ACT5 月光の虹  (Part17)


 セーラーV、いやセーラーヴィーナスの宣戦布告を受けたミネルヴァは、胸を反らして大きく嘲笑する。
「ふはははは。金星の守護とな、金星を、我が故郷を滅ぼした張本人が、よくぞほざいた」
「金星を滅ぼした……?」
 セーラームーンは少なからず動揺した。だが、辛そうに唇を噛みしめながら、ミネルヴァを正視するヴィーナスの横顔に、それ以上の言葉を飲み込んだ。
(少なくても、今目の前で生きているヴィーナスが滅ぼしたわけじゃない)
 セーラームーンにしてみれば、この闘いの背景にある事情は一向に見当つかないままであるが、それだけは察しがつく。ヴィーナスも、本来は普通の女の子のはずであるから。
 それでも、滅ぼした云々と因縁をつけられても、正面から受け止め耐えている。
 その気丈さが、セーラームーンを同志として惹きつけた。
 笑いが収まって、気を落ち着かせるように、細く長く息を吐いたミネルヴァは、片頬の肉を痙攣させながら、言葉を続ける。
「ならば、その裡にある銀水晶で――」
 ここで一度言葉を区切ったミネルヴァは、ヴィーナスを指差していた手を広げると同時に、金目を見開き、怒気を込めた声を張り上げる。
「金星を再生させてみせろおぉぉっ」
 ミネルヴァの声に、降りしきる雨粒が静止したようにセーラームーンには見えた。
 いや実際に宙で固定された雨粒は瞬時に雹となって、横殴りにセーラームーンたちに降りかかった。
 思わず腰が引けたセーラームーンであったが、それより先にエンディミオンが裂螺吹雪を全方向に放って、雹と相殺させる。
 だが、砕けた雹は結晶となって、散らばり周囲の温度を低下させると同時に、裂螺吹雪の花びらにすら付着して凍結させていく。逆に、裂螺吹雪(さくらふぶき)が彼等の動きを封じる障壁に変貌していった。
 ミネルヴァはしたり顔で、エナジーを手のひらに凝縮させる。動きを一瞬止めれば充分である。
「さっさと終わらせてくれる」
 そう呟いてエナジー球を放とうとしたミネルヴァは、突如アスファルトの地面を突き破って伸びた蔦に足を絡め取られバランスを崩す。
 その瞬間、氷の障壁をぶち破り、ルナティックブラックボールがミネルヴァに襲いかかった。
 ミネルヴァは掌中の野球ボール大の光球をぶつけ、自身に被害の及ばぬところで爆発させたが、爆煙に紛れ、今度はヴィーナスのゴールドクィーンビーズスピアが投げつけられて来る。
「ちいっ」
 足の自由を奪われたミネルヴァは舌打ちをして、自らのエナジーから剣を錬成して、槍を叩き落とすと、足に絡み付く蔦を切り払おうとする。しかし、急速に成長していた蔦は上半身にまで及ぼうとしていた。
 植物を操るエンディミオンの能力。
「手を出さずにおれば、いい気になりおって」
 忌々しそうに呟いたミネルヴァの視界が、不意に歪んだ。――目眩。
(限界か……一刻も早く、銀水晶を奪わねば……)
 借り物の身体では、長時間の能力の行使ができない。銀水晶で、実体化するだけのエナジーを手に入れなくては……。
 横の死角から剣を構えて駆けて来るヴィーナスの攻撃に対して、ミネルヴァは無防備であった。
 
 マーキュリーの手には、折畳傘が握られている。骨は開かれた状態で、柄の部分に端のピンが収容され、さながら布に包まれた小太刀のように見える。
 傘はアクアの鉾を受ける度に、鉾が纏う濁流鞭の水を奪い、逆に纏う。傘を心棒に、水の棍が長く太く伸びる。
「こしゃくな」
 そう言ってマーキュリーからひとまず離れたアクアの表情には、喜悦の色が浮かんでいた。闘いが、記憶のない自分を覚醒させていくのを、全身が感じている。
 また、このあいだ、取るに足りない相手であった小娘が、自分と渡り合っていることが、アクアを更に愉快にさせる。面白い相手だと思った。
「そんな深傷(ふかで)で、よく笑っていられるわね。余裕綽綽ってトコかしら」
 アクアとは対照的に、マーキュリーは面白くなさそうに、唇を尖らせる。
「ふ……言うなれば、追い詰められているからこそ、生きている実感(・・・・・・・)が湧いて嬉しいのかもしれん」
「スリル好きか、マゾってワケ……手に負えないわね」
 マーキュリーは皮肉るが、生憎そういう言葉を理解する記憶をアクアは持ち合わせていなかったので、堂々と無視する。
 水を操る能力(ちから)では、分が悪いと判断して、アクアは鉾を地に刺し、空いた右手を開いて、気合を放った。
 右手から放たれた衝撃波の余波が雨や水溜りの水を飛び散らせる。
 マーキュリーは前面に向けて、咄嗟に傘を開いた。纏っていた水も、盾のように広がり、衝撃を受け切る。
 アクアは思わず感心したように眉尻を上げる。
 水の盾は両者の視界を遮るに充分な大きさであった、センサーアイを装着するマーキュリーは頓着することなく、アクアの動きを捉えたうえで跳躍する。傘を閉じても、水の盾を遮断幕として維持したままにして。
 死角からアクアの頭上めがけ、マーキュリーは襲いかかる。
 だが、アクアは胸のざわめき――彼自身実体を量りかねているスタークリスタルとマーキュリーの共鳴に、頭上を見上げると同時に、応戦すべく右手を上げて、手のひらを彼女に向ける。
 マーキュリーは、傘を逆さに持ち直すと、柄の鉤形になっている部分を、水とオーラで強化して、アクアの右手首にひっかけ、衝撃波を撃とうとした手の方向をあらぬ方向に向ける。
「はっ!?」
 気合は転じて、驚愕の声に変わった。
 アクアの懐に飛び込んだマーキュリーは空いている左手に聖水を召喚し、センサーアイの捉えるクリスタル反応めがけて、繰り出す。
 このまえの淡い青白い光と比べものにならないくらい、藍色に強く光ってクリスタルがアクアの胸に表出した。マーキュリーの手に引っ張り出されるように。引力が働いている、とマーキュリーは実感する。身体が訴えている、自分の所有物(もの)だと。
 だが、アクアは鉾を引き抜き、マーキュリーを突き放す。
 すんでのところであった。頬にうっすらと滲む血を拭って、マーキュリーは悔しそうに歯噛みする。
 マーキュリーは傘を土台にすることで、エナジー消費負担を減らし、且つ闘い方も広げている。
 アクアは胸に浮かび出たクリスタルを体内(うち)に押し込むと、マーキュリーを見据える。
「成程……これはおまえの所有物らしい。だが、これは私の記憶の手がかりでもある」
「渡すわけにはいかないってことはわかってるわ。あたしが、そんな深傷を負った貴方としかようやく対等に闘えないほどに弱いってことも。だから、あたしは取り返す」
 マーキュリーは、屹と強い眼差しを返した。
 ここで、アクアは悟った。マーキュリーの成長の理由を。分を知り、高みを志向する者の覚悟の強さである。自分にはない。――そう、一度死んだ自分には――。
 その瞬間、脳裏に閃光が走った。アクアは頭を抑えた。
 マーキュリーは怪訝な顔で、アクアを探るような目つきで見る。
 すると、アクアは厳然とした表情を上げ、鉾を握る手に力を込めて、呟くように言った。
「やはり、貴殿(・・)は私に相応しい相手のようだ……」
 鉾を正眼に構えた、厳粛な佇まい。
 敵に敬意を表したことは、アクアにとって死地に臨む覚悟を示す儀礼の意味が込められていた。脳裏で弾けた記憶が、アクアに改めて闘う意味を質した、その結果の言動。
 秘められた意味を知らずとも、マーキュリーは思わず息を飲んだ。それくらいの威圧感が、今のアクアには迸っていたのである。
 
 ヴィーナスの突き出した剣先が、ミネルヴァに肉薄した瞬間、ミネルヴァに纏わり付いていた蔦が、更に勢い良く太く伸びて、ミネルヴァの身体を上方へ押し上げ、攻撃をよけさせる。
 しかも、ヴィーナスの剣にまで蔦は侵蝕を始めた。
「なっ」
 ヴィーナス、エンディミオン、セーラームーンは揃って驚愕する。
「馬鹿な、蔦の制御が効かなくなった」
 地面についていた手のひらを見直し、エンディミオンは驚きを隠せない様子である。
 ミネルヴァだけが得心尽いた表情であった。蔦から下りた彼女に、ヴィーナスは蔦に取られた剣を霧散させると同時に身を退けようとした。
 だが、それは無駄に終わる。瞬間的に、ヴィーナスの足が地面に凍りついていたのである。先ほどの雹の攻撃で、周囲の温度を下げたのは、こうしたケースに備え、凍結速度を速める環境を準備する意図もあったのである。
「ふ……エンディミオン、其方に闘い方を教えたのは誰であった……」
 ミネルヴァは薄ら笑いを浮かべ、困惑の面々を見回す。
 その言葉に、エンディミオンは植物を制御できなくなった理由に気付く。
「ま……まさか……」
「植物を操れるのは、其方だけではなかったはず……フォレスト(この肉体)も、そうであったな」
 ミネルヴァは冷笑する。
 仲間の能力まで使役するミネルヴァの得意顔に、エンディミオンは怒りを覚え、拳を震わせる。
 それ以上、身体が動かなかった。
 ヴィーナス同様、エンディミオンも、セーラームーンも、ミネルヴァの凍気に身体が凍りつきつつあったのである。あまりの低温に、触覚が麻痺し、その事態をわからずにいた。
 けれど、ミネルヴァにとって、そんなことは眼中にない。
 ヴィーナスの裡にある銀水晶。既に予想していた以上に、エナジーを消耗している、必要性は高まっていた。今、手に入れられるものなら手に入れる、だから、多量のエナジーを消費する選択を、あえてした。
「銀水晶があれば、神殿に戻る必要すらなくなる……後々の手間も省けるというもの」
 ミネルヴァはそう言って、冷気で青白くなったヴィーナスを睨む。さも悔しそうなヴィーナスの顔を堪能したかったが、そうも言ってはいられない。
 鷲掴みをするように、指を動かし、ミネルヴァはその爪をヴィーナスの胸に突き立てようとしていた。

 周囲の気温の低下は、当然マーキュリーの肌も察知していた。
 単純にエナジーを鉾に込めてぶつけて来るアクアの攻撃を耐え凌ぎながら、マーキュリーは、セーラームーンたちのほうの戦況を窺う。
「やばいわね」
 三人が凍ったような状態であることを、センサーアイは示している。また、ヴィーナスにあるクリスタル反応――銀水晶が、敵の親玉の手にかかろうとしている。
(手下があたしのクリスタルを奪って、この強さってことは……銀水晶を、敵の親玉なんかが手にしたら)
 アクアの重い一撃一撃を改めて体感していることに基づいて、マーキュリーは考えられる限りの最悪の予想を立てて、我ながらぞっとする事態になることを痛感する。
 アクアを引き離し、助けに行こうとするが、アクアはセーラームーンたちのいるほうを背にして陣取って、阻んでいる。マーキュリーの心積もりを読んでいる。
「なら、急がば回れ。貴方をさっさと倒す……次の一撃で決着をつけなきゃ、ね」
 マーキュリーは厳しい表情で言うと、傘――マーキュリーアンブレラにエナジーを充填させた。言うよりも易くないことは、肌身に沁みて良くわかっている。

 銀水晶を抉り出そうと、ミネルヴァの爪がヴィーナスのセーラースーツに触れた瞬間、エナジーの奔流が立ち昇った。
 ミネルヴァはそのエナジーの大きさに仰天した面持ちで、その方向を見る。
 エンディミオンの胸元で、猫目石のように目まぐるしく光線の色が変わるエナジーが、天を衝く形で、噴き出していた。
 ミネルヴァは憤然とした表情で、舌を打ち、そのエナジーの正体を吐き捨てる。
「虹水晶っ」
「俺には、手を差し伸べてくれる奴がいるっ」
 エンディミオンは唸るように呟く。
 そんなエンディミオンの傍らに、セーラームーンはインフェルノの姿を見た気がした。彼女を見て、声までかけて来た気がした。
(この方たちを、助けてあげてください)
 そう聞こえた。それは、最期のとき、セーラームーンに伝えきれなった願い。
 エンディミオンの身体の復活は、インフェルノのエナジーの残滓による一時的なもの。万全ではない。力の放出は、必然としてぬいぐるみ姿に戻る彼の寿命を縮めることも、インフェルノの眼差しが訴えている。
 セーラームーンの心臓の鼓動が早くなる。以前夢のなかに現れたエンディミオンの胸に灯っていた七色の光を実際に目にしたこと、そして、インフェルノの願いが届いたことが、彼女に力が漲る身体の感覚を取り戻させていく。
「助ける、絶対に」
 セーラームーンは叫んだ。凍気の束縛を打ち破り、拳を振り上げる。
「無理するくらいなら、あたしに、力を貸してっ。あたしに任せてっ」
 セーラームーンは呼びかける。手の甲の三日月の紋章から、銀と黒の光が膨れ上がった。
 それに応じるかのように、ヴィーナスは頷くような仕草で、己の胸元を見下ろす。ミネルヴァをすぐ傍にして、銀水晶を顕現させるわけにはいかない。どちらにしろ己の意思では自由に制御できずにいる力である。
 けれど、セーラームーンの力を呼び覚ます(・・・・・)だけなら、今この一瞬だけで充分のはず。
「銀水晶……セーラームーンに力をあげてっ」
 エンディミオンとセーラームーンに気を取られていたミネルヴァの隙を縫うように、ヴィーナスは掠れた声で祈る。彼女の胸の裡から一条の銀光が走った。
 同時に、エンディミオンも、セーラームーンの声とインフェルノの魂に促されるように、胸元から溢れる虹色のエナジーを、掬うようにしてセーラームーンへ差し出す。
 七色の光は飛散して、ヴィーナスから放たれた銀光と交わり、紋章の光が脈動するセーラームーンの手に運ばれる。
 身体に漲る力に導かれるように、動かしたセーラームーンの手の軌跡が、銀と黒のグラデーションによる光の虹を描く。月の銀光が乱舞する如くに光り輝く弓となって、それは実体化する。
「なっ!?」
 ミネルヴァも、弓から乱れ咲くエナジーの光輪に圧倒され、色を失う。
「ムーンライトボウ」
 セーラームーンは脳裏に浮かんだ名前を言葉にして、空いているもう片方の手で、矢を番える動作をする。銀色と黒色に脈打つエナジーの光が、錐揉み状態になって矢の形を成す。
「闇にまみれて、見失った貴女の心を、これで清めてみせるっ。いっけぇええええっっ」
 気合に似た声をあげて、刮目したセーラームーンはミネルヴァに向けて、ムーンライトボウから矢を放った。
 矢が凄まじいスピードで迫って来る時点で、ミネルヴァは矢そのものの力と、ムーンライトボウの力にあてられ、動きが鈍っていた。ただでさえ、力はピークを過ぎていたところである、思わぬ反撃が、律していた肉体の疲弊の歯止めを外すことになった。
 防ぐことも、よけることも、できない――。

 開いたマーキュリーアンブレラで、アクアの放った血の飛沫の刃を防ぎながら、アクアの胸を打つ。アクアの残る手が握りしめる鉾が、マーキュリーの左脇腹を斬り裂いていた。
 センサーアイにより、血の飛沫だけではなく鉾の軌道も読めたおかげで、かろうじて急所をかわすことができた。アクアが重傷を負うまえのスピードを保っていたら、読めたところでかわせなかったであろう。
 が、それで終わりではない、痛みを感じている時間もない。マーキュリーアンブレラはそのまま傘を伝う聖水の浄化作用とマーキュリーのエナジーとの引力で、アクアの胸からスタークリスタルを引っ張り出す。
 スタークリスタルの全体が見えると、マーキュリーは間髪を入れず、傘を閉じて、反転させる。柄の部分が、奪い返されたクリスタルを注視するアクアの顎を叩き上げる。
 アクアの目が上を向いた。
 自分が死角に入るこの一瞬を、マーキュリーは待っていた。この機を逃さず、クリスタルを己の胸に当てる。溶け込むように消えるクリスタルと同時に、清涼な空気が全身に染み渡って行くのをマーキュリーは感じた。
 額に、水星を示す紋章が浮かんだ。
「これが、あたしの……クリスタル……『ウォータークリスタル』」
 記憶の深奥から掘り起こされたクリスタルの名称を唇に乗せる。
 マーキュリーのエナジーが一変したことを悟り、目を見張りながらアクアは開き直ったかのように半笑いを見せる。
「見事としか言いようがないな……クリスタルがないことが逆に、戦闘向きではなかった貴殿に、武器で補う(すべ)を与え、つよく(・・・)したわけだ……前世の仇を晴らしたな……」
「貴方、記憶がないようなこと言ってたけど……」
 アクアの喋りぶりは、過去を振り返っているものとしか聞こえない。記憶を取り戻したのか。
 マーキュリーの言葉を遮り、アクアは言う。
「知を司る水星の守護を受け、宇宙(そら)を航海する者――セーラーマーキュリーよ。貴殿の成長を見れたことを、戦士として誇りに思う……だが、敵を前に、このまま果てるわけにはいかんのだ」
 マーキュリーが思わず警戒して身構えた。しかし、アクアは彼女に背を向ける。彼はセーラームーンのムーンライトボウの狙いに定められたミネルヴァへと一直線に走り出した。

 ムーンライトボウの放った矢と、なす術のないミネルヴァとの間に、アクアが仁王立ちで割って入った。
「ア、アクアっ」
 主であったエンディミオンばかりではなく、現在の主であるミネルヴァも絶叫する。
 アクアがミネルヴァを庇って矢に射抜かれようとした刹那、彼の肩越しに回り込んだミネルヴァの腕が、矢を受ける。
「な……にっ」
 矢の光が膨張する。ミネルヴァ、いやミネルヴァであった者を包み込むように。
 金色の光芒が剥がれ、ホリーグリーンの瞳がアクアを捉える。
「女王の魂は、聖地に逃がすことができた。貴様も、将として後事を託す義務がある」
 その場にいるのは、フォレストであった。アクアも、エンディミオンもそう確信するが、言葉を失ったままである。
 矢の光が弾け跳んだ。強烈な光が拡散したのちは、清浄な光が周囲に鏤められる。闇水晶にエナジーを奪われた人々の肌に、潤いをもたらす恵みの雨のように。
 だが、そこに、アクアとフォレストの姿は見えなかった。
 彼等のことを振り返りながら、エンディミオンは天を仰ぐ。
 セーラームーンたちは、救護が駆けつけるよりも早く、人気のないビルの屋上に移っていた。雨は相変わらず降っているが、帰ろうとする者はいなかった。
「奴等は、経緯がどうであれ、仕えた主君に忠義を果たそうとしたんだな」
 そう呟いたエンディミオンは複雑な心境であったが、かつての主として、友として、その行為を誇らしく思えた。
 インフェルノの魂は、悲しそうに微笑む。かつての主君を選んだ自分と、現在の主君を選んだ仲間。各々の忠義を貫いた、どちらが間違っているわけでもない。それを理解してくれるエンディミオンの泰然とした姿勢を首肯した。
「さらばだ……」
 エンディミオンが独白のように言った。
 彼の身体にわずかに残ったインフェルノのエナジー――魂が夜の闇に染まるように薄らいでいくさまを、セーラームーンの感覚は捉える。
 徐々に弱まっていくそのエナジーの、魂の行く末――消滅を一同はわかっていた。だから、エンディミオンを独り残しておけなかった。
 たまらず、足が一歩出たところで、マーキュリーがセーラームーンの肩を掴み、彼女自身やりきれない表情で首を横に振り、それ以上を制した。
 インフェルノの魂が完全に消滅すると共に、エンディミオンはぬいぐるみの――エンの身体に戻った。それでも、夜空を仰ぐ体勢は変わらない。顔面を打つ雨も、意に介する様子はなかった。
 マーキュリーはそのままセーラームーンの肩を抱いて、帰ることを促す。ヴィーナスにも目配せするが、ヴィーナスは申し訳なさそうに目を伏せると、首を横に振って、エンに視線を戻す。
 マーキュリーも、セーラームーンも口をつぐんだまま、帰路につくことを選んだ。
 ヴィーナスは雨のなか、距離が離れていても、エンに寄り添うように立っていた。そして、しゃくりあげるように、言葉を押し出す。
「雨でわからないからっ」
 泣いてもいいんだよ。
 彼は、何度、友と別れ、傷つけばいいんだろう。
 エンはヴィーナスに振り返ると、彼女の気持ちを汲み取ったがゆえの、弱々しい微笑を返した。ぎこちない。
「ありがとな、美菜子」
 ヴィーナスの頬を一筋の涙が伝った。雨に紛れて、誰にもわからないから。エンの代わりに、彼女は久し振りに涙を流す。自分のために流す涙は、弱さと一緒に捨ててしまったのに。

 アクアは黒ずんでいく右手のひらを見つめていた。
 地下下水道のコンクリート壁に身をもたれて。
「死に水を取って欲しいのかい」
 彼に声をかける者があった。軽口を叩くように。
 暗がりから現れたのは、鍛冶谷(かじたに)の身体を借りたメタルスの姿。だが、口調に反して、その表情は険しい。
 視線をあげたアクアは、既に顔色まで黒ずんでいた。右腕はとうに灰化した。だが、その目に宿る意力は死んでいなかった。