“奈落”の復活


 イズラエルは「封印の神殿」の内部にいた。
「封印の神殿」には、全ての情報が集中しているはずだった。現状を素早く把握するためには、「封印の神殿」の内部に侵入し、そこの端末から情報を収集するのが手っ取り早い。兵藤が取った方法と同じことを、イズラエルもやろうとしていた。
 隠れ家にファティマを残して来たことが、とても気に掛かった。無性に胸が騒ぐ。早く戻らなければならない。そう感じていた。だから、あまり長居することはできない。必要最低限の情報を収集したら、今日のところは引き上げようと考えていた。
「わたくしは、用済みと言うことですね」
 大ホールの横を通りかかった時、中からマザー・テレサの氷のように冷たい声が聞こえてきたので、イズラエルは足を止めた。気取られぬように丸い柱の陰に身を潜め、息を殺して様子を窺う。
 マザー・テレサと大司教ホーゼンの姿が確認できた。ふたり以外には、他には誰も姿が見えない。台座に据えられている「十字架を抱える悪魔」が、まるでふたりのやり取りを見つめているかのように感じられた。
 ふたりは口論しているようだった。だが、言葉は荒れていない。
「お主には最早、何の価値もない」
「ほう。価値と申すか。わたくしから見れば、そなたも価値のない者。この場でその首、()ねてやりましょう」
「面白いことを言う。お主に、そんな芸当ができるとも思えんが」
「その減らず口、いつまで叩けましょうか」
 閃光が走った。しかし、勝負は決していない。マザー・テレサの攻撃を、大司教ホーゼンは楽々と(しの)いでいた。
「地球人の分際で、わたくしの攻撃を防ぎきるとは………」
「いや違うな。儂はこんなちっぽけな世界の住人ではない。お主こそ、地球人ではないと申すか」
「わたくしは、高貴なる血を受け継ぐ者だ」
 マザー・テレサは、堂々と威厳のある態度を取っていた。何者も恐れぬ、強い意志が感じられた。
「高貴なる血だと? ふん! “発芽”もしなかったクズが、よくも言う」
「わたくしをクズ呼ばわりするか!」
「どうする気だ? もう一戦構えてみるか? お主程度の力で、儂の首が取れると思うてか!? 身の程を知れぃ!」
 大司教ホーゼンの“気”が、大きく膨れ上がった。
「………!」
 マザー・テレサが息を飲む。大司教ホーゼンの迫力に、さすがのマザー・テレサも気圧されているようだ。この勝負、戦わずして勝敗は見えていると感じた。
「まぁ、俺たちにとっては、どっちも必要のない人間だがな」
 その声は、唐突に響いた。スプリガンの声だった。イズラエルが身を隠している柱と、マザー・テレサと大司教ホーゼンのふたりを挟んだ対角線上の入り口から、のそりとその姿を現した。
 マザー・テレサと大司教ホーゼンは、驚いたようにスプリガンに目を向けている。そんなふたりの反応を楽しむかのように、スプリガンは口元を緩めた。そして、イズラエルが隠れている柱に目だけを向けると、
「イズラエル、そこにいるんだろ? 出てこいよ」
 どうやらスプリガンは、イズラエルの存在を気付いていたようだ。イズラエルは観念し、柱の陰からその姿を現した。
「やはり生きていたか………」
 大司教ホーゼンが呟いた。マザー・テレサは驚かない。リテネからの報告で、イズラエルの生存を知っていたからだ。
「マザーは驚かないな」
「わたくしを甘く見るでない」
「ふん」
 スプリガンはつまらなそうに鼻を鳴らし、肩を(すく)めた。
「まぁいいさ。どちらにしろ、これで役者が揃ったことに変わりはないからな。………ワルキューレ!」
 スプリガンは後方に首を巡らし、ワルキューレを呼んだ。スプリガンが姿を現した入り口から、ふたつの影が大ホールに入ってくる。ワルキューレとファティマだった。ファティマは拘束こそされていなかったが、ワルキューレの指示通り歩かされていた。その表情は僅かに憔悴(しょうすい)していた。
「マザー・テレサ。ファティマをイズラエルの元から奪還を致しました」
 ニタリと笑いを浮かべながら、スプリカンはしゃあしゃあと言ってのけた。
「違います、お母様! ファティマは自分の意志で、お兄様のお側にいたのです! お兄様がお怪我をされていたので、ずっと看病をしておりました」
 イズラエルの元に駆け寄ろうとしたファティマの左手首を、ワルキューレが掴んで引き戻した。その様子を横目で見てスプリガンは、
「さて、お三方。ファティマの命が惜しかったら、その場を動かないでもらおうか」
 勝ち誇ったように言った。
「スプリガン!? そなた!」
 マザー・テレサの表情が変わった。スプリガンはマザー・テレサに顔を向ける。
「組織は俺たちがもらう。あんたたち三人は、もう用済みだ」
「愚かなことを………」
 マザー・テレサは大きくかぶりを振った。
「馬鹿な………。スプリガン! 何故ファティマをこの場に連れてきた!?」
 イズラエルは怒りを(あら)わにする。最悪である。ファティマと大司教ホーゼンを引き合わせてはいけないのだ。それでは、何のためにディールが、危険を冒してまでファティマを救出したのか分からない。やはり、ファティマをひとりにするべきではなかった。イズラエルは自分の愚かさを悔やんだ。
 ファティマはスプリガンの顔を、キッと睨んだ。
「ディールが助けに来てくれます。お前たちなど………」
「ディールは来ねぇよ」
 ファティマの言葉に、スプリガンは声を被せる。
「ディールはタンクレードが始末してくれた。最も、そのお陰で、タンクレードも()られちまったがな」
「………!」
 ファティマは息を飲んだ。だから、ディールは姿を見せてくれなかったのだと、今分かった。
「ディールが………」
 ファティマの頬を涙が伝った。
「サラディアもくたばった。あとはここに向かっているジェラールさえ倒してしまえば、残るはギルガメシュのみ」
「ジェラールが来ていると言うのか?」
「ああ、そうだ。イズラエル。セーラー戦士のお嬢ちゃんたちも、わんさか来てるぜ。こっちも暴動が起きてよろしくやってる頃だろ? 楽しくなりそうじゃねぇか」
 スプリガンは天井を仰ぎ見るようにしながら、大きく笑った。
「“囚人”たちが暴動を起こすようにし向けたのは、そなたですね、スプリガン」
「ご明察。マザー・テレサ」
 完全にスプリガンは優位に立っているように見えた。しかし、それは単に、一時そう「見えた」だけであった。
「くくく………」
 突然、大司教ホーゼンが笑い出した。
「わははははは………!!」
 気でも狂ったではないかと思えるほど、大声で笑い出した。
(じじい)! 何が可笑しい!?」
 スプリガンは勢い込んだ。自分が優位のはずなのだ。にも拘わらず、少しも動じた様子のない大司教ホーゼンに、苛立ちを感じていた。
「礼を言わせてもらおう、スプリガン。よくぞ我が元に、ファティマを引き連れてきてくれた」
「なに!?」
「ちっ!! スプリガン! ファティマを連れて逃げろ!!」
 イズラエルが動いた。目にも留まらぬ早さで大司教ホーゼンに接近し、得意の手刀を浴びせた。イズラエルの手刀は、大司教ホーゼンを貫いていた。だが、大司教ホーゼンは何事もなかったかのように、平然とした表情をしていた。自分の胸に突き立てられているイズラエルの腕を、ゆっくりと引き抜く。させまいと力を込めるイズラエルよりも強い力で、その腕を引き抜いた。
「馬鹿め」
 驚愕の表情のイズラエルに大司教ホーゼンは顔を向けると、カッと両目を大きく見開いた。イズラエルを不可思議な力で弾き飛ばす。イズラエルは神殿の頑丈な柱の一本に激突すると、鈍い音を立ててその場に崩れた。
「お兄様ぁ!!」
 ファティマはワルキューレの腕を振り解こうとしたが、今度はスプリガンの右手がファティマの細い左腕を鷲掴みにして、後ろ手に締め上げた。ファティマの顔が、苦痛で歪んだ。
「ああっ!? ファティマがどうしたって!?」
 ファティマは確かに切り札だ。しかし、イズラエルと大司教ホーゼンは、別の意味でファティマを切り札と見ているらしい。
「ぐっ………。ス、スプリガン! 頼む!! ファティマを連れてそのまま逃げてくれ!! 取り返しの付かないことになるぞ!」
 イズラエルはヨロヨロと立ち上がると、もう一度大司教ホーゼンに挑んだ。
「失せろ!!」
 大司教ホーゼンが左腕を、大きく凪ぐように振る。イズラエルの左肩が大きく裂け、鮮血が(ほとばし)った。
「ファティマを逃がせ! スプリガン!!」
 その場に踏み止まって、イズラエルは吼えた。そのイズラエルに向かって、大司教ホーゼンの放つ衝撃波が飛ぶ。直撃。イズラエルはきりもみ状態で吹っ飛び、壁面に激突すると、そのまま動かなくなってしまった。
「お兄様ぁぁぁ………!!」
 ファティマが絶叫する。だが、イズラエルから返事が返ってくることはなかった。
「イズラエル………」
 イズラエルの体を、マザー・テレサは茫然と見つめた。
「ファティマを逃がせ、だと………?」
 動かなくなったイズラエルの体を見つめながら、スプリガンは彼の残した言葉の意味を考える。
 大司教ホーゼンはギロリとした目をファティマに向けた。邪魔者は葬った。あとは、自分の目的を果たすのみだ。
「時は、来たれり………」
 ゆっくりと噛み締めるように、大司教ホーゼンは言葉を放つ。
「生まれ出よ!! “奈落”よりの使者。(いにしえ)の大魔導士アビスよ!!」
 大司教ホーゼンは両腕を大きく振り上げた。
「あっ! ああっ!!」
 突然ファティマが、下腹部を押さえて苦しみ出した。彼女の腕を掴んで後ろ手に締め上げていたスプリガンも、思わず手を放してしまった。
 ファティマは狂ったように身悶えし苦しむ。
「ホーゼン! ファティマに何をしたのです!?」
 我が子の苦しむ様を見て、マザー・テレサは鬼の形相で大司教ホーゼンを睨み据える。しかし大司教ホーゼンは、マザー・テレサのその詰問を無視した。
「答えなさい、ホーゼン!!」
 冷笑を浮かべている大司教ホーゼンの耳に、マザー・テレサの声は聞こえていないようだった。苦しむファティマに、何かを期待するような目を向けている。
 ファティマは苦しみながら、床の上に仰向けに倒れた。
「あっ。あっ。あっ」
 仰向けに倒れたまま、息も絶え絶えにファティマは悶えている。目は天井の一点に向けられ、動かすことすらできない。
「な、何だ!? どうしたって言うんだ!?」
 思いも寄らぬ事態に、スプリガンも困惑する。ジリジリと後退り、ファティマの元から離れていく。
 離れろ。ここは危険だ。
 本能がそう呼び掛けている。
「何か、とてつもない邪気が、ファティマの体から………」
 ワルキューレはファティマの体から放たれてる醜悪なまでの邪気を、敏感に感じ取っていた。恐怖を感じ、体が震えている。
 ファティマの体が激しく痙攣する。海老反りのような恰好になった。まるで下腹部が、天に向かって飛び上がろうかとしているようであった。
「あーーーっっっ!!」
 ファティマの下腹部が、あり得ない大きさに膨れ上がった。
「………!!」
 ファティマが悲鳴にならない悲鳴を上げた瞬間、膨れ上がった下腹部が破裂した。血と肉片が、周囲に飛び散った。腹が裂けたファティマの体は、ピクピクと痙攣を繰り返している。
「ファティマぁ!!」
 マザー・テレサが半狂乱になって叫ぶ。
「な、何だ、あれは………」
 わななく唇で、スプリガンはようやくそれだけを呟いた。
 ファティマの腹を強引に破り、中から「それ」は飛び出してきた。
 卵形をした球体だった。大きさは一メートル程。外側が透き通っているので、その中身を見ることができる。
 中に何かがいた。
 まるで羊水の中で眠る胎児のような恰好で、女性らしき物体が(うずくま)っていた。
 両目が見開かれた。
 強い光を称えた瞳だった。血のように(よど)んだ赤い瞳が、不気味なまでの輝きを放った。
 ゆっくりと四肢を広げると、球体は音もなく破裂し、中にあった羊水のような液体が、重力に引かれて怒濤の如く落下し、容赦なく倒れたままのファティマの体を打ち据えた。ファティマは動かない。生きているのか、死んでしまったのか、定かではない。
 ファティマの腹を裂いて出てきた「それ」は、大きく四肢を広げて伸びをした。一糸(まと)わぬその姿は、成熟した人間の女性のようでもあった。不気味な青白い肌を除けば、美しい女性そのものに見える。頬から始まり足の先まで、左半身に不気味な紋章のようなタトゥーが掘られていた。長く伸ばされた髪は、自らの身長よりも長い。
『我、ついに(うつつ)に甦れり』
 低く、不気味な声が響く。掠れたような囁くような、ひどく耳障りな声だった。しかし、女性の口は動いていない。声を出さずに、言葉を発しているとしか思えない。喉の動きは見て取れるので、テレパシーを放っているわけではない。しゃべっているのだ。口を開くことなく。
「そなたは、何者ぞ?」
「何だ、てめぇは!?」
 マザー・テレサとスプリガンが、同時に問い掛けた。
『愚者どもが、わらわの名を問うか………』
 その女性は最初にマザー・テレサに目を向け、その次ぎにスプリガンに目を向けた。
『わらわの名は、大魔導士アビス。………いや、そうさなぁ。わらわが最も忌み嫌う者たちの名を用いて、新たな名を名乗ろう。わらわの名はセーラーアビス。奈落の守護を受けし恐怖と絶望の戦士』
 そう名乗ると、宙を流れるように移動して、床に足を付けた。いや、よく見ると床から距離があった。床から二−三十センチほどの空間に浮いている。
 大司教ホーゼンがゆっくりとした足取りで歩み寄り、セーラーアビスに手を翳す。一糸纏わぬ姿だったセーラーアビスの腰に衣が巻かれ、次の瞬間には夜の闇を思わせる色のマントが、その体を包むように出現する。大司教ホーゼンと並ぶと、それ程身長は高くないと分かった。百六十五センチ前後だろう。ただ宙に浮いているので、百八十センチ近い身長があるように錯覚する。
 炸裂音が響いた。
 大ホールの奥、壇上に奉られていた「悪魔が抱える十字架」が、木っ端微塵に砕けた。中から、一本の杖が姿を見せた。杖の先端は、人の脳髄を連想させた。その中央に、不気味な「ひとつ目」が、ギロリと光る。脳髄のすぐ下には、小さな目玉が、まるでおたまじゃくしの卵のように、重なり合って蠢いていた。
 脳髄の中央に光る「ひとつ目」が、周囲を探るように動く。アビスの姿を発見すると、そこに向かって流れるように宙を移動した。
 アビスは杖が自分の元へと来ると、毒々しいまでの赤い唇を歪めて、満足げに笑みを浮かべた。「脳髄の杖」はアビスの周囲を漂うように周回する。
 マザー・テレサもスプリガンもワルキューレも、金縛りにあったようにその場から動けない。本能は逃げろと告げているのだが、体が拒否していた。
『ご苦労だった。わらわの肉体の“種を持つ”男よ』
 セーラーアビスの声が聞こえた。やはり口は開けられていない。なのに、声だけが不気味に響いていた。
「はっ。ありがたきお言葉」
 大司教ホーゼンは慇懃に頭を下げた。
「これより共に、この世界を手中に収めるべく………」
『世迷い言を申すでない』
「は?」
『共に、だと?』
 獣のような俊敏さで、アビスは左手で大司教ホーゼンの頭を鷲掴みにする。長い爪が大司教ホーゼンの頭に食い込み、そこから血が流れ出す。
『この世界に君臨するのは、わらわひとりのみ』
「な、何ですと!?」
 驚きに見開かれた大司教ホーゼンの目に、己の血が流れ込む。
「何と申されました、アビス様………」
『わらわは二度は言わぬ。お前の役目は終わった。わらわの前から永遠(とわ)に失せい!』
 ぐっと力を込めると、まるで生卵が潰れるかのように、大司教ホーゼンの頭は、いとも簡単に握り潰されてしまった。頭を失った胴体は、ユラユラと揺れると、ドサリと重い音を立てて床に倒れた。しばらくの間、現世に未練を残したかのようにピクピクと蠢いていたが、やがてその動きは永遠に停止した。
『白き月の者たちが迫っておるな………』
 セーラーアビスは天を振り仰いで呟く。
『わらわの復讐の時だ』
 ニタリとした顔をスプリガンに向けた。スプリガンは僅かに体を横にズラした。
 セーラーアビスの両目が、一瞬閃光を放ったように見えた。もう一度ニタリと笑うと、セーラーアビスは「封印の神殿」の天井を突き破って、外へと飛び出していった。「脳髄の杖」がその後を追う。
「逃げるぞ、ワルキューレ。もう俺たちの出る幕じゃねぇ」
「はい、そのようです」
 くるりと(きびす)を返したワルキューレだったが、スプリガンが動かないことを不信に感じ、もう一度振り返った。
「スプリガン様!?」
 スプリガンは口から血を吐き、その場に片膝を付いていた。スプリガンの胸には、光の矢が二本突き刺さっていた。
「スプリガン様。まさか、あたしを庇って………」
「ふっ。馬鹿なことを言うな。この俺が、他人なんかを庇うかよ。たまたまお前の前に、俺が立っていただけだ」
 だがそうではないことを、ワルキューレは分かっていた。先程確かに、スプリガンは自分とセーラーアビスの直線上に身を移動させている。全くの自然な動きで。だからその瞬間は、自分が庇われたことに気が付かなかったのだ。
「逃げろワルキューレ。ここから逃げて、必ず生き延びろ………」
 スプリガンは、ワルキューレがよく知っている笑みを浮かべた。
「了解………致しました………」
 ワルキューレは一粒の涙をその場に残して、消えていった。生き延びるために………。
 スプリガンはチラリとファティマに目を向けた。腹の裂けたファティマは、仰向けに倒れたままだ。まだ息はあるようだが、その命の灯火が消えるのは、時間の問題だと思えた。
「俺は、余計なことをしちまったのか………」
 スプリガンは呟く。
「情けねぇ………」
 そのまま崩れ落ち、動かなくなった。

 イズラエルは床を這っていた。少しの間意識を失っていたが、まだ息はあった。自分がまだ生きていると分かった時、イズラエルは大ホールにファティマの姿を捜した。そして見付けた。血塗れのまま、仰向けに倒れているファティマの姿を。息はあるように感じた。だから、イズラエルは、必死にファティマの元に向かった。
 背骨が砕けてしまったのか、下半身が全く動かなかった。イズラエルは腕の力だけで、自分の体を引きずって、ファティマを目指した。イズラエルの目には、もうファティマの姿しか映っていなかった。ホーゼンが頭を握り潰されて絶命したが、イズラエルはそれすら見ていなかった。
「ファティマ………」
 やっとの思いでファティマの元に辿り着くと、自分の両腕を支えにして無理矢理上体を起こし、その顔を覗き込んだ。
 ファティマの目が僅かに動き、その瞳にイズラエルの顔が映った。
「お兄、様………」
 安堵したような笑みを、ファティマは浮かべた。イズラエルが無事なことが分かって、安心したのだと思えた。
「すまん………。お前をひとりにしてしまったがために………」
「気に病まないで」
 ファティマには、もう多くの言葉を発するだけの力は残されていないようだった。わななく唇は雪のように白く、表情にも生気が感じられなかった。
「ずっと、お側にいとうございました。でも、それは、もう叶わぬ夢………」
 イズラエルは、どうにかファティマの左手を握ることができた。氷のように冷たい手だった。
 イズラエルは表情には出さず、心の中だけで噎び泣いた。
「ファティマがお兄様をお守り致します。どうか、死なないで………」
「ファティマ!」
「ずっと、お慕いしておりました………。わたしのイズラ、エル………」
 そこでファティマは事切れた。美しかったファティマの瞳は、最早無機質のガラス玉のようになってしまった。死した後も、その姿をずっと見つめていようと見開かれたままのファティマの瞳から、一滴の涙が流れ落ちた。
「イズラエル」
 ファティマは何度そう呼びたかっただろう。「妹」ではなく、ひとりの「女」として、何度彼をそう呼びたかったことだろう。最後の最後で、ファティマはやっと口にすることができたのだ。
「ファティマ………。すまない。わたしがしっかりしていなかったために………」
 イズラエルは、ただただ後悔の念に駆られる。自分もファティマを、「妹」ではなく「女性」として見ていた。もっと早く「女性」として扱っていれば、こんな悲劇を向かえることはなかったかもしれない。ファティマを失って初めて、イズラエルは人間らしく涙を流した。
 見開かれたままのファティマの瞳に自分の姿を映し、彼女の左手を握り締めたまま、イズラエルは嗚咽した。
 マザー・テレサは茫然としていた。イズラエルとファティマを見つめたまま、その目を反らすことができないでいた。ふたりがこんなにも愛し合っていたとは、全く気が付かなかった。
 いつからなのだろう。ふたりのことを、母親として見つめなくなってしまったのは。
 自分のやろうとしていたことが、間違いだったとは思っていない。自分はそのために、この地に来たのだから。それが自分の任務であったから。ただひとつ間違えを冒したとすれば、それはホーゼンという男と手を組んでしまったことだ。得体の知れない者を組織の幹部として招き入れてしまったのは、誰でもない自分の責任である。だが、今となっては取り返しの付かないことだ。目の前でイズラエルもスプリガンも死んだ。我が子ファティマも死んでしまった。
 激しい後悔の念に駆られた時、マザー・テレサの体は光に包まれていた。

「封印の神殿」の天井を突き破って、外へと飛び出したセーラーアビスは、宙に漂ったまま静止する。
 長いマントと髪が、風に(なび)く。首を三百六十度巡らした。更に三十度、左に巡らす。それとは逆の動きを、「脳髄の杖」は行った。
「脳髄の杖」と、そしてセーラーアビスの首の動きが、同時に止まった。
『見付けたぞ。白き月の者ども………』
 セーラーアビスは、醜悪な笑みを浮かべた。
『わらわが昔年の恨み、今こそ晴らしてくれようぞ』