最後の聖戦


「がんばって、サターン(ほたる)!!」
 巨大な「口」に吸い込もうとしてるセーラーアビスから、サターンは不動城壁(サイレンス・ウォール)を張って仲間たちの身を守っていた。激励を送るセーラーサンの声にも力が入る。
 既に二十分近く、この状態が続いていた。サターンの体力も、間もなく尽きようとしていた。それもそのはず、サターンはここに来るまでは、十番病院で結界を張り続けていたのだ。立て続けてのパワーの放出のために、長時間継続することは難しかった。
『なかなか粘る。だが、いつまで持つかな?』
 奈落から無限のパワーを吸い上げているセーラーアビスは、余裕の笑みを浮かべている。必死に抵抗を見せているセーラー戦士たちの姿を見て、満足げな表情をしていた。セーラーアビスは、楽しんでいた。「脳髄の杖」も、まるで笑っているかのように小刻みに踊る。
「あたしが代わるわ! サターン(ほたるちゃん)、交替よ!!」
 セーラームーンも防御のための技を持っていた。交替時期だと、セーラームーンは判断した。とにかく今は、夏恋を信じて耐えて待つしかない。
「我慢するってのは、あたしの性分じゃないんだが………」
「あたしもだ」
 攻めのタイプのギャラクシアは、こうした膠着状態が続くとイライラしてくるようだ。何も出来ない自分に、腹が立っているのかもしれない。
(忍たちは!?)
 タキシード仮面は、「封印の神殿」に残した忍と謙之のことが気懸かりだった。だが今は、あの場所に謙之がいることを絶対に口にすることはできない。あの場所に謙之がいることを知れば、セーラームーンは形振り構わず救出に向かってしまうだろう。
「ん? アビスのパワーが!?」
 真っ先に異変に気付いたのは、タキシード仮面だった。そして唐突に、巨大な「口」が消滅する。
『何だと!? “魂の門”が閉じたと言うのか!? あのアニマが破れたと言うのか!?』
 だが、セーラーアビスが困惑していたのは一瞬だけだった。
『番人め………。わらわは、力を侮っていたようだな。だが、しかし! 我は大魔導士アビスぞ! 奈落からパワーを得ずとも、お前たち如き敵ではないわ!!』
 口をパカリと開けた。口の中の「目」は、血走っていた。「目」から光線が放たれる。光線は張られたままだった不動城壁(サイレンス・ウォール)に跳ね返された。
カロン(かれんさん)が成功したのね!」
「ああ、恐らくな」
 喜びに表情を緩めるセーラームーンに、タキシード仮面は肯いた。だが、本当の戦いはこれからだった。
「よし、みんな! ケリを付けるぞ」

 忍は異常に気が付いていた。
 おぞましい“気”が辺りに充満し、魂を切り裂かれるような悲鳴が心を貫いてくる。
「何が起こっているんだ!? 飯塚さんや他のみんなは、どこに行ってしまったんだ!?」
 謙之は困惑する。周囲からは、人の気配を感じない。何か異常なことが起こっているということは、謙之も分かっていた。ただ具体的に、何が起こっているのか分からないだけだ。
―――その場にいるのは、危険です。
 唐突に、忍の頭の中に声が流れた。初めて聞く声だ。
「誰!? あたしに話し掛けるのは………」
 忍は声に出して答えた。謙之が驚いたような目を自分に向けてくる。謙之には、この「声」は聞こえていないようだった。
―――邪悪な魔導士が、あなた方の真上にいます。あなた方の存在に気付くのも、時間の問題でしょう。
「だけど、どこに向かえば逃げれらるのか、あたしには分からない。あいつはどこに行ったんだ!?」
 忍の言う「あいつ」とは、衛のことだった。周囲を探ると言ってこの場から離れた衛が、一向に戻ってくる気配がない。
―――プリンスはプリンセスとともに、邪悪な魔導士と戦っておいでです。
「戦っている………。プリンスとプリンセス!?」
―――それではわたくしが、「仲間」のところに、あなた方をお送り致します。
「え!?」
 光が見えた。
 巨大な船が接近してくるようなイメージが、頭の中に浮かんだ。

 サターンが不動城壁(サイレンス・ウォール)を解くと、戦士たちは三方に分かれた。
 タキシード仮面、セーラームーン、アースの三人は右へ、ギャラクシア、セーラーサン、サターンの三人は左へ、そしてマーズとジェラール、ヴィクトールの三人はそのまま中央に残った。
「例の“珠”に気を付けろ!」
 ギャラクシアは注意を促した。今度捉えられたら、誰も助けることはできないからだ。そして捉えられたら最後、直ちに「弾」として発射される危険がある。
「分かってる! マーズ・フレイム・スナイパー!!」
 マーズが仕掛けた。狙いはセーラーアビスの口だ。あの「目」を潰してしまえば、恐らくあの技を放つことはできない。「魂の悲鳴砲」の発射口は、あの「目」だと分かっていた。
 飛んできた炎の矢を、セーラーアビスは左手で掴んだ。そのまま、いとも簡単に握り潰す。
『わらわが魔力の制裁を受けい! ………天地爆裂!!』
 周囲に波動が飛ぶ。セーラーアビスの真下にあった「封印の神殿」は、その衝撃で一瞬にして崩壊してしまった。
「いかん! シールドだ!!」
 タキシード仮面の絶叫は、天地を揺るがす轟音に掻き消された。まるで核爆発でも起こったかのような凄まじい衝撃と激しい熱風が、怒濤の如く押し寄せてくる。地面が抉られる。
 セーラームーンが月光障壁(ムーンライト・ウォール)を、ギャラクシアが銀河障壁(ギャラクティカ・ウォール)を、そしてマーズが火炎障壁(ファイヤー・ウォール)を張ってその直撃を凌いだが、完全には防ぎきれなかった。中でも防御能力の弱い火炎障壁は爆風に掻き消されて、マーズとジェラール、ヴィクトールは、熱風に煽られ吹き飛ばされる。
『轟雷!!』
 その三人に狙って、天から落雷の雨が襲い掛かる。ジュピターのシュープリーム・サンダーを遙かに凌駕する、凄まじいエネルギーだ。
「きゃあ!!」
「ぐっ!」
「がはっ!!」
 致命傷には至らなかったものの、直撃を受けた三人は、瞬時に戦闘不能に陥ってしまう。セーラーアビスはニタリと笑う。三人を「珠」に封じ込める気なのだ。
「させん!!」
 タキシード仮面がスモーキング・ボンバーを、ギャラクシアはギャラクシア・マグナムを放つ。セーラーアビスの注意が一瞬逸れたその隙に、セーラームーンはヒーリング・エスカレーションで三人を回復した。
『爆炎!!』
 ヒーリング・エスカレーションを放った直後で、隙の出来ているセーラームーンを、セーラーアビスは見逃さない。三人を「珠」に封じるのを諦め、瞬時に標的をセーラームーンに切り替えた。巨大な炎の塊が、セーラームーンに襲い掛かる。その熱量は、マーズの最大奥義マーダー・フレイム・ブラスターを上回る。
暗黒聖剣(ダークネス・エクスカリバー)!!」
 サターンの必殺技が、炎の塊を粉砕した。
「シルバー・ムーン・クリスタルパワー・キーッス!!」
 散開した炎を蹴散らしながら、銀水晶の強震波がセーラーアビスに襲い掛かる。セーラーアビスからは死角になっているはずだ。
 直撃!
 セーラーアビスは、セーラームーンを見据えてニタリと笑む。
「!? 効いてない!?」
『天地爆裂!!』
 シルバー・ムーン・クリスタルパワー・キッスの直撃をものともせず、セーラーアビスは再び天地爆裂の魔法を放った。本来ならば呪文の詠唱が必要な最大奥義も、大魔導士セーラーアビスには不必要なものだった。その強大な魔力は、呪文の詠唱を必要としないのだ。
 今度は防御が間に合わない。直撃は回避したが、熱風に身を焼かれ吹き飛ばされる。
 湖の水は干上がり、その上に着水していた浮遊戦艦カテドラルの甲板は飴のようにドロドロに溶けてしまった。連なっていた山々が変形する。周囲の木々が、文字通り粉砕される。大地は抉り取られ、さながらクレーターのようになる。
「アース・キュア・エッセンス!!」
「サンシャイン・リフレッシュ!!」
 それぞれ、タキシード仮面、ギャラクシアに身を守られたふたりが、同時に回復技を放つ。絶命寸前だったジェラールとヴィクトールは、お陰で一命を取り留めた。
「強い………」
 今まで戦ってきたどの敵よりも強いと、セーラームーンは感じていた。しかも強いだけではない。恐ろしいほどのタフさも兼ね備えている。この状態でも、奈落からのパワーの供給を絶たれているのだ。奈落と直結していたら、一瞬で自分たちは全滅していたかもしれない。
 これだけの技の応酬があったにも拘わらず、セーラーアビスは呼吸ひとつ乱していない。まだまだ余裕が感じられる。更に上位の魔法を温存しているのではないかとさえ思えてくる。セーアビスの余裕は、油断でも傲りなんでもなかったのだ。本当に自分たちとの戦いを、楽しんでいるだけだと分かった。自分たちが必死の抵抗をしている様を見ているのが、楽しくて仕方がないのだ。こちらが疲れ果てるのを待っているのだ。多少の抵抗をさせるために、わざと力を抑えているのだと感じた。
(神殿が………!)
 完全に崩壊してしまった「封印の神殿」を見やり、タキシード仮面は唇を噛んだ。絶望的な予測が、彼の頭の中に流れる。忍が張っているシールドが、今の立て続けの衝撃に耐えてくれていることを祈るしかない。
『どうした? 終わりか?』
 セーラーアビスは口元を緩めた。どうやら本当に、上位の魔法を温存しているようだ。出し惜しみをしているではなく、放ってしまった一瞬で勝負が付いてしまうので、それでは楽しくないので焦らしているのだ。対してセーラー戦士たちには、これ以上有効な戦術がない。万策尽きたという感じだった。
「どうすれば、あいつの勝てるの………?」
 セーラーサンの悔しさは、涙となって頬を伝う。
「駄目だ。技の撃ち合いをしていても、我々に勝ちはないぞ」
 ジェラールの表情には、焦燥感が漂っていた。相手は、ジェラールの予想以上の相手だった。まさか、これ程の相手だとは思っていなかった。これだけのメンバーが集まっているのだから、自分たちが負けるはずはないと思っていた。
「分かっているが、手立てがない」
 今回ばかりはお手上げだという風に、ギャラクシアが答えた。捨て身の攻撃を仕掛けたとしても、あの「珠」の中に捉えられてしまったら元も子もないのだ。
『諦めたか………。ならば、今すぐ楽にしてやろう』
 セーラーアビスは“気”を込めた。今までは“気”を込めずに魔法を放っていた。しかし、今度は違う。明らかに“気”を込めている。間違いなく、先程とは違うことをしてくる。
「クリムゾン・ボルテックス!」
 灼熱の炎の渦が、セーラーアビスを飲み込んだ。セーラーアビスの全身を包んでいたマントが炎上し、灰となる。
『ぐぬっ!?』
 予期せぬ攻撃に、セーラーアビスは眉を吊り上げた。気配のする方に顔を向ける。
『お前は………?』
 セーラーアビスは目を細めた。そこにいたのはセーラー戦士だった。プラチナ・エメラルドの美しい髪が、陽の光を受けてキラキラと輝いている。強い意志の光が宿っているマゼンダの瞳が、キッとこちらを見据えていた。
『まだいたのか………』
 うざったらしいものが湧いてでも出てきたように不快に表情を歪め、セーラーアビスはそのセーラー戦士を視界の隅に捉えた。
 自分を見据えていたそのセーラー戦士の瞳が、別の方向を向けられる。その先には、セーラームーンがいた。
「何てザマなの? セレニティ」
「え!?」
 見知らぬセーラー戦士にもうひとつの方(・・・・・・・)の名を呼ばれ、セーラームーンは動揺した。そのセーラー戦士は、確かにシルバー・ミレニアムのセーラー戦士の姿をしていた。だが、こんな場面で加勢に来てくれるような仲間は、もう近くにはいないと考えていた。
「まさか、あなたがセーラーヴァルカン!?」
 直感でそう悟っていた。セーラーサンの表情がサッと強張った。
「そう。あたしはセーラーヴァルカン」
「そんな、セーラーヴァルカンだなんて………。アビスだけでも手こずっていると言うのに、その上セーラーヴァルカンまで現れるなんて………」
 いつもは強気のアースも、今度ばかりはそうはいかないようだ。ヴァルカンはそんなアースをチラリと見て微笑してから、今度はセーラーサンに目を向ける。
「あなたが、プロメティスの娘ね?」
「そうよ!」
 セーラーサンは怒りの目を向ける。セーラーサンにとっての最大の敵が、ヴァルカンだからだ。
「その目………。プロメティスによく似ているわ」
 そしてヴァルカンは、セーラーアビスに視線を戻した。
「古の大魔導士………。復活するなんてね」
『ほう。わらわを知っているか。知っていて、死にに来たのか?』
「死ぬのは、貴様だ」
 背後で声がした。聞き覚えのある声だ。
 ブスリと何かが、背中に突き刺さる。それが二本の腕だと分かったのは、胸からそれが突き出ていたからだ。
『ぐっ!?』
「ホーゼンの死体を、完全に消滅させておくべきだったな。これは効くぞ。何せ、貴様と同じ“奈落”の力なのだからな!」
『貴様、あの男の体を………!?』
「俺の下半身は近いものにならなくなっていたからな。残っていたこいつの体を吸収した。この世から失せろ! 化け物め!!」
『ぐぎゃあぁぁぁ!!』
 初めてセーラーアビスが悲鳴を上げた。マイナスのエネルギーが、体の中を駆け巡る。
「あれは、イズラエル!?」
 ジェラールはセーラーアビスの背後に現れた人物を見て、目を見開いた。どこに潜んでいたのかは分からないが、イズラエルは正にこの時を待っていたかのように、セーラーアビスの背後に出現した。
 ファティマと直結していたことで、「珠」の中に封じられることはなかったイズラエルは、セーラーアビスへの攻撃のタイミングをずっと見計らっていたのだ。そして、最も有効な手立てとして、残っていたホーゼンの肉体を自分の内に取り込むことにしたのだ。ホーゼンはセーラーアビスと同じ世界の住人だということは分かっていた。ならば、セーラーアビスと同様の力を得るには、ホーゼンの肉体を吸収した方が手っ取り早いと考えたのだ。セーラーアビスに効果的なダメージを与えるには、同じ世界の力が必要だと考えての行動だった。
 幾筋もの光が飛来した。ノアの「方舟」によって、戦線を離れていた戦士たちが戻ってきたのだ。ヴィーナス、ジュピター、クンツァイト、ネフライト、ジェダイト、ゾイサイト、そしてプレアデスの姿があった。
『おのれぇ! 離れろぉ!!』
 セーラーアビスは背後のイズラエルを振り解こうと、体を大きくうねらせる。しかし、イズラエルは二本の腕をセーラーアビスに突き刺している。そう簡単に振り解かれはしない。
「やれ! セーラー戦士!! 今、こいつの力は俺が抑えている。今なら、こいつはシールドを張れない!」
 イズラエルはセーラー戦士たちに向かって叫んだ。確かに今がチャンスだった。だがそれでは、イズラエルも巻き添えを食ってしまう。
「俺に構うな! ホーゼンの力を吸収した俺は、どのみち助からん! 迷うな、セーラー戦士!!」
 決断をする時が来た。セーラームーンは肯く。
「やるよ、みんな!」
 仲間たちに声を掛ける。上空ではセーラーアビスが藻掻いている。この時を逃せば、いつまたチャンスが巡ってくるか分からない。
「パワーよ、集まれ!!」
 セーラームーンが右手を翳すと、全員が同様に右手を翳してパワーを集中する。
「ヴィーナス・アドヴァンスト・パワー!」
「マーズ・クリスタル・パワー!」
「ジュピター・クリスタル・パワー!」
「プレアデス・クラスター・パワー!」
「ギャラクシア・サッファー・パワー!」
「アース・クライシス・パワー!」
「サン・クリスタル・パワー!!」
 ヴァルカンは僅かにその場から離れ、腕を組んで成り行きを見ている。
「覚悟なさい、アビス! プリンセス・セレニティと光の戦士たちが、お前の存在を永遠に消し去るわ!!」
 封印をするのではない。完全に消し去らねば、いつまた復活するか分からない。
「邪悪なる魔導士よ! 聖なる月の神秘の力を受けなさい。尊い命をもてあそぶ、邪な心を持った者よ。月に代わって、お・し・お・き・よ!!」
『撃たせると思うのかい!?』
 セーラーアビスが吠えた。戦士たちがパワーを集約するのには、多少の時間が必要である。セーラーアビスはその時間を与えないつもりなのだ。
「いるのはセーラー戦士だけじゃないぞ! タキシード・ラ・グレネード・バスター!!」
 タキシード仮面が援護のための究極奥義を放つと、クンツァイトたちがそれに続く。四人はそれぞれ、専用の魔剣を手にしていた。
四聖滅却四連斬(しせいめっきゃくよんれんざん)!!」
 ゾイサイト、ジェダイト、ネフライト、クンツァイトの順で、魔剣を使った凄まじい剣圧をアビスに叩き付ける。その四人に、更にジェラールとヴィクトールが続く。
双剣滅破(そうけんめっぱ)ぁ!!」
『この雑魚がぁ!!』
 憎々しげにセーラーアビスが叫んだ。
『天地爆………!』
「撃たせん!!」
 イズラエルはセーラーアビスに、呪文を唱える間を与えない。
「ムーン・エターナル・パワー!!」
 そしてついに、戦士たちのパワーが臨界に達した。
「セーラー・プラネット・スーパー・アターック!!」
 数多のスター・シードのパワーがエネルギーに変換され、一気に放出された。
『思わぬ邪魔が入った。興ざめだ』
 セーラーアビスの言う「思わぬ邪魔」とは、イズラエルのことのようだ。
『まぁ、よい。わらわは死なん! 次こそは、お前たち全員の魂を、わらわが喰ろうてやるわ。今日ところは、負けておいてやろう。あーっははははは………!!』
 凄まじいエネルギーが、セーラーアビスとイズラエルのふたりを飲み込む。
 イズラエルは満足げに笑む。
「ファティマ………。これで、もう一度お前に会える………」
 イズラエルの意識は星のエネルギーに飲み込まれ、彼の望む地へと運ばれていった。
 セーラーアビスは不気味な呪いの言葉と嘲笑を残し、イズラエル共々、ついにその身を消滅させていった。
 セーラーアビスの背後に隠れるようにしていた「脳髄の杖」は、衝撃に弾かれ、何処かへと消えていく。
 
 静寂は、唐突に戻ってきた。
 セーラーアビスのいた空間には、今はもう何も残っていない。
「お見事。プリンセス・セレニティ」
「ヴァルカン!」
 セーラーヴァルカンと目が合った。今のセーラーアビスとの一戦で、かなり消耗しているのだが、もう一戦交えなければならない。だが、セーラーヴァルカンは、
「無理をしなくてもいいわ。あたしと戦うだけの力は、今は残っていないでしょ? 心配しないでいいわ。今は、戦うつもりはないから」
「戦うつもりがないって………」
 セーラーサンは眉を顰めた。そんな言葉がヴァルカンの口から出てくるとは、思っていなかった。それは、セーラームーンも同じだった。確かに、自分たちはもう、セーラーヴァルカンとまともに戦えるだけの力は残っていない。しかし、逆に言えば、セーラーヴァルカンにとっては、それはチャンスのはずだ。セーラーヴァルカンは、その期を放棄すると言っているのだ。
「時が来れば、また相見えることもあるでしょう」
 ヴァルカンの背後に、フェイトンとパンドラ、アンドロメダとシリウスが現れる。
「また会いましょう。ふたりのプリンセス」
 優雅に笑むと、ヴァルカンは彼方へと飛び立っていった。四人の仲間も彼女を追って行った。
「ちょっとぉ! そのふたりのプリンセスに、あたしは含まれてるの!? ねぇちょっとぉ! そこんトコ重要よ!!」
 何が不満なのか、アースがムキになって怒っていた。
「どういうこと………?」
 ヴァルカンが消えていった空間を見つめながら、セーラーサンは訝しむ。
「これじゃ、まるで、あたしたちを助けに来てくれたみたいじゃない………」

 天空に浮かぶ島ラピュタは、何事もなかったかのように宙を流れていた。
 少し前にルナを通じてアルテミスに交信を送ったから、間もなくノアの「方舟」も戻ってくるだろう。
 戦いは決した。セーラーサンが予言した通り、彼女たちが勝利した。だが―――。
カロン(かれんさん)が帰ってこない………」
 天を見上げ、セーラーサンは言った。セーラーアビスに流れ込んでいたエネルギーが止まってから、既にかなりの時間が経過していた。無事ならば、戻ってきてもいい頃だ。
マーズ(レイちゃん)、分からない?」
 セーラームーンはマーズに訊いた。マーズは仲間たちの中で、一番霊感が強い。それに以前、自分とプルートで冥界に行った時は、マーズがトレースをしてくれていた。だから、カロンのことも分かるかもしれないと思ったのだ。だが、マーズは首を横に振った。
「あの時はプルート(せつなさん)が信号を送ってくれていたから、あたしはそれをキャッチすればよかっただけだから………」
 言いながらも、マーズはカロンとの“交信”を試みる。
「駄目だわ………。分からない………」
 マーズはもう一度、力なく首を左右に振った。
カロン(かれんさん)………。一緒に、喜びたかった………」
 セーラーサンは、その場にがっくりと膝を付いた。涙が頬を伝う。もう誰も死なせないと誓ったはずなのに、またひとり大事な仲間を失ってしまった。
 その時、気配がした。どこからか、何かがやってくる気配。
「見て! 船が!!」
 ヴィーナスが一点を指差した。空間が避け、そこから光に包まれた飛空艇が姿を現した。その船体には、見覚えがある。
「〈ヴィルジニテ〉!?」
 光り輝くその飛空艇は、紛れもなくセーラーヴィルジニテの「船」だった。
〈ヴィルジニテ〉はゆっくりと戦士たちの元に近寄ってくると、戦士たちの間近の宙で停止した。
 セーラー戦士らしき姿が現れた。初めて会うが、彼女がセーラーヴィルジニテなのだと感じた。彼女の腕には、戦士が抱かれていた。カロンだった。
カロン(かれんさん)!!」
 セーラーサンが呼び掛けたが、カロンからの反応はなかった。
「お初にお目に掛かります。プリンセス・セレニティ。セーラーヴィルジニテに御座います。このように、死した姿で御前に出でるご無礼を、何卒お許しください。」
「死した姿」とセーラーヴィルジニテは言った。〈ヴィルジニテ〉の最後の様を見届けていたセーラームーンは、思わず涙を零した。
「わたしの最後の仕事です」
 セーラーヴィルジニテの腕の中から、光に包まれて、カロンがセーラームーンの元に流れてくる。セーラームーンの足下にそのまま横たわった。カロンの目は、まだ閉じられている。
「彼女を送り届けに参りました。それがわたしの最後の仕事………」
「セーラーヴィルジニテ………」
「確かに、お渡しを致しました。これで良いですね? 兵藤」
 セーラーヴィルジニテは、自分の左側に顔を向けた。いつの間にか、そこに兵藤の姿があった。
「ああ、ありがとう」
 兵藤はセーラーヴィルジニテに向かって礼を言う。そして次ぎに、横たわったままのカロンに視線を落とした。
「おい、夏恋! いつまで寝てる気だ? そろそろ目を醒ませ!」
 兵藤が声を掛けると、カロンの目がゆっくりと開けられた。
カロン(かれんさん)!!」
 全員がカロンの顔を覗き込む。
「え!? ここは………。なんで、みんながいるんだい?」
「帰って来たんですよ、カロン(かれんさん)!」
 ボロボロと大粒の涙を流しながら、セーラーサンが説明する。カロンはまだ信じられないような顔をしていた。
「お前はまだ、こっちの世界に来るんじゃねぇ!」
「瞬!?」
 カロンは横たわったまま、宙に浮いている兵藤の姿を見付けていた。兵藤がセーラーヴィルジニテと共に、冥界を漂っている自分を捜してくれたのだと分かった。
「パパが呼んでるよ」
 あのセーラー戦士が言った言葉を思い出した。迎えに来てくれたのは確かだが、どうやら意味合いがだいぶ違ったようだ。
―――わたしの役目も終わりました。
 カロンの中から、セーラーカロンの魂が離脱する。変身が解け、夏恋の姿へと戻った。
 セーラーカロンは兵藤の左に並んだ。
「じゃあな、強くて美人のお嬢ちゃんたち。何十年後かに、こっちの世界で、また会おうぜ! アデュー!!」
 兵藤は晴れやかな笑みを浮かべると、すうっと消えていった。後を追うようにセーラーヴィルジニテの姿も消え、飛空艇ヴィルジニテも消滅する。
 ひとり残ったセーラーカロンは、戦士たちの顔をゆっくりと見回した。
「わたくしの我が儘をお聞き届けくださいまして、ありがとうございました、プリンセス・セレニティ。そして、アビスを討ち滅ぼしてくださいまして、ありがとうございます」
 セーラーカロンは深々と頭を下げた。
「ありがとう。勇気ある“星の守護”を受けし戦士たち。そして、ありがとう夏恋」
 セーラーカロンの姿が徐々に消えていく。
「お礼を言わなきゃならないのは、あたしの方さ。あんたのお陰で、あたしはこんなにもすばらしい仲間たちに巡り会うことができた」
 セーラーカロンは、満足げに微笑んで肯く。そして、全員の顔を平等に見回した。
「あなた方に、永遠の幸があらんことを………。さようなら………」
 その言葉を最後に、セーラーカロンの姿は消えていった。
「さよなら、セーラーカロン」
 夏恋は身を起こすと、セーラーカロンが消えていった空間を見つめて、万感の思いを込めてそう言った。もう自分の中に、セーラーカロンの力は感じなかった。戦士としての自分の役目は、今、終わったのだと感じた。