ACT4 閉じられた世界  (Part22)


 胸の灼熱と共に視界が黒ずんでいく。
 喉を、生温かいものが押し上がって来て、口の中から溢れた。赤い液体――それが吐血であると彼女は判断できなかった。
 彼女の目は、正面にいるもうひとりの少女の顔に集中していたから。
(もうよそう、そんな……つらそうな顔するくらいなら)
 思いは声にならなかった、その自覚もなかった。ただ、その顔を宥めるように見つめたまま、自分の胸に突き立つ相手の腕に優しく触れた。胸の熱さに意識は遠のき、痛覚も触覚も麻痺していった。そのなかでの無意識の行為。
 相手もつらかった。それがわかっただけでも、彼女は満足であった。
 その思考を最後に、既に何も聞こえなくなっていた兎和(とわ)の世界は暗黒に一変し、火織の顔も、何もかもが見えなくなった。

「か、火織……なんと、なんということを……」
 尻餅をついた体勢で、錦蔵が震える声で呟いた。眼前での惨劇に。
 血の気を失ったセーラームーン(兎和)は、己の身体を貫くソルジャーマース(火織)の腕に支えられるようにもたれかかっていた。うなだれるソルジャーマースは微動だにしない。
 そして、セーラームーンの身体から、銀光が霧散し、兎和の姿に戻る。セーラー服は胸元からスカートの裾にかけて真紅に染まっていた。
 兎和の姿に、つかさは息を呑んで大きく目を見開いた。
「う、卯之花さん……そ、そんな……」
 つかさは、ソルジャーマースの間近まで迫りながら膝を落とした。そして動揺のため震える手で顔を覆う。
「マースゥッ」
 周囲の空気を切り裂く怒声と共に、白い物体が地を駆けた。怒気を全身に巡らし、エンがソルジャーマースに襲いかかる。
 ぬいぐるみの身体で、ソルジャーマースにかなわないことはわかっていた。それでも、愛した女性を失った記憶を呼び覚ましたのを最後に理性が吹き飛び、身体が猪突猛進していた。
「エン」
 眼前の光景に自失していたヴィーナスが、エンのらしからぬ無謀な行動に我に返って声を投げても、彼の耳には届かない。
「マース、貴様、また――また、俺の目の前で、セレニティをーっ」
 そんなエンの唸りに、ソルジャーマースが反応した。髪が揺れて、濡れたように光を反射する緋色の眼を、エンが知覚した瞬間であった。
 エンの身体は地面に叩きつけられる。
 フォレストが立ちはだかっていた。
「フォ、フォレスト……」
 信じられないことが展開され続けて、つかさは唖然とするしかなかった。フォレストに声をかけるのがやっとであった。
 だが、フォレストはその声に応じることなく。
「よくやった」
 背後のソルジャーマースに声をかける。そのフォレストの声には、女性の声が重なっていた。
 瞳が黄金に染め上がったと共に、フォレストが人変わりしたような威圧感を放っていた。
 つかさには、これらが何を意味するかわからない。他人よりは図太い神経をしているとは自負していたが、立続けに起こった事態に、思考回路はショート寸前であった。
「ミ、ミネルヴァ……」
 首を上げたエンと同時に、強張った表情でヴィーナスは呟いた。フォレストの身の裡に再臨した『月闇』の女王の名を。
「女王……」
 ソルジャーマースは俯きがちのまま掠れた声で呟いた。
「そのまま、体内のスタークリスタルを引きずり出せ。その娘には、もはや無用なものだ」
 ミネルヴァはエンを踏みつけ人質にしてヴィーナスの動きを封じつつ、笑みを含む冷ややかな声で、ソルジャーマースを促す。
「や、やめろ」
 エンの訴えは届くことなく、兎和の身体に埋まったソルジャーマースの右手に再度赤光(しゃっこう)が宿り、銀色の水晶を引っ張り出す。それと同時に、支えを失った兎和の身体が、ソルジャーマースに突き放されたように仰向けに倒れ込む。エンの視界に、光を失った兎和の瞳が入って来る。
「オォォォ……」
 ミネルヴァの足許から、嗚咽が聞こえて来た。
 ヴィーナスは表情を歪ませ、一歩踏み出した。
 それに目ざとく気づいたミネルヴァは、エンを踏みつける足にオーラを灯らせる。いつでも潰すことができると誇示するように。
「ミ……ネルヴァァ……ッ」
 ぶつけることのできない渾身の力で、ヴィーナスは拳を握りしめる。
 エンとヴィーナスを嘗め回すような視線で見回すと、ミネルヴァはふたりを鼻で笑うようにして言う。
「今日のところは見逃してやろう。この銀水晶の一片を我に馴染ませる時間が必要だからなあ……くくく」
 酷薄な笑い声が残響する。ミネルヴァに憑依されたフォレストの姿も、ソルジャーマースの姿も消えてしまっていた。
 ただ、血溜まりに横たわる兎和の身体と、その傍らまでぼろぼろになった身体を引きずり嗚咽を洩らしながら寄添うエンの姿が残された。
 エンが泣いている。兎和の死によって。ヴィーナスはそれをやるせない表情で見ていた。見ていられなかったけれど、エンが耳に届いて、目を離せなかった。心配でたまらなくなって。
「セレニティ……また、お前を、俺の目の前で……。俺を、俺の命を……」
 エンの身体が、弱々しい虹色の光に包まれたことを、ヴィーナスは見逃さなかった。
 熱い何かが心臓を鷲掴みにするかのようなショックを、彼女は受けた。
「駄目――」
 ヴィーナスが言いかけたとき、突如、地を激しく打つ雨が周囲の火を打ち消した。通り雨では片付けられない、晴天には似つかわしくない強い雨であった。それも、消火と同時に、雨は止んだ。降雨の時間は三十秒もあったかどうか。
「これは……」
 雨に人為的なものを感じたヴィーナスは、ある人物を思い浮かべた。ちょうどそのとき、背後から、その人物の声がした。
「どういうことなの……これは……」
 水野藍――セーラーマーキュリーがそこに立っていた。
 センサーアイの反応に従って、ここまで急行して来たが、目にしたのは、聖水のシャワーで今消火したばかりの火事と、死んでいるとしか思えない兎和の身体。マーキュリーの心に、ただ怒りだけが認識される。
 マーキュリーが気づいたときには、ヴィーナスに詰め寄って怒声をあげていた。
「どういうことよっ、何で貴女たちがついていながら、こんなことになったのよっ」
 憤懣やるかたなく必死の形相で、マーキュリーはヴィーナスの肩を掴み、彼女を揺さぶる。
 そんなマーキュリーの手を握り締め、ヴィーナスが口を開く。その語調は暗く冷たい。
「わかっているわよ……あたしが助ける……」
「何ですって」
 マーキュリーは眉間に皺を寄せる。
 ヴィーナスはマーキュリーの手を振り払うように踵を返すと、冷然と言う。
「とにかく、ここに長居は無用よ。火が消えたとはいえ、火事で人が集まって来る、みんなの移動に手を貸して」
 マーキュリーは憮然とした表情ながら、ヴィーナスの「助ける」という言葉を信じ、彼女に従う。
 こちらに歩いて来るそんなふたりを、つかさと錦蔵は呆然と見つめる。
 いや、「こちら」というのは正確ではないかもしれない。少なくとも、金髪を赤いリボンでまとめた、金属質の光沢があるセーラー服を纏った少女は、自分の足元で横たわっている兎和の遺体と、それにしがみつく格好の白猫のぬいぐるみしか見ていないように、つかさには思えた。そんな差し迫った急を物語るヴィーナスの表情であった。
「何者なの、貴女たちは?卯之花さんも、こんな……」
 ぬいぐるみが動いて微弱な光を放っているだけでも、異能者の集まりであることは一目瞭然であった。つかさは沈痛な面持ちで、兎和とエンの傍らに屈んだヴィーナスに問いかける。
 しかし、ヴィーナスは答えない。ただ、エンの心身の安否のみが心を占めて、彼を抱きしめた。
「駄目よ、エン。セレニティはあたしが助けるから安心して……」
 あえて、「セレニティ」と呼んだ、兎和のことを。エンが前世の恋人の面影を、兎和に見ていたとわかってしまったから。
 そう優しく語りかけるヴィーナスの言葉に、彼女の腕のなかでエンは彼女を見上げる。惑乱する彼の心情が一目で読み取れた。
「だから、虹水晶をセレニティに渡すなんて真似はやめて……」
 虹水晶の力で、かろうじてエンはぬいぐるみのボディながらも、魂を保つことができているのだから、それを失ってしまえば……。
 兎和と引き離すように、ヴィーナスはエンを抱きかかえたまま立ち上がると、マーキュリーに指示する。
「マーキュリーは、兎和姉(うさねぇ)の身体をお願い」
 そして、セーラームーンに庇われた際に、その場に座り込んだまま、眼前の光景に絶句している錦蔵に、立てるように手を貸そうと手を差し伸べる。
「マース……貴方の孫に、これ以上罪を重ねさせるわけにはいかない。兎和(このひと)は助けるわ」
 ヴィーナスの言葉に、孫の犯した罪の重さに慄き、自失していた錦蔵は、己を取り戻す。
 つかさも信じ難いといった表情ながらも、(そこ)に希望の光が射し込む兆しを見せて。
「本当なの!?卯之花さんは助かるの?」
 詰問気味のつかさに、ヴィーナスは頷く。予断は許されないことであったが。
「人目につかぬ裏道と、移動場所には心当たりがあります、そこへ……」
 ヴィーナスの言葉を支えに気力を回復して立ちあがった錦蔵は、移動を促した。


 錦蔵の案内で移動した先は、一見教会風の建物であった。建物のまんなかに、時計台が設けられている。敷地も広く、街中だというのに小規模な植林もされ、簡単な遊具が見受けられた。
「ここは……学校……?」
 自動車から降りたサングラスで素顔を隠した藍(既にマーキュリーの変身は解いている)が、「火川学院」と刻まれている門標である金属製プレートを見て呟いた。
 藍の肩には、兎和の遺体の腕が回され、続いて下車した美菜子(ヴィーナス)も一緒に、寄添うように兎和の遺体を支えている。
「私が出資している孤児院です」
 一同を乗せた自動車の助手席から降りた錦蔵が、ぽつりと言った。
 藍と美菜子が少なからず驚いたように、錦蔵の顔を見返している一方で、運転席から降りて門前に回っていたつかさは、門標を指でなぞっていた。
 錦蔵が別所の駐車場に預けていた自動車(スカイライン)は、一昔以上前のモデルであったが、隅々まで整備がされていた。おまけに、ここまで、そのスカイラインを運転したのは、現役中学生であるはずのつかさである。こうした事態を予想していたかのような手筈の整いぶりに、藍と美菜子は、錦蔵とつかさを探るように見つめた。

 建物のドアは昔ながらの引き戸であった。錦蔵が前もって手にしていた小さな鍵で、扉を開けるなり、小さな、しかし、遠くまでよく通りそうな鈴を模倣した電子音が短く響き、ひとりの女性が出て来た。“ハーネス”で繋がれた盲導犬(シェパード)を連れて。
 化粧気のない若い女性であった。黒いヘアバンドに赤茶けた髪が目を引いた。
 シェパードが微妙に、錦蔵になつくように一歩踏み出し、甘えた声で鳴くが、すぐに視線を藍たちに転じると低く唸った。その声に即応して、女性が警戒した顔つきになった。
「どうしたんですか、紅堂さん。血の匂いがします」
 顔の造りのとおり、冷静で芯のある声であった。
「怪我人がいるのだ、来生さん。ほかにも連れがおる、奥の広間はよいかな?」
「はい、構いませんが……」
 そう言って、来生と呼ばれた女性は慎ましく道を開ける。それから、先導する錦蔵のあとに兎和に肩を貸す藍と美菜子が続き、最後を歩くつかさが来生の前を通過する。
「例の件に関係しているの?」
「うん」
 つかさが短く答えた。通り過ぎざまに、来生の開くことのない瞼を一瞥して。
「気をつけて」
 つかさの背中に、来生の唇から、そんな簡潔な一言が投げられた。
 一行は無言で足早に廊下を進んだ。平静を装うとしながらも焦りが見え隠れする。
 屋内側の窓から、教室のなかで昼寝をしている幼児(こども)たちが見受けられた。そのなかには、来生もしくはそれよりも若い、それこそつかさたちと同年代の若者が、本を黙読するなり音楽をヘッドフォンで静聴するなりして、保護者のように同室していた。
 若者たちは、錦蔵に気付き、腰を浮かすが、急いでいる様子の錦蔵が手で制するさまを見て、一礼にとどまる。
 広間に着くと、ソファーに兎和を横たえる。
 同時に、蒼白な兎和の顔のすぐ傍に、美菜子はエンを離すと、中腰の姿勢から背筋を凛と伸ばして、感情を押し殺した声で、膝立ちで兎和の顔を心配そうに見守る藍に言う。
「あたしのなかの銀水晶を、兎和(かのじょ)に渡す……銀水晶のエナジーを直接取り込めば、身体機能は再開するはず」
「何ですって。だとしたら、貴女はどうなるの?自己犠牲で逃げようなんて、虫が良すぎるわよ」
 間髪を入れず、藍は立ち上がって正面から美菜子に食って掛かる。エンの見開かれた(まなこ)も向けられた。
「あたしの中には、もうひとつのクリスタルがある……だから、平気よ」
 美菜子は胸に手を当てて、きっぱりと断言する。手は固く拳を作った。
「馬鹿な!?『朱雀』のことを言っているのか?」
 エンは明らかに狼狽していた。
「ヴィーナス本来のスタークリスタル『朱雀』を抑える役割を銀水晶はしてくれていた……だけど、あたし自身の力で、『朱雀』と立ち向かうときが来たのよ。そうでなければ、ミネルヴァと闘う資格なんてない」
 粛然と言い放つ美菜子の語気に、迷いはなかった。その覚悟を前に、藍もエンも首を項垂れるしかなかった。
「あたしのことは心配しないで、エン……。あたしに銀水晶を託したクィーンアルテミスの真意は、きっと……『朱雀』の暴走の抑止にあったのよ。あたしに、銀水晶を使いこなせって意味じゃなかったんだわ……使いこなせるのは……」
 美菜子はそう言って儚げな笑みをこぼした。その場にいた一同は、それがとても悲痛なものに感じられた。
 先日の、セーラームーンのヒーリングですら回復しない消耗が物語るのは、銀水晶に耐え得る器でないからこその副作用にほかならないと美菜子は結論づけていた。
 美菜子は兎和の横顔を覗き込むように、膝をつく。そして、その横にいるエンに、語りかける。
「貴方の大事なこの女性(ひと)、しかいないのよ。少しでも、あたしが銀水晶の力を使えたのは、『朱雀』をあたし自身の力で制御できるようになってきたから、その分、力を割けることができたんだわ、だから――」
 美菜子の身体から、金色の炎が立ち昇った。強い光なのに、不思議と眩しさを感じさせなかった。それは、感覚に訴えるイメージであるからである。しかし、あまりのエナジーの強さに、一般人の錦蔵の感覚にすら投射される域にあった。
 つかさは肌の粟立つ身を抱え、藍は凝然として目を見張る。エンが美菜子を案じて、その名を唇に乗せようとする。そのとき。
「銀水晶よ、今こそ、正統なる継承者へ」
 荘厳たる声音と共に、美菜子の金色の光が、銀色に輝く水晶を、彼女の胸の裡から押し出し、兎和へと譲渡する。
 銀水晶が兎和の胸に沈み込む。と同時に、赤茶けて乾燥した血痕が跡形もなく消え失せ、兎和の肌に血色が漲っていくことが、皆見て取ることができた。藍が思わず、兎和の手首を取って、脈を確かめる。
「い、生きてる……ヴィーナスっ」
 感涙に潤んだ瞳を、藍は美菜子に転じた。
「こ、これで、あたしの役目のひとつは果たせた、わね」
 そう呟いた美菜子が己から放出される黄金色の炎(オーラ)を抑え込むかのように、自らの身体を抱きしめよろめいたところを、藍がすかさず抱き止めた。
「だ、大丈夫……で、でも、さすがに『朱雀』を制御するのは、骨が折れたわ」
 美菜子は掠れた声で、藍にそう返すと、目を閉じる。己を支えてくれた藍の身体の温もりに一息つくかのように、そのまま眠りに入りながら。
「美菜子」
 エンが美菜子を心配して、藍の肩に跳び乗って、相棒の顔色を間近で確かめる。ひどく疲弊しているが、安らいでいる表情に安堵の溜息をつく。
「いけないこと言っちゃったわね……また、独りで無理させるようなこと……」
 藍は、兎和の遺体を目の当たりにしたとき美菜子たちをなじったことを後悔した。
 藍の言葉に、エンは彼女を見返す。藍はまるで、赤子を安心させて寝かしつける母親のように、美菜子の身体を受け止めてくれていた。
「……そんなことはないさ。これまでの無茶とは違う。これまでとは違って、君たちがいたから、安心して無茶をしたんだ。無茶をしても、あとを任せることができるから」
 エンがそう言うと、藍は戸惑ったようにはにかむ。
「そんな無茶に付き合わされて、やきもきする身になりたくはなかったわ」
 言葉とは裏腹に、藍は嬉しそうであった。
 そこへ、いつのまにか首尾良くふたり分の毛布を用意してくれていたつかさが歩み寄る。
「毛布、用意してきたから。その美菜子って()も、こっちのソファーに寝かせておいたほうがいい」
 つかさは顎で、兎和の眠るソファーとは差向かいのソファーを示し、腕を開く。毛布を一枚藍に渡すと、美菜子の身体を抱き上げて、もう一脚のソファーに横たえ、毛布を優しく被せてやる。
 いくら美菜子が華奢とはいえ、軽々彼女を抱き上げたつかさの腕力に、藍もエンも、兎和に毛布を被せながら呆気にとられていた。無難な優等生然としたつかさの外見とはかけ離れたものであったから。
「人を助ける異能ってのもあるのね……」
 つかさがそうぽつりとこぼした。
「火織は、私にも異能があるって言った……。私はね……以前、一緒に頑張って来た友達が、化物になってしまったことがある」
 つかさは呟いて、藍とエンに縋るような視線を向けた。ついさっきまでとはうって変わった混迷により意力を失ってしまったかのような眼差し。彼女は、その弱みを見せぬよう、これまで強固な意志で己を律してきたのかもしれない。だが、今回、己の常識を超えた事態に直面し、ここに来て、ステップアップの可能性に賭けるため、他者を頼るしかない無力な自分を白日のもとに曝したのである。
 化物になった――妖魔に化生してしまったということか。エンと藍は視線を交わす。
「私にも異能の使い方を教えて欲しいっ。その友達を、私は助けたいっ」
 このつかさの切なる訴えは、真実に違いなかった。


 蒼白に輝く水晶造りの神殿に続く階段に、ひとりの少女が腰をかけていた。
 その視線の先で、黒い光――妖気が渦を成していた。禍々しい熱気が少女の肌にも届く。
 少女の眼下で、漆黒に染まりながら可憐に咲き乱れる矛盾なまでに神秘的な花々は、そこが人外の“聖地”であることを物語っていた。
 その花々を撒き散らし、少年――鍛冶谷(かじたに)佐輔は、自分で傷を増やさんとばかりに、武技を磨いている。傷と共に、彼に内包する“闇”の嵩も増えていくような印象を受けて、少女――生駒いずみは独白を洩らす、粒状のピアスが闇色で彩る耳朶を撫でながら。
「あたしも、歌の練習しよっかな」
 いずみは知っている。佐輔が日々の鍛錬を欠かしたことがないということを。闇水晶の力に依存することを良しとせず、毎日毎日己を痛めつけ、“本番”を前に、己の“牙”を研いでいる。
 お互い、何故「月闇」に与するかの事情は知らない。それでも、“闇”の力を借りてまで倒さなきゃいけない“壁”が存在する同志であると、いずみは感じている。
 神殿で休んでいる火織の、毒々しく血色に色づいた双眸を思い浮かべて、いずみは身震いする。
(迷いなしって感じだったもんなあ。火織さんはやり遂げたんだろな……。あたしだって、水野藍(あのひと)に勝ちたい)
 いずみは立ち上がると、腹にたくさんの吸気を送り込む。呼び起こされた以前の敗北感を忘れる術もまた、歌しかなかった。そして、声を解き放つ。

 本来無風の神殿の深奥にまで、妖風は猛々しさのあまり、鈍い銀色の歌声を届けた。
 それが葬送曲のように、メタルスには聞こえた。柄にもなく感傷を覚えた己の滑稽さに、彼はすぐに自嘲した。
(あるべき状態に戻っただけだというのにな)
 先ほどまでフォレストの身体を成していたものは崩れ、唯一残った“核”である闇水晶。これを主君に返上するため、メタルスは参内していた。
「フォレストも、満足したであろう……」
 闇水晶を丁重に両手で包むように差し出した姿勢で跪くメタルスのまえで、玉座に深く身を預けて主君は言った。その声は、紛れもなく女王ミネルヴァのものなれど――。
「凶兆の大星(たいせい)には雷電の力を託し、我には銀水晶の萌芽を得る機を作ってくれた……戦力に均衡を求め、地球の行く末を天命に任せるという本懐は成し得たのだから」
 広げた手に、メタルスの手から闇水晶が吸い込まれた。
 銀水晶の欠片を、本体の域にまで育成させるために、フォレストを錬成していた闇水晶のエナジーを再び取り込む必要があった。
 肌に若干銀光が灯り、その姿が闇に浮かび上がる。ミネルヴァの声を発していた者の姿は、紛れもなくエンディミオンであった。かりそめの身体の借用では、銀水晶を育てる土壌としては役不足であるがゆえ、選ばれたミネルヴァの新たな身体であった。
 ミネルヴァが銀水晶を調整するには、まだ滋養が足りない。
 そのための策動を見届けるまでのかりそめの命と、メタルスは覚悟していた。フォレストと同じときが訪れるのは確定事項であり、本望でもある。


 白い無機質な光が、開かれた視界に飛び込んで来た。
 身体に朱雀の残滓であろう熱を覚えながら、美菜子は半身を起こした。
 錦蔵に通された広間であることを確認する。そして、藍がいた。ちょうど、彼女は兎和の容態を確認しているかのようであった。まだ、兎和は起き上がれないのか。
「貴女まで、目を覚まさなかったらどうしようかと思ったわ」
 それが、美菜子への藍の開口一番の言葉であった。
 美菜子は怪訝な顔になる。
「どういうこと?」
兎和(うさぎ)ちゃんが目を覚まさないのよ。センサーアイで確認しても、異常はないのに……意識が戻らない」
 藍は纏わりつく不安を振り払うように首を左右に振りながら、美菜子に答えた。
 美菜子はソファーに横たわったままの兎和に駆け寄る。反応のない兎和の手を握って、美菜子は、藍の言う事実を改めて確認する。
「そ、そんな……」
「状態が状態だっただけに、現時点で騒いでも仕方ないわ。理由がわからない以上、不安になっちゃうけど、ひょっこり目を覚ますかもしれない」
 藍は自分に言い聞かせるようであった。美菜子も、互いを安心させようと、同意するかのように頷く。ヘタに言葉を口にすると、お互いの不安を煽ってしまいそうで、ふたりは兎和の寝顔を見守ったまま、沈黙した。
 そのときであった。突如、藍のバック内にあるセンサーアイが警報(アラーム)で異状を知らせる。夜闇のベールに覆われていたはずの窓から、閃光が射し込んで来たのと同時であった。
 直後に、落雷の轟音。
 即座にセンサーアイを取り付けた藍と共に、美菜子にも緊張が走った。
「妖魔っ!?」

 兎和の意識は、銀色の光に導かれた先の大地に立っていた。セレニティとして。