ACT1 ヴィーナスクロニクル  (Part19)


 雨水が滴る前髪を掻き上げて、静かに鍵を開けたドアから、少々警戒する顔つきで美菜子は自宅内を覗き込む。
 玄関先に、夜は遅くまで居酒屋チェーンでパート勤めしている母の靴は、やはりない。
 美菜子はほっと溜息をついて、片手にびしょ濡れのエンを抱きかかえたまま、靴を脱ぐ。
 母ひとり子ひとりの生活。門限を厳しく言い付かっていたが、実際の監視がいない以上、こうしてセーラー戦士としての役目を果たすために、夜中に外出することは頻繁にあった。
 学校を早退することもあって、心配している母には常に後ろめたいものがある。
 美菜子は洗面所で、まず雨を吸ったウィンドブレーカーを洗濯機に投げ込むなり、お風呂の給湯のスイッチを入れる。
 ふうっ、一息つきながら洗面台の鏡で濡れた髪を改めて確認した美菜子は、トレードマークの赤いリボンを手早くほどいて丸めると、鏡の横のラックに丁寧に置く。
 それから、タオルを一枚手にとって、頭髪に蓄えられた雨滴をごしごし拭き取り、それから、エンの身体を拭きにかかる。
「もっと優しくやってくれないか」
 エンが呻きながら文句をこぼした。
「だーめ」
 美菜子は、一言でエンの要求を却下する。意地悪っぽく笑いながら。頭の片隅に残る闘いの苦さを忘れようと、努めて明るく装おうとして。
 ぬいぐるみのエンは単に拭くだけでは、中に含んだ水気が取れない。だからといって、自然乾燥させるわけにもいかないので、念入りに水を押し出してやらなくてはならないから、正当な理由はある。日頃の鬱憤晴らしというだけではない。
 最後にタオルを洗濯機に入れて、そのままドライヤーを手に取り、茶の間に向かう。
 美菜子は、茶の間に不用になった広告チラシを広げ、そのうえにエンとドライヤーを置いくと、長押に飾られた父の遺影に、手を合わせる。
(危なかったけど、帰って来れました)
 エンも敬虔な気持ちで、黙祷を捧げる。死者への礼を知らぬほど無粋な男ではない。また、このたびの闘いで逝った旧友(インフェルノ)への弔意もあった。
 そんなエンに振り返るなり、ドライヤーのコンセントを挿入して、美菜子は彼を乾かす。
 鷲掴みにされ、ドライヤーの熱風を浴びせられ、エンは口に出さずともうんざりした表情になる。
 こんなときしかエンの弱みを握れることがない美菜子は、期待どおりのエンの反応に、溜飲が下がる思いで、含み笑いをする。
 徹底的にエンを乾かしながら、美菜子は時計の針を横目で確認する。
「あたしはお風呂入るけど、エンも一緒に入る?」
 エンはブンブン首を横に振る。風呂に入ったら、またタオルとドライヤーの地獄が待っている。ましてや、年頃の娘と入るほど、自分は無節操ではない。
 その気持ちを察してか、美菜子はくすっと笑うと、
「兄と妹の裸の付き合いもいいと思ったんだけどなあ」
「あくまで、それは前世のガイアとの関係であってだな」
 エンはやけに躍起になって言い返した。
 むきになるエンに、一瞬神妙な表情を浮かべた美菜子であったが、小さく舌を出して、
「冗談よ冗談」
 そう言葉を残し、風呂場に足を運ぶ。
 エン自身、美菜子の冗談に何故真に受けたのか戸惑った、軽くいなせるくらいの分別は弁えていたつもりであったが。単に恥を知るからというだけでは説明できないように思えた。宙を仰いだエンは、視界に入った美菜子の父の遺影に、思わず姿勢を改めていた。
(前世の関係であって……か……)
 脱衣所で服を脱ぎながら、美菜子はエンの言葉を思い返していた。
 不意に気が遠くなる気がした。立ちくらみに、美菜子は、洗面所のシンクに手をついて、身体を支える。
(銀水晶行使の副作用……)
 美菜子の推測を裏付けるように、身体の筋肉が尋常ではない疲労を訴えた。セーラームーンのムーンライトボウによる残光ですら回復させるに到らなかった肉体の衰弱で、身体を支える腕の力がぬけて、美菜子は滑るように倒れた。


 父は即死だった。
 曲がって来た自動車の前方不注意によって、横断歩道を渡っていた父は撥ねられた。
 せっかくの休日、父との外出に意気込んで、先に横断歩道を渡り終え待っている美菜子の目の前で。
 ケータイで通話中であった運転手は、自分が渡り終えたのを早合点して、あとを歩いて来る父にまで気が回らなかったということを、後で聞いたが、もう父がいなくなってしまったという事実のまえではどうでもよかった。
 耳に届いた――何かが潰れる粘着質な不気味な音。
 網膜に焼きついた――生々しく紅い軌跡が描かれた瞬間。
 それらが、自分の脳に、父に留まることなく、どんどん死の記憶を再生させていった。
 それらが、自分に何も感じさせなくなっていった。
 何を食べても味を感じない。母であろうと誰であろうと何を言っても感情が波立たない。
 感覚も、感情も、苦痛にしかならなくなったとき、自分は一切シャットアウトしたのである。苦痛で生きることを放棄しないように。
 本能は、生きることだけを選択していた。空腹になればとりあえず腹を満たし、眠くなれば眠った。父をはじめとした多くの死が恐怖として根付き、美菜子の本能に、死を忌避させた。己自身の死までも。
 そればかりか、父の死と、潜在意識下にあった前世の記憶にある死が、他の記憶を理解させるキャパシティを美菜子から奪っていた。ただただ、生きようとする本能だけを頼りに死と向き合うだけの日々が、美菜子に続いた。
 だが、日々を費やすことは決して無意味ではなかった。生きようとする本能は、死への抵抗力を美菜子に与えると同時に、思考能力を取り戻させていった。
 そこまで辿り着くのに、半年近くの月日が流れていた。

 ――今なら、前世の記憶を脈絡に従って理解できる。
 美菜子は、父を失った当時の自分にフラッシュバックした前世の記憶を、今また混沌とした意識のなか、手探りで振り返っていた。
「貴女は女王になるのですよ」
 ――そう、あたしは女王の後継者だった。
 女王の帝王学の一環として、金星を統治する任を、母・クィーンアルテミスから命じられた。女王直属の親衛隊であるソルジャーマースたちを与えられて。
 クィーンアルテミス――私を生み出した存在。月の分身というべきエネルギー生命体。
 月の不思議な引力は、星そのものの命、もしくは分身というべきアルテミスと同様のエネルギー生命体を、彼女が創った都・シルバームーンに集わせた。そんな星の化身たちは、スタークリスタルを核に、実体こそないが光る人間女性という霊的な様相でシルバームーンに居住した。星々を秩序づけ、安定を図るために。
 地球に誕生した知的生命体――人類が、シルバームーンの住人に類似した姿の肉体に進化したのは、偶然ではなく、彼女たちを頂点とした進化の必然であった。特に女性が酷似しているのは、星と同じ命を生み育む機能を有したからである。
 しかし、地球とは違って、月から派生する命が育たないことに憂いを感じたクィーンアルテミスは、自らのエナジーとスタークリスタルを分け与え、同じ霊的存在なれど、月の大地から娘を生んだ。
 第一皇女セレニティ。第二皇女ヴィーナス。
 姉であるセレニティは、ヴィーナス(自分)の立場を気遣って、身を引き、シルバームーンを去って行った。
 故に、ヴィーナスが女王の後継者となることが定められた。それは、銀水晶本体も継承することを意味していた。
 クィーンアルテミスは、後継者に相応しいかどうか確かめる意図もあって、プリンセスヴィーナスに、金星統治の任を与えた。せめてもの親心として、信頼に足る親衛隊を腹心につけて。
 ――だけど、あたしは失敗したんだ。
 地球と同じ豊饒な可能性を秘めた惑星、金星。金星にも、月や他の星々同様、化身であるエネルギー生命体がいた。名をミネルヴァ。にも関わらず、シルバームーンと同調することを拒み、豊かな金星を無駄にしているとしか思えなかった。
 そのため、ヴィーナスたちが遣わされた。
 ミネルヴァの拒絶の意志は変わらず、ヴィーナスたちは実力行使を選択した。
 被害規模を最小限に食い止めようと、ミネルヴァ個人を一気に追い詰める武器をヴィーナスは求めた。
「プリンセス、初陣に蛮勇は禁物です」
「これは、女王が私に課した試練。貴女たちを巻き込むわけにはいかないわ」
 戦闘巧者のマースの諫言を、未経験な我が身を鑑みることなく取り合わなかった時点で、余裕は失われていたのであろう。
 女王(アルテミス)――母からの期待への気負い。母をも凌ぐ可能性があると言われた(セレニティ)に、王位継承の座を譲られた負い目。
 それが、悲劇に繋がるとも知らず。『朱雀』――後に魔剣と呼ばれる兵器が錬成された。
 ヴィーナスに託されていた銀水晶の欠片でもあるスタークリスタルそのものが、武器として実体化した『朱雀』は、功を焦るヴィーナスの到らなさから、無制御に力を解き放ってしまった。
 結果、被害を抑えるどころか、ミネルヴァの体内のスタークリスタルを粉砕。スタークリスタルと運命を共有する星――金星を滅ぼすこととなった。
「貴様だけは、貴様だけは許さない」
 ミネルヴァの断末魔。
 クリスタルと同時に母星を失ったからこそ、ミネルヴァの怨念は想像を絶するものとなった。
 ヴィーナスの制御を無効化し、暴走していた『朱雀』は、ミネルヴァの怨念に呼応し、ヴィーナスたちをも巻き込んだ。
 無数の金色の鳳凰が乱舞し、同胞たちを滅却した。
 ――あたしの血塗られた罪の始まり……。
「プリンセスッ」
 マースの絶叫が聞こえた。そのあとのことはよく覚えていない。
 ――ミネルヴァはあたしを道連れにすることに成功したんだ。
 エネルギー体であるヴィーナスは、ミネルヴァと共に、数多に千切れ、地球に飛散した。
 ――そして、地球であたしは転生(REBIRTH)した。
 ガイアという名を授けられて。エンディミオンの母の命と引き換えに。


 てふてふ、と。
 柔らかい毛玉のような感触を、頬が知覚した。
「美菜子」
 遠くから呼ばれているような。
 だが、その声と、頬を叩く軽い感触が結びつき、美菜子を遠い過去から現実に引き戻す。
「エ……ン……」
 意識を取り戻し、視界が開けることを待つまでもなく、美菜子は、その名を呟いていた。
 そして、眼前にいたのは、その名の持ち主であるぬいぐるみの彼。
 彼は、安堵の表情を浮かべる。
「あんまりにも物音がしないんで、気になって来てみたんだが……大丈夫か?」
「ああ……うん、いつもの貧血(こと)だから」
 美菜子は言いよどみながら、起き上がる。身体にかぶさっていたバスタオルがずれ落ち、下着姿が露わになる。
 エンが慌てて背を向けた。
 下着姿のまま気を失っていた自分に、バスタオルをかけてくれていたエンの、紳士的な気遣いを受けとめて、ずれたバスタオルを美菜子は改めて肌にかぶせる。
 身体の気だるさはまだ残っていた。気を緩めると、また意識を保つことを放棄しそうなくらいである。
「今日は、お風呂はやめたほうがよさそうね」
「布団を多めにかぶったほうがいいかもな」
 エンが背を向けたまま、雨に濡れて来たうえに下着姿で気を失っていた美菜子に配慮した声をかけると、
「用意しておく」
 そう言葉を次いで、美菜子の部屋へと上がって行った。
 母ひとりの稼ぎを頼りに家計をやりくりしている現状では、暖房器具もおいそれと購入できるものではなかった。現在の日本では、働くにも学歴がそれなりに必要になる。将来の学費のためにも、温まるのに布団を余分にかぶることが有効なのである。
 エンの生真面目さに、美菜子は微苦笑を洩らし立ち上がった。
 そこへエンがパジャマを持って戻って来た。
 ちょうど、バスタオルが床に落ちたところであったので、エンはまたもや慌てて後ろに向く。
「す、すまん。ちゃんと寝間着に着替えないとって思ってな。じゃ、布団用意しとくから」
 そう早口で弁解がましくエンは言い残すと、再度足早に階上に戻って行った。
(ホント生真面目なんだから……)
 そんなエンに、これ以上心配かけるわけにはいかない。銀水晶の副作用を気取られないように、何事もないように、自室に行かなくては。美菜子はパジャマを着る。
(ずっと、心配かけて来たものね……)

 父の事故死から約半年。
 その期間は、死に抵抗すべく情報処理をシャットアウトした本能に抗う正気を、美菜子に取り戻させるものであった。
 不完全ながらも、前世の断片的な記憶の意味を読み取れるまでになっていた。自分の判断が、存在が死をもたらした、と。皮肉にも、美菜子にとって、死を逃れるようとする本能に勝る罪の意識を、その胸中に形成するだけにすぎなかった。
 本能に抗えるほどに回復した美菜子の思考能力は、同時に、罪悪感から死を選択できるように己を律することを選んだ。
 自分の世話で心身ともに消耗した母がうたた寝している隙に、美菜子はおよそ半年ぶりに家を脱け出した。
 頬もこけて、目の下には浅黒い隈もできていた母を理解できるようになって、そんな彼女を見かねて逃げ出すように。この半年間、目を背けてきたことの重みが、より一層美菜子を追い詰め、死への渇望に拍車をかけた。
「何で生まれたの……パパを死なせ、ママを苦しめただけじゃない……罪を犯しただけじゃない……」
 街をさまよった。
 これ以上、誰にも迷惑かけることなく、人知れず消えてしまいたかった。
 人目を避けるように、裏道を選んで歩いた。
 行くあてもなく、ただ人外の遠方へ。
 人目を避けることが面倒になっていたから。人を気にかけることが煩わしくなっていたから。いつのまにか、理由はすり替わっていた。他人を気遣っての行動ではなく、他者を排他する現実逃避という、自衛のための行動となっていた。
 それを美菜子に気づかせたのが、エンであった。
「あんまり面倒をかけさせるな」
 突然目の前に立った懐かしい姿と声に、美菜子は我が目を疑った。
 記憶から引きずり出されたのは、かつてガイアという名前であった頃の自分の兄――エンディミオン。
 思わず目をこすって視界を確かめる美菜子の、眼下(・・)に立っていたのは白猫のぬいぐるみ。それが、エンとの出会いであった。
「闇雲に歩いて……逃げているのか、それで?迷惑をかけているだけだ」
 エンは厳しい口調で断言した。
 それが、美菜子の身を案じてのものであったことを、このときの美菜子は気付かなかった。
 それでも。
 自分を心配してくれる人がいる。逃げることも、その人に迷惑をかける。自分の存在そのものが心配の種というのなら、その人の目の届く傍で支えるのが、せめてもの贖罪である、と。
 エンと共に二日間の放浪を経て、自宅に戻った美菜子は、母が見せた涙を、そう受けとめた。
 それから、エンを思いやり、彼もまた自分を心配してくれていることを理解するまでに、美菜子は更に時間を要したが。
 結果、前世の記憶に起因する「死」の“重さ”と向かい合った美菜子は、安易に逃避しようという誘惑を断ち、その重さを背負って償い生きることを選んだ。
 ――それが、あたしの生まれて来た理由。
 そう美菜子が悟った頃、怪盗セーラーマーキュリーが巷を騒がせ始めていた。
 同じシルバームーンの住民であったセーラーマーキュリーの面影を、美菜子はエン共々感じ取った。マーキュリーが道を外しているのなら正すこともまた、ひとつの償いと美菜子は信じた。
 マーキュリーの関心を引き対抗意識を挑発し、真意を確かめる舞台に立たせんがため、同じセーラー服を美菜子は戦闘服として選んだ。
 ヴィーナスのスペルの頭文字Vを取ったセーラーVは、こうして誕生したのである。
 あとから考えれば、エンにしても、銀水晶を預かるヴィーナスの素性を、『月闇』の民を束ねるミネルヴァから隠蔽するのに、セーラーVという仮の姿は好都合であったろう。

(そして、ヴィーナスから始まった宿業に決着をつける瞬間が近づいている)
 消耗した肉体を引っ張って階段を上りきった美菜子は、エンに気取られぬように、乱れた息遣いを自室に入るまえに整えながら、ミネルヴァとの闘いに臨む決意を確かめる。
「じゃ、寝ようか」
 無理に明るく振舞って、美菜子は部屋に入るなり、エンに声をかける。エンに身体の不具合を悟られるより早く、さっさと眠ろうとして。
 窓のカーテンの隙間からは、月からの一条の光芒が射し込んでいた。その真ん中に座して夜空を見上げていたエンを導くように。そして、エンに寄添う美菜子自身もまた導かれているように思えた。