イズラエルとジェラール
騎士の城塞に到着したイズラエルを、ジェラールは丁重に出迎えた。イズラエルは見るからに豪華なリビングに通され、軽い持てなしを受けていた。豪華ではあるが、決して嫌みではない装飾品が、ジェラールの趣味の良さを物語っていた。
堅すぎず、それでいて柔らかすぎてもいないソファーに深々と腰を下ろしているジェラールは、特別に作らせた赤ワインを一口口に含むと、正面のイズラエルに対して、ゆっくりと口を開いた。
「何やら最近、慌ただしい動きがあるようですが………」
「何も知らないのだな………」
呆れたようにイズラエルは答える。ソファーに深々と腰を下ろしたまま、小さく肩を竦ませて見せた。さして珍しくもないのか、それとも興味がないのか、イズラエルは部屋の装飾品の類には目を向けなかった。
「あなたがわざわざ騎士の城塞( に来るには、理由があるとは思っています。まさか、遊びに来たと冗談を言うつもりではないでしょう?」)
「もちろんだ」
イズラエルは肯く。
「時にジェラール。ここへ来る途中、何者かと交戦中だという話を聞いたのだが、カタは付いたのか?」
何事かを含むような口振りで、イズラエルは尋ねてきた。ジェラールは口元を僅かに緩めた。
「もちろんです。ヴィクトールが手早く処理をしてくれました」
「貴様が捕らえているという、セーラー戦士の仲間か?」
「………はい」
ジェラールは全てを答えない。ジェラールとしては、イズラエルの突然の訪問を、快く思っていないからだ。もともと、ジェラールはイズラエルとは馬が合わなかった。描いている思想が違うのである。日本支部で会議が開かれる際も、イズラエルが主催の場合には、何かと理由を付けて欠席をしていた。
「大司教のやつが、貴様が捕らえたセーラー戦士を差し出せと言っているようだが?」
大司教ホーゼンの目的は分かっていた。セーラー戦士を使って、何をしようとしているのかも想像はできる。イズラエルはそれを知っているからこそ、今は敢えて行動を別にしているのである。自分の究極の目的のためには、今は大司教には好きなことをさせる。それがイズラエルの方針だった。
「今朝方もサラディアを通して連絡が来ました。明後日までに、〈カテドラル〉に連れてこいと言ってきましたよ」
そんな指示に従う気など毛頭ないといった風に、ジェラールは言った。その方が、イズラエルにとっても都合がよかった。好きにはさせているが、実のところは大司教の目的など、達成されては困るのだ。
「そうか、〈カテドラル〉にな………。サラディアが合流したのか?」
じろりとした目を、イズラエルはジェラールに向けた。
「………らしいですね」
言葉少なに答えると、ジェラールは再びワインを口にした。対するイズラエルは、まだ一滴も口にしていない。警戒をしているとは思えないが、だとしたら不愉快でもある。ジェラール特注のワインを口にできるのは、騎士の城塞( 内では本人以外ではヴィクトールくらいのものなのだ。)
そんなジェラールの心など気遣うような素振りも見せず、イズラエルは瞑想でもするかのようにゆっくりと瞼を閉じた。
「イズラエル様。何故、〈カテドラル〉が動いているのですか?」
しばしの沈黙を破ったのはジェラールだった。
ジェラールとしては、本来ブラッディ・クルセイダースとしての象徴でもある浮遊戦艦が始動しているのが、ひどく気になっていた。〈カテドラル〉が動くには、それ相応の理由があるはずだった。
「聖地へ向かったのだよ、大司教は………」
イズラエルは即座に答えた。
「ポイントが判明したということですか?」
「おおよその位置は掴めたらしい。あとひとつ、最後の指輪さえ発見できれば、場所は完全に割り出せる」
イズラエルは表情を崩さなかった。口調はあくまでも淡々としていた。深々とソファーに腰を沈め、今では完全にくつろいでいる。それでいて完全にジェラールに心を許しているわけでもなかった。注がれたワインに口を付けていないことが、その証拠である。アルコールが苦手だというのなら、ワインは嫌味でしかないのだが、そんなことはないはずだった。現に〈カテドラル〉で行ったことのある会合では、アルコールを口にしている姿を目にしている。
(この男、いったい何をしにここへ来たんだ………?)
相手の腹の内を探るなど性分ではないのだが、ジェラールとしては気になるところではあった。大した目的がないのなら、早々に立ち去ってもらいたいというのが、彼の本音であった。
ドアがノックされた。
十代後半ぐらいの若い騎士を伴って、美奈子が再びクンツァイトたちのいる部屋に訪れた。ヴィクトールと共にこの部屋を一時去ってから、三十分くらいが経過していた。
ゆっくりとした足取りで、部屋に入ってきた美奈子だったが、歩調は先程と違い、若干の乱れがあった。クンツァイトでなければ気が付かない程の僅かな乱れだった。
クンツァイトは怪訝そうな表情を、入室してきた美奈子に向けた。
「これはこれはお姫様。今度は何の気紛れですか?」
戯けてみせるクンツァイトに、美奈子は微笑を浮かべた。
「組織の大物が、この城塞にやって来たようよ」
美奈子は言いながら、クンツァイトに歩み寄る。
「ここのボスも相当の大物だと思っていたが、更に上が来たって事か?」
クンツァイトはわざと若い騎士を無視した。無視しながらも、相手の隙を伺っている。美奈子も特に、騎士のことは気にしていない。小声で会話を行っているわけではないのだ。ふたりの会話は、若い騎士にも聞こえるはずである。
「ヴィクトールはどうした?」
「ジェラールと一緒に、その大物さんと会ってるわ。代わりに彼が付いてるってわけ」
若い騎士をちらりと見やりながら、美奈子は答えた。答えながらも、部屋の様子をチェックしていた。マクスウェルという若い剣士は、相変わらず部屋の隅の椅子に腰を下ろしていた。ベッドにはヒメロスが横たわり、アンテロスが看病をしている。三十分前に訪れたときと、殆ど違いはなかった。
強いて違う点を上げるとすると、美奈子を監視している騎士がヴィクトールではなく、名前も知らない若い騎士だという点だった。美奈子の好むアイドル系の顔立ちをしたその騎士は、直立不動の姿勢で、ドアの横で待機している。
「なるほど………。とすると、今がチャンスだと言う訳か………」
クンツァイトは口元に不敵な笑みを浮かべると、その視界に若い騎士を捉えた。
クンツァイトの意図するところを敏感に感じ取った若い騎士は、素早く剣を抜こうと体勢を変えた。しかし、彼が剣を抜くことはできなかった。それ以上に、クンツァイトの動きが素早かったのだ。
延髄に手刀を浴びせられた若い騎士は、短い呻き声を上げただけで昏倒してしまった。
「さすがに素早いわね」
感心したように言ったのは、ベッドで寝ているはずのヒメロスだった。ベッドから上体を起こし、口元に笑みを浮かべる。
マクスウェルとアンテロスが、狐に摘まれたような顔をして、ヒメロスのことを見ていた。彼女は絶対安静のはずだったのである。それが何事もなかったように上体を起こし、あまつさえ口元に笑みまで浮かべたのである。驚くのも当然だと言えた。
「あたしを治療してくれた医師に付いてきた看護婦の中に、エロスが紛れ込んでいたのよ。通常の手当をしながらも、治癒の術法を掛けてくれたの。あたしの傷は、もう完全に治っているわ」
ヒメロスは言いながら、お腹に巻かれた包帯を取って見せた。
「ホラね」
傷ひとつない健康的なお腹を、一同に見せた。エロスの治癒の術法によって、剣による傷も綺麗に消えていた。
「マクス。お姉さんはもう大丈夫だから、そんなに落ち込まなくてもいいわよ」
自分に怪我を負わせてしまったことを気に病んでいたマクスウェルに、キュートなウインクをプレゼントした。
女性の健康的な素肌を見てしまったマクスウェルは、思わず頬を赤らめて下を向いてしまった。
「もう、か〜わいいんだから、マクスは!」
ヒメロスは下を向いたままのマスクウェルの頭を、平手でピシピシと叩いてからかった。
そんな光景を見て、美奈子はクスリと笑う。
「クンツァイトは気付いてたみたいね」
ヒメロスがピンピンしていることに全く驚きを示さなかったクンツァイトに、美奈子は言った。美奈子はヒメロスの怪我の具合を知らなかったから、大して驚きもしなかったが、マクスウェルとアンテロスの驚きから推測すると、かなりの深手だったことになる。
「お前の側近は役立たずだが、部下の方は、なかなか頼りになるな」
少しばかり呆れたような表情で、クンツァイトは言った。
「側近て、アルテミスのこと?」
「ああ。どこで油を売っている事やら………」
「あら、さっき通路で擦れ違ったわよ」
「なにぃ!?」
一向に姿を見せないアルテミスに、彼の無事を半ば諦めかけていたクンツァイトは、さすがに目を剥いて驚いた。それはヒメロスとて同じであった。
「通路で擦れ違っただぁ!?」
「ええ。ここへ来るときに………。騎士に化けてって…………、ああ、もともと騎士だから化けるって言い方は変だけど、とにかく気持ちばかりの変装はしてたわよ。あたしはすぐに分かったけど」
「あっそう。来てるんだ」
何とも狐にでもつままれたような気分で、クンツァイトは後頭部を掻いた。はっきり言って、拍子抜けである。なかなか姿を見せないアルテミスに、「もしかしたら」という絶望的な考えまで浮かんでいた矢先なのである。
「アルテミス様は、おひとりでした?」
拍子抜けした様子で立ち尽くしているクンツァイトに、何か言葉を掛けようとしていた美奈子だったが、ヒメロスの質問が聞こえたのでその言葉を飲み込んだ。
「どういうこと?」
ヒメロスの質問の意味がよく分からなかった美奈子は、すぐさま聞き返していた。美奈子はセーラープレアデスの存在を知らないのだ。
「だいたい、聞きたいことは山ほどあるのよ。何でクンツァイトがここにいるのかってことが、今のあたしの最大の疑問なんだけど………。納得できるように説明してくんない?」
当然の疑問である。ダークキングダムの四天王として死んだはずのクンツァイトが、何故ヒメロスたちと行動を共にしているのか? 説明されなければ分かるはずもない。
「説明はあとでする。こんなところでのんびりしている時間はないだろう? さっさと行動に移るぞ」
気の抜けた状態から立ち直っていたクンツァイトは、不満そうに言葉を飲み込んだ美奈子に、どこかで見覚えのあるような薄い笑いを向けていた。
イズラエルは司令室に案内されていた。ジェラールとヴィクトールが、何事かを説明している。その説明に対し、イズラエルは何度か肯いていた。
三人の様子を、騎士に変身したエロスは見ていた。もちろん、三人を監視するために危険を冒して司令室に潜入したわけだが、それとは別にもうひとつ理由があった。
美奈子たちの脱出路を確保するためである。彼女たちの脱出に不可欠な、巨大な乗り物を奪取するために必要な情報を、司令室から得るためでもあった。美奈子と自分を含めれば、城塞に乗り込んでいる味方は合計で八人にもなる。個別に脱出する方法も考えられるのだが、騎士団の追撃を想定すれば、戦力を分散させるのは得策ではない。しかし、八人という人数が一度に脱出を計るためには、何か乗り物でも奪って逃げるしか、手はないのである。
クンツァイトたちは美奈子を救出するために城塞に乗り込んで来たのだが、エロスとアルテミスには、更に別の目的もあった。ふたりは、その城塞にいる“毛むくじゃら”も同時に助け出そうと考えていたのである。既に“毛むくじゃら”に化けて潜入していたエロスは、この城塞にいる“毛むくじゃら”のだいたいの人数は把握していた。だからこそ、脱出の際に必要となるであろう乗り物の確保のために、ここ数日は費やしていたのである。
乗り物の存在は確認できている。その城塞の地下にある巨大なドックに、二隻の「飛空艇」なる乗り物が常に発進できる状態で整備されていることも知っている。だが、それが乗り物である以上、それを操作する者が必要である。そして、ドックから発進するためには、それを手助けする者も必要なのである。
(イズラエルとか言う、あの幹部の飛空艇が来たときも、ジェラールは司令室で指示を出していた。ハッチの操作は、ここからすることに間違いないと思うのだけれど………)
エロスは司令室全体に、視線を素早く走らせる。キョロキョロと辺りを探るわけにはいかない。怪しまれないためにも、素早く確認する必要があった。屈強の騎士の姿に変身してはいるものの、知らない顔だと分かれば怪しまれてしまう。
(だけど、この人数を一度に相手にすることはできないわね………)
自分の力量を考えたら、とてもこの場で司令室を占拠する気にはなれなかった。せめて、ジェラールら三人が司令室から離れれば、それも可能かもしれないと考えた。
(ヒメロスはもう動けるはず。そろそろ行動を起こしてもいい頃だと思うけど………)
医療班に化けた自分の治療によって、ヒメロスは完治しているはずだった。美奈子が上手く行動してくれれば、そろそろ脱出のための行動を起こしてくれてもいい頃ではあった。
しかし、エロスが考えているように、何事も筋書き通りにいけば、何の苦労もないのが現実である。
「………そろそろ、捕らえたセーラー戦士に会わせてもらいたいな」
司令室に興味の無くなったイズラエルが、今自分が一番感心を持っていることを口にした。
「セーラー戦士にですか?」
ジェラールは無表情を装ったつもりだったが、僅かに頬がピクリと跳ねた。
「大司教のように差し出せと言うわけではない。貴様が捕らえたというセーラー戦士を見て見たいだけだ」
イズラエルはジェラールの返事も待たずに、司令室を後にすべくきびすを返した。ヴィクトールが先に立ち、案内役を務めた。司令室に入ってくる際も、確か同様にヴィクトールが案内役をしていたように思う。
三人はエロスの変装した騎士と、一メートルほどの距離を置いて擦れ違った。騎士の出入りが激しい司令室では、エロスの変装した騎士はとりわけ目立つ存在ではなかった。だが、擦れ違った際、イズラエルの足は止まった。
「ジェラールよ。ネズミが入り込んでいるようだが………」
エロスのミスは、彼らと擦れ違ってしまったことにあった。少しでも離れていれば、イズラエルに気付かれることはなかったかもしれない。
見た目の変装は完璧だった。その姿を見ただけでは、女性であると判別できる体型ではない。際だって体格がいいと言うわけではないが、平均的な成人男性の体格を真似ていた。例え裸にされても見分けが付かないほど、完璧に男性の体型になっているはずであった。身に着けている鎧も、騎士の城塞( で拝借したものだ。擦れ違っただけで分かってしまうような、間抜けな変身をしたつもりはなかった。)
正体が見抜かれたと分かった瞬間、エロスは三人から大きく飛び退いていた。しかし、飛び退いた方向が間違っていた。残念ながら、出口からは離れてしまったのだ。
「騎士に化けて進入したのは面白いが、女だということを隠せなかったのが、貴様の失敗だ。ジェラールの騎士団に、女がいるという話は聞いたことがない。………そうだな?」
「まあ、な………」
賊を発見したことを自慢げに言うイズラエルに対し、ジェラールは言葉少なげに答えた。
「女。どこぞの国のスパイか?」
イズラエルの言葉に、司令室は緊張に包まれた。司令室に在駐している騎士たちは、半ば納得がいかないように、エロスの変身した騎士の背中を見つめていた。イズラエルは女性だと言っているのだが、とてもそうは見えないからである。
警報は鳴らない。ヴィクトールが制したからだ。理由は分からない。敵がこれ以上増えないと言うことは、エロスにとっては助かることだった。
エロスの変装した騎士は、じりじりと後退した。仮に正体がバレた時のことを考えて、出入り口の近辺にいるようにしていたが、イズラエルと擦れ違ったことで位置関係は最悪のものとなってしまった。咄嗟に後方に飛び退いてしまったことも災いした。動揺したことで、判断を誤ってしまった結果だった。
司令室の出入り口は、イズラエルとジェラール、そしてヴィクトールに押さえられてしまっている。一度にこの三人を蹴散らすことはできない。
(最悪だわ………)
エロスは心の中で舌打ちした。この位置関係では、通常の手段では脱出は不可能だった。背後ではもともと司令室で作業をしていた騎士たちが、賊の侵入に対して剣を抜いて、長であるジェラールの指示を待っている。前方には屈強の騎士ふたりと、自分の正体をあっさりと見破った実力の計れない男がひとり。絶体絶命の状況だった。
(どうする? 戦って散るか、それとも一端捕らえられて次の好機を待つか………)
エロスは考えを巡らせる。しかし、そうのんびりと考えている時間は与えてくれそうになかった。背後の騎士たちからの殺気が、突き刺さるように襲ってくる。
「ジェラール、指示を出さんのか?」
賊を発見したにも関わらず、部下たちに何の指示も出す様子のないジェラールに対し、イズラエルは表情を曇らせた。
ジェラールは無言のまま、部下たちに指示を出した。エロスの変装した騎士の背中を睨みながら、その指示を待っていた騎士たちは、素早く行動に移った。
(戦うしかないのか!)
エロスは心の中で舌打ちするしかなかった。
振動が来た。
突然だった。
突然のことに、誰もが対応ができなかった。
賊を捕らえようと動き始めた騎士たちの足が止まった。振動の強さに、バランスを崩して床に膝を付く者もいた。
「何だ!? この揺れは!?」
イズラエルが視線を泳がせながら吠えた。説明を求めるような視線をジェラールとヴィクトールに向けるが、彼らとてその理由は知るはずもない。
司令室を襲った一瞬のパニックの最中、いち早く行動を起こしたのはエロスだった。出入り口に付近に陣取っていたイズラエルたちに向け、エレガント・ボーミングを浴びせると、突然の攻撃に茫然としていたイズラエルの右肩を踏み台にして、一気に三人を飛び越えた。
三人を飛び越える際、邪魔になる騎士の鎧を素早く脱ぎ捨てると同時に、男性の屈強な体に変身していたエロスは、美しいプロポーションの自らの体に戻っていた。
「その姿! セーラー戦士か!?」
自分の肩を足蹴にした相手を、素早くその視界に捉えたイズラエルは、見覚えのあるコスチュームに目を剥いていた。
「なるほど………」
侵入していた賊がセーラー戦士だったことを確認すると、ジェラールは口元に小さな笑みを浮かべながら頷いていた。
ならば、この揺れの原因も推測ができる。
(なかなか、楽しませてくれる)
ジェラールは心の中で、楽しげに呟いた。
「ヴィクトール!」
自分のすぐ脇にいるヴィクトールの名を、ジェラールは小さく呼んだ。
「分かった」
友人の真意を悟ったヴィクトールは、直ちに行動に移った。次第に小さくなっていくエロスの背中を、ヴィクトールは風のように追った。
「ジェラール、失態だな………」
イズラエルは呟くように言った。その口調は、明らかに彼を咎めるものであった。
何が可笑しいのか、ジェラールは再び口元に笑みを浮かべて見せたのだが、彼に背中を向けているイズラエルには、その変化は分からなかった。
しなやかな動きで襲い来る騎士たちを躱し、エロスは通路を走り抜ける。もちろん、ただ闇雲に逃げ回っている訳ではない。エロスが向かっているフロアには、ヒメロスたちがいるはずだった。
美奈子のいるはずのフロアに向かわないのは、常にじっとしていることのできない美奈子が、太陽の出ている時間に部屋に閉じ籠もっているとは考えられなかったからである。苦労して辿り着いても、美奈子がいないのでは意味がなかった。それよりも、ヒメロスたちが軟禁されている部屋に向かった方が確実なのである。脱出の裏工作に失敗してしまった今となっては、なるべく早く仲間と合流しなければならない。
(ヒメロスの奴、美奈子( を救出することを考えるあまり、“毛むくじゃら”のことを忘れているわね!))
負傷したヒメロスを治療していたとき、エロスが感じたことだった。ヒメロスたちの行動は、美奈子を救出することだけ一点に絞った行動のように思えたからだ。自分たちの本来の目的を忘れてしまっている。
(おかしいわね………)
エロスはふと足を止めた。ヴィクトールが追って来ないのである。少し前まで、自分のお尻を追いかけていた勇猛な騎士の姿が見えない。ヴィクトールほどの相手を、自分が振り切ったとも考え辛い。
「あたしの向かう先に、先回りしようと言うの………?」
そう考えた方が妥当だった。幸い、この位置からなら、自分が向かう先は二択となる。すなわち、美奈子の部屋かヒメロスたちの部屋のどちらかということになる。そのくらいのことは、ヴィクトールならばすぐに気付くはずである。
「充当に考えれば、ヒメロスの部屋ということになるわね。だけど………」
先程の騒ぎを起こしたのがいったい誰なのか、エロスは推測するしかない。ヒメロスたちが行動を起こしたものなのか、それともアルテミスたちが動いたものなのか、先程の振動だけでは判断できるものではない。もし、ヒメロスたちが行動を起こしたのだとすれば、彼女たちがいた部屋に向かうのは全くの無意味である。
「美奈子( の部屋へ行ってみようかしら………」)
そうも考えてみたが、彼女が部屋にいなければこれもまた意味のない行為である。
「けど、一か八かね!」
悩んでいても埒は開かない。エロスは意を決した。今は、自分の勘に頼るしかなかった。