極北から熱砂へ
吹雪いていた。
気温は当然氷点下だろうと思えた。
墜落しているジャンボジェット機の残骸を見つめ、セーラームーンは茫然としていた。
破片の散らばりようを確認し、墜落してから爆発したのだろうと、ネフライトは推測した。空中で爆発したのであれば、もっと広範囲に破片が散らばっているはずだと言う。
爆発が起こったのは、機体の中央部分だと思えた。機首と尾翼そして主翼が、ほぼ完全な形で残っているからだ。外部からの何らかの圧力を受けた事による破壊だと、ネフライトは言った。
しかし、奇妙と言えば奇妙だった。ほぼ満席の状態で飛び立ったはずのジャンボジェット機であったはずだが、墜落現場からは全く遺体が発見されない。いや、奇妙なのはそればかりではない。事故の調査団を始め、報道陣の姿が全く見えないのだ。念のため、ゾイサイトが周囲を探索したが、それらしいベースキャンプも発見できなかった。
「不可解すぎる」
納得がいかないと言わんばかりに、ネフライトは呟いた。ジャンボジェット機の乗員乗客、いち早く駆けつけたであろう調査団、そして取材に来たマスコミ関係者全員が消えてしまったことになる。そんなことはありえない。
「ま、ここがかの有名なバミューダ・トライアングル内だったら、それでも説得力があったんだけどね………」
ゾイサイトが言っているバミューダ・トライアングルとは、ミステリーが好きな者なら誰でも知っている魔の海域のことである。西大西洋に位置するバミューダ島、プエルトリコ島、そしてフロリダ半島の三点を頂点とした三角形の海域である。もちろん、ゾイサイトは本気で言っているわけではない。
「何者かの手が加えられたとしか考えられないが………」
ゾイサイトの冗談には全く触れず、ネフライトは吹雪によって視界が極端に悪い周囲を見回した。
「彼らは、どこに消えてしまったんだ………!?」
ゾイサイトは呟く。手掛かりが全くない。これでは調査をすることもできなかった。調査をするために現場に来た三人だったが、いきなり出鼻を挫かれたことになる。
「何かが起こったとしてだ。マスターが何の手も打たなかったのは気になる。いや、できなかったと考えるべきか………」
ネフライトは自分の顎を右手で撫でた。確かに、衛ほどの人物が事件の現場に居合わせて、何も対処できなかったというのは解せない。よしんば、本当に墜落したのだとしても、自分ひとりなら(衛の性格からして、そんなことはあり得ないが)脱出することは可能だったはずだ。
「やはり、ただの墜落じゃないと考えるべきだね」
ゾイサイトは言った。
「何者かの意志によって、意図的に墜落に見せかけたと考えることが妥当な線だね。マスターは乗員を守るために、敢えて何もしなかったと考えれば、この現場の説明は付くと思うけど」
「そうだな」
ネフライトは頷く肯く。何者かの意志とは、この場合、恐らく九十パーセント以上の確率で、ブラッディ・クルセイダースのことだろうと思えた。すぐに結びつけてしまうのも危険だが、この場合はそうである確率の方が高い。
「目的は何だ?」
ネフライトは問う。
「さぁね」
すかさず、ゾイサイトは肩を竦めた。
「その目的を探るために、マスターは敢えて捉えられたと考えるべきかもね」
実際、衛を発見して確認しなければ分からないことなのだが、ゾイサイトは断定的に言った。その言葉を受けて、ネフライトは短く顎を引く。多少強引だが、そう考えるのが妥当のようだと感じたからだ。
「ねぇ、ネフライト。さっきから気になってることがあるんだけど………」
長身のネフライトの顔を見上げながら、セーラームーンは言った。
「何か?」
「さっきから、誰かに見られているような気がするんだけど………」
セーラームーンは、周囲を見回すような仕草をしながら言った。もちろん、吹雪のために、殆ど何も見えないと言っていい。
「何も感じないが………」
「でも、感じるのよ」
人に見られると言う感覚に敏感な、女性ならではの勘のようなものなのかもしれなかった。第六感が働いていると言ってもいい。
「確かに、誰かがあたしたちを見てるわ………」
その感覚は、次第に確信に近づいていた。
「確かに何かいるね………」
周囲の“気”を探っていたゾイサイトも、セーラームーンが感じたものと同じ感覚を覚えていた。切れ長のゾイサイトの目が、吹雪の中に隠れている何かを発見した。女性的な感性を持つゾイサイトだからこそ、セーラームーンの感じた感覚を同様に掴むことができた。
「一時の方向。数は、一、二、三………七つ程。“気”を押さえてはいるけど、気配までは消してないね。戦いのプロではないけど、全くの素人でもない」
ゾイサイトが素早く分析する。戦闘態勢を取りつつ、相手の出方を伺う。戦闘態勢は取ってはいるが、“気”は押さえている。敵(だぶん、敵だろうと思う)に、こちらの状態を気付かせないためだ。ゾイサイトの指示で、セーラームーンは敵のいる方向には視線を向けていない。ネフライトも前方のジェット機の残骸を見つめたままだ。
「雪山だからね。雪男かもしれないけど………」
お得意の冗談を言いつつも、ゾイサイトは油断していなかった。ネフライトも戦闘の準備に入っている。ふたりは既に、セーラームーンを守るような陣形を取っていた。
「! 後ろにも!!」
突然、背後に殺気を感じたセーラームーンが、振り向きざまにエターナル・ティアルを構える。何か巨大なものが飛び掛かってくる。もはや、敵を敢えて無視する必要はなかった。
「ちっ!」
素早く反応したネフライトは、セーラームーンに飛び掛かってきた影を、衝撃波で弾き飛ばした。まるでそれが合図でもあったかのように、次々と何かが飛び掛かってくる。
「“毛むくじゃら”!?」
そのものの姿を視界に捉えたセーラームーンは、瞬時にそれが何であるのか見極めることができた。ゾイサイトの冗談は、あながち的外れではなかったことになる。
「統率が取れている! ったく、何がプロではないだ!? こいつらを操っているやつは、なかなかの曲者だぞ!」
ネフライトが野太い声で、ゾイサイトに文句を言う。
「ごめん! 僕だって、たまには間違えることもある!」
“毛むくじゃら”が繰り出してきたパンチをひょいと躱しながら、ゾイサイトが言葉だけの詫びを入れた。
「“毛むくじゃら”の殺気が充満しているな………」
「敵さんのいいカモフラージュって、わけだね」
次々と襲い掛かる“毛むくじゃら”を衝撃波で弾き飛ばしながら、ふたりはそれらを操る者の“気”を探っている。大した数ではないので、彼らの敵ではないのだが、傷つけないようにするには神経を使う。
「相手が“毛むくじゃら”なら、問題はないわ! あたしに任せて!」
“毛むくじゃら”の対処法は分かっている。セーラームーンはエターナル・ティアルを構えた。
「ムーン・ヒーリング・エスカレーション!!」
強烈な白い光が、セーラームーンを中心に広がっていく。ヒーリング・エスカレーションの浄化のパワーを、放射状に放ったのだ。
“毛むくじゃら”は瞬く間に、元の人間へと戻っていく。
ここは極寒の地である。“毛むくじゃら”の呪縛を逃れた彼女たちは、一糸纏わぬ姿となる。そのままほおって置いては、寒さのために命を落としてしまう。
セーラームーンはヒーリング・エスカレーションを放った後、余剰のパワーで彼女たちを空間転移させた。転移先は、十番病院である。十番病院へ転移させれば、彼女たちの身の安全は保障できる。突然出現した異国の全裸の女性たちに、十番病院がパニックになることは想像に難しくないが、残してきたマーズたちが上手く対処してくれるだろうと考えてのことだ。
しかし、セーラームーンは、その十番病院に異常が起こっていることを知らない。それを彼女が知るのは、まだしばらく後のことである。セーラームーンとしては、今現在行うことのできる最善の策を取ったにすぎない。
「よし! これで楽になった!」
“毛むくじゃら”が転移させられるのと同時に、ネフライトとゾイサイトは動いた。
吹雪の中に閃光が走る。“毛むくじゃら”を操っていた者に攻撃を加えたのだ。彼らは既に、“毛むくじゃら”を操っている者の“気”を探り当てていたのである。
「こっちだ、セーラームーン! やつが逃げる!」
ネフライトの声だ。セーラームーンは、その声の聞こえてきた方向に向かって走った。と言っても、足下は深い雪に覆われている。なかなか前進することができない。
吹雪のため相変わらず視界は悪いが、程なくネフライトの広い背中を発見した。
彼の前方に、直径二メートル程の暗黒の空間が広がっている。見覚えるある空間だ。空間転移のための暗黒空間だ。
「ゾイサイトが先に追った。俺たちも行くぞ!」
「え!? ここの調査は!?」
「もう必要ない。マスターたちは恐らく、この空間の先にいるはずだ。ぼやぼやしていると空間が閉じてしまう。行くぞ!」
ネフライトはセーラームーンの手を引くと、暗黒の空間に身を投じた。
「な!? 何よ、ここ………」
「これはまた、両極端だな………」
驚いたようなセーラームーンの言葉と被さるように、ネフライトも呆れたように言った。
そこに広がっているのは、一面の砂漠だった。
突き指すような太陽の光が、じりじりと肌を焼く。素肌が透明ポリマーで覆われていなければ、数分で日焼けしてしまうのではないかとさえ思えた。息を吸い込むと、肺が焼けてしまうのではないかと思えるほど、空気も熱を帯びていた。
防弾耐熱のセーラースーツでなければ、暑さのため数分で参ってしまうだろうと感じた。先程の墜落現場でもそうだ。セーラースーツのお陰で、寒さに凍えることなく活動できる。先に説明したとおり、素肌を晒しているように見える部分も、極薄の透明ポリマーで覆われているのだ。触れてみれば分かるが(簡単に触れさせてくれるとは思えないが)、この極薄透明ポリマーはかなりの強度を持っている。それでいて、全く違和感がない。ついでに付け加えておくと、彼女たちは宇宙空間で活動することも可能だ。それも全て、万能のセーラースーツの賜物だと言っても過言ではない。動きやすく、尚かつ強度な戦闘スーツ。それがセーラースーツの基本コンセプトであるらしかった。
「ゾイサイトが見えないな………」
身を隠す物など一切ない広大な砂地にあって、ゾイサイトの姿を発見することはできなかった。もちろん、敵らしい姿も確認できない。暗黒空間に飛び込んだのは、自分たちとゾイサイトでは、僅かに数分の差しかないはずだった。その間にゾイサイトが移動したとしても、姿が見えなくなるほどの距離を移動してしまったとは考えられない。
「大丈夫なの?」
セーラームーンも不安になる。自分たちが転移してきた暗黒の空間は、既に閉じてしまっている。後戻りすることもできない。ここが地球上のどこなのか分からない以上、帰ることもままならないと感じた。通信機も役に立たないはずだった。彼女たちの使用している専用の腕時計型通信機は、障害物のないところでの運用で、百キロが限界だった。それ以上の距離での通信を行う場合には、中継ポイントを設けなければならないのだ。先のブラッディ・クルセイダースのアジトでの戦闘の場合は、救出に向かった部隊が島に向かう際、各ポイントに中継器を設置していたので、司令室にいるルナとの長距離の通信が可能だったのである。ただし、月のシルバー・ミレニアムとの通信は、専用の別の回線を使用するため、このことは当てはまらない。
(ネフライト!)
ゾイサイトのテレパシーだった。声ではなく、テレパシーで呼びかけたと言うことは、ゾイサイトもこちらを発見していないということである。一足先にこの地へ来ているはずなのだが、彼の姿はどこにも見えなかった。
「ゾイサイト! どこへ行った!? ポイントがズレたのか?」
ネフライトはすぐに答える。ゾイサイトのテレパシーは、セーラームーンには聞こえないため、ネフライトは敢えて声に出した。これで、セーラームーンにもゾイサイトと連絡が取れたことが分かるはずだ。
(どうやらそうらしい。………でも、砂漠には来ているのだろう?)
「ああ………。しかし、何故だ?」
(転移のポイントがズレたことか?)
「ああ」
(転移空間のシステムはよく知らないよ。とにかく、僕のテレパシーを辿って、こっちへ来てくれ。敵さんは、どうやら基地へ逃げ帰るようだ)
「分かった」
ネフライトは、ゾイサイトとのテレパシー交信を終えると、セーラームーンに視線を向けた。
「行こう! 転移ポイントがズレたと言っても、それ程離れていないはずだ。すぐに合流できるだろう」
ネフライトは言うと、先に立って広大な砂漠を歩き出した。
目印らしき物は、一切見当たらなかった。
見渡す限りの砂地である。じりじりと照り付ける強烈な陽射しは、まともに見ようものなら目をやられてしまいそうでもあった。サングラスでも掛けたい心境だったが、生憎とそんなアイテムを持ち歩いているわけもなく、仕方なく目を細めて、入ってくる光を多少なりとも減少させてやることぐらいしかできなかった。
空気は当然のように乾燥しているので、日本独特のじめじめとした暑さではないものの、灼熱の太陽の陽射しを全く遮るもののない砂地の上では、射すような太陽光線は、それでいて凶器のようなものだった。
「ゾイサイト、見つからないね………」
右手を庇( 代わりにして顔を上げたセーラームーンが、うんざりしたような口調で呟いた。歩き疲れてしまったのである。この暑さも手伝ってか、体力の消耗が著しい。足下が歩きにくい砂地であることも災いした。少しでも気を抜くと、砂地に足を取られてしまうのである。かなり足に力を入れて歩いていたために、脹ら脛はパンパンに張ってしまっている。足は既に、鉛のように重くなっていた。絶対、明日は筋肉痛になると、セーラームーンは心の中でぼやいていた。)
ネフライトは無言だった。時折発せられるゾイサイトからテレパシーを頼りに、時々方向修正を行いながら、目印もない砂漠を合流地点目指して歩いていた。
相手がネフライトでなかったなら、セーラームーンはお得意の弱音のひとつも吐くのだが、言ってみたところで無視されてしまうのが落ちである。一緒にいる相手が衛ならば、猫撫で声で甘えて見せるし、レイやまことたちなら、多少のわがままは聞いてくれるが、まじめを絵に描いたようなネフライトには、弱音を吐くだけ無駄な行為だと言うことも、セーラームーンは分かってはいた。しかし、実際頭では分かってはいるが、目眩がするような陽射しと疲労には、お年頃のお嬢様であるセーラームーンは打ち勝つことができなかった。
「はぁ………」
海よりも深い溜息を、ネフライトの広い背中に向かって吐いてしまった。
先を歩くネフライトの足が、ぴたりと止まった。セーラームーンは溜息を慌てて飲み込まなくてはならなかった。
「少し、休むか?」
ネフライトは上半身を捻って、背後のセーラームーンに声を掛ける。世話の焼ける妹を持った、兄のような笑みを浮かべていた。
疲労困憊のセーラームーン目から見れば、それはまるで天使の微笑みのようであった。
ゾイサイトに休憩する旨をテレパシーで伝えたネフライトは、砂地の上に腰を下ろした。セーラームーンもそれにならって、彼の隣の砂地にペタリとお尻を付ける。
まるで温度を最大限に上げた電気カーペットの上に、座っているような感じだった。お尻がじりじりと熱い。だが、贅沢は言ってられなかった。早くゾイサイトに合流しなければならないのだが、セーラームーンを気遣って、ネフライトが作ってくれた貴重な時間である。腰を下ろし、少しでも足を休めたい。
「………でも、なんか不思議な気分」
セーラームーンが口を開いた。疲労のために口数が少なくなっていた彼女だったが、腰を下ろした僅かの時間の間に、おしゃべりをするだけの余裕が戻ってきた。
「転生する前はまもちゃんの親衛隊だったネフライトやゾイサイトだけど、実際のあたしたちは、ダークキングダムの四天王としてのふたりしか知らない。敵として戦って、しかも倒した相手と、今はこんな砂漠の上でふたりきりで腰を下ろして、何もない地平線を眺めてる。何か、信じられないよね」
セーラームーンは膝を抱えた。その視線の先は、砂の地平線である。
「………キミたちに倒された俺たちは、本来ならこの時代に再び甦ることはないはずだった。だが、マスターが我々の心臓部であるスター・シードを大切に保管してくださっていたお陰と、そしてプリンセス、キミの力によって我々は復活することができた」
「実は今でも信じられないの。あれが本当にあたしの力だったのかは………」
セーラームーンは曖昧な微笑浮かべ、ネフライトの瞳を見つめた。思い出したくもない壮絶なセーラーギャラクシアとの戦い。その中で、セーラームーンは究極の力を得、死んでしまった仲間たちを復活させたのだ。
「あの時のあたしは無我夢中だった。みんなを助けたい。その為にはあたしの命なんていらないとも思った………。でもね。そう思った次の瞬間、ふと頭を過ぎったことがあるの。まもちゃんや、みんなが生き返っても、あたしが死んじゃったら、結局は誰にも会えないんだなって。そしたら、急に死にたくなくなっちゃったの。そしたらね、何でだか分からないんだけど、急に力が湧いてきたの」
「それがきっと、キミの力なんだよ」
ネフライトの答えは、漠然としていた。答えになってはいない言葉だった。しかし、セーラームーンは納得した。自分の力を信じることこそが、セーラームーンの真の力なのである。
「いつか来る、セーラーカオスとの戦いに備え、あたしはもっと力を付けなくちゃいけない。みんなを守る力を………」
「いや、違う。プリンセス」
ネフライトは首を横に振った。
「キミが先頭に立って戦う必要はないんだ。キミは、マスターを始め、我々親衛隊の面々や、四守護神の戦士、そしてその他の全てのセーラー戦士たちの心の支えなんだ。キミはキミを慕う全ての者たちに、進むべき道を示してやればいいんだ。それが結果的に、この世界を平和に導くことになるはずだ」
「うん」
小さく肯いて、セーラームーンは立ち上がった。しなやかな手を、ネフライトに差し伸べる。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。ゾイサイトが待ってるわ」
セーラームーンは照れたような笑みを浮かべた。
「お姫様が道を示せば、従うのが騎士の使命。お供いたしましょう」
「よろしい」
ネフライトは伸ばされたセーラームーンの手を軽く握り、ふわりと立ち上がると、彼にしては珍しく、芝居がかった言い回しをした。
セーラームーンは腰に手を当てると、大袈裟に肯いて見せた。