ACT2 銀水晶、発動  (Part8)

 「ありのままの人を受け入れる国、星」
 ソルジャーマースの語る理想は、一端ながらも魅力的に思えた。
 ただ、目の前の相手が、藍を傷つけたのは事実である。
 けれど、殺し合いをしないで済むのなら。
 エンが何か叫んでいるのは、耳に聞こえていた。内容は把握できなかったけれど。
 思考の全てが、迫られた決断に向いていたから。
「どうして、藍さんは傷つけて……あたしは仲間に誘うの」
 セーラームーンは疑問を口にした。ソルジャーマースの申し出に対し、その点が、どうしても心に引っかかっている。
「……感傷ね。これからの貴女を想うと、昔の私を思い出す……」
 ソルジャーマースは藍に目もくれず、回想するかのように目を伏せて、独白のような細い声を返した。
 これが、彼女の死角となった。意識を回復した藍が、セーラーマーキュリーにメイクアップしながら、彼女めがけて跳躍した。
 それに気づいたセーラームーンの目の動きを追って、ソルジャーマースが振り返った瞬間、カウンターに近い形で、セーラーマーキュリー渾身の平手打ちが、ソルジャーマースの頬を打った。
 ただの平手打ちではない。先のインフェルノとの闘いで覚えた聖水の流動で生じる圧力で衝撃を増した平手打ちである。
 ソルジャーマースがたじろいたのを見逃さず、マーキュリーは追討ちをかける。
 聖水の本来の効用である浄化作用を発揮すべく、平手打ちを放った右手を返し、即座にソルジャーマースの胸元に手を伸ばす。センサーアイが捕捉した標的――クリスタルを狙い澄まして。
「うさぎちゃんから離れなさいっ」
 マーキュリーが怒声をあげた。
 直後、繰り出された彼女の手と、ソルジャーマースの胸に表出したクリスタルから反発を示すかのような赤いスパークが散った。
 スパークを避けるように身をかがめたマーキュリーは、赤い火花の向こうで、動揺するソルジャーマースの表情を見て取ると、心の中で快哉を叫ぶ。
(一矢報いたってとこかしら)
 クリスタルを奪うまでは到らなかったが、わずかでも相手の足止めができれば、彼女の予定通りであった。実際奪うまで、もう少し時間を要するのは、インフェルノとの闘いで学習済みであり、その時間を与えてくれるほど甘い相手ではないことも、身に染みてわかっている。
 マーキュリーは続く予定のとおりに、霧を発生させた。
 あまりの濃霧に、ソルジャーマースは一寸先も確かめられないくらい視界を遮られた。
 ソルジャーマースは赤くやや腫れている頬を指先でなぞりながら、苦笑する。
「目に映るものしか捉えられないのが、私の弱点ね……水野藍……ただのアイドルの道楽と思っていたけど、甘く見ていた……か」
 彼女はマーキュリーの正体を知っていた。だからこそ、多くの人に愛される境遇にある者が、この戦場に踏み入れたことを、気まぐれ、傲慢と受け取った。それが、セーラームーンとマーキュリーへの対応の差につながったように思う。
 彼女の能力は、エナジー、情念の起伏を映像情報として瞳に映す。が、透視能力まであるわけではない。よって、今のように何も見えなくなると、“お手上げ”となる。
 故に、マースには、それを補うもの(・・)が存在していた。
 彼女は霧に遮断された上空を見上げた。
(今日は、負けを認めるわ……でも、逃がさない)
 この自信も、その存在があるからであった。

 濃霧の中、セーラームーンはマーキュリーに手を引かれて、東京タワーに急いでいた。
 センサーアイで、マーキュリーは濃霧の中でも、正確に場所を把握していた。一方で、自らを引っ張るマーキュリーの手元ぐらいしか見えないセーラームーンには、その手が頼みの綱である。
 しっかり握られるマーキュリーの手から伝わる温かさと力強さが、セーラームーンには無性に嬉しかった。
「よかった、ホントよかったよぉ」
 ホッとして涙腺が緩んだのか、セーラームーンの頬を安堵の涙が伝わる。
 そのときだった。身体中にまとわりついていた粘着質の感触がなくなった。
「これって」
 涙を拭いながら、周囲を見回すセーラームーンに、霧の向こうからマーキュリーの声が聞こえた。
「結界が解除されたってことね。人目に触れないように、霧は維持するけど。こんな濃霧をいつまでも張っていたら、混乱しちゃうわ。さっさと済ますわよ」
 声にも張りがある。マーキュリーの回復に、セーラームーンはますます嬉しくなる。
 マーキュリーはマーキュリーで、結界が解除されたことに油断はできないと感じつつも、ソルジャーマースからセーラームーンを引き離せたことに安心する。
 気がかりなのは、残してきたエンのことである。
 気を失っていたマーキュリーこと藍が、目を覚まし、いちはやく状況を理解できたのは、エンのテレパシーによる呼びかけの功績である。
 闘うにはバックボーンが脆いセーラームーンを、ソルジャーマースの精神面からの揺さぶりから逃れさせることを第一にするというエンとの結託もあって、彼にまで手が回らなかった。
 あの相手に、欲張っていては、今手を引いている少女も助けられなかった。しかし――
(後味悪いわね、こーゆーの)
 肩越しに、マーキュリーが、自分たちが後にした地点に振り返ろうとしたときだった。
(大丈夫だ)
「エンっ」
 セーラームーンが途端に叫んだ。彼女にも、脳に直接届くこの声が聞こえたらしい。マーキュリーは、セーラームーンと揃って安堵の溜息をつく。
 しかし、ホッとするにはまだ早いことを、マーキュリーはわかっている。間を置かず、状況判断に努める。
「敵はどうしたの」
(マースは目にしか敵を察知する手段を持たない。俺は、このまま霧に乗じて避難する。あとは頼む)
 トーンの低い言葉尻に、自分に何もできない悔しさが滲んでいた。
 それを、セーラーVを案じる故と理解したセーラームーンは胸を叩いて言う。
「だいっじょーぶよっ、任せてっ」
 エンの不安を拭おうと、精一杯強がってみせるセーラームーンをマーキュリーは、好ましく思い、顔をほころばせたまま、立ち止まった。
 ちょうど、東京タワーに到着したのである。
「着いたわよ」
 セーラームーンには霧で東京タワーが識別できないので、マーキュリーが到着を教えた。
 よしっ、とセーラームーンは肩を怒らせ、拳を握りしめて気合を入れる。霧で相変わらず見えないが、セーラームーンは東京タワーのてっぺんがあろう一点を見据える。飛行能力で、一気に行くつもりである。
 セーラームーンが体勢を整えようとしたときだった。隣のマーキュリーが声をかけてきた。
「ありがとう、さっきのお礼、まだだったわね」
 セーラームーンはきょとんとマーキュリーのいる方向を見返すと、彼女の表情が霧の中でも見て取れるくらい顔を近づけ、まじまじと見つめてしまった。
 マースとの闘いでのヒーリングのことを指していることに気づくのに、そこまでの間を要した。
 マーキュリーにしてみれば、エンの無事がわかって、心にひっかかるものが霧消した今だから言えるお礼の言葉であった。
「そんなっ、大体、あたしが……」
 恐縮したセーラームーンが肩をすくめると、その唇に、マーキュリーが指を一本押し当て、言葉を止めさせる。
「お互い様よ。じゃっ、行くわよ」
「はいっ」
 マーキュリーの笑顔につられて、セーラームーンは反射的に、力強く返事をしていた。
 セーラームーンのそんな明るく気丈に振舞う言動がまた、逆にマーキュリーを導いていることを、セーラームーンは気づかない。
 いつかそれを伝えたい――自分の『幸せ』な未来を守り切れたら、とマーキュリーは思うのである。

 徐々に霧が晴れていく。
 尋常ではない濃霧がマーキュリーの能力によるものと気づいていたセーラーVは、このことでマーキュリーたちの到着を察した。
 セーラームーンたちが東京タワーの足許に到着した頃、セーラーVは頂上で膝を折り、右手を胸に当て、左手で自らの立つアンテナの最上部に触れた。
 セーラーVはすうっと一息吸うと、目を閉じる。
 航空障害灯を兼ねた東京タワーの頂上にいるセーラーVの姿が、フットライトで夕闇に映し出されるようであった。
 それ以上に強い光が、セーラーVが右手を当てる胸元が放ち始める。指の間から、光がこぼれんばかりである。
 一秒一秒ごとに光は強くなっていき、その輝きに、彼女の全身の輪郭を捉えることすら難しくなっていた。
 飛行で、マーキュリーより一足早く到着したセーラームーンも、直視できない。
 小型の太陽のような明るさに、夕闇は昼間へと様変わりする。
 濃霧に続く異常に、どよめく人々が地上に照らし出されていた。そんな眼下の状況に、形の良い鼻梁に皺を寄せて、マーキュリーも到着する。
「凄い……」
 光の奔流に圧倒されて、手で光を遮りながら呟くセーラームーンとは対照的に、センサーアイがフィルター代わりとなって、セーラーVを見つめるマーキュリーの表情は険しい。
 光の中で、両膝どころか両手をついて、身体を支えるセーラーVの姿を捉えていたからであった。
 セーラーVの身体は小刻みに震えていた。
「何で、銀水晶の力が発動しないのよ……っ」
 光――己のエナジーを出鱈目に放っているのが実状であった。これだけのエナジーを注いでいるのに、己の身体に宿る銀水晶は、その効果をもたらす兆しすら見せない。――消去と再生という『癒し』。
 このままでは、役目を果たす前に力尽きてしまう。
「あたしじゃ……あたしじゃ、やっぱり駄目なの……っ!?姉さんっ」
 歪む視界の中、ぐらつく身体を精一杯支えながら、セーラーVは独白する。全身からは、冷たい汗が噴き出していた。
 血が滲むほど唇を噛みしめて、その痛みがないと、正気を保てない状態にあった。
(……わかっていたんだ……あのとき、エンディミオンを本来の姿に戻したのも……あたしの力によるものじゃないって)
 そう、本来、銀水晶を継承するはずであった……彼女の存在があったからこそではないか、と。
(あたしにだって、資格はあると思いたかった。銀水晶を宿した以上、責任を果たしたかった)
 視界は歪みを増し、形を留めて捉えることはできなくなっていた。
 そのとき、不意に彼女の肩を掴み、揺さぶる者があった。
「しっかりして、独りで無茶しないで」
 その人物は、そう声をかけてきた。肩に触れる手のひらから、温もりと同時に力が伝わってくるような感じを、セーラーVは受けた。
 視界の焦点が合ってくる。
(……姉さん?)
 己の内からの溢れる光の奔流の中で、眼前にいたのは、セーラームーンであった。その隣には、マーキュリーも立っている。
 セーラーVの意識が自分たちに向いたことに気づくと、セーラームーンはセーラーVの身体を抱きしめていた。より効率の良いヒーリング効果を狙ってのことであった。
 同時に、セーラームーンは、思った以上に、か細いセーラーVの身体を知った。
 こんな身体で、あれだけの力を引き出していたのか。そう思うと、たまらなく切なくなった。
「ごめんなさい、あたし、貴女に、セーラーVって看板に甘えてた。今みたいな光の強さを目の当たりにすると、あたしなんかお呼びじゃないって思っちゃう。でも、無理してたんだよね、ずっと、今まで」
 耳元で聞こえてくるセーラームーンの言葉に、セーラーVは頬を震わせた。
「貴女が無理してるって、気づいたのは藍さんだけど」
 続くセーラームーンの言葉に、セーラーVはマーキュリーに視線を向ける。
「あたしたちに頼らないって突っ張った態度が見え見えだったから、反面、無理してるんじゃないかって思ったのよね。このセンサーアイで、状況が正確にわかったってこともあるけどね」
 センサーアイに指先を当てながら、マーキュリーは唇を尖らせた。
 そして、セーラーVの顔色に精気が戻ってきたことを確認すると、口許に手を当てる。苦笑を隠すように。
(独りで背負い込もうとするのって、他人見てる気がしないのよね)
 マーキュリーは、セーラーVに、己を――水野藍を重ね見ていた。
「あたしには目先のことしかわからない。けど、妖魔にされた人が、元の生活に戻れるようにするってことは、とっても大事なことよね」
 自分の肩を抱くセーラームーンの手に力がこもったことで、セーラーVは視線を、彼女の横顔に転じる。
「その人たちのために、頑張らなきゃいけない。だから、あたしたちにもなにかできるのなら、あたしたちにも頑張らさせて」
 セーラームーンの言葉は、セーラーVの胸を突いた。
 妖魔にされた人々を、元の生活に戻すために――。いつのまにか、その目的を忘れ、目的がすり替わっていたことに、セーラーVは気づかされた。
(自分のことしか考えていなかった)
 自分に銀水晶を制御する能力があることを見せたかった。――誰に?
(姉さんより(まさ)っているところを見せたくて……意地になってた。他人(ひと)を助けたいって気持ち、忘れていた)
 涙が流れた。自分のいたらなさに。
 自分の身体に宿る光が、グンと輝きを増したことに気づかないほどに、セーラーVの心中は己への怒りでいっぱいであった。
 センサーアイでいちはやくマーキュリーが、続いてセーラームーンが、新たな光の発動に気づく。
「セーラーV」
 ふたりの呼びかけに答える余裕は、セーラーVになかった。ただ、ふたりの声が、己の使命を再確認させる。
(あたしは、助けたい。もうこれ以上、他人(ひと)が傷つくのは見たくない)
 銀色の光が東京タワーから立ち上り、天地をつないだのは、その一瞬であった。
 その光の余波が、波紋のようになって、周辺に広がった。
 そして、街は何事もなかったように穏やかさを取り戻した。