ACT3 非日常  (Part3)

 六本木の一角に水柱があがった。それを見た通行人がどよめく。その水柱が屋上であがった建物内では、その衝撃に建物そのものが揺れ、誰もが身の危険を感じずにはいられなかった。
「あ、藍ちゃん」
 水野藍のマネージャー・波野は仮眠室にいるはずの藍のもとに駆けつけた。が、藍の姿はなかった。藍のケータイにコールしてみてもつながらないことに、波野は不安をおぼえ、また震動が来ても、立って歩けるように、壁に腕をもたせながらビル内を見回すことにした。
 水柱は、縦の洪水と言わんばかりに、かなりの水量を地上に叩きつけた。折悪く、そのビルの周辺にいて避難が遅れた通行人は水圧に押され、満足に立っていられなかった。
 人々の悲鳴やヒステリックな声があがり、一帯は騒然となる。
 頭に血が上らんばかりの人々の頭を冷やす義理はないと言わんばかりに、先ほどまで降っていた雨は止みつつあった。

 屋上の貯水漕までも破裂していた。
 屋上で立っていたのは、アクアただひとりだった。
 胸のざわめきが、マーキュリーを目の前にしていたときと比べ弱まっていることを確かめるように、胸に手を当てて、短く舌打ちした。
 直後、彼は自分の背後に空間の歪みを感じ取った。
「逃げられてしまったようですね」
 アクアが背後に向き直ると、その声の主である男が立っていた。
「インフェルノ……」
 アクアは目の前に立った男の名を呟いた。
 無造作に束ねられた赤茶がかった長髪と、アクアと同様に身を包むマントが、インフェルノのオーバーアクション気味な動きに伴って翻る。
 インフェルノは屋上の縁に沿って歩き、地上の人だかりを見ていた。
「貴方のおかげで、大収穫になりそうですよ。ただ、エナジー集めは私の役目。当然、それを邪魔する輩の排除も、私に任せてもらいましょうか」
 インフェルノは慇懃無礼気味な態度でニヤつきながら、アクアに言う。
「貴方が取り逃がすほどの相手ですからね。充分気をつけますよ」
 皮肉めいたインフェルノの言葉を無視するかのように、アクアは空間の歪みに姿を消した。
「ふん、相変わらず愛想のない」
 アクアが姿を消したあとを尻目に、インフェルノの切れ長の眼は冷然と人々を見下ろしていた。

「ったく、何なのよ。妖魔って何よ」
 藍は息を荒くしながら、自分のスタジオがあったビルから数メートル離れた路地裏で座り込んでいた。逃げられたのはいいが、体力の消耗が激しく、足元がおぼつかないのである。
 私服のジーンズは泥まみれになってしまった。下着にも、水がしみ込んできたようで、嫌な感触である。藍は背中を壁に預けるようにして立ち上がった。
 逃げるのに精一杯で、気を回す余裕がなかったが、自分たちの闘いに巻き込まれたビルはどうなっただろう。先ほどから聞こえる人の悲鳴に似た声が、藍の嫌な予感を加速させていった。
 身体を傾かせながら、路地裏から顔を出した藍の目に、水浸しになって急速にボロボロになったように見えるビル、そして行き交う野次馬の合間合間を運ばれる怪我人の姿が目に入ってきた。
「は、はは……何よこれ……」
 藍は苦笑いしながら、その場にへたりこんだ。
 妖魔とは何か、セーラーVが何を知っているのか――そんな疑問など、目の前にある事実に吹き飛んでしまった。藍がわかったのは、ただ自分の無力さであった。その事実だけで充分だった。
「大丈夫ですか、顔も服も泥まみれですよ」
 藍の目の前に、ウサギのキャラクターの入ったハンカチが差し出された。俯いていた藍は顔を上げた。
 隣に、身をかがめて自分を心配そうに見ている少女のハンカチだった。
 ハンカチには、「卯之花兎和」という名前が刺繍で入っていた。

「会うべくして会ったか」
 藍が背中を預けていた壁の上方――屋上から、エンは藍と兎和のふたりの接触を確認していた。ぬいぐるみながら神妙な顔をしている。
「美菜子……お前だけでは、やはり無理なんだ」
 別の場所で休ませている美菜子に向けていながらも、自分に言い聞かせるようにして呟く。
 美菜子は怒るであろう。彼女はあくまで独りで闘うことを選んでいるから。
 しかし、アクアとの闘いを見る限り、敵が幹部クラスとなると、セーラーV独りではよくて相討ちである。

 ――水塊を落とされたとき、セーラーVはいちはやく察知して、マーキュリーによけることを促し、ふたりとも難を逃れることができた。
 しかし、アクアは貯水槽を破裂させ、その水量を使って、間髪を入れず第二弾を繰り出してきた。マーキュリーは飛び散る水飛沫の一部を霧に変え、姿を眩ませ、逃げるしかなかった。口惜しいが、時間的に有効な手段は逃げることしか、マーキュリーには残されていなかった。
 それはセーラーVも同様であった。
 マーキュリーの張った霧で、アクアは攻めあぐねている。
 アクアによる水塊二連撃のあとの制御を失った大量の水が、重力に従って落下するのは自明の理であった。セーラーVは己に宿る力で、それを防ごうとしたが、叶わなかった。
「銀水晶の力が発動しない!?」
 呆然と己の手を見つめるセーラーVに対するエンの指示は素早かった。
 「銀水晶の力」が発動しなかったと知るや、セーラーVの胸元の襟口から顔を出して、霧が残っているうちにセーラーVにも逃げることを促した。
「相手は四将のひとり――アクアだ。妖気を絶ってマーキュリーを追跡したことといい、お前にも並の相手ではないことはわかるだろう」
 エンは、指示にためらったセーラーVを一喝して、彼女をこの場から退避させた。
 そして、地上に戻り、変身を解いた美菜子は不意に目眩に襲われ、片膝をつくことになった。
 エンは慌てて美菜子の胸元から飛び降り、美菜子のほうに向き直ると、
「大丈夫か、美菜子!?短時間のうちに、二度もメイクアップ……しかも、普段以上のエナジーを使おうとしたからな」
「……オーバーヒートしたってわけね」
 エンの慰めに、美菜子は冷静に答え、そのまま無言である。美菜子が感情を表に出さないとき、それはよほどショックを受けているときであることを、エンはこれまでの付き合いで見抜いていた。
 マーキュリーとアクアの闘いの波動を感じ、急行するのにエナジーを消費した。それにアクアとの闘いによる消耗度を加算しても、「銀水晶」を使おうとしただけで、これほどの疲労を身体が訴えるとは……。それで「銀水晶の力」が引き出せたなら、まだ慰められるが。

『今度こそ、銀水晶を、皆の平和、幸福のために使うのですよ』

 銀水晶を自分に託した銀色に輝く女性の顔と声が、美菜子の脳裏に閃いた。
 その願いに応えられないもどかしさに、美菜子は顔を歪め、俯いた。銀水晶の力があれば、自分独りで充分なのに。華奢な拳を握りしめる。
「美菜子……」
 心配そうに、エンが顔を覗きこんできた。美菜子は深く息を吸って、ゆっくり吐き出すと、笑顔で顔を上げる。
「大丈夫よ、心配しないで」

 美菜子を近辺のハンバーガーショップ(近くのビルで怪我人が出ているというのに、平然と店が営業されているというのも、不気味なものがあるが)で休ませている間、エンはマーキュリーの様子を探っていた。マーキュリーがどこに逃げおおせたか、先ほどのアクアとの闘いを観察していたエンには、見当がついていた。おまけに、自分のエナジーを察知する能力は妖魔をはるかに上回ると自負しているくらいである。すぐに見つけ出せた。
「アクアか……よもや、あんなお前を目にするとは……」
 妖魔の幹部であろうアクアのことが思い起こされたエンは、悲しげに独白する。
 一方で、藍と兎和への注意が殺がれているわけではない。
 しかし、このふたりがこんなに早く接触するというのも、正直エンの予想外であった。
 これは幸運なのであろうか、彼女たちにとって。そんな疑念が、エンの心に陰を落とした。
 自分は、美菜子の危惧する闘いの渦に、新たにふたりを巻き込もうとしている。美菜子が最も嫌がっていたことである。
 エンとて、美菜子と気持ちは同じである。だが、このままでは、遅かれ早かれ運命は同じであろう。
 破滅からは逃れられない。それに、エンは、彼女とまた会いたかった。彼女を遠ざけるより、彼女に会いたい気持ちが勝った。
「――愚かな」
 同じ過ちを、今生でも繰り返すのか。エンは自分を嘲りながら、兎和の姿を目で追った。

 バシャッバシャッ
 藍は、勢いよく水を顔に当てた。そして、鏡に映る自分の顔を覗きこむ。まだ水の滴る前髪を掻きあげる。藍は歌手としての水野藍になりきるために、仕事場を出入するときはメイクを欠かさない。泥は落ちたが、メイクが中途半端に残っている。
 蛇口をひねり、飛沫をあげて水が両手に蓄えられると、藍はまた水を顔に浴びせた。
 それを数回繰り返すと、藍は鏡を見つめながら、フーッと深い溜息をついた。メイクをしていないほうが、その湖のような瞳の美しさはずっと映える。ただ、その湖に現在煌きはなかった。
 ――無力感が拭えない。
 水の冷たさが、藍の思考能力を回復させる。それと同時に、無力感が一層鮮明になってきていた。
 少年少女のカリスマとか言われて、ちやほやされても意味のない世界に、自分は身のほども知らずに踏み込んでいた。女神の啓示と思っていた夢、その夢を見るようになった前後に発現した能力、それに何らかの意味を見出そうとした結果が――。
「結局、何のために……あたしは生まれてきたの……」
 無意識に、そんな言葉が口からこぼれた藍の脳裏には、両親が離婚した幼いときの記憶がよみがえっていた。不意に藍の視界が滲んだ。涙を浮かべたことを悟り、藍はまた顔を洗い直した。
 ハンカチで顔を拭いたところで、ハンカチに入っているウサギのキャラクターが藍の目に入ってきた。
 自分のではない。持ち主は待っていることであろう。
 藍は六本木にあるコンビニの化粧室にいた。化粧室を出ると、自分の手にあるハンカチの所有者は、こちらをちらちら見ながら、コンビニのパン類を所在無さげに物色しているのが見えた。
 卯之花兎和という名前だった。彼女は、藍に気づいて駆け寄ってくる。
「平気なんですね?どこも怪我はないんですね?」
 兎和は藍の目を食い入るようにして見て念を押す。背丈では頭半個分高い藍は、下から来る眼差しの圧力に思わず後ずさりする。そんなやりとりが滑稽に思えて、藍はくすっと笑った。
「大丈夫よ。ごめんね」
 藍が笑ったことで、兎和もやっと安心したようであった。
 藍は兎和から借りたハンカチに目を落とした。気のせいか、このハンカチを借りてから、身体が癒されたように思う。
 ただ、顔を拭いたときにメイクが残っていたようで、ハンカチにもともとはなかったはずのシミがあることに気づいて、藍はやや眉間に皺を寄せた。藍は気まずそうに、ハンカチを手中に収めると、つくり笑顔を兎和に向ける。
「ごめん、ハンカチ汚しちゃったみたい。洗って返すね」
「いいですよ、とんでもない」
 兎和はぶんぶん手を横に振ると、その動きに気をとられた藍の隙を突いて、さっと藍の手を掴み、ハンカチを取り出し汚れを確認する。
「これぐらいなら全然だいじょーぶですっ」
 そう言い切られても、藍としては気が済まない。もともと他人から借りたものは、利子つけるくらいの勢いで返す性分である。芸能人としてのプライドもある。
「むしろ、そっちの服こそどうにかしたほうが……」
 と兎和に続けられて、藍は自分の泥だらけのジーンズに気づく。少しは乾いてきているが、それでも一度下着にまでしみてきたことを思い出して、一度気になると肌に触る嫌なぬめりが気になってしょうがなくなってきた。
「そうね、ちょっと着替えを持って来てもらうわ」
と藍は言ったところで、あのボロボロになったビルにいるはずの海野マネージャーたちの存在を思い出す。自分のうかつさに、藍は自分の額を裏拳でこづいた。
 突然の藍の仕草に兎和が色をなして声をかける。
「ホ、ホントにだいじょーぶなんですか?」
「う、うん。あ、あたしのほうはだいじょーぶなんだけど」
 そう言いつつ動転した様子で、藍はケータイを取り出し、マネージャーからの着信に気づく。
 そのときちょうど、「うさぎ先パ〜イ」という声と共に、詰襟制服姿の男子がコンビニに入ってくるなり、兎和に向かって走ってきた。
「波野、おとーさんは大丈夫だった?」
 「波野」という名前にぴくっと反応し、藍は兎和たちのほうに視線を移す。
「あ、うさぎってあたしのあだな」
 藍が自分たちに目を向けた理由を勘違いした兎和は、藍にそう説明すると、波野と呼ばれた少年に耳を寄せる。
 そういえば、この波野という少年の丸メガネ顔。どこかの誰かさんとよく似ているし、その誰かさんと同じ苗字である。藍は眉をひそめながら、兎和に耳打ちする波野少年の顔を観察する。
 ――と、
「水野藍が行方不明!?」
 素っ頓狂な声をあげた兎和の口を慌てて塞いだのは、波野少年だけではなかった。藍も思わず兎和の口を塞いでいた。
 藍ははっとして兎和の口から手を離す。
 その藍の反応に、今度は波野少年が藍を観察する番であった。ぐるぐるメガネのフレームをつまみ、藍の顔をまじまじと見る。
 兎和も目を丸くしている。
 それから、兎和と波野少年は互いの唖然とした顔を見合わせて、藍の顔を指差しながら口をパクパクさせている。
 藍はもう苦笑いするしかなかった。が、突然兎和と波野少年の手を取ると、目一杯の力で両者を引き寄せ、ふたりの耳を己の口許に近づけて、
「詳しい話は、別の場所で」
と呟くと、呆気にとられた兎和と波野少年を強引に、コンビニの外へと連れ出した。
 藍に手を引っ張られるふたりは依然として顔を見合わせたまま、声にならない声を交わすしかなかった。

 周辺が未だ喧騒としているビルを観察できるハンバーガーショップの一角に陣取り、オレンジジュースSサイズに挿し込まれたストローに、まず口をつけたのは波野少年であった。
「ホ、ホントに父がお世話になってます。こうして会えるなんて夢のようです」
 ゴクンとオレンジジュースを一口飲み込むと、海野少年は早口でそう言う。言い終わって、頭を下げると、勢い余って額をテーブルにぶつける。オレンジジュースから、期待していたほどの頭を冷やす効果は得られなかったようである。
 そんな波野少年に、彼の向かいに座る藍と、彼の隣の兎和は顔を見合わせて、苦笑する。
「落ち着きなさいって、波野」
「落ち着くって……うさぎ先輩はよく落ち着いていられますね。天下の水野――」
 顔を上げるなり、兎和にそう言いかけた波野少年の頭を、兎和はぽかっと殴りつけ、とりあえず黙らせる。
「波野君って呼んでいいのかな。ちょっと、ボリューム下げてね」
 自前のサングラスをかけて扮装を試みた藍は、テーブルにうつ伏せ状態の波野に囁くように言った。
 恐縮して肩をすくめる波野を横目に、兎和は取り澄ました顔で、言葉を返す
「アンタとは肝っ玉が違うのよ」
「肝っ玉って、先輩は女……」
 またも余計な口を利いて、波野の頭に、兎和の鉄拳が一発ぽかっと炸裂する。
 藍の正体に気づいた初めこそ、言葉も出なかった様子の兎和であったが、生来の人見知りしない性格が幸いして、いくつか言葉を交えるうちに、本来の自分のペースを早くも取り戻したようであった。
 六本木の水災の現場が、父の職場だと知り、波野少年は学校からそれほど離れていないことから、直接駆けつけたのである。兎和は、その付き添いというわけである。
 こうした説明を受けた藍は、波野少年から仕事仲間が無事であることも聞き知り、ほっと胸を撫で下ろしていた。前もって無事だとわかれば、こちらからも連絡するのに気が軽くなる。
「無事なら、そろそろ着替え持って来てくれても良さそうなもんだけど」
 先ほど連絡がとれた波野マネージャーのむせぶ声を思い返して、藍は呟くように軽口を叩いていた。軽口が叩けるのも、向こうの無事がわかったのと、兎和と波野の遠慮のないやりとりに感化されたことによるであろう。
 とはいえ、よほど心配をかけていたらしい。藍とて悪いことをしたとは思うが、いい加減、こっちも着替えたい。ジーンズが汚れているものだから、トレイの上に乗っていた宣伝用の敷紙を座席に置いて座っている。この座り心地悪さでいるよりは、無断で脱け出したことをマネージャーに怒られるほうがマシであった。
「えっ、知らせていいんですか?」
 連絡は人目を盗んで入れたものだから、それを知らなかった波野少年がそう訊いてきた。
「知らせていいんですかって何よ?」
 藍より先に、兎和が怪訝な顔で波野少年に問うた。
 波野少年は先刻の鉄拳から学習して、口をすぼめて答える。
「だって、天下の水野藍が、マネージャーにも悟られないように仕事場を脱け出してきたってことは、多忙なスケジュールから逃げ出してきたってことじゃないですか」
 ほー、と兎和は感心したかのように溜息をついて合の手を打つ。一方の藍も、波野少年の想像力のたくましさに妙に感心していた。
「そっかー。メイクしてなかったから、あたしもわかんなかったもんね。どこかで見たことある綺麗な人だなって思ってはいたんだけど……。お忍びだったんですか?」
 波野少年の発想に同調した兎和にそう尋ねられると、
「まあ、それに近いかもね」
 藍は、そう言って愛想笑いを浮かべてごまかす。それに対して「そっかあ、それじゃあ今日はツイてなかったですよねえ」と兎和は独白気味に言うと、腕組みをして思案に暮れる表情をする。藍と波野少年はきょとんとして、そんな兎和を見守る。
「よしっ」
 にわかに兎和が声をあげて手を打った。そして、藍がたじろぐくらいの勢い&迫力で、顔を彼女に向けると、
「あたしの家に行きましょっ!服を貸します!むざむざお忍びをあきらめることないですっ!」
「はあっ!?」
 兎和の唐突な提案に、藍と波野少年はそろって呆然とする。意味を理解するまで、5秒ほど時間を要した。
 その間に、兎和は自分のトレイに残っていたハンバーガーを平らげ、オレンジジュースを飲み干して、立ち上がると、藍に手を差し出す。
「いくら忙しいって言っても、逃げ出すくらいなら、1日くらいリフレッシュしなきゃ」
「で、でも……」
 ごまかしたことで、事態がこんな展開を見せるとは予想していなかった藍は、兎和の行動力に舌を巻きながらも、マネージャーの息子である波野少年をチラリと見て、言いよどむ。
 波野少年は、メガネのフレームに指をやりながら、そんな藍の表情を読んだつもりで、意気込んで言う。
「父の仕事より、藍さんの心身の健康ですっ!僕も協力します」
 海野少年にまでそう言われると、藍も乗り気になってきた。正直、仕事をする気分ではなかった。内心、何もかも忘れたくて、心がもやもやとして晴れないままなのである。
「行きましょ」
 兎和は手を差し出したまま、藍を促す。サングラスから覗く藍の目は伏せ気味だったが、その目線が兎和の顔に向けて上げられた。兎和がにっこりと笑った。
 自然な笑顔が、清涼剤のように心にしみわたっていくことを藍は感じた。
「うん」
 藍はうなずいて兎和の手を取った。
 雨も上がり、喧騒も終息の気配を見せていたビルのほうから新たな悲鳴があがったのは、そのときだった。
「なに!?」
 藍の頭に不安がよぎり、思わず単身外に出ていた。その横を、ひとつの人影が走りぬけた。藍の目に映った赤いリボンの後ろ姿には見覚えがあった。
 そのあとで、悲鳴に反応して、店内の客が野次馬に出てきた。兎和、波野少年も同様である。

 藍の横を駆け抜けた少女は、姫地美菜子――セーラーVであった。
 体力はいくらも回復していない。それでも――自分は行かなければならない。
 美菜子の目は、うずくまる人、倒れている人を捉えた。そして、全身に傷跡が刻まれた獣人の姿を。
 しかも、獣人は一体だけではない。美菜子が瞬時で確認できる範囲で、五体いる。逆立つ髪は棘のように伸びている。赤い眼と上唇から覗く牙をぎらつかせ、人々を襲っている。
 その襲い方を、美菜子は逃げ惑う人々から身をよけながら凝視した。獣人の掌に黒い水晶が見えた。その水晶が触れた瞬間、人々は脱力したように崩れ落ちるのである。
「闇水晶……!」
 美菜子は意を決したように唇を真一文字に結ぶと、懐からキャップにハート型のレリーフが付いているペンを取り出した。そして、混乱の人ごみに紛れ、路地裏に駆け込むと、一瞬だけ目を閉じたと同時に呟く。
「メタモルフォーゼ!コードネームV、メイクアップ」
 ペンのハートが金色の光を放ち、美菜子の身体を包み込んだ。
 光の球体となった美菜子は、路地裏から上空へと飛び上がる。光が霧散すると共に、セーラーVが姿を現す。
「コードネーム、セーラーVただいま参上!地球に代わって、貴方たちを浄化しますっ!」
 名乗りをあげて、着地するなり、ビッと獣人たちに右の人差し指を突きつけたセーラーVであったが、
(美菜子、後ろだっ)
 エンの声がセーラーVの脳に直接届いた。セーラーVは振り向きざまに、その場から跳び退いた。そこには、真紅の鞭を振り下ろした男の姿があった。鞭の威力に、舗装された地面すら綺麗に裂けている。
(インフェルノ……ッ)
 セーラーVに、引き続きエンの掠れた声がテレパシーとして届いた。その声が意味するものを、セーラーVは体感している。
「またもや、妖魔の幹部クラスってわけね」
 自分に妖気を悟らせることなく背後をとったことで、このインフェルノという男の実力は証明されている。
 セーラーVはインフェルノを睨みつけると、手を胸の前で合わせる。金色の光が彼女の両手から紡ぎ出され、剣の形を成す。
「私を幹部と見るとは、なかなか礼儀をわきまえているお嬢さんだ」
 インフェルノは赤茶の長髪を指先で弾きながら、満面の笑みを称える。しかし、満面の笑みがここまで不気味なものを感じられることはほかにあるまい。
「私の名はインフェルノ。今回、アクアのおかげで、妖魔のなり手が得られたので、そのまま利用させてもらいました」
 インフェルノの登場と共に、彼の後ろに従っていた獣人――妖魔たちは、インフェルノがそう言って指を鳴らしたと同時に、セーラーVを包囲する。
 セーラーVは己のエナジーで錬成した剣を構えて、敵を牽制しつつ出方を伺う。
「不慮の事故に遭った人間は、何故自分がこんな目に、とやり場のない憤りを抱える。その負の心に、闇水晶を与えてやれば、その憤りを象徴する傷を身体に刻み込んだ妖魔の出来上がりです」
「それじゃあ……」
 セーラーVは、インフェルノの説明で背筋に冷たいものが伝わった。
「そう、ここにいるのは、比較的怪我の軽かった者たち。ほかの場所に移された人間、移った人間も、そこで妖魔化していることでしょう。私の念を込めた闇水晶は自動的に負の心に反応して人に取り憑きますから」
 自慢げに滔滔と語るインフェルノの笑みが、セーラーVの怒りを刺激した。剣を振りかざし、妖魔に目もくれず、インフェルノに襲いかかる。
「そう、それは正しい判断。私を倒せば、私の操る闇水晶は制御を失われる。ただ、それは急いだほうがいい。今こうしているうちにも、妖魔の闇水晶からエナジーは、私たちの本拠に送られている」
 セーラーVが様々な角度から繰り出す刃を、悠然とかわしながらインフェルノは言う。
 そして、セーラーVが肩で息をし始めたのを見計らって、インフェルノは手に持つ鞭で、彼女の剣を絡め取る。同時に、剣が光の粒子となって霧散した。
「なるほど、錬金ですか」
 そう呟くと同時に、インフェルノはセーラーVの眼前に迫り、彼女の腹部に蹴りを入れる。声にならない悲鳴をあげて、吹っ飛ばされた彼女の身体は、周囲を包囲する妖魔の肉の壁に弾かれ、倒れ伏す。
「ふん、この程度か」
 インフェルノは鼻で笑った。この程度の敵を逃がしたアクアの失態を、である。
 遠巻きに、この闘いを見ていた野次馬たちはセーラーVの敗北を察するや、ざわめいた。我先に、逃げ始める。その対応は正しいものであった。
 妖魔たちは、セーラーVの包囲を解き、再び人々を襲い始めた。
「今から逃げても――」
 遅いのだ、と藍は逃げる人ごみを横断するように、人々を掻き分け走りながら苦笑する。
 セーラーVが出現した時点で、藍には彼女が本調子ではないことが察せられた。内から感じる輝きが弱いのである。不思議に、自分の心は、その輝きと敏感に呼応する。
 ましてや、あのアクアと似た風体の男。実力も比類すると見て間違いなかった。
 藍は即座に決断した。見ている暇などない。兎和と波野少年に共にいちはやく逃げることを勧めた。これまでのセーラーVの活躍を知るふたりは怪訝な顔をした。他の野次馬たちと同様の心理なのである、セーラーVは負けないと無責任に思い込んでいる。
「あんなに敵がいちゃセーラーVでもさばききれないわ。邪魔になるだけ」
 「セーラーVが負けるから」などど言えるわけもなく、もっともらしい理由をつけて、藍はふたりを説得する。真摯な藍の態度に、兎和も波野少年も承知する。
「それじゃ、ほかの人も逃がさないと――」
「下手に、あたしたちのような小娘が先導しても、無駄よ。誰か逃げ出せば、集団心理ってヤツで、逃げるでしょ」
 兎和に、藍は冷ややかに言葉を返した。自分に無力感を感じる藍に、切迫感を持つことなくギャラリーに徹する人だかりを丸ごと説得する気力はなかった。それでも、目の前にいるふたりだけは助けなければ、と藍は強く思っていた。
 兎和が憮然としながらも納得の素振りを見せようとしたときであった。兎和が突然藍に踵を返し、あらぬ方向に走り出した。
「うさぎ先輩」
「あたしが追いかける。君は早くここから離れるのよ、わかったわね」
 波野少年を押し留め、念を押すと、藍は兎和を追いかける。波野少年の風采から、それほど足が早いようには思えなかった。ならば、怪盗として騒がれる自分のほうが脚力、身軽さは上であると藍は考えた。
 しかし、この場から離れるとも、より近づくとも判断しかねる方向に兎和は走っていた。
 ギャラリーにもどよめきが起こって、我先に逃げ始めた。ようやくセーラーV敗北の危機感に直面したらしい。藍もその横断に苦労するのに、兎和は何かに守られているかのように、するする通り抜けて、ある建物に入っていく。
 ――そこは、先刻、エンが屋上から兎和と藍を観察していた建物であった。

 建物に入った兎和がエレベーターの階上に行くボタンを押したところで、藍が彼女の手を捕まえる。
「急にどうしたのよ?うさぎちゃん」
 その藍の問いに、兎和は感情の昂ぶりを示すかのような涙目でかぶりを振る。
「わかんない……でも、とっても懐かしい声が必死に助けを求めている気がして、いてもたってもいられなくなって……その声がここから聞こえた気がして」
 藍は眉をひそめた。
 いまの兎和の言葉で、彼女の存在を改めて意識してみて、藍は兎和に感応していた自分を知る。
 兎和から感じていた温かいものが、輝きとしてイメージされた。自分の探すクリスタルに抱く輝きのイメージと同類のもの、それはセーラーVにも感じたものでもある。
 そのとき、階上から降りてきたエレベーターのドアが開いた。誰も乗っていなかった。
 ――と思いきや、
「もう時間がない」
と男の声がした。兎和は瞬時に自分を呼んでいた声だと気づくが、人影はない。
「う、うさぎちゃん」
 隣で藍が愕然とした表情で、足元を指差していた。
 足元に、手のひらサイズの白猫のぬいぐるみが、こちらを見上げる格好で立っていた。額のガラス、今朝自宅のあるマンションで兎和が拾ったぬいぐるみである。
 そのぬいぐるみが動いて、兎和の肩に跳び乗った。藍に続いて、兎和も愕然とし、肩に乗るぬいぐるみを指差しながら、藍と顔を見合わせる。
 そんなふたりに対し、ぬいぐるみ――エンは兎和の頬を引っかくような仕草をして、自分のほうに視線を向けさせる。
「驚かせてすまない。俺の名はエン。セーラーVのパートナーだ」
「はい!?」
 兎和と藍はそろって目を丸くして、エンを凝視する。
 それから兎和が、エンの乗る肩とは反対側の手を、こめかみに当てながら言い出した。
「そうね、これ夢ね。そーいえば、このぬいぐるみの声、今朝の夢の声と同じだしぃ。アイドル水野藍と会うなんて、セーラーVやらモンスターやら現実じゃないんだ、きっと」
 現実逃避に走った兎和に対して、藍は神妙な顔をしている。
「貴方、この娘に、あんな奴等と闘えって言うつもり?」
 藍は厳しい口調でエンに言った。エンは悲しげな眼差しを藍に向けたが、藍の鋭い視線を正面から受け止めた。
「セーラーVも、君たちと変わらない女の子だ。このままでは、彼女が殺される。彼女を助けてくれ」
 兎和は瞠目する。殺されるなど物騒な話題、聞き逃せない。肩にいるエンに兎和が視線を転じたとき、エンがどこからかペンを取り出した。
 ――美菜子がセーラーVへの変身の際、使ったペンと同型であるが、ハートではなく三日月のレリーフが施されていた。
 そのペンを眼前に突き出され、兎和は思わずそれを受け取る。
「説明している暇はない。メタモルフォーゼと唱え、自分の闘いやすい格好をペンに念じろ」
 藍が何かを言いかけたが、エンの言葉に妙な説得力を感じた兎和は唱えた。
「メタモルフォーゼ」