ACT7 終わりの始まり (Part25)
「こ、これは……本当にあったことだったの!?」
兎和は絶叫する。両手で顔を覆って、眼下に広がる光景が目に入らないように。
「な、何で、何で……あたし、あたしがこんなの見ないといけないのよぉっ」
手で覆っても、差し込んで来る銀光の光源に、兎和はなじった。
顔に立てた爪が食い込む、血が滲むくらいに。それくらい精神の平衡は失われつつあった。現在の兎和は、銀水晶の創り出した仮想空間の意識体であったが、銀水晶の力は痛覚すら忠実に再現している。
銀水晶の意図が、声ではなく心に直接伝わって来る。兎和は微かに両手をずらし、道標のように目の前で光る銀水晶に、涙目の視線を向ける。
「こ、これからだというの……まだ……」
絶望の響きを持った問いかけ。
そこまで言葉にできた刹那、兎和の意識は落下していく、騒乱の地上へと。
騒乱が実際に勃発したのは、地球の王たるエンディミオンの妹ガイアとして転生したヴィーナスの月への帰還に合わせた、地球と月の国交樹立の日のこと。
両星間に漂うわだかまりを晴らす契機となる吉報として、憂いのなか心待ちにしていたエンディミオンとセレニティをあざ笑うかのように。乱は起きた。
「他の星同様、地球をも属国にせんとするシルバームーンに、我等の自由意志を見せつけようぞ」
新たな幼き指導者エアの号令の下。
地球の民は軍を編成し、ヴィーナスことガイアの迎えに訪れた宇宙艇ノアを襲撃する。月に進行する移動手段を得るために。
超能力を許された“戦士”が先頭になって。
「ば、馬鹿な!?地球人に、肉体を持たぬ我々を攻撃する手段が?」
『ノア』の制御システムと同化していたセーラーマーキュリーは、騒乱を素早く把握した。単なる暴動ではないことも。
プリンセスを迎えるにあたって、非戦闘員とはいえ星の化身たるシルバームーンの民も搭乗していた。肉体を持たない彼女たちに危害を加える手段を、一介の惑星の住人が持っているなど有り得ることではなかった。“戦士”ではないシルバームーンの民のエナジーでも鎮圧できるくらいの生命力の格差はあったはずであった。
しかし、その前提が覆されるさまを、マーキュリー自身が身をもって突きつけられることになった。
血色に染まった刃を持った地球兵に、次々と同胞が倒されていく。核であるスタークリスタルを奪われ消滅していく、それは“死”に等しい。
マーキュリーとて戦闘能力を有するわけではない。だが、このままむざむざと同胞を見殺しにはできなかった。
地表上で『ノア』を動かし、その震動で地球兵の態勢を乱れさせる。
思惑とおりの好機を反撃に生かすべく、マーキュリーが『ノア』との接続を解き、スタークリスタルを核にエナジー粒子で基本形態の女性態を形成した。
その瞬間。血塗られた三叉の鉾が、マーキュリーを貫いた。
鉾を持つ黒々とした短髪の頑強な男の姿を、朦朧とする意識のなかでマーキュリーは認めた。バランスの崩れなど意に介さない力量が伺えた。そして、鉾に纏う血糊に人外のエナジーを知覚した。この血がこちらの体内のスタークリスタルを絡め取り攻撃の触媒となっているのである。
体内から、そのスタークリスタルを引き抜かれ、身体を構成する粒子の霧散が加速した。
こうして、スタークリスタルを奪えば、その力を得て更に地球兵の戦闘力は高まる。
エナジーの格差を埋められては、戦闘技術のないシルバームーンの非戦闘員が、マーキュリーの眼前にいる男のような戦士に敵う可能性は低いのは自明であった。
マーキュリーは残された力で、かろうじて精神で繋がっている『ノア』の回路を通じて、シルバームーンに危急を打電する。
「むっ!?」
男――アクアは目ざとく機械の動きを察知し、マーキュリーをシステムから引き離す。
「も、もう遅い……」
せせら笑うかのように歪ませた唇から掠れた声でマーキュリーは呟いた。一矢報いたと思った。
アクアはマーキュリーの使命を全うしようとする姿勢に少なからず共感を抱いた。彼自身意外であったが。
だが、戦場でそれを顧みる時間はなかった。むしろ彼自身の使命遂行を急がねばならない。地球軍の尖兵として、月に攻め込むという急務が課せられているのだから。
自分たちの武具は全てエアが身命を削り、心血を注いで錬成したものである。それらが纏うエアの血が、スタークリスタルに通じるエナジーの引力でシルバームーンの民への攻撃を可能にしているのである。しかし、それも無尽蔵ではない。素早く任務を完遂することが、新たな指導者の肉体的な負担を減らすことにもなる。
アクアは鉾からマーキュリーを打ち捨てた。留意する素振りを微塵も見せることなく。
(このスタークリスタルを制御すれば、この宇宙艇( を操縦できるはずだったな))
エアの指令を思い出し、手中のスタークリスタルをアクアは見下ろす。
アクアの意志に吸収されるように、スタークリスタルは脈打つ光と鼓動のような鳴動と共に、アクアの手のひらに沈み込んでいく。
そして、かすかに覗くスタークリスタルを『ノア』のシステムに向けることで、新たに動力が『ノア』に注入されていくことがアクアには実感としてわかった。スタークリスタルを取り込んだことで、アクアの頭脳が学習する以前に、肉体そのものが、『ノア』を操る術を心得ていた。
「油断するな、敵だっ」
局地的とはいえ勝利に喝采を上げていた兵士に、アクアが叫ぶ。
エナジー注入と同時に、マーキュリーに代わって『ノア』の中枢と結ばれたアクアの精神は、『ノア』のレーダーが敵を捉えると同時に知覚したのである。
烈火の如く紅蓮の光を滾らせる乙女――マースであった。
マースの視覚は、同胞たちのエナジーが絶えた事実を映し出していた。
光の色に、更なる赤みが差す。それは怒りの色。
「エア様の仰られたとおり、ほかにも入り込んでいましたかっ」
鮮紅色に染まった鞭を振り上げ、インフェルノが手勢を率いて上空のマースを追跡する。彼に課せられた役目は、アクアの軍が月に発つのを妨害する者があれば阻止すること。
インフェルノの鞭が一直線に高速でマースに迫るも、緋色にぎらつくマースの眼光は瞬時にそれを捉えた。
「私は“戦士( ”の称号を賜った者……貴様等に無残にも殺された同胞たちとは違うことをっ、肝に銘じろっ」)
マースの怒声が地上を焼き焦がし、地球兵を呑み込まんばかりに炎は勢いを増す。
その一瞬で灰化してしまった鞭に見切りをつけ投げ捨てたインフェルノは、部下を救うべく、己の発火能力をマースが起こした火勢にぶつけ、食い止めようとする。だが、わかってしまった圧倒的な力の差を。エアの加護があってもどうしようもない。
インフェルノは絶望と共に、反逆罪に問われ牢につながれたフォレストを思い起こす。
(彼の言うとおり、戦ってはならなかったのかもしれない)
マースは早々とインフェルノの軍勢の焼死を確信すると、『ノア』を奪還すべく、飛行を再開しようとした矢先、マースの炎が瞬時に鎮火された。
「なっ」
驚愕で、進むのを止めたマースであったが、その瞳は鎮火させた相手を素早く見抜いていた。
「セレニティ……」
そう呟く苦渋の表情をマースに向けられ、セレニティはやるせない気持ちになる。しかし、覚悟を決めたように力強い眼差しを、マースに返した。
セレニティはインフェルノたちを守るように仁王立ちしていた地上から急浮上して、マースの前に立ち塞がる。
「『ノア』は私に任せて。貴女が戦うには、脆弱すぎる相手だということは、今ので立証されたでしょう」
地球を代表する能力者であるインフェルノですら、本気になったマースには一蹴されるしかない。その戦力差は、今の応酬で当人たちがよくわかったはずである。
「貴女は、マーキュリーたち――同胞が、殺されたというのに……何とも、何とも思わないのですか!?」
マースは怒りに震える声を絞り出す。
セレニティの顔が哀切に歪む。
「何とも思わないはずがない。だけど、報復したところで……」
「問答している暇はありません」
言い捨てたその言葉と共に、自らの真紅のエナジーを塗料のようにして目許に隈取ったマースは、セレニティをあえて無視し、『ノア』の動きを見据える。
セレニティが助けたインフェルノの軍勢が、『ノア』に収容されようとしていた。
スタークリスタルを吸収することで増強されることを知った地球兵に、『ノア』のテクノロジーを奪われ、シルバームーンに攻め込まれれば、非戦闘員のスタークリスタルが真っ先に狙われるであろう。それを阻止しきれるとは断言できない。
容赦なく己が怒りを戦闘力に変換していたマースは、力を溜める時間も要さずに、インフェルノたちめがけて巨大な火の玉を放っていた。
「くっ」
セレニティが瞬時に移動し、身体を張って火の玉を受け止める。
だが、そのわずかな間に、マースは自ら『ノア』へと突進していた。執拗に、仲間の仇を殲滅すべく。
「だ、だめぇ」
マースのフルスピードにスタートの遅れたセレニティが追いつけるはずもなく、逆上するマースにセレニティの制止が届くこともなかった。
ただ、地球兵がマースの犠牲になるのを見るしかない。そう思われた。
瞬く間に生育した巨木が、マースの行く手を遮った。
「セレニティ、今のうちにアクアたちを止めろ。彼等を月に行かせてはならない」
エンディミオンであった。
移動スピードが自分よりセレニティに『ノア』を止めることを優先させる指示を出す。そのため、マースの注意をこちらに引きつけようと、地面から次々を尖鋭した樹木を次々と槍のように突き立てていく。
「エンディミオン……っっ」
苦々しげにマースがそう呟いたとき、浮遊する彼女の足元の木々から枝葉が不意に伸びた。隙を突かれ、彼女は足を絡め取られる。
「すまないが、このまま足止めさせてもらうぞ」
エンディミオンの手元から散弾銃のように植物の種子が放たれた。
マースは歯軋りするように唸る。
「エンディミオン……貴様が、貴様さえいなければ……」
セレニティが道を誤ることはなかった。
憎悪の矛先をエンディミオンに向けたマースは木もろとも枝葉を発火させ、自由になるとエンディミオンに襲いかかる。
炎に包まれた彼女の拳は次々とエンディミオンの放った種子の弾を弾いては燃やしていく。
拳が広げられ、ピンと伸びた指がさながら刃物のように、エンディミオンの心臓めがけて繰り出された。
このマースの攻撃スピードに、さすがのエンディミオンも対応し切れなかった。彼は観念しながらも、死に臨んで臆するところを見せることなく目を見開いて、迫るマースの手刀を待ち構える。
そこへ、セレニティが必死の形相で割り込んだ。
「なっ」
止めることは出来なかった。マースも、エンディミオンも言葉を失う。エンディミオンに代わって、マースの手刀にその身を貫かれたセレニティの姿に。
同じエネルギー生命体のマースの手刀は、仮の肉体ごとセレニティ本体にも致命傷を与えていた。
絶望と動揺を隠し切れない表情でマースは、手刀を引き抜いてセレニティの身体を抱きとめ、この事実を確認する。
「き、貴様ぁ」
マースとエンディミオンは両者とも互いに向けて怒声を上げていた。
エンディミオンがいなければ。マースが説得に応じていれば。
セレニティは犠牲にならずに済んだ、とお互いを責めるものであった。セレニティの身体を挟んでいなければ今にも暴発しそうな怒気と殺気が交錯する。
「やめて……私の命に免じて……お願い」
セレニティが消え入りそうな声で懇願する。
憎しみの連鎖を断ち切るには、今戦いをやめるしかないのだと。
この懇願に、マースも、エンディミオンも怒りの矛先を持て余し、悲痛な表情で歯をかみ締める。
セレニティの身体から、エナジーが失せていく。
「セレニティ……」
ふたりの呼びかけに、彼女はまずマースを気遣うように弱々しくも微笑む。それから、エンディミオンに振り返ると、余命を振り絞って彼に手を伸ばした。
その掌上には、セレニティのスタークリスタルのごく小さな欠片がふたつ。淡い光を放って、それぞれ三日月とハート型の水晶細工に形を変える。
それを震える腕でエンディミオンに手渡したのが最期であった。力尽きたように、だらりとセレニティの腕は垂れ下がった。
「セレニティ……」
自失した面持ちでエンディミオンは呟いた。
反応はない。マースはその意味を理解し、俯き沈黙した。だが、エンディミオンは頭では理解していても、感情は現実を受け入れることはできなかった。
「セレニティィーッ」
絶叫は、そのあとの残酷な静寂を際立たせるだけであった。
「セレニティが……死んだ……」
母はその事実を口にした、娘の死に確信を持って。
女王として気丈に振舞うにも限界があった。
独白のあと、アルテミスは脱力したように膝を落とした。シルバームーンの王宮の展望台にて独り、眺望できる地球を見上げながら、肉体があればこういうときに泣くのだろうと思う。
銀水晶が、異郷の地での娘――セレニティの最期の願いを捉えていた。
「私は……どうすればいい」
彼女は自問した。
臣下たちは、マーキュリーからの通達で地球の反乱の確証を得て、即座に征討の準備に取り掛かっている。これが、今までどおりのシルバームーンのやり方に違いない。異なる思想理念は力で抑えつける。金星のミネルヴァにそうしたように。
そして、もうひとりのヴィーナス( もまた地球にいる。無事であることが、アルテミスにはわかる。現在のヴィーナスは、地球の指導者の肉親でもある。ぞんざいに扱われることはないであろう。地球) ( からすれば、月) ( に対する人質という“切り札”としての利用価値もある。)
思えば、母として失策した娘を見捨てられなかったのが、発端ではなかったか。ヴィーナスの再生は、シルバームーンを、星々を束ねる女王としてではなく、母としての個人的な思惑が優先されたものではなかったか。
それが、今の事態を招いたのではないか。
いや、遡れば、娘( の最期の願いに相反する月) ( の流儀に過ちがあったのではないか。)
いずれにしろ、その責任は――。
「私に、ある。だが……どうすればいい」
アルテミスは自らに問答を繰り返す。
統括された星々の生命力( を後ろ盾に、力を行使する月) ( の流儀を今更改める自信は、女王であるアルテミスにもなかった。それに慣れてしまった国の反発は必至。シルバームーンの動揺は、宇宙の混乱を招く原因となろう。)
だからといって、このままいけば、シルバームーンを起点とした憎悪の連鎖は、宇宙に蔓延するであろう。
それを断つには――。
アルテミス自身にも御することができない絶望に反応し、銀水晶は昂る。全てを全てを終わらせる( 、その願いを聞き届けて。)
兎和は見ることとなった。
全てを終わらせるべく選択された月と地球の滅亡のさまを。
その重さは、一介の女子中学生に過ぎなかった兎和に耐え得るものではなかった。
ましてやセレニティの死を追体験し、半狂乱になった彼女の精神は滅亡に巻き込まれた死に対し、過剰に反応し、追い詰められる。
それが現実世界での、彼女の苦悶につながっていた。
「こんなの、背負って戦えって言うの?これが、戦うってことの重さなの?」
兎和の問いに、銀水晶は酷薄な輝きのみを返すばかりであった。逆に銀水晶が兎和の覚悟を詰問するように。
全てを忘れたくなる。全てを放棄してしまいたくなる。
そのとき、暗雲を裂く雷光のように、兎和の心を繋ぎ止める声が聞こえた。
「火織をこのまま見捨てていいの?」
苦痛にうずくまっていた兎和は視線を上げる。
そこには、セーラー戦士となったつかさの姿があった。
「ひ、響木さん……どうして……」
「私も、貴女と同じセーラー戦士とやらだったらしいわ。電気を操るセーラージュピター。貴女の脳内の電気信号にシンクロすることで、貴女の意識を辿ったのよ。うまくいったみたいね」
孤児院からの連絡で駆けつけたつかさが、兎和の容態の急変を探るために、いきなり実戦投入した試みであった。異能で、人を救うべく。
つかさ( は手を貸して兎和を立ち上がらせる。)
「貴女は生きて戻らなくちゃいけないわ。貴女を殺したと思い込んで、火織がますますぐれちゃったら、あの娘( が一番可哀想でしょう」)
ジュピターの言葉は兎和の胸を衝いた。火織が悲しんでくれたことに自己満足して自己完結していた。それが、生還への執着を鈍らせていた。
思考が正常に働き始めたのを物語るように焦点が合った兎和の瞳を確認して、ジュピターは兎和から手を離す。
「ほら、まだ自分の力で立てるじゃない」
続くジュピターの言葉に兎和はハッとさせられた。戦いの意味という重さに耐えられないと思っていたのに。
「美菜子ちゃんから、私たちの前世とやらは聞いたわ。確かに忘れてはならない過去もある。だけど、過去を振り返るための戦いではないでしょう。未来( を生きるために、今戦うのよ、私は」)
あくまで前を見据える力強い眼差し。それをジュピターはあえて兎和に向けなかった。
兎和を誘導することがないように。兎和自身が考えて意思決定を下さねば、意味がない。自己責任に基づく信念なくしては、生還しても、前世( の影に怯えながら生きることになる。)
ジュピターは兎和からゆっくりと手を離し、先を歩く。兎和の意識内から現実世界に戻るために。
兎和が追って来ないのなら、それでも構わない。兎和の精神の崩壊を止めただけでも良しとする。過去に尻込みして、火織を見捨て、自分の世界で悲劇の主人公を気取り陶酔していたいというのなら止めはしない。他人のために命を懸けることは、強要するものではない。
逃避もまた、自分のコンディションと相談したうえで選択される手段のひとつである。
逃避して戻って来るまで待っていらないというのは、こちらの都合にすぎない。
ただ、兎和を布陣から切り離すか否か、その答えを今明らかにしなければならなかった。
★ 朝、始業の予鈴を鳴らして、教室に出かける。
To be continued...
それまで放送室で、部員仲間と今日の放送の打ち合わせをしたり、音楽聞いたり、談笑したり等々をして時間を費やす。こうしているところを、顧問に目をつけられ、朝の予鈴を任される羽目になってしまったのであるが、ついで( のことなので、さして苦にならない。)
それが、放送部一年・波野太一郎の日課となっていた。
今日からテスト週間なので、放送室で勉強しようと彼は早朝から登校していた。
ところが、彼は意外な人物に放送室で出くわす。
「紅堂先輩」
紅堂火織が朝放送室に来るというのは、波野の知る限り前例がない。彼女が入部してまだ日が浅いというのもあるが。
しかも、アナウンサーの彼女としては珍しく音響・放送機材をいじっている。
「壊さないでくださいよぉ。高いんですから」
波野は鞄をサイドテーブルに置きながら、冗談っぽく言った。
「大丈夫よ」
微笑み返す火織の艶めかしさは、とても兎和と同級生には思えない。
(そんなこと言ったら、どつかれるな、絶対)
兎和の正面で今抱いた感想を率直に述べたときの反応を予測するのを口実に、波野は火織から視線を外す。別のことを考えて、この状況にどぎまぎする心を、落ち着かせようという試みであった。
「やっぱ緊張ですかねえ、これで何度目だろ、トイレ行ったの」
不意にあっけらかんとした聞き慣れないハスキーボイスが、放送室に飛び込んで来た。
どこかで見たことある少女であった。黒いワンピースと、同色の光彩を放つピアスから実年齢より背伸びして着飾っているような印象を受けた。年齢は自分たちと同年代であろうが、制服も着ていないし、十番中学( の生徒ではないように思う。波野は首を傾げる。)
「あ、ほかに来てたんだ。こんな早くから」
彼女は、男である波野のまえで、トイレ云々と口走ったのを恥じ入るようにはにかむ。
ここで、波野の記憶の歯車がカチリと噛み合った。思わず、ポンと手を打つ。
「あ、貴女、こ、今度CDデビューする生駒( いずみさん!?」)
唐突に素性を言い当てられ、いずみは目を丸くする。
「あら、さすが、芸能音楽通の波野君。生駒さんだとわかるなんて」
火織が感心したように声をあげた。火織の波野に対する認識はその程度しかない。
波野の父が、いずみの事務所の先輩であり、少年少女のカリスマ・水野藍のマネージャーをしていることは、兎和たちごく親しい間柄しか知らされていないからである。
父の仕事の関係もあって、波野は生駒いずみをチェックしていた。
「く、紅堂先輩のお知り合いなんですか。で、でも、何でまた、こんな朝早くから、こ、こんなトコに」
芸能人を前にして、緊張で声が所々閊えながらも、波野は尋ねた。
いずみと火織は揃って蠱惑的な微笑を浮かべた。そして、火織が返答する。
「生の歌声、聞かせてもらおうと思ってね。せっかくだから波野君にも聞かせてあげて」
「いいですよ……では、水野藍作詞・作曲『月光』、歌います」
火織の目配せに、いずみは笑顔で答えた。火織からマイクを渡され、波野に愛嬌でウィンクする。
これに照れて、緊張が続く波野の頬は一層紅潮した。手を拱いているのも気が利かないので、歌い出しに合わせて拍手する。
(皮肉なものね……『月闇』の名を掲げる者が歌う『月光』か……)
思索に耽った表情のまま、火織は瞑目する。常人には不可視の闇を、周囲に散りばめるいずみの『月光』を静聴しながら。
放送室に、波野が横たわっていた。
静かに寝息を立てて。
「実験も無事成功ですね」
波野の頬をぴたぴた軽く叩きながら、寝入っていることを確認して、いずみがニンマリと笑顔を火織に向ける。
「実験」という物言いがあまりに率直で味気なくて、火織は小さく苦笑した。
「おやすみ、波野君。次に貴方が目を覚ますとき、それが貴方の本当の覚醒のときよ」
火織はいずみを見越して、深遠な眠りへと誘った波野に優しく語りかけた。
光を根絶し、闇で満たすまでの休眠を安らかに送れるように。