砂漠の女王イシス
ゾイサイトと合流できたのは、それから三十分後のことであった。
半ば砂に埋もれるように残っている廃墟と化した町で、三人は合流することができた。風化した家屋、枯れてしまった井戸、人がここで生活している様子は、微塵も感じられなかった。餌を求めて彷徨う小動物さえも見掛けることはなかった。
「近くにオアシスらしきものもない。廃墟になってから、かなり立っていると思うよ」
強烈な陽射しを避けるため、半壊した建物の陰で一息付きながら、ゾイサイトは言った。彼らと合流するまで、日陰で休んでいたらしいゾイサイトは、ひとり涼しげな顔をしていた。
「敵は?」
ネフライトは素っ気なく訊く。彼には、ここが廃墟であろうとなかろうと、あまり関係ないようだった。それと少なからず、彼も疲労しているのだろう。
「悪の組織が廃墟を隠れ蓑( にしているのは、よくある話だよ。どうやら、この辺一帯の地下に基地があるらしいね。その先の崩れた家の中に、出入り口があるようだよ」)
ゾイサイトは形のいい顎で、風化して崩れている家を指し示した。
「ねぇ、ゾイサイト」
セーラームーンが唐突に声を掛けてきた。
「どうでもいいことかもしれないけど、ゾイサイトって、何で変身しているときとしていないときで、そんなに差があるの? 全く、別人みたいなんだけど………」
どうやら本当に素朴な疑問だったようだ。他愛のないことかもしれないが、気にならないと言えば嘘になる。確かにゾイサイトは、美園でいる時と言葉遣いも全く違うし、受ける印象も違う。
「美園のアレ( は、一種の趣味みたいなモンだよ。だけど、ゾイサイトのときは、そうはいかないだろ? だいいち、王国の第一王子の親衛隊の中にあんなのがいたら、国民が心配するしね」)
「分かりやすく言ってしまえば、二重人格者なんだよ」
答えるゾイサイトに続いて、ネフライトが補足するような口調で言った。
「ふ〜ん。そうなんだ………」
素直なセーラームーンは、ネフライトの言葉を真に受けて納得した。
「やめてくれ! お前が言うと、冗談に聞こえない!」
「冗談で言ったつもりはないんだが………」
ネフライトが真顔で言えば、相手はほぼ間違いなく納得する。慌てて否定し、ネフライトに文句を言うゾイサイトだったが、軽くあしらわれてしまった。
蝋燭の火が無数に瞬く幻想的な部屋に誂( えられた豪華な玉座に、イシスは優雅に座していた。色とりどりの宝石が散りばめられたその玉座は、蝋燭の僅かな明かりを受けて、幻想的な輝きを放っていた。蝋燭の数が少ないため、部屋の隅々まで照らすことはできなかったが、それでも三メートルくらい先の人物の表情を、読み取ることのできる明るさではあった。)
「どうやら、ネフティスが尾行( られたようね」)
イシスは深々と玉座に腰を下ろしたまま、ひどく冷淡な口調で言った。黄金の瞳は鈍い光を放ち、前方に控えている小柄な女性を捉えていた。
「も、申し訳ありません、姉上。やつらの力を見くびっておりました」
片膝を付いて畏( まっているネフティスと呼ばれた小柄な女性は、石の床を見つめたまま項垂) ( れるしかなかった。)
「言い訳は聞きたくない」
ぴしゃりと言い放つイシスの言葉を受け、ネフティスは面を上げることはできなかったが、逆に怯えた様子もなかった。
「だけど、逆にチャンスだと思うけどな。俺は………」
闇の中で男の声がした。蝋燭の明かりが届かない、部屋の隅にでもいるようだった。
「セト………。いたのか………」
イシスは男の名を口にした。気配に今まで気が付かなかったようだ。いや、気付かない振りをしているのだ。わざとそうすることで、他人の反応を楽しんでいるのだ。彼女のその性格を知っているから、セトとて別に驚いたりはしない。
「あの者たちのひとりは、噂のセーラー戦士のようだ。無傷で捉えれば、大司教様より褒美が出るのだろう? 向こうから来てくれるなんて、願ったりじゃないか」
「それもそうね………」
イシスは頷いた。他人の意見に耳を貸すなど、実は非常に珍しいことなのだ。どうやら、今日は機嫌がいいと見える。尾行されてしまったことは快く思っていないようだが、ネフティスのした「仕事」に対しては、満足をしているのだろう。
「機嫌がいいようだね、姉上」
セトは思わず口に出していた。ネフティスの犯した失敗を手酷く咎( めなかったことも、不思議だったのだ。「狙い」のものが手に入ったと思えた。)
「ネフティスが素晴らしい『仕事』をしてくれたわ………」
イシスは笑みさえ浮かべていた。セトの思った通りだった。これで、アイテムが全て揃ったことにことになる。
「各地に散っている者たちを呼び戻しなさい。全軍をもって、セーラー戦士に挑むのよ。やつらを侮っていては、レプラカーンや、タラントたちの二の舞になってしまう」
セーラー戦士の強さは、報告を受けて知っている。人数が少ないからといって侮っていると、足下をすくわれる結果になりかねない。事実、ザンギーとタラントのふたりは、相手の力を侮りすぎて敗北したのだ。レプラカーンの末路は知らなかったが、イシスにとっては、あのスケベ爺がいなくなったことは、非常に喜ばしいことではあった。
「あたしはお兄さまの復活の儀式を始めるわ。あとのことは、お前たちに任せる」
「お任せください、姉上」
セトとネフティスは、揃って答えた。
「敵が余程の間抜けでないかぎり、そろそろ俺たちのことを発見してもいい頃だな」
ネフライトは辺りを探りながら、ゾイサイトに目線を向けた。日陰でかなりの時間休むことができたお陰で、体力は大分回復していた。
「そうだね。もう出てきても言い頃だね」
ゾイサイトは肯いた。彼らがこの廃墟に到着してから、既に三十分は経過している。崩れた家の陰で強い陽射しを避けてはいたが、特に身を隠しているわけではなかった。強い陽射しによって、体力が失われるのを防いでいたにすぎない。それでも空気が乾燥しているので、日陰にいれば充分涼むことができる。だから、ネフライトの体力も回復していたのである。
「敵に見つからないように隠れていたんじゃないの?」
ふたりの計画など全く予想できなかったセーラームーンは、少しばかり驚いていた。体力は幾分回復はしているものの、ネフライトほどの回復は望めなかった。基礎体力が違うのだから、当然のことだった。自らの手で脹ら脛をマッサージしていたものの、足の怠さは回復しきれていなかった。重度の傷や体力までも回復させてくれるヒーリング・エスカレーションも、自分自身にはあまり効果がない。自らのパワーを消費して放つ回復技のため、体力回復といった面では、自分自身に対しては全く効果がなかった。
「隠れていたわけじゃないよ。休んでいたんだ」
ゾイサイトは言った。セーラームーンの素朴な質問に答えるのは、ゾイサイトの役目となっていた。どうやらネフライトは、細かい説明は苦手らしい。
「! 出てきたな………」
ネフライトは口元に僅かに笑みを浮かべた。敵が動き出してくれたことを、喜んでいるのだ。
「取り敢えずは出てきたザコたちを相手にするとして、そのあとはどうする? 恐らくこのアジトに、行方不明になった乗客や報道関係者たちがいると思うけど………」
「もちろん、助けるさ。だが、マスターの“気”を感じないのが気になる」
「気を失っている可能性もあるさ」
言いながら、ゾイサイトは素早く身構えた。
ネフライトの瞳が、鈍い輝きを放った。
セーラームーンもティアルを構えた。
「!? 下か!? プリンセス、失礼する」
ネフライトの声が鋭く耳を打った直後、セーラームーンの体はふわりと宙に舞い上がっていた。ネフライトが彼女を抱えて飛び上がったのだ。
つい今し方まで三人がいた場所に、砂煙が上がっている。
「来るよ!」
ゾイサイトの声がした。ネフライトの後ろにいるのだろう。彼に抱えられているセーラームーンからは、ゾイサイトの姿は見えない。
衝撃波を放ったらしい轟音が、セーラームーンの耳を打った。
「ネフライト、もういいわ。放して」
自分をいつまでも抱えていては、ネフライトがまともに戦えない。自分の身は自分で守らなければならない。
「急なことで失礼した」
「いいわ、気にしてない」
ネフライトは断りもなくセーラームーンの体を抱き上げたことを詫びたが、そんなことを咎める気はセーラームーンにはない。少しばかり恥ずかしいが、ネフライトは自分を守るためにしてくれたことなのだ。以前の自分なら、勝手に体に触られたことに対して目くじらを立てて大騒ぎしたかもしれないが、大人になったものだと人知れず苦笑した。
「敵の数は以外と多い。俺たちから離れるな」
ネフライトの指示に、セーラームーンは大人しく従った。この場は彼らの指示に従うのが、ベストだと判断したからだ。
半壊した建物の陰に着地した。
その三人目掛けて、人型の何かが飛び掛かってくる。
「砂人形か!?」
それは砂を人型に固めて、生命を吹き込んだゴーレムの一種だと思えた。動きが鈍重で、衝撃に脆( い。手刀の一撃で、容易) ( く葬り去ることができる。セーラームーンもエターナル・ティアルを振り回す。サンド・ゴーレムたちは、その闇雲に振り回されるティアルの一撃でさえも耐えることはできなかった。)
「あたしたちのこと、馬鹿にしてるんじゃないの!?」
セーラームーンがそう思うのも無理はなかった。
サンド・ゴーレムに混じって、一筋のレーザー光線が突き進んできた。咄嗟のことではあったが、ゾイサイトがシールドを張ってそれを弾いた。予想されたことだったが、やはりサンド・ゴーレムは囮だった。ネフライトとゾイサイトのふたりには、不可解なサンド・ゴーレムの動きに不審を抱き、戦いながらも周囲を警戒していたのだ。
「そこか!」
レーザー光線が放たれた場所を見逃さなかったネフライトが、この時とばかりに反撃に転じた。
風のような動きで、一瞬のうちに間合いを詰める。
凄まじい衝撃の肘打ちが、相手の喉元を捉えた。相手は短く呻いただけで絶命した。一撃必殺の技だった。手加減などは微塵も感じられない。
「セトぉ!」
倒されたのはセトだった。仲間のあまりにも呆気ない死に、身を潜ませていたネフティスが思わず声を上げてしまった。それが彼女の命取りとなった。
ゾイサイトの放った衝撃波の一撃は、彼女を瞬時に塵へと変えていた。
主人を失ったサンド・ゴーレムたちは、その機能を停止させた。人型のものは形を崩し、もとの砂へと還っていった。
「確かに、馬鹿にしているかもしれんな。弱すぎる」
仏頂面で、ネフライトは呟いた。
地上の暑さとは打って変わって、アジトの中はひんやりとした冷たい空気が漂っていた。
石を組み合わせて作られた通路は、等間隔に配置された蝋燭の明かりのお陰で、明かり取りがないにも関わらず、視界を確保するには充分な光量だった。足下はしっかりと確認できるし、数メートル先まで見通すことができる。
不気味なくらいに静まり返っているアジトの中は、まるで人の気配がなかった。自分たちの足音だけが(足音を立てているのはセーラームーンだけだが)、不気味なくらいに耳に響いてくる。
「もう逃げちゃったんじゃない?」
セーラームーンがそう考えるのも無理はなかったが、その考えをネフライトはあっさりと否定した。
「さっき戦ったやつらとは、比べものにならないほどの妖気を持ったやつがいる。恐らく、このアジトのボスだろう」
ネフライトは、既にその妖気を感じ取っていた。警戒をしながら、通路を先導しているのだ。
そのネフライトにセーラームーンが続き、ゾイサイトはしんがりを勤めていた。
「ネフライト」
そのゾイサイトが、小声でネフライトを呼んだ。ネフライトは立ち止まり、後方を振り向いた。表情が険しい。ある一点を見つめていた。
「………気配を消していたのに、さすがだな………」
声だけが不気味に響いた。姿は見えない。
「緊急で呼び戻されたから、何があったのかと思っていたが、噂のセーラー戦士が来ているとは知らなかった………」
「隠れてないで、姿を見せなさい!」
セーラームーンが凄んで見せた。既にエターナル・ティアルを手にし、臨戦態勢だ。セーラームーンははっきり言って疲れていた。だから、早めにケリを付けてゆっくり休みたかった。
「威勢がいいお嬢さんだ。が、姉上の邪魔をする者は、排除するのが我々の役目………」
(!? 複数の敵が潜んでいるのか?)
姿亡き者の声を聞いていたネフライトは、周囲に鋭い視線を流していた。「我々」と言う言葉が気に掛かったのだ。声を発しているのはひとりだと思えた。複数の敵が潜んでいると思わせる作戦なのか、それとも本当に複数の敵がいるのか、今のままでは判断ができなかった。
ゾイサイトも同じ考えだったらしく、同じように周囲に視線を走らせていた。ネフライトと視線が交わったとき、ゾイサイトは小さく首を横に振った。
「出てこないなら、こっちから行くわよ!」
一向に姿を見せない相手に、遂にセーラームーンが業を煮やした。声の聞こえてきた相手だけを意識しているセーラームーンは、周囲に対して充分に警戒しているとは思えなかった。そのセーラームーンを密かに警護するのはゾイサイトの役目だった。
(四守護神の女の子たちも、同じ苦労をしているんだろうな………)
戦術的には素人と同じようなセーラームーンを見やり、ゾイサイトは心の中で呟いていた。
セーラームーンはフルパワーでトワイライト・フラッシュを放った。トワイライト・フラッシュは目眩ましのための技である。破壊能力は全くない。フルパワーで放ったとしても同じである。閃光のみ強化される。しかし、充分に威嚇になるはずである。セーラームーンは彼女なりに考えた上で、トワイライト・フラッシュを放ったのだ。
案の定、敵が動いた。閃光に驚き、僅かに物音を立ててしまった。セーラームーンの作戦に、敵はまんまと引っかかった。その物音を、ふたりの戦士が聞き逃すはずもなかった。
ふたりは一瞬のうちに、姿見せぬ敵に詰め寄った。
「くっ! 迂闊だった!!」
敵は手にしていた長槍を振り回し威嚇すると、後方に飛び退いてふたりとの間合いを取った。
長身の男だった。咆哮を上げているジャッカルを思わせる兜を被り、頑丈そうな胸当てを装着していた。肩当ての部分が異常に大きく、それがシールドの役目を果たしているようだった。咆哮を上げるために大きく開いた口の奥に、狡猾そうな男の顔があった。
「三体一。分が悪いぞ」
寸分の隙のない構えのまま、ネフライトは低い声で言った。
それを受けて、兜の中の狡猾そうな顔が、僅かに口元に笑いを浮かべた。余裕のある笑みだった。絶対的に不利な状況下でありながら、少しも臆するところがない。
「残念だが、こんな狭い通路で貴様たちと戦うつもりはない。ここは退かせてもらう」
長槍を風車のように回して突風を起こすと、ジャッカルの兜を被った男は、素早くその場から立ち去った。
「何とも実力の読めない相手だね」
ゾイサイトが防御のためのシールドを解いたとき、その空間に殺気が漲った。
壁から突き出た剣が、ゾイサイトの左腕を掠( める。)
「くっ!」
殺気を感じて身を退いたため、左腕を掠( めるに留まったが、少しでも反応が遅れれば、致命傷にもなりかねないところだった。)
「ちっ! このゲブの剣を躱( すとは………!」)
壁の中から体格のいい剣士が姿を現した。動き安さを重視してか、それともその必要がないためなのか、上半身は何も身に着けていなかった。筋肉で盛り上がった分厚い胸板は、浅黒く輝いていた。
「きゃあ!」
悲鳴が耳を劈( いた。セーラームーンのものだ。)
「ちっ!」
ネフライトは舌打ちする。迂闊だったのは、先に逃亡をしたジャッカルの兜の男ではなく、自分たちの方だったということに、今更ながら気付いた。あの男の余裕の意味が、ようやく分かった。
セーラームーンは先に逃亡したはずの兜の男に、羽交い締めにされていた。
「上手くいったな、アヌビス」
ゲブと名乗った剣士が、兜の男に向かって笑みを浮かべて見せた。正に作戦通りといった風である。兜の男は逃亡したのではなく、逃亡して見せただけなのだ。
ネフライトたちは、まんまとその作戦に乗せられてしまったことになる。
「セーラー戦士が手に入れば、他のやつには用はない。ここで死んでもらうぞ」
ゲブは体格のいい体を誇示するかのように、どっしりと身構えた。素人目には隙だらけのように見えるが、自然体のその構えは、どこから来る攻撃にも対処できるようになっている。並の剣士でないことは、一目瞭然だった。
(どうする?)
ネフライトは自問した。守らねばならなかったセーラームーンは、既に敵の手の内にある。ゾイサイトも左腕を負傷し、片膝を付いたまま動かない。
(!? ゾイサイトが腕を負傷したぐらいで、膝を付いているだと?)
プリンス・エンディミオンの親衛隊のひとりともあろう戦士が、腕に負傷を負ったくらいで戦闘不能になるわけがなかった。確かに出血はしているようだが、深手を負わされたわけではない。ネフライトは心の中で、にやりと笑った。
視線はゾイサイトには落とさない。ネフライトは瞬時に考えた。やつには、何か作戦がある。
「俺たちをどう始末する? もとより、ただで殺されるわけにはいかないが………」
ゾイサイトが動くまで、ネフライトは時間を稼ぐことにした。
「こちらが人質を取っていることを、忘れてもらっては困るな」
セーラームーンを羽交い締めにしている、ジャッカルの頭を象った兜を被っている男が言った。名を確か、アヌビスと言ったはずだ。
「貴様、彼女がその程度で大人しくしているとでも思っているのか?」
「なに!?」
意外なネフライトの言葉に、アヌビスは一瞬驚いたような声を上げた。それは放送禁止用語を並べ立てて藻掻( いているセーラームーンとて同じだった。しかし、彼女はすぐにネフライトの真意を悟った。)
「あなた、これであたしを押さえているつもりなの?」
もちろん、はったり( である。元来ノリやすい性格のセーラームーンは、ネフライトの作戦に乗ったのである。実際はアヌビスの腕が喉元に食い込んでいるため、かなり苦しいのだが、ここ一番のセーラームーンは、アカデミー助演女優賞ものの演技力があった。)
「そろそろ本気を出すわよ」
わざと落ち着いた声で、セーラームーンは言ってやった。これにはアヌビスが引っかかった。セーラームーンを戒( めるため、腕に更なる力を加えようと体勢を整えようとしたとき、僅かに隙が生じた。)
背中を向け膝を付いたままのゾイサイトではあったが、その僅かな気配を逃さなかった。
目にも留まらぬ早さで身を翻( すと、セーラームーンの喉元を締め付けているアヌビスの腕に手刀を叩き込んだ。激痛で緩んだところを、今度はセーラームーンが脱出のために行動に出た。渾身の肘打ちを、アヌビスの脇腹に叩き込んだのである。アヌビスは胸当てしか装着していないため、腹部はがら空きだった。短く呻いて、セーラームーンを羽交い締めにしている腕を解いた。床を転がって、セーラームーンはその場から離れる。)
次に動いたのはネフライトだった。
何が起こったのか理解できず、その場に棒立ちになっていたゲブの頭部に、飛び膝蹴りを叩き込んだ。全身分厚い筋肉で覆われてはいるが、唯一筋肉の鎧を纏( えないところが頭部である。それも眉間を狙って膝蹴りを繰り出したのである。)
体勢を崩したゲブの顎を目掛けて、ネフライトは華麗なサマーソルトキックをお見舞いした。
「スターライト・ハネムーン・セラピー・キッース!」
アヌビスの呪縛を逃れたセーラームーンが、床を転がりながら技を放った。浄化作用を伴った凄まじい衝撃波が、周囲の壁を蹴散らしながら突き進みゲブに直撃すると、一瞬のうちに消滅させた。
「ゲブ!? おのれぇ!」
叫びながらアヌビスは、通路の闇の中に姿を眩ました。今度は本当に退散したようだ。
「意外と根性無いわね………」
仲間の仇を打つために反撃してくるかと思えたアヌビスが、あっさりと退散してしまったことで、セーラームーンはいささか拍子抜けしたように言った。
「少しは考えて技を放ってくれよ………」
ゾイサイトの声が暗闇の中で響いた。強烈な衝撃波は、彼らのいる周囲に通路に配置されていた蝋燭を吹き飛ばしてしまったのである。
「へ、変なトコ触ったら、銀水晶で吹き飛ばすわよ!」
「そんなことしませんて!」
とは言え、明かりのある通路までセーラームーンの手を引く役目を担ったのは、ゾイサイトだった。
「姉上、時間がありません」
男性とも女性とも判別できないような声が、暗い室内に響いた。
明かりは全くなかった。部屋の広さも知ることができない。この部屋がどういった類( の部屋なのかもわからなかった。玉座がないことから、先刻ネフティスたちを咎) ( めていた部屋とは別の部屋であるらしいということだけは分かる。)
「姉上」
先程と同じ声が、もう一度イシスに問い掛けるように響いた。ひどく落ち着いた口調ではあったが、返事を急かしている様子は感じ取れた。
「うるさいぞ、トト」
闇の中から、苛立たしげなイシスの声が返ってくる。
「侵入者の始末なぞ、セトやネフティスたちに任せておけばよい。アヌビスたちも呼び戻したのであろう? わらわが出ることではない。もうじき、兄上が甦るのじゃ。その『儀式』を今から始めようかと言う時に、お前は何故わらわの邪魔をするか? わらわがこの時をどれ程待ち望んでいたのか、知っておるはずじゃろう?」
「お言葉ですが、姉上。セト殿もネフティス殿も既に敗れ去っております。侵入者は三人と言えど、かなりの手練( れの様子………」)
「申し上げます!」
トトの言葉に被さるように、別の声が室内に響いてきた。
「アヌビスか?」
イシスが声の主を確かめるように問い掛けた。
「はっ!」
アヌビスは答える。
「ゲブが倒されました。侵入者は、間もなくこの『復活の間』にやってくることでしょう」
早口で説明した。
「お前は何故ここにいる?」
アヌビスの口調とは対照的に、イシスの声はひどく落ち着いたものだった。棺に視線を落としたまま、自分の背中に向かって報告をしたアヌビスを、その“気”の波動だけで咎めた。
「はっ!?」
イシスの言葉を一瞬理解しかねたアヌビスは、頓狂( な声を上げていた。)
「侵入者を排除すべきお前が、何故ここにいるかと問うておる」
「そ、それはご報告に………」
「侵入者を排除したという報告以外、わらわは聞く耳もたん」
「う………」
鋭く咎( めるイシスの声に、アヌビスは返す言葉がなかった。華奢なイシスの背中を見つめたまま、アヌビスは呆然とその場に立ち尽くす。)
「『儀式』の邪魔じゃ、失せろ!」
イシスの叱責が飛んだとき、慌ただしい足音が室内に飛び込んできた。
「な、何よ!? 真っ暗で何も見えないわよ!?」
セーラームーンの声だった。彼女以外の気配を感じないが、ネフライトとゾイサイトのふたりがこの場にいることは間違いないだろう。闇が邪魔をして、姿が見えないだけなのだ。
「火を灯します」
このままでは不都合を感じたのだろう。トトの抑揚のない声がした。イシスの返事を待たずに、室内に明かりが灯った。
「!?」
慌てて身構えるセーラームーンの姿が、ぼんやりと見えた。
通路などと同じく、室内の明かりは蝋燭の火だった。壁沿いに見事なほど均等に並べられた蝋燭が、弱いながらも室内を見渡せるほどの明かりとなっていた。通路と同じく、隅々まで見ることはできないが、移動するには不都合を感じさせない程度の明かりではあった。
「ふん。お主らが侵入者か………」
部屋の最深部に輝かしいばかりの宝石を散りばめられた棺が、ふたつ並んでいた。その手前の棺の前から、絶世の美女が佇むようにしてこちらを見ていた。イシスだった。
「ここのボスは、あいつのようだね」
ネフライトに耳打ちするように、ゾイサイトは言った。姿を見られてしまった以上、気配を殺している必要はなくなった。
部屋の中には絶世の美女を含め、三人の姿があった。残りのふたりのうち、ひとりは先程通路で交戦したアヌビスだった。最後のひとりは、嘴の長い鳥の兜を被っていた。アヌビスとは違い、顔全体を覆うような兜であるため、男なのか女なのか判別はできなかった。ほっそりとした体型、物腰の優雅さから推測すると女性のようでもあったが、断定できない不可解な部分もあった。
「わらわの『儀式』を邪魔だてする者は、何人たりとも容赦はせぬ」
イシスは言った。激しい怒りを込めた瞳で、三人の侵入者を睨み付けた。
「! 棺に人が入っている」
ゾイサイトが気付いた。僅かな“気”の波動をキャッチしたのだろう。
「さらってきた人たちはどこにいるの!?」
セーラームーンは、エターナル・ティアルをイシスに向けて突き出した。そのセーラームーンの動きに合わせるように、アヌビスとトトが動いた。イシスを守るべく、その左右を固めた。
「わらわに必要のない者たちなぞ、もはやこの地にはおらぬ。わらわが真に必要としているのはこの者だけ………。我が兄上と瓜二つの顔を持つこの者以外は、“ラピュタ”へ送ってやったわ………」
「“ラピュタ”!? それは………」
初めて耳にする単語だった。セーラームーンたちには、その“ラピュタ”に関する情報が何もない。
「お望みとあらば、お前たちもそこへ送り届けてやってもよいのだぞ………。ただし、そこのふたりの男だけじゃ。そなたは大司教にくれてやらねばならん」
冷ややかな目で、イシスはセーラームーンを見た。口元には卑猥な笑みを浮かべている。瞳を動かし、セーラームーンの体を頭の先から爪先に至るまで、舐めるような視線を走らせた。あからさまに品定めをしているような視線だった。
「確かに、そなたは大司教が好みそうな生きのいい娘だ。『種』を植えるには、願ってもないよい『畑』のようだ」
「何を言っているの!?」
イシスの言葉の意味がよく分からなかったセーラームーンは、鋭い口調で問い質した。
イシスは嘲笑とも取れる甲高い笑いを発した。
「ひとつ、よいことを教えてやろう………」
ひとしきり嘲笑したのち、口元に妖艶な笑みを残したまま、イシスは射るような視線をセーラームーンに向けた。