夏恋の戦い


 冥界は凄まじい暗黒のパワーが渦巻いていた。
 開け放たれた「魂の門」から、暗黒のパワーの奔流が止めどもなく噴出している。恨み、辛み、嫉み、悲しみ………そんなマイナスのパワーが凝縮された呪いのエネルギーだった。そのパワーが向かう先がどこなのか、わざわざ確認するまでもない。
「またここに来るなんてね………」
 カロン、いや夏恋は自嘲気味に笑った。
「病魔に冒され、負けることを恐れて自分で命を絶った………。だけど、それを後悔してこの場所を彷徨っている時に、あなたに出会った」
 夏恋はセーラーカロンに語りかけていた。セーラーカロンの幻が、夏恋の前で陽炎のように揺らめく。
―――今度は、甦ったことを後悔しますか?
 セーラーカロンの声が響いた。
「いや、後悔はしていない。むしろ、あなたに感謝しているわ。もう一度生を受けたことで、あたしは素晴らしい仲間たちに出会うことができたから」
―――わたしではありません。禁忌(タブー)を許可してくださったのは、プリンセス・セレニティです。
「そうだったね。あの子だったね」
 夏恋は脳裏に、うさぎの顔を思い描いた。お団子頭がトレードマークの、ちょっとドジな女の子。だけど、強いカリスマ性を備えている、強い意志を持った女の子。
「良い子だよ、あの子は。死なせたくない。いや、あの子だけじゃない。あたしの大切な仲間たちを、もう死なせたくない」
 夏恋の脳裏に、もなかの顔が浮かぶ。自分の中にあった弱気な心を、土壇場で消し去ってくれたのは、輪っか頭がよく似合うどこか頼りない女の子。あの子は最後に、とても大きな「勇気」を自分に与えてくれた。
―――だから、あなたはここに来たのですか?
「そうさ。あたしはあの子たちを死なせたくないただそれだけのために、ここに来た。世界の平和? そんな大それた願いなんて、あたしは持ってないよ。あたしは、あたしの大切な人たちの平和を、この手で守りたいだけなんだ。いけないかい?」
 レイの顔が、まことの顔が、ほたる、せつな、なびき、操、衛、D・Jの顔が、次々に脳裏に浮かび上がる。僅かな間だったが、ヴィーナスやジェラール、ヴィクトール、三条院、美園も大切な仲間だ。日暮の無精ひげ面が脳裏を過ぎる。普通の人間なのにも拘わらず、自分たちとともに戦った勇気ある豪傑。そして、その部下たち。科学者として、協力を申し出た土萠や香織。日本で自分たちの帰りを待っている、ルナやフォボス、ディモス。
 みんな、自分の大切な仲間たち。
―――それでいいと思いますよ。それが、一番あなたらしい。
「ありがとう」
 夏恋はセーラーカロンの幻に向かって微笑んだ。セーラーカロンの幻が、すうっと消えていく。自分の中に戻ってきたような感覚があった。
―――さぁ、行きましょう。「魂の門」は、目の前です。
 セーラーカロンの声が心の中で響いた。コクリと肯き、夏恋は歩み出した。
 凄まじい怨念のエナジーが、もの凄い勢いで一定の方向に向かって流れていた。本来ならば、轟音が響いているはずなのだろうが、この地では「音」は伝わらない。暑くもなく寒くもなく、風もなく音もない無の世界。それが冥界だった。だから、夏恋とセーラーカロンも直接的な「言葉」で会話をしているわけではない。心と心を通い合わせた一種のテレパシーのようなもので交信しているのだ。
 夏恋は「魂の門」をじっくりと見つめる。膨大なエネルギーが噴出しているこの門の扉を、自分ひとりだけの力で果たして閉じられるのだろうかと不安になる。
「何を弱気な………」
 夏恋は頭を強く左右に振る。
「あたしがやらなきゃ、いったい誰がやるって言うんだ」
 この仕事は、自分以外にはできないのだ。覚悟を決めて夏恋は、「魂の門」の正面に移動しようと体の向きを変えた。
―――気を付けて、夏恋。何かいるわ!
 セーラーカロンの警告が、心に響いた。夏恋はその場で、ピタリと足を止めた。「魂の門」の周囲を、ゆっくりと見回す。
 何かが揺らめいていた。「魂の門」の左側だった。
 ゆらゆらと揺らめいていた「それ」は、初めは形が判然としなかったが、徐々に人の形へと輪郭を整えていった。全体的に丸みを帯びたその輪郭から推測するに、女性のフォルムのように感じた。
 輪郭が形成されると、今度は色が浮き出てきた。くすんだ灰色の髪、ライトブラウンの瞳、髪と同じく灰色の唇。まるでマネキンのように無表情の顔は、本当に魂が宿っているのかと疑いたくなるほど、異様な白さだった。衣服は着用していなかった。その代わりに、長く伸びた自分の髪を胸元と腰に巻き付け、大事な部分を覆っていた。喉のやや下の方に、丸い大きな目がひとつだけギョロリとしていた。飾りではなく、本物の目のようであった。本来のふたつの目とは違い、真っ青な冷たい瞳を持っていた。長い睫毛を持つ瞼が、時折閉じたり開いたりしている。瞬きだった。
 腕は四本あった。肩からそれぞれ二本ずつ、しなやかで長い腕が伸びていた。その一本一本に、毒々しい色の蛇が巻き付いていた。蠢いているところからすると、その巻き付いている蛇は生きているらしい。足の方は人間と同じく、二本だった。ただ膝から先は、小型の肉食恐竜を連想させる形をしていた。よく見ると、やや背中も丸まっていた。長い腕を利用すれば、四足―――いや、腕が四本あるから六足か―――歩行も可能ではないかと思えた。
「やはり来たか。“門の番人”よ」
 その女性が口を開いた。長い牙が見えた。チロリと唇を舌が舐める。獣が唸るような低い声だった。
「こっちの考えは、お見通しってわけか………」
 夏恋は諦めたように溜め息を付くと、肩を(すく)めた。楽に仕事ができるとは思っていなかったが、敵が潜んでいるとも考えてはいなかった。アビスは単独だと思っていたからだ。
「わたしはアビス様の忠実なる下僕(しもべ)、アニマ」
「三下が何の用だい? あたしは忙しいんだ」
「わたしを三下呼ばわりするか、“門の番人”よ。いや、『もと』と言った方がいいかしらね」
 アニマは嘲るように言ったが、表情は変わらなかった。まるで仮面でも被っているかのように、無表情だった。口だけが別の生き物のように動いていた。
「アビス様に敗北し、生きながらの死を与えられたお前が、よくもそんな偉そうな口が叩けたものね」
「うるさいよ!」
 夏恋はアニマの声に、自分の声を被せて打ち消す。
「お前みたいな三下としゃべっている時間はないよ。あたしは忙しいんだ」
 夏恋は僅かに後方に飛び退くと、間合いを計った。
「ソウル・ジョルト!」
 衝撃波を放って様子を見た。目の前のアニマが、実体かどうかを確かめるためだ。ここは敵のホームグラウンドである。虚像など、その気になればいくらでも作り出すことができるだろう。
 夏恋の読みは正しかった。今まで自分と会話をしていたアニマは、やはり幻影だった。衝撃波を受けると、一瞬で霧散した。
「見え見えなんだよ!」
 夏恋は振り向き様に左手を薙いだ。手応えがあった。鋭い手刀が、背後に迫っていたアニマの頬を裂く。鮮血が飛び散る。
「へぇ………。血は赤いんだね。黒い血でも流れているのかと思っていたよ」
 自分の間合いを保つと、アニマと対峙して軽口を叩いた。
 アニマの左頬が、パックリと裂けていた。血がどくどくと流れ出ている。傷はかなり深いようだ。
「こうでなくっちゃ面白くない」
 流れ出ている自らの血を、アニマは長い舌でペロリと舐めた。傷が見る間に塞がっていく。
「次はこっちの番だ」
 体を巡らせ右手を突き出す。右腕に巻き付いていた蛇が、鞭のように唸りながら迫ってくる。夏恋の目前まで迫ると、そのタイミングを待っていたかのようにガバリと口を開けた。鋭い牙がキラリと光る。
「この程度の攻撃………!」
 夏恋は後方に飛び退いてそれを(かわ)した。その夏恋目掛けて、今度は左腕が突き出され、同様に蛇が牙を剥く。
「こんな攻撃で、あたしを()れると思っているのかい!?」
 舌打ちしながら、夏恋は叫んだ。馬鹿にするにも歩度がある。こんな単調な攻撃を見切れないわけがない。
「わたしの役目はお前を倒すことではない。“門の番人”のお前を、ここで釘付けにしておくことが役目なのさ。精々頑張って抵抗しておくれ」
 アニマは甲高い声で笑った。その笑いが、夏恋の神経を逆撫でする。
「じゃあ、一気に行かせてもらうよ! ソウル・ジョルト!!」
 この一撃は囮だった。避けられるのは計算の内。本命は次だ。
「スピリッツ・ホールド!」
「なにっ!?」
 アニマの体は、不可思議な力によって押さえ込まれる。霊的作用によって相手の動きを封じる、セーラーカロンならではの技だった。
「トドメよ! ソウル・ジョルト!!」
 今度は直撃だった。アニマの体が衝撃によって大ダメージを受ける。しかし―――。
「うっ!?」
 致命的なダメージを受けた体だったが、みるみるうちに復元させていく。恐るべき再生能力だった。
「ご苦労様」
 アニマは小首を傾げて見せた。笑ったつもりなのだろうが、表情は変わらなかった。
(どうする、セーラーカロン? のんびりと戦っている時間はないよ?)
 夏恋は心の中のセーラーカロンに問い掛けた。
―――分かっています。ですが、強力な技を放つには、数秒間のパワーの充填が必要になります。
(そうか。あんたは、戦うための戦士じゃないから、そうポンポンと技を放つことができないってわけだね?)
―――はい。残念ながら………。
(だけど、厄介だね。アニマのあの再生能力を上回るダメージを与えないと、完全に仕留めることはできないよ?)
 こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。現実世界では、仲間たちがセーラーアビスの攻撃を、今尚必死に耐えているはずだ。反撃することも叶わず、防戦一方の状態を強いられているはずだった。早くなんとかしなければならない。気ばかりが焦る。
「じゃあ、あたしの戦法で行くよ?」
 カロンは一呼吸置く。
―――あなたの戦法?
「そう! あたしはこっちの戦法の方が性に合ってる!!」
 夏恋は動いた。アニマとの間合いを一気に詰めた。夏恋の戦法とは、肉弾戦法だった。相手の懐に潜り込んで、体術でダメージを与えたのちに間合いを取って衝撃波を放つ。そしてまた急接近して、再生をするまえに肉弾戦を仕掛けるという、ヒット・アンド・アウェイを行うつもりなのだ。
―――いけない、夏恋! 相手をよく見て!!
 セーラーカロンの制止は振り切った。夏恋はアニマに肉迫すると、そのまま組み合ってしまった。組み合ってしまったのは計算外だったが、夏恋は蹴りを放ってその勢いで離脱しようと画策した。
「馬鹿ね、あなた」
 しかし夏恋は、アニマの腕が四本あることを忘れていた。組み合っているので二本は封じているが、もう二本、腕が残されているのだ。アニマの残った二本の腕は、夏恋が蹴りを放つよりも先に夏恋の首を締め付けた。
「くっ!」
 自分の考えが浅はかであったことに気付いた時には、既に手遅れだった。
「殺してしまえば、完全な足止めになるのよ? 殺されないとでも、思っていたの?」
 アニマの声には、笑いが含まれていた。表情は相変わらず変化がないが、可笑しくてたまらないというような声だった。
 夏恋は喉を締め上げられ藻掻(もが)く。組み合っていた腕にも力が入らず、ついには放してしまう。自由になったアニマのもう二本のうち右側が頭を、左側が腹部を鷲掴みにする。万力のようなもの凄い力で、一気に握り潰しに掛かった。
「がぁぁぁっ!!」
 夏恋はたまらず悲鳴を上げた。
―――夏恋!!
 心の中のセーラーカロンが叫ぶが、彼女には力がない。セーラー戦士としての力の制御は、夏恋に任してしまった。自分はあくまでもサポートするだけの存在なのだ。
 夏恋の体から力が抜けていく。
「さぁて、終わりだよ」
 アニマが最後の力を込めた瞬間、夏恋の腹部が強烈な閃光を発した。真夏の太陽のような、凄まじい光だった。
「ギャーッ!!」
 今度はアニマが苦しむ番だった。光を浴びた体の前面部が、醜く焼けただれている。再生ができない。
「何よ!? 今の光は………!」
 光を浴びて吹き飛ばされたアニマは、転げ回って悶え苦しんだ。
「今のは!?」
 夏恋も驚いていた。何が起こったのか分からない。
「セーラーカロン! あんたが助けてくれたのか?」
―――違います。わたしではありません。お腹の子が、力を………。
 セーラーカロンの声にも、戸惑いの色が含まれていた。
 アニマを弾き飛ばした光は、今度は夏恋から離脱する。光は大きさを増すと、その中にひとりのセーラー戦士の姿が浮き出された。見たこともないセーラー戦士だった。セーラーカロンのコスチュームにカラーリングが似ていたが、肩の透明なプロテクターや腰のリボンの形状など、細部に違いが見られた。年齢的には中学生くらいの印象を受けた。夏恋からは背中しか見えないので、顔までは分からない。だが、とても親しみを感じる背中だった。
「何だ、お前は!? どこに隠れていた!?」
 驚愕の表情で、アニマはそのセーラー戦士を見つめる。今まで、その存在を全く感じなかった。
「体が再生しない!? お前のその力は何だ!?」
 驚異的な再生能力を持つはずの自分の体が、焼けただれたまま一向に修復されない。自分は肉片さえ残っていれば、幾らでも再生できる体を持っていた。だからこの地に残り、門を閉じに来ることが予想された番人を待ち受けていたはずだった。この場で足止めをするために。
「くそぉっ!」
 アニマは半ば自棄(やけ)になって、四本の腕から同時に蛇を放った。セーラー戦士は無言のまま右手を(かざ)した。再び強烈な閃光が放たれる。
「ぎゃあぁぁ!!」
 閃光は四匹の蛇を消滅させ、アニマの体を再び焼いた。アニマの全身は醜く焼けただれ、ドロドロに溶解している。
「こんな馬鹿なぁ!! わたしの体が!? 不死のはずのわたしの体が、死んでいく!?」
「今よ、ママ(・・)!」
 声が聞こえた。光の中にいる謎のセーラー戦士の声だ。その瞬間、夏恋は悟った。目の前の謎のセーラー戦士が、何者であるのかを。
「分かった!」
 力強く肯くと、夏恋はパワーを溜めた。
「くらえ! カロン・アストラル・ジェネシス!!」
 マイナスパワーの強烈な衝撃波が、アニマを飲み込んだ。
「アビス様ぁぁぁぁぁ………!!」
 アニマは断末魔の悲鳴を上げて、強震動によって分子レベルで崩壊していった。
「やったね!」
 謎のセーラー戦士は振り向くと、両手でガッツポーズをしてにっこりと笑った。その笑顔は、どことなく兵藤に似ていた。夏恋は右手でガッツポーズを作り、それに答えた。
 セーラー戦士は再び強烈な光に包まれ、夏恋の中に戻っていった。
「悔しいね。あたしより、美人じゃないか………」
 そう呟く夏恋の口元が喜びに(ほころ)ぶが、すぐに真顔に戻して、「魂の門」を凝視した。思わぬ時間を食ってしまった。急がなければならない。
「よし!」
 声を出して気合いを入れ直し、夏恋は「魂の門」から流出しているマイナスエナジーの奔流の中に身を投げた。あの子が自分に勇気をくれた。怖いものは何もなかった。
「くっ!」
 押し流されそうになるのを必死で堪えた。夏恋は奔流の中で足を踏ん張ると、「魂の門」を真っ直ぐに見る。門の向こうには、「無」の世界が広がっていた。魂の安らぎの地であるはずのそこは、更にその深奥―――奈落から噴き出る膨大なエネルギーによって、無惨なまでに荒らされてしまっている。完全に飲み込まれ、安息の地は消失してしまったように感じる。
 安らぎの地で、安息の時間を与えられていた死者の魂をも、セーラーアビスは自らの野心のためにエネルギーとして吸収し続けているのだ。
「行くよ、セーラーカロン!」
 自らを鼓舞するように、夏恋は声を高める。セーラーカロンの力が、自分の中を駆け巡る。
「我は門の番人なり。魂を導く案内人(あないびと)なり。我はハデスの(しもべ)なり。我、汝に命ず。汝、我の命に応えよ。大いなる力の門よ! その扉を閉じよ!!」
 一気にパワーを放出した。しかし―――。
―――そんなっ!?
「パワーが足りないって言うのか!?」
 セーラーカロンと夏恋は揃って息を飲む。溢れ出るマイナスパワーが強大すぎて、閉じようとした扉が押し戻されてしまったのだ。
「このエネルギーを断ち切るしかないっていうの………」
 奔流の中に立ち、夏恋は深呼吸をする。奈落から噴出する膨大なエネルギーを止めることはできない。しかし、全エネルギーを放出すれば、一時断ち切ることはできるだろう。
―――駄目です。夏恋!
 だが、それを認めるわけにはいかなかった。一瞬だけ止めることはできるだろう。しかし、そこで全エネルギーを放出してしまっては、元の世界に戻ることはできなくなってしまう。それよりも、再び噴出するマイナスエネルギーに耐えられない。
「だけど、門が閉じないんじゃ、このエネルギー自体を断ち切るしかないじゃないか。一瞬だ。一瞬だけ断ち切ることができれば、あとはあの子たちがどうにかしてくれる」
 もう覚悟は決めていた。もとより、「魂の門」に向かうと決めた時に、覚悟は決めていた。
「止めたって無駄だよ。もう決めたんだ」
―――いけません。夏恋!
 夏恋を制するセーラーカロンのその声に、別の声が重なる。
「そうだ夏恋。早まるんじゃねぇ」
「え!?」
 夏恋は驚いて顔を上げる。「魂の門」の向こうに、人影が見える。シルエットだけしか分からないが、見まごうわけがない。
「瞬………!?」
「ゴウゴウと風がうるさくって、ゆっくり寝てられやしねぇ………。俺たち(・・)がこっち側から扉を引っ張ってやる。お前はありったけの力で、そっちから扉を押せ!」
 魂の門の向こう側にいるのは兵藤だった。いや、兵藤だけではない。ファティマやセントルス、イシスの姿も見える。更にはもっとたくさんの魂の力を感じた。見えるのは全てシルエットのみだったが、夏恋には彼らの存在が分かっていた。
「この人がディールの奥さんかぁ。ふぅん………」
「ふぅんって、何だよ嬢ちゃん。無駄口叩いてないで、とっとと、おっ始めるぞ!」
「あはは………! ディールが照れてるぅ」
 兵藤とファティマの取り留めのない会話。本来なら現世で行われるべき会話だったが、夏恋の心には悲壮感はなかった。
「瞬! その子に手ぇ出したら、あたしが許さないよ!」
「な、何言ってやがる! そんなことしたら、イズラエルに殺されちまう!」
「馬鹿だね、あんた。もう死んでるじゃないか………。まぁ、もう一回くらい死ぬば、その馬鹿も治るかもしれないけどね」
「言ってくれるぜ………」
 兵藤は愉快そうに笑った。
「よし、やるぜ!」
 兵藤の合図と共に、全員がパワーを放出する。夏恋もそれに呼応する。
 徐々に扉が閉まっていく。夏恋はマイナスエネルギーに押し流されんと両足を踏ん張りながら、パワーを放出し続けた。
「あと少し!」
 扉は半分以上閉じかかっていた。だが、夏恋の体力も限界に達していた。
―――夏恋! これ以上はあなたの体が………。
「大丈夫!」
 夏恋は吼えた。
「もういい夏恋! あとは俺たちだけで引っ張る!」
「夏恋さん。無理をしないで!」
「馬鹿言ってるんじゃない! 完全に門を閉じるためには、あたしの力が必要じゃないか!」
 魂の門を完全に閉ざさなくては、また再び開いてしまう。ここで完全に閉じてしまえば、セーラーアビスの力を完全に断ち切ることができる。
「………我は門の番人なり。魂を導く案内人(あないびと)なり。我はハデスの(しもべ)なり。我、汝に命ず。汝、我の命に応えよ。大いなる力の門よ! その扉を閉じよぉぉぉ!!」

 静寂が訪れた。
「魂の門」は、完全に閉じられていた。再び開けるためには、セーラーカロンとしての力が必要になる。セーラーアビスが単独で、再び門を開けることはできない。
 どのくらいの時間が流れたのか、夏恋には分からない。夏恋はゆっくりと空間を漂う。力を使い果たし、夏恋の体は時空の揺らぎの中に流されていく。
「終わったね、セーラーカロン………」
 夏恋の想いが流れる。セーラーカロンの声も、もう聞こえない。セーラーカロンの声を聞く力さえも、夏恋には残っていない。
 ゆらゆらと夏恋の体は、宛もなく冥界を漂う。どこに流されていくのか、自分でも分からなかった。しかし、この流れに逆らうだけの力も、夏恋の体には残されていなかった。
 このまま流れに身を任せていよう。
 夏恋は思う。
 やるべきことはやった。あとは、仲間たちががんばってくれる。もう一度仲間たちの顔が見たかった。仲間たちと勝利を祝いたかった。だけど、それはもう無理なのだろうと、夏恋は感じていた。
 自分はもう、元の世界には帰れない。
「ママ、ママ………」
 声が聞こえる。あのセーラー戦士の声だ。
「ママ………。パパが呼んでるよ………」
「ああ、そうか………。あいつが、迎えに来てくれたんだね………」
 すぐ近くに、兵藤の気配を感じた。
 夏恋の心は、安らぎに包まれた―――。