、己の立場もわかってはいないらしい。
「エンディミオンは、民をわかってはおらぬ。知恵を得たときより、無辜の民であり続けるなど有り得ないというのに……」
玉座に座ると足の届かないエアは玉座から飛び降りるようにして立つと、そう兄を嘆じた。
それに従う人影がひとつ。
水晶の反射光に照らされ、黒い髪と、広い背中を包む白いマントのモノトーンが明らかになる。鼻梁がすっと通る知的な顔立ちのなかで、とりわけアンバランスな猛禽類に似たぎらついた瞳が特徴的な男。
「いつまでも欺きを見逃している無能な民衆ではないということです。……セレニティ、あの女の身体は、我が妹のもの」
「そうだ、メタルス……」
 エアはその男の名を呼ぶ、エンディミオンの側近である針術師の名を。
「シルバームーンにとってみれば、地球がいかに犠牲を払おうとアルテミスの意に従うのは当然のことと考えている。奴等には、罪悪感も謝意もない。悪びれることなく其方の妹の遺体を晒し者にしているセレニティが、それを象徴している」
 エアの言葉は、メタルスに、セレニティの手の甲にある三角形の碧の痣を想起させた。それは七年近く前に行方不明となった彼の妹と同じものであった。
「ヴィーナスの記憶の回復は、ガイアと同じ血肉を分けた、このエアの肉体にリンクして……我を目覚めさせた」
 黄金の瞳と髪が妖艶に閃いた。
地球は全てを受け入れてくれた、ヴィーナスだけではなく。その意味を、エアは――エアの裡に覚醒した彼女は、次のように理解した。
「地球の民に対し、我らは咎がある……それを知らぬ無知という罪を犯し続ける者を、我は誅さねばならない」
 決然とした宣言。
 自分たちの地球への四散が、人に正邪どちらにも転がる知を与え、その知故に、勘繰ることを覚え、生まれた疑心に忍び込む風説に、いともたやすく翻弄される愚民に貶めた。
 愚民であることをエンディミオンは見過ごしている。民衆の闇の部分まで見ようとはしない。だから、盲信・楽観できるのである、民意を。
 だが、自分は違う。それが己の撒いた種とわかっているから。それを正すのが、その贖罪であると信じるから。
エンディミオンを裏切ることになろうとも、月を断罪する。
「我は――ミネルヴァ」
 誇りある女王の名において。

「やはり、巫女(シャーマン)テラの弟君。貴方も、星の意識にシンクロしやすい体質をお持ちでいらっしゃる」
 冷たく光る星々の下、緋色の(まなこ)が一分の隙も与えることなく、相手を捉えていた。
「鴉が口を……?」
 シルクの髪の合間に見える深緑の目にオーラが揺らいだ。
相手に戦闘的なエナジーが充填されたことを確認しながらも、鴉姿のマースは姿勢に微塵の揺らぎもない。マースの存在を地球側で知る者はエンディミオンに留まっている。万一の事態に備えての懐刀として、セレニティを守るための用心であった。
そして、冷静に告げる。
「貴方を呼んだのは私ではない」
その言葉と共に、彼は警戒の色を強めた。薄々感じていた、第三者の存在を確信して。
光は不意に眼前に舞い降りた。幻想的な淡い黄緑色の光に形作られた女。
「私の名はジュピター。月と地球の間に、不吉な影が忍び寄っている。そのために、貴方の身体を借りる」
「なっ、うあっ」
 光の髪が波打って、女は彼に迫った。彼の身体に、光の女は溶け込むように消えていった。彼は頭を抱えて膝を落とす。
「こ、これが……月のやり方か……」
「残念ですが、やり方を選んでいる余裕はないのですよ、フォレスト殿」
 マースの冷厳な宣告も、やけに遠くに聞こえた。そして。
(すまない)
 ジュピターを名乗った光の女の声が脳に直接響いたのを最後に、フォレスト自身の意識は途絶えた。
 それから、フォレストの身体は何事もなかったように立ち上がる。
「プリンセスヴィーナスの帰還と共に、月と地球の国交は正式に開かれる見通しだ。それまでに、私が地球の内情を判断する」
 フォレストの声であったが、それはジュピターの意思によるものであった。
 フォレスト(ジュピター)はマースを肩に留めると、唇をきつく閉ざして、その場を去った。

 かくも不穏な地球の情勢を、アースはただ見守った。命は操れるものではない。テラが自らの意思で、外宇宙との接触を意味するヴィーナス・ミネルヴァの転生を決断したときから、人はその手を離れた。ただ、見捨てることなく行く末を見守ることが、地球に人を生んだ己の務めであると心得ていたのである。

「妖魔っ!?」
「いえ、このエナジー反応は……」
 美菜子の問いに、藍は言葉を濁す。むしろ自分たちに近いエナジー。マースの反応とも違う。銀水晶のものに及ばぬにしろ、この力の大きさは――。
「あたしのウォータークリスタルを上回る規模の、新たなクリスタル反応……」
 藍は舌にぷつぷつと浮かぶ唾を飲み込み呟いた。
 その反応が示されている地点は、距離・方向から判断すると、エンとつかさが向かった孤児院の裏山と思われた。
 一抹の不安に頭を抱えながらも、藍は自分の目で確かめるべく、走り出していた。
 そして、美菜子も。
「まさか……『大水晶』……」
 藍の言葉に、心当たりがあった。前世の記憶から引き出された独白。シルバームーンでも最大級のクリスタルを持つ戦士の存在を、美菜子は思い出していた。

「つ、ついに覚醒したか……」
 一面に立ち込める焦げ臭い煙のなか、エンは緊張の面持ちで前方を見据える。
 煙が晴れるにつれ、周辺の木々を裂き焦がし、地面を抉った小規模なクレーターのような痕跡が明らかになる。
 そのクレーターの中心に立つ少女がひとり。
 まとめていた髪はほどけ、その秘めた力を暗示するように、伸びてウェーブがかかっていた。スパーク状の電光の余韻を帯びたまま煌々と。
 黄金のどんぐりがあしらわれ、腕を装うようにオークの枝葉を伸ばす手甲に包まれた手で、月のレリーフを施されたメタモルフォーゼペンを呆然と見ながら彼女――つかさはひとりごちる。
「こ、これが……私の異能……」
 己の脳裏にあった兎和たちセーラー戦士と同じコスチュームが再現されていた。異なるのは、つかさの瞳に帯びたオーラと同じエメラルド色でセーラースーツが配色されているということである。
 ――闘う姿をイメージしろ、エンと名乗ったぬいぐるみはペンを渡してそう言った。
 兎和たち同様、つかさにもスタークリスタルを発動させるのに、闘う意志だけではなく、明確なビジョンと、エナジーに相応する肉体への変質が必要だったのである。生身では耐え切れない故、本能がセーブをかけていたのである。
 エンは息を呑んだ。これほどの力の解放は、美菜子のときも、兎和のときもなかった。クリスタルの個体差では片付けられない。
 違いといえば、彼女たちの装備にはない枝葉の籠手(こて)
(雷電の象徴オークをあしらった籠手……なかでも、黄金のどんぐり(ゴールデンオーク)はエナジーを雷電に変換するのに使うもの)
 植物の操作を、フォレストから教わったエンは、黄金(こがね)色のどんぐりの意味が理解できた。
 メタモルフォーゼペンに込められた変身を可能にさせるエナジーが、雷電の象徴オークの実であるどんぐりに反応し、フォレストが託した願いと力を具現化した。彼女の脳裏にあったセーラー戦士のイメージを再現したのと同様に。
「フォレスト……」
 つかさはオークで彩られた籠手(こて)を装着した右腕を、胸のまえで摑みながら独白すると、エンに視線を転じた。
 彼女の胸で激しくスパーク状の碧光を迸らせていたクリスタルの発光も収束する。
 それは、彼女がその強大な力に振り回されることなく律している証明である。つかさの潜在能力をエンは感じ取っていた。
 そのエンの視線に合わせて、つかさは右腕を掲げた。籠手をはっきり見せるために。
「これは……フォレストから託された。籠手(こて)が、私に力をくれていることがわかる。あいつは……結局敵なの?味方なの?」
 本来なら募る困惑が表出してもおかしくはないであろう。しかし、つかさは異能の者、人外の戦いを、彼女なりに冷静に把握しようとしていた。それ故、彼女は己が加わるであろう陣中でエンが指揮官格であることを見抜き、判断を仰いだ。
 エンはつかさの冷静な態度に内心感嘆しながらも、己の役目を果たす。
「フォレストの目の色、声色が変わっただろう。それは敵の女王に憑依されたためだ。どこまでが奴の意思かは正直わからない。だが、少なくとも君に新たな力を与えたのは事実だ」
 わかる限りの返答であった。それ以上の予測は、いきなり非日常の戦線に立つことになったつかさを混乱させる。彼女自身の目で確かめ、彼女の頭で考えてもらうしかない。その力量が彼女にあることを、この短い時間のうちにエンは確信していた。
「新たなセーラー戦士ってわけね」
 呆れたような苦笑混じりの声が、エンの思惑を測っていたつかさの耳に届いた。マーキュリーと呼ばれていた女の声と認識してつかさは視線を上げる。
「戦力が増えるのはいいことだけど」
 息を切らせてマーキュリーこと藍がそう言い足した。この調子で増えていったら、戦闘は楽になりそうだが、付き合いに肩が凝りそうだと藍は、全力疾走の疲労のあてつけに蛇足的な厭味のひとつこぼしたい心境であった。
 そんな藍をよそに、同様に駆けつけて来た美菜子は神妙な表情で呼吸を整えつつ言う。シルバームーンの戦士たちの長である『大水晶』の所有者の名を。
「ジュピター……」
 そして、ジュピターの能力は、つかさの意志のもと、セーラー戦士として結実した。言うなれば、今の彼女を指し示す名は。
「セーラージュピター……」
 この美菜子の言葉が、今の自分を指していることを、つかさは直感した。そして、彼女たちが自分と同じ宿命を背負う仲間であることも。
「確かに、戦力が増えるのはいいことよ。助けなければいけない人が、また増えたから」
 そう言ったつかさの眼差しは、新たな仲間の面々を見回した。だが、その言葉が自分たちだけに向けられたものではないことを、藍たちは察していた。
 己に言い聞かせて覚悟を決めるためのものでもある、と。
 しかし、つかさは知らない。新たに助けると決めた人物が、既に存在しないことを。この場にいる誰もが知ることはない現実である。
「そうね……助けなきゃいけない人がいる」
 藍は口許に笑みを洩らしながらひとりごちる。
 闘いへの覚悟を明らかにしたつかさの声音は、能力の使用方法を教えて欲しいと訴えたときと同じ切実な響きを有していた。
それを聞き分ける耳を持っていたからこそ、藍は自問した。つかさの真摯な闘志に比べ、自分の覚悟はどうであるか。
水野藍として生きる矜持を思い出させてくれた兎和のために。自分を信じてくれる人を裏切ったら、もう水野藍として生きられないから。だからこそ、その人たちと生きられる世界を守るために、兎和たちを助けて闘うのだと、戦士としての原点を振り返る。
藍もまた助けるものを、守るものを再確認するかのように、周囲を見回し、そして美菜子たち、兎和のいる孤児院を見つめた。
美菜子とエンは、新たに戦渦に巻き込んでしまったつかさ(ジュピター)に申し訳なく思いながらも、自分たちの陣容が揃うことが却ってミネルヴァとの最終決戦が迫っている兆候に感じられ、複雑な心境にあった。
「ふたりとも……」
美菜子が思い詰めた表情で唇を開いた。
振り返った藍とつかさは、その表情にただならぬものを感じ、美菜子の続く言葉を黙って聴いた。
「多分、妖魔との最終決戦はもうすぐ。もう否応もなく闘わざるを得ない状況になってしまった今更話しても、遅きに失するけれど、聞いて欲しい。妖魔の女王、ミネルヴァとの因縁を。何故、貴女たちが戦うことになってしまったのかを」
 事の起こりは、ヴィーナスのいたらなさによるもの。そのヴィーナスの生まれ変わりである自分には説明する責任がある。こんな生き死にの戦いとは無縁な生涯を送ることができたはずの藍とつかさに、因果の当事者である自分が命を懸けて戦うことを求めること自体不条理なのだから、最低限の責任を果たさねば、顔向けできない。
美菜子に根深く残る前世からの罪悪感が、これ以上仲間を欺き続けることを許さなかった。自分とエンだけでは収拾がつかない事態に進行してしまった現在、戦う以外に選択肢がない仲間への背信、偽善であると訴えて。
とうに覚悟を決めていたはずなのに、切り出せずにいた自分の責任として美菜子は、改めて腹を括る。結果、仲間に見限られることになっても、と。
昔話が始まった。
 エンは目を瞑る。聞くに忍びないことでも、美菜子の覚悟を尊重して。彼女の心情に寄り添うように、隣に控えながら。
 美菜子が懺悔を告白するような敬虔な気持ちで、話し始めたのは――。
 奇しくも、兎和が夢想のなか、銀水晶の導きで追体験している悲劇の概要――。

 

 不用意なことであったろう。
 尋常ならざるエナジー反応――つかさの覚醒に、藍と美菜子両名共、席を外してしまったのは。
 センサーアイで、異状はすぐに察知できる。兎和の容態も、意識が戻らないにしろ安定している。そんな油断があった。
 異状にまず気付いたのは、「火川学院」の所員のひとり、来生が飼うシェパードであった。
 シェパードのルドルフが艶のある黒毛に覆われた耳をピンと立てるなり、ハーネスを引いて来生に異状を知らせる。
 人間よりずっと敏感な感覚を有する盲導犬を連れて、学院を見回るのが来生の日課であった。院内を巡回していたちょうどそのときであった。
「ルド、急いで」
 ルドルフの意図を即座に理解して、ルドルフに案内されながら来生は駆け足になる。
 盲目でも心配はなかった。院内の構造は熟知しているうえ、盲導犬(パートナー)のルドルフとの信頼関係が来生を補完していた。
 まず来生の頭によぎったのは、年少者、子供たちに何かあったのではという不安である。
しかし、ルドルフが導いた先は、彼女の予想に反して、応接室代わりの奥の広間。つかさの連れに、割り当てた部屋である。
ルドルフは入室を急かしている。自分たちに危険が及ぶ種の異状ではないという確信のもと、危急に間に合うべく迷わず来生はドアを開ける。
犬ほどではないにしろ、目が見えない分、発達した彼女の聴覚が、少女の苦しみ喘ぐ声をキャッチした。
兎和が苦しみ喘いでいた。まるで悪夢にうなされるように、意識を失ったまま。
「す、凄い熱」
駆け寄った来生が兎和の額に手を当て、異状を確認する。頻りに寝返りを打って悶えるさま、胸をかきむしるようにして苦しむさまが手に取るようにわかった。単なる発熱ではない気がした。
つかさたちはどこへ行ってしまったのか。来生は兎和がどこの誰であるか知らない。それでも居ても立ってもいられない気分にかられ、助けを呼ぼうとした矢先、来生たちの足音で、異状に気付いた同僚たちのほうから駆けつけてくれた。
すぐさま、つかさは指示を出す。
「苦しみ方が尋常じゃない。つかさに連絡して」
来生とルドルフが寄り添う兎和の様子に、事態を飲み込んだ同僚の女性がケータイを取り出す。
「病院はいいのか?」
駆けつけたもうひとりである長身の男性が疑問を口にしながら、腰をかがめ兎和の容態を覗き込む。
「つかさの判断を聞いたほうがいい」
来生は言葉少なめに答えた。男性を仰いだ表情には、もどかしさが滲む。
錦蔵とつかさたちが来たとき、血の匂いが漂っていたことを来生は気にかけていた。生々しい怪我人を病院ではなくここに連れて来たということは、何かしらの事情があるはずで軽率に行動するべきではない。しかも、来生はつかさへの錦蔵の依頼を知っている。
頭ではそう考えても、手を拱く自分の立場が来生は悔しかった。
(早く出て……)
ケータイにつかさが出るのを、必死に祈っていた。