ACT1 月の名の下に  (Part7)

 夕焼けに照らされる東京タワーの周囲を、二羽の赤目の鴉が旋回していた。
 その赤い目玉は地上に向けられている。
 はるか眼下で対峙する、ひとりの巫女姿の少女と、三人のセーラー服の少女を見守るかのように。
 少女たちの横を人々が行き交う。人々の目には、彼女たちの姿は映らない。そして、彼女たちの立つ場を、我知らず避けて歩いていく。
 ――結界の効用である。
 そして、その結界を張った巫女の口から、開戦が告げられた。以下のように。
「火星の化身たる情熱の闘神・ソルジャーマース……月に代わって、貴女たちを粛清します」
 宣戦布告したソルジャーマースの姿が突然消えた。そうとしかセーラームーンの目には映らなかった。
 ソルジャーマースは一瞬にして、セーラームーンの背後に移動していた。隙だらけの格好の獲物であった。
 ソルジャーマースは右手を大きく開く。オーラが熱気となって、大気を蠢動させる。
「だめっ」
 センサーアイで、敵の移動を捉えたマーキュリーは頭で考えるより早くセーラームーンを、体当たりするように突き飛ばしていた。
 だが、代わりに彼女がソルジャーマースの魔手に捕らえられた。
 その手を中心に熱気が渦を成す。
「ヘブンズヒート」
 ソルジャーマースは静かに言い落とす。
 マーキュリーの身体から煙が噴き出したと同時に、
「きゃあああああっっっ」
 マーキュリーの悲鳴が、セーラームーンたちの鼓膜をつんざいた。
 今度は、セーラームーンの身体が無意識に反応する番であった。クレッセントシューターがソルジャーマースに放たれる。
 動いたのは、セーラームーンだけではない。セーラーVのチェーンヒドラバインドが、敵を拘束しようと、ソルジャーマースの足元から伸びていた。それが、ソルジャーマースの身動きを阻んだ。
 マーキュリーから手を離し、彼女は両腕を前面で交差させ、クレッセントシューターをガードする。
 その隙に、セーラームーンはマーキュリーを抱き上げて、ソルジャーマースから距離を置く。人ひとり抱き上げる腕力を得ていたことを意に介する余裕もない、無我夢中の行動であった。
 マーキュリーは変身を解かれ、水野藍の姿に戻っている。目立った外傷はないが、魂を奪われたように青白い顔をしている。
「藍さん」
 セーラームーンが藍の身体を揺さぶる。閉じていた瞼が微かに震えた。一瞬うっすらと目が開いたかと思うと、すぐに閉じてしまった。
「あ――」
 手首の脈を確かめようとしつつ、再度呼びかけを試みかけたセーラームーンは藍の唇がわずかに動いていることに気づき、耳を寄せる。
「……ょうぶ、だった……さぎちゃ……ん」
 消え入りそうな声で、藍はセーラームーンを気遣っていた。彼女にしてみれば、セーラームーンを闘いの場に求めてしまった責任があった。その責任を、身をもって果たしたのである。
 自分の身代わりで傷ついた上に、気遣ってくれる藍に、セーラームーンは泣くしかなかった。謝罪の涙――。
「ごめんなさい、あたしのせいで」
 涙と鼻水で声がむせぶ。それでも、なお謝罪の言葉を繰り返す。セーラームーンが無事だったことを確かめ力尽きたように気を失った藍の耳には届かずとも。
 セーラーVは俯きながら、拳を握りしめた。
(あたしが守らなければならなかったのに……)
 セーラームーンの姿が痛痛しかった。マースの出現に動揺し、反応が遅れたことが悔やみきれなかった。
 セーラーVは気づいていなかった。マーキュリーの肩を抱くセーラームーンの手の甲に三日月の紋が浮かび、銀色の光が灯ったことを。
 クレッセントシューターをガードしていたソルジャーマースは、造作なく手刀でチェーンヒドラバインドを断ち切る。そのまま錬金の鎖は霧散した。
 それを観察しながら、エンは最悪の事態を確信する。
(間違いない。熱を媒介としたオーラの浄化)
 これによって、マーキュリーの変身は解かれ、内在するエナジー――生命力まで削られたのである。
 その脅威だけではない。セーラーVのかつての仲間までも敵に回ったという事実が、重くのしかかる。
 普段見せることがない不安なエンの顔が、セーラーVを見上げた。セーラーVと視線を交わす。彼女は唇を一文字に結び、軽く頷いてみせた。
 エンは彼女の覚悟を察すると、切ない顔でソルジャーマースを一瞥して、地面に降りる。闘いの邪魔にならないように。
 そのとき、銀色のオーラが爆発的に膨れ上がった。セーラーVとエンは慌てて向き直す。
 光の中心には、セーラームーンがいる。藍に対するヒーリングの発動である。
 だが、それだけではないことをセーラーVとエンは直観する。
 セーラームーンは藍を静かに地面に横たえると、立ち上がり、鬼気迫る面持ちでソルジャーマースを睨み据える。両方の手の甲に浮かぶ三日月の陰にあたる部分から黒いオーラが流出し、銀色のオーラに代わって、セーラームーンの五体を渦巻くように包む。
 ソルジャーマースは、そのオーラに脂汗が滲む手のひらを見やると、爪を立てるように両手を構える。しかし、表情に動揺は見られない。
 それに対して、味方であるはずのセーラーVとエンが、セーラームーンの変化に狼狽していた。眼前に起こっているのは、あってはならない変化であった。
 この覚醒は早すぎる。
「絶対に許さないンだから」
 セーラームーンはぽつりとそうこぼすと、ソルジャーマースに飛行して突進する。
 ソルジャーマースは両手を前に出し、セーラームーンの両肩を抑え、突進を食い止める。 
 肩の部分からマーキュリーのときのように煙が噴き出したが、セーラームーンは気に留める様子もない。蒸発するセーラースーツを黒いオーラがすぐさま補い、スーツを再構成するからである。
 セーラームーンは掌中に黒い光の玉を集束させると、至近距離からソルジャーマースの胸元めがけ、バレーボールのアンダーサーブの要領で叩きつける。
 爆煙が上った。
 セーラーVとエンは唾を飲んだ。
 銀と黒のオーラ。正邪を隔てることのない育みと慈愛を司る月の化身たる証。
 しかし、完全覚醒したわけではない。恐らく記憶は失われたままのはず。
 でなければ、破壊力はあっても、あんな戦法をマース相手に試みない。
 皮肉だが、相手がマースであることが不幸中の幸いか。
(同胞殺しの罪を被るのはあたし独りで充分よ)
 悲しげなセーラーVの瞳には、爆煙を振り払うかのように現れたソルジャーマースと、その相手の様子に落胆気味のセーラームーンの姿が映っていた。
「そんな……効いていないの」
 セーラームーンは眉間に皺を寄せて、自分の手のひらに視線を落とす。自分でも想像できなかったパワーが溢れているのに。眼前の敵に負けないくらいの力を感じているのに。
 それにそぐわない現実を突きつけられ、藍の仇をとろうという気持ちが、苛立ちと焦りを誘発させる。
「セーラームーン、マースには普通の攻撃は通用しない」
 焦燥感から不安まで芽生えてきたところに、不意に、耳元で男性の声がしたものだから、セーラームーンは色をなして振り向く。
 エンが肩に乗っていた。
「彼女は、敵の怒り・憎しみすらも己の力に変える……だからこそ、闘神の名を冠する者」
「な、何よ、それっ」
 内容よりも、冷静なエンの物言いのほうが、今のセーラームーンには癇に障って、思わず怒鳴るように問うていた。
 エンが答えるより先に、ソルジャーマースがその質問に答えていた。
「私は人の情念を映す鏡。我が(まなこ)は情念を映し出し、我が肉体はそれを力として顕す。それは……」
 言いながら彼女の姿が消えた。
 エンには見えなかった。しかし、セーラームーンは目で追う。戦闘能力の覚醒が、それに比例する動体視力を与えていた。それでも、かろうじて見えたレベルであり、自身の身体そのものの動きは追いつかない。
 ソルジャーマースは先ほどより、更に高速移動をしてみせた。
 セーラームーンとエンがソルジャーマースの注意を引いているうちに、単独でも当初の計画を実行しようと先へ急いだセーラーVの鼻先に、ソルジャーマースは移動していた。
「我が力の形態である熱として発現する。更に、その熱量を、瞬間的にパワー、スピードに変換する」
 瞬間的なスピードの飛躍の実例を見せた次は、パワー向上の実例を見せんと言わんばかりに、ソルジャーマースは両拳を絡め、セーラーVの脳天めがけて振り下ろす。
 グヮキイッ
 鈍い音がした。思わずセーラームーンは目を手で覆った。
 だが、そんな彼女を引き戻そうと、エンがそのぬいぐるみの小さな手で、彼女の頬を叩いて声をあげる。
「まだだ」
 チェーンヒドラバインドの鎖で直撃は免れたセーラーVであったが、ソルジャーマースのパワーに抗しきれず、砕けた鎖の両端を持った手を上げたまま尻餅をついて、体勢を崩していた。
 対して、相手はその清楚な顔立ちに波ひとつ立てることなく、高熱を発する魔手――ヘブンズヒートをセーラーVの喉元へと伸ばす。
「まだよっ」
 怒声を張り上げて、セーラームーンが両者の間に割り込み、ソルジャーマースの手を平手で弾き上げる。
(びびってるヒマなんてないンだ。あたしがくい止めないと)
 ソルジャーマースの懐にできた隙を逃さず、セーラームーンはありったけの力で地面を蹴り、タックルを敢行する。
 これには、ソルジャーマースもこらえきれず、セーラーVは勿論東京タワーからも引き離されて行く。
 セーラーVはこのチャンスを無駄にするわけにはいかなかった。立ち上がりざまに、セーラームーンを案じるように視線を一瞬投げたが、すぐに東京タワーに足を急がせた。
 それを目で追ったソルジャーマースの、自分を引き離そうとする手に力がこもったことを敏感に察知したセーラームーンはクレッセントシューターを放ち、ソルジャーマースがたじろいた隙に距離を取ったうえで、その背後に回りこむ。
 セーラームーンはごく自然に、変身後も“お団子”にまとめられている髪の飾りを、手に取った。彼女の手の甲の黒い光に呼応し、黒光りする刃が伸びて、その切っ先をソルジャーマースの首筋に突き立てた。
 オーラの容量への過信と、藍の仇討ちに逸る気持ちで、なりふり構わず攻め一辺倒だった先ほどとはうってかわって、搦め手も取り入れたセーラームーンの戦法に、エンは内心舌を巻いていた。
 が、セーラームーンの胸元から顔を出して、彼女の顔を見上げるエンの表情は曇っていた。
 本来一介の中学生である彼女が、敵とはいえ、人間に凶器を向けているのである。
 セーラームーンの人格そのものが、本来の兎和ではなくなってしまったような気がして、あえて肩まで上り、耳元で声をかける。
「セーラームーン」
 返事がない。
 瞳に正気の色がないことに気づく。機械的に、刃をソルジャーマースの喉に当てているのである。それだけに、相手が妙な動作をすれば躊躇なく喉を裂くと予感された。
 それはソルジャーマースもわかっていた。故に、抵抗はしない。一方で動揺の色もなかった。
(記憶が戻っているわけでもない。戦士としての本能か)
 エンはそう思いながら息を呑むと同時に、一呼吸置いて、声を大にしてセーラームーンに呼びかける。
「セーラームーンっ」
「え」
 セーラームーンが顎を上げて、周囲を見渡した。そして、自分の手がナイフを持って、ソルジャーマースの喉を今にも掻き切ろうとしていることに気づき、一瞬、口をあんぐり開けたまま言葉を失う。
「ええええええっ」
 次の瞬間、仰天の絶叫を、間近で聞いてしまったエンはおろかソルジャーマースまでも、その音量に耳を抑える。脳内に反響してくらくらする。
 絶叫した本人は、慌てふためきながら、ついさっきまでの行動を思い返す。
 タックルを敢行したとき、くい止めようという決意の緊張感のためか気が遠くなった気がした。そして、気づいたときには現在の状態になっていたのである。
 その間、動揺の余り、セーラームーンは手にしたナイフを持て余し、ソルジャーマースの喉から切っ先を引っ込めてしまった。
 それを見逃す相手ではなかった。即座に、跳躍してセーラームーンから離れる。
 しかし、頭は依然としてくらくらして、それ以上の行動に出るまでには到らなかった。
「し、しまった」
 セーラームーンと、意識をはっきりさせようと頭を振るエンは口を揃えて、口惜しがる。
「悪戯が過ぎるようね。まるで超音波だわ」
 初めて顔を歪ませて、こめかみに指先を当てるソルジャーマースはそう呟いた。
 しかし、彼女が苦々しくセーラームーンを睨みつけたのも一瞬で、すぐにその更に先に視線を飛ばした。
 エンも、セーラームーンも、その視線の意味を即座に理解する。自分たちの背後にそびえる東京タワーに向かったセーラーVを狙っているのである。
「させないっ」
 セーラームーンは叫んで、手にするナイフに力を込めた。手に持っているものの感触に思わず手中に目線を落とした彼女は、凶器を改めて認識する。
 その瞬間セーラームーンは卯之花兎和(うのはなとわ)に引き戻された。
 何をやっているのだ、自分は!?
 獣人でもなく魔力を振るう高圧的な男性でもない、同年代である少女を敵にして、ナイフという明快な凶器を手にして、殺し合いをしている自分という現実が、卯之花兎和という13歳の少女である現実とジレンマを生んだ。
 手が震えた。
 そんなセーラームーンの戸惑いの意味を、エンはすぐに理解した。
 酷過ぎることはわかっていた。むしろ、先ほどのように戦闘し、相手に切っ先を突きつけるほど追い詰めることができたほうが、異常なのである。
 エンは着地すると、ぬいぐるみながら四肢でしっかり地面を捉える。真後ろの、セーラームーン、ひいては東京タワーに向かったセーラーVを守ろうという意志表示であった。
 そして、勢い良くソルジャーマースに跳びかかる。
 この身体で、マースのスピードに対応できないことはわかりきっている。ならば、セーラームーンの“超音波”の影響が残っているうちに足止めするしかなかった。
 しかし、ソルジャーマースは高速移動でかわす。
 一瞬にして、セーラームーンの目の前まで歩み寄ったとしか見えない粛然とした姿勢であった。
「逃げろっ」
 無意味とわかっていても、エンは後方に振り返りざまに、叫ばざるを得なかった。
 セーラームーンは、観察するかのような視線を送る眼前の敵にたじろく。逃げ切れないことを直観する。
 彼女は、半ば自棄になったような声をあげて、ナイフを突き出した。
 だが、急所を狙うものでもなく相手を威嚇するに近いものであった。
 けれども、ここにきて威嚇されるような相手ではない。
 ソルジャーマースは造作なく、セーラームーンの突き出された腕を掴んでいた。
 より近づいたソルジャーマースの瞳に、セーラームーンは観察どころか見透かされるような悪寒を覚えた。
「悪戯が過ぎると言ったでしょ」
 ソルジャーマースの言葉には憂いが含まれていた。
 セーラームーンは彼女を振りほどこうとするが、腕そのものが固定されたかのように動かなかった。
 黙ってみているわけにもいかず、エンはソルジャーマースの手に跳びかかろうと駆け出す。
 ソルジャーマースはそんなふたりの様子を意に介することなく、ただセーラームーンの怯えた目を見つめながら、言葉を続けた。
「貴女は、前世からの宿業を持て余す。何かのきっかけで、その力が暴走するとは限らない、今のように」
 セーラームーンの腕から力が抜けたことを、エンは気づく。彼は、ソルジャーマースの手を引き離そうと、両者の腕に乗りかかりながら、爪を立てていた。
 動揺しながらも、セーラームーンはソルジャーマースの言葉に耳を傾けている。
「駄目だ」
 エンが不安を覚え、そう口走った瞬間、彼が爪を立てていたソルジャーマースの手の甲の一部分が高熱を発し、彼を振り落とした。
 そして、ソルジャーマースはセーラームーンがおとなしく自分の話を聞く気になったと悟り、彼女から静かに手を離す。
「それを人々が目にしたとき、貴女は忌避される。人は己の理解・制御を超えた力を忌み嫌う。集団は異分子を排除するもの……人の心の闇、その一例……」
 セーラームーンは頭を何度も横に振った。否定したかった。でも、声には出せなかった。
 本心では、有り得ることだとわかっていたから。
 これ以上、ソルジャーマースの話を聞くのが怖くなった。拒絶の意思を示そうとした。それでも、彼女の声が耳に入ってくる。
 わかっていたのである。同じ宿業を背負った者同士であると。その共鳴が、うわべの意思に反し、身体に、耳に、ソルジャーマースの言葉を聞き取るように指示している。
「私は、そんな人の心の闇を憎んだ……こんな宿業を背負った自分を呪った……そう、私も例外なく心の闇を抱えていた」
 そう話すソルジャーマースの瞳に、セーラームーンは感情の起伏を初めて見たような気がした。知らず知らずのうちに、自らも彼女の瞳を見つめていたのである。
「あの人あの人(・・・)は、それを私に教えてくれた。心の闇を否定するのではなく、受け入れることを教えてくれた……私を受け入れてくれたの……」
 強い意志までも、ソルジャーマースの烱眼に(みなぎ)ったかに見えた。
 セーラームーンも、エンもその気迫に、身体が硬直した。
「だから、私は闘うの……『月闇(つきやみ)』の民のひとりとして」
 ソルジャーマースの手が、セーラームーンに差し伸べられる。
 眼前の少女が放つ無言の圧力とは対照的な、その少女自身の行為に、セーラームーンはますます混乱し、警戒の目を向けた。
 それに気づいた相手の鮮紅色の唇に、かすかな笑みがこぼれる。
「私も、貴女を受け入れるわ。貴女がその気なら、ありのままの人を受け入れる国を、星を築く助けになって欲しい」
 ソルジャーマースは真摯な眼差しで、セーラームーンを(いざな)った。