血のコロシアム
陽は西の空に沈みかけていた。
涼しげな風が、汗ばんだ肌に心地よかった。
「準備は万全だ」
左側でイズラエルの声がした。
セレスは顔を正面に向けたまま、瞳だけ左側に動かす。イズラエルが一歩前に歩み出たのが確認できた。
十万人収容のマンモスコロシアムのスタンドには、今は三人の観客しかいなかった。イズラエル、セレス、そしてスプリガンの三人である。
イズラエルはコロシアム中央で、十字架に張り付けにされているセーラー戦士を見て、目を細めた。そのセーラー戦士の張り付けにされている台の周囲に、三人の女子高生の姿が見える。彼女たちは手足を拘束されているわけではないが、セーラー戦士の側を離れようとはしない。
脅えのために、足が竦んでしまっているのかもしれなかった。それもそのはずではある。彼女たちから十メートルほど離れた位置に、目を血走らせた野獣が、今にも飛び掛かりそうな勢いで構えていたのである。
野獣は一頭の虎であった。
虎と向かい合った形の女子高生たちは、自分たちが自由に動ける状態にも関わらず、その場から動けずにいる。
捕らえたセーラー戦士を処刑すると通告してから、既に三十分が経過していた。そろそろ、姿を隠しているセーラー戦士たちが動き出してもいい時間だ。
「どうですかな? わたしのペットは………」
嗄れた声が近づいてきた。
「悪趣味だ」
セレスは一言で答えた。ジロリとその声を発した主に目を向けた。黄金の仮面が、西日を受けてキラリと光る。
セレスの視線の先には、小柄な男が佇んでいた。腰を四十五度に曲げ、金属製の杖を手にしている。皺だらけの顔は醜く、ところどころに染みが浮いていた。ろくに洗濯もしていないような薄汚い白衣を、だらしなく着込んでいる。
「セレス様には気に入っていただけなかったようですな」
そう言いながら、口臭のひどく臭い口をくわっと開けて、かっかっかっと乾いた笑いを発した。
「プロフェッサー・イワノフ。大丈夫なんだろうな、あのケモノは? 随分と腹を空かしているようだが………」
イズラエルは睨むように、その醜い老人の顔を見つめた。
「ご心配めさるな。あやつは姿形は野獣そのものだが、脳味噌だけは人間のものじゃ。もっとも、脱獄した凶悪犯の脳味噌じゃが………」
プロフェッサー・イワノフと呼ばれた醜い老人は、くくくと喉の奥で笑いを発した。
「貴様は超人類の研究をせずに、こんな悪趣味な研究ばかりしているのか?」
ぶっきらぼうに言ったのはスプリガンだった。セレスのやや左後方から、腕組みしたまま闘技場の野獣を見下すようにしていた。
「何をおっしゃいます。これも超人類の研究の一環ですぞ! 人間と野獣の融合です」
「何が融合か。ただ野獣の脳と人間の脳を入れ替えただけではないか」
「あやつはまだ実験段階です。今、人間の遺伝子に動植物の遺伝子を加えた第二段階の超人類を研究しております」
にやにやと笑いを浮かべながら、プロフェッサー・イワノフは答える。相変わらず口臭が臭い。風に乗ってきた口臭を嗅いでしまったセレスは、思わず顔を顰めた。
「人間の遺伝子に動植物の遺伝子を加えたやつってのは、いつぞや失敗したやつじゃなかったのか? 確か、そん時はイソギンチャクとの融合だったように思ったがな」
半ば皮肉ったように、スプリガンは言った。
「脱走したやつなど、知りませんな」
プロフェッサー・イワノフは惚けてみせた。
プロフェッサー・イワノフ。国籍はロシア。生きた人間を使用して、遺伝子の実験を行っていたマッド・サイエンティストである。狂気の実験ばかり行っていたがために学会を追放され、その後ドイツへと渡り、地下組織と結託してクーデターを計画していたが、そのクーデターは何者かによって未然に防がれている。その際、地下アジトとともに爆死したと伝えられていたが、どうやらまんまと脱出し、ブラッディ・クルセイダースに参加していたようである。
「わしのペットたちは待機しております。いつでも出撃のご命令を………」
プロフェッサー・イワノフは、喉の奥でクククと笑いを漏らす。どうやらその笑いは、この狂気の科学者の癖のようである。
「タイムリミットまで、あと二十分ほどある。それまで、あのケモノは我慢できるか?」
怯えている女子学生たちに、今にも飛び掛かりそうな野獣を顎で示して、イズラエルは訊いてきた。
「心配するな。いざとなったら、俺が始末してやるよ」
プロフェッサー・イワノフを鋭い視線で牽制しながら、スプリガンは答えた。セレスが鼻で笑う。
「何か可笑しいか、セレス?」
「いや、言葉だけ聞いていると、まるでお前が正義の味方のように思えるからな………」
実際のところはまるで違うとでも言うように、セレスは肩で笑って見せた。
「ふん!」
スプリガンは鼻を鳴らしただけだった。
十字架に張り付けにされているフォボスだったが、それでも気丈に三人の女子学生たちを勇気づけていた。
女子学生たちは、なるちゃん、くり、ひかるちゃんの三人だった。特に拘束具を付けられているわけではないが、獰猛な野獣の目がこちらを睨んでいては、そう簡単には動けなかった。
実際には、足が竦んでしまってどうにも動けないのだった。
「そう少しの辛抱です。もうじき、仲間が助けに来ます!」
自分にも言い聞かせるように、フォボスは言う。
「そうよね。セーラームーンがきっと助けに来てくれるわよね」
努めて笑顔を作ったなるちゃんも、自分に言い聞かせるようにフォボスの言葉に応えた。そう信じていなければ、気が狂ってしまいそうだったからだ。
彼女たち三人の人選は、セレスが行った。もちろん、彼女たちがセーラームーンたちと深い関わりを持つことを知っているからこそ選んだのだ。セーラームーンたちのアキレス腱とすべく彼女たちを選んだのか、それとも別の意図があるのか、それはセレスでなければ分からないことだった。
「あたしたち、どうなっちゃうの………!?」
くりちゃんは涙声で訊いた。だれに向けた問いでもない。もし、いるとすれば神にでも尋ねるような気持ちであった。
「大丈夫、大丈夫よ………」
口の中で何回も、ひかるちゃんは「大丈夫」という言葉を繰り返していた。
「!?」
獰猛な野獣の気配が一変した。イズラエルが危惧していた通り、激しい飢えのために歯止めがきかなくなったのだ。目の前で怯えている獲物に向かって、猛スピードで突っ込んでくる。
「きゃあぁぁぁ!!」
絶望的な悲鳴が響いた。戦う術を持たない彼女たちは、襲い掛かってきた野獣に対抗することはできない。逃げようにも、狼に睨まれた子羊のように、足が竦んでしまって動けない。
「ファ、ファイヤー・ソウル!!」
十字架に張り付けにされているフォボスだったが、体術系以外の技は使うことができる。間一髪、強烈な火の玉は、飛び掛かってきた野獣を灰に変えた。
「ほう、なかなかやるな………」
感心したようにスプリガンは言った。衝撃波を放つ体勢ではあったが、フォボスの“気”の動きを察知して止まったのだ。
「ぐぬぅ………。わしのペットを一撃で葬るとは………」
プロフェッサー・イワノフは歯ぎしりした。咎めるようなセレスの視線も全く気にしていなかった。
「次を出せ!」
薄汚い白衣から取り出した無線機に向かって怒鳴ると、メインゲートから新たに三頭の猛獣が出現した。いずれも先程と同じく、虎のタイプだった。
「所詮は犯罪者の脳よ。『我慢』なんて言葉は知らないんじゃないの? 今度も大丈夫なのかしら?」
セレスの言葉などは耳に入っていない様子だった。血走った目で、十字架に張り付けにされているフォボスを睨んでいる。
「案ずるな、セレス。ようやく招待客が来たようだ」
口元に薄笑いを浮かべ、イズラエルは言った。
通路をコロシアムに向かって移動する一団があった。
土萌教授とセーラー戦士たちであった。セーラー戦士たちは皆一様に、白い布を頭から被らされていた。もちろん、偽装のためである。かなり大きめの布であるため、膝ぐらいまで覆うことができた。
普通なら目立ってしまうこんな格好でも、ブラッディ・カテドラルならかえって目立たないようだ。白い布を被らされた彼女たちは、土萌教授の開発した、新しいタイプの超人類だと言うことになっているのである。それでも彼女たちだけなら不審に思う者もいるだろうが、土萌教授が同行しているということもあり、セーラー戦士たちを探索中のシスターも、彼女たちを特に気にする様子はなかった。
「対セーラー戦士用の新タイプだ。コロシアムに連れていこうと思う」
途中出くわした科学者にも、土萌教授はそう説明していた。
時間が迫っていた。彼女たちに与えられた時間は、一時間しかなかった。しかし、その一時間の間で、土萌教授から様々な情報を提供されていた。
十三人衆のあの異常なまでの戦闘能力である。彼らはもともと、普通の人間にはない特別な能力を持っていた。それを特別な訓練と薬物投与によって、能力を飛躍的に高めたのである。もちろん、十三人衆以外にもそういった能力を、強制的に高めている連中はいる。十三人衆直属の部下たちがそうである。そういった連中たちの中で、特別に突出した能力を有していた者が、十三人衆と呼ばれるようになったらしい。
残念ながら、“毛むくじゃら”に関する情報は、土萌教授は持ってはいなかった。女子学生たちを大量に捕らえてきているのは知っていたが、まさかその女学生たちがモンスターに変貌していたなどとは、考えもしなかったというのが、土萌教授の意見だった。
「我々科学者連中の中に、イワノフという人物がいる。人体実験を好んで行っていたために、学会を追放された科学者だ。死んだと言われていたが、まさかこんなところで会うとは思ってもいなかったよ」
土萌教授はそう言った。その“毛むくじゃら”に、イワノフが関与している可能性は充分考えられると言うのだ。
「香織さんの救出はもちろんだけど、学生たちも助け出さなければいけないわ」
コロシアムへと続く一本道の通路で、周囲に人の気配がないことを確かめると、セーラームーンは立ち止まった。
「学生たちの監禁されている場所なら分かる。実験材料に使っても良いと言われていたからね。まずは彼女たちを助け出すか」
「いえ、それはかえって危険だわ」
土萌教授の意見に、セーラームーンは反対の意志を示す。
「少なくとも、T・A女学院と十番高校から百人近い学生を捕らえているはずだわ。しかも、その二高だけとは限らない。それだけの学生を、パニックを起こさないで守るのは、今のあたしたちでは不可能よ」
セーラームーンの状況判断は見事だった。土萌教授も頷く。学生を救出することも重要だが、パニックを起こさずに彼女たちを救出することは難しい。恐らく数百人の学生たちが囚われているだろうから、その数をセーラームーンたちだけで守り通すのは困難だと判断したのだ。学生たちを救出するのには、仲間の手助けが必要だった。
「分かった。香織君をできるだけスムーズに救出して、ほたるをキミたちの方へ向かわせる」
土萌教授のその言葉に被さるように、天に轟くかというような悲鳴が響いた。
「!?」
セーラーサンが白い布のしたの頬を強張らせて、セーラームーンに視線を向けた。お互い白い布を被っているので、表情は分からないが、セーラームーンも頬を強張らせているだろうことは、目を見れば容易に推測できる。
「急ごう!」
土萌教授は短く言うと、サターンを連れて別の通路へと曲がっていった。
「セーラーサン( 、行くわよ!」)
セーラームーンは白い布を取り払いながら、既に駆け出していた。
祭壇に佇む大司教ホーゼンのもとに、ゆっくりとマザー・テレサが歩み寄る。
「いかがですか?」
マザーの背後に、常に控えているはずのファティマの姿は見えなかった。ホーゼンとふたりきりの話がしたいとき、当然だがマザーはファティマを連れていない。
「ポイントはほぼ確定した」
ホーゼンは気怠そうに振り返る。
「では、間もなく出立ですね」
「うむ」
頷くと、ホーゼンは深く息を吸い込んだ。
「顔色が冴えぬぞ」
上目遣いにマザーの表情を見て、ホーゼンは言った。
「ご心配にはおよびません。少々、体が怠いだけです………」
「そうか、ならいいが………」
ホーゼンはマザーに背を向ける。口元に不気味な笑いを浮かべたのだが、もちろんマザーには見えなかった。
「娘たちはどうした?」
マザーに背を向けたまま、ホーゼンは問うた。
「只今、ファティマが『船』へ移動させております。間もなく完了と連絡が入るでしょう」
「イズラエルの方はどうか?」
「コロシアムで罠を張っております。そろそろネズミが掛かる時間です」
「分かった」
頷くホーゼンの表情は、マザーからは見えない。何を考えているのかさえも彼女からは分からなかった。
「月の王国の者ども手土産に、聖地へ向かうことができよう………」
ホーゼンの独り言だったが、マザーには理解できない言葉だった。
コロシアム。
十字架に張り付けにされているフォボスに縋らなければならないのは、戦うための能力を持たないなるちゃんたちには仕方のないことであった。ましてや、襲い掛かってきた野獣を一撃の下に仕留めたのを間近で見てしまえば、なおのことである。自らの命を、フォボスに託すしかないのだ。
今度は三頭の野獣が目を光らせていた。先程と同じ、虎の姿をしていた。同時に襲い掛かられては、フォボスといえどどうしようもできないだろうと思えた。
(もうだめかもしれない………)
フォボスでさえ、弱気になっていた。その時である。
凄まじい衝撃がコロシアム内に響き渡った。ゲートのひとつが破壊され、粉塵とともにふたつの影が飛び出してくる。
三頭の野獣を一瞬にして葬り去り、ふたつの影は十字架の下に降り立った。
「セーラームーン!!」
なるちゃんの表情が、ぱあっと明るくなった。
「お待たせ!」
セーラームーンはなるちゃんに向かって、愛らしくウインクをして見せた。本当ならこんな余裕はないのだが、彼女たちを安心させるためには演技も必要だった。
現れたメンバーを見れば、フォボスとて手放しで喜べる状態になったとは思っていなかった。本来守られるはずのセーラームーンと、戦闘能力に乏しいセーラーサンが現れたとしても、どこまで持ちこたえられるか疑問が残る。
(どうしてプリンセス・セレニティとセーラーサンなの? プリンセス・マーズたちは?)
もちろん、フォボスはセーラームーンたちも囚われてきているのだとは知らない。
「大丈夫よフォボス。凌いでみせるから………!」
フォボスの不安を敏感に感じ取ったセーラームーンは、今度はフォボスに向かってウインクをした。凌いでみせるという意味は、フォボスにも理解できる。セーラームーンは、他の仲間が来ることを待っているのだ。
「来ます!」
セーラーサンが短く叫んだ。
中央の一際大きなゲートが開かれ、獰猛な野獣の一団がその姿を現した。
数はちょうど十頭。先程の虎のタイプに加え、ハイエナの類の野獣の姿も確認できた。
セーラームーンはエターナル・ティアルを構えた。
「ふたりだと!?」
救出に現れたふたりのセーラー戦士の姿を見て、イズラエルは訝しんだ。確か、大司教は三人のセーラー戦士を運んだと言っていた。あの大司教が数を間違えるとも思えない。
「あいつらも馬鹿ではないということよ。ひとりは恐らく、何か別の行動を取っているに違いないわ。例えば、女子学生の救出とか………」
「なるほど………」
セレスの意見に、イズラエルは頷く。
「ふん! ひとりで何ができる」
スプリガンは鼻を鳴らした。
「救出に来たふたりをどうする?」
セレスはコロシアムに出現したふたりのセーラー戦士を、顎で示した。
「とっとと、引っ捕らえるぞ!」
言うが早いか、スプリガンはセーラー戦士たち目掛けて身を躍らせていた。恐らく、戦いたくてうずうずしていたのだろう。イズラエルの指示を待たない。
「スプリガン様も気が早い。儂のバイオソルジャーどもに任せておけばよいものを………」
プロフッェサー・イワノフは、喉の奥でクククと笑う。それを横目で見ながら、
「セレス、ここはいい。お前は残りのひとりのセーラー戦士を捜せ」
イズラエルは命令口調で言った。
「残りのひとりが、そんなに気になるのか?」
「いや、名目上だ。野放しにしていては、何か起こったときに大司教に言い訳ができん」
イズラエルが微苦笑した。セレスも釣られたように苦笑する。イズラエルは大司教の叱責を恐れているわけではない。ただ、後にどんな難題を出されるか予想に難しいため、取れる行動は取っておきたいのだと感じた。
「分かった。あたしは残りのひとりを捜すとしよう」
セレスは宙に舞い上がり、瞬間移動でその場から立ち去った。