意外な再会
頬にひんやりと冷たい感覚が伝わってきた。
(冷たい………)
何故冷たいと感じるのか? そもそも、冷たいとはどういう感覚を言うのだろうか? 心の中で自問してみる。それが、自分の意識が戻ってきたことによるものだと感じるのに、数分の時間を要した。
ようやく「瞼を開ける」という行動を取ることができた。
フォボスは虚ろな瞳で、ぼんやりと何もない空間を眺めていた。
天井が遙か遠くに見える。その天井に程近い位置に、煌びやかなオペラグラスが確認できた。自分の記憶の中にあるT・A女学院の講堂にあったオペラグラスに似てはいたが、全く違うものだとも認識できた。
静かだった。
人の気配はまるでない。ひんやりした冷たい空気だけが、どこからか流れてくる。
先程頬を伝った冷たい感覚は、このどこからともなく流れてくる空気だったのだと理解できた。
風ではない。空気の流れだった。
(そうか、わたしは捕まってしまったんだ………)
フォボスはようやく、意識を失う前のことを思い出した。T・A女学院での戦闘で、あの神父によって拉致されてしまったのだ。
触手に全身を締め付けられ、すぐに意識を失ってしまったため、自分があの後どうなったのかさえ分からない。
上体を起こそうと試みたが、それはできなかった。手足、そして首が拘束具で固定されているようだった。天井が見えるということは、仰向けの状態でいることは容易に推測できる。しかし、それ以外のことは全く分からなかった。
「目を覚ましたか………」
耳元で嗄れた声がすると、皺だらけの顔が覗き込んできた。
「!?」
悲鳴が口から出そうになったが、何とか堪えることができた。間近では見るに耐えない不気味な顔だったのだ。その異様に皺だらけの顔は、人間であったならとうに百歳は越えているのではないかと思われた。妖怪と呼ぶに相応しい顔立ちだった。
「儂の顔に驚いたのか?」
漆黒の法衣を纏ったその皺だらけの老人は、フォボスの表情の変化に気付くと、楽しげな笑みを浮かべた。しかし、その表情がかえって不気味だった。
「いささか未成熟の感もあるが、『種』を植え付けるのに相応しい、エネルギーの満ち溢れた体じゃ………。さすがに月の王国の戦士の生まれ変わりだ」
そう言うと、満足げに笑った。
「あなたは何者?」
フォボスは声を絞り出した。掠れたような声だった。そう言えば、ひどく喉が乾いている。
「それを知ってどうする?」
フォボスの質問に対し、皺だらけの老人は間髪を入れずに言い返してきた。老人の問いに答えられず、黙ってしまったフォボスを見下すと、クククと喉で笑った。
「その娘、どうするおつもりですか?」
女性の声が聞こえた。美しい声の響きだった。声だけでは年齢は判断できない。それよりも、今まで全く気配を感じなかった。気配を殺していたのか、それとも突然現れたのか、首を固定されてしまっているフォボスには確認する手段がない。
「来ていたのか………。もちろん、祭壇に捧げようと思う。貴重な人柱としてな………」
フォボスの顔を覗き込んでいた老人は、顔を上げて言った。その目線の先に、先程の声の主の女性がいるのだろう。
「儂( がここへ運んだ者たちは、まだ見付からぬのか?」)
「只今カテドラル内を隈無く捜しております。直に発見できるでしょう」
言いながら、女性が歩み寄ってくるのが気配で分かる。
女性の顔が、フォボスの視界に入ってきた。美しい女性だった。妖しい輝きを持つ瞳、すっきりとした鼻筋、濡れたようにしっとりとしている唇。大人の女性の持つ何とも言えぬ色気を漂わせている。張りのある肌は十代の女性のような印象を受けるが、それが明らかに魔力によるものだということは、霊力の高いフォボスには、すぐに感じ取ることができた。
(物凄い妖気………。この女性( 、人間なの) ( ?))
思わずそう疑いたくなるほどだった。
女性はフォボスの顔を覗き込むと、妖艶な笑みを浮かべた。
「あら、本当にまだお嬢ちゃんのようね………」
冷たくひやりとする手で、フォボスの頬を撫でた。
「すぐに『儀式』を始めますか?」
怯えたようなフォボスの表情に僅かに口元を歪めると、女性は顔を上げた。
「うむ。早い方が良かろう」
肯く老人の言葉に被さるように、別の声が割り込んできた。
「大司教、お待ちください!」
「!?」
若い男性の声だった。大司教と呼ばれた老人は、不機嫌そうに顔をしかめた。
「イズラエル!? それに、セレスか………。お前たちは、セーラー戦士どもの探索をしておったのではないのか?」
「ここへは来るなと申したはず、何故来た?」
ゆっくりとした大司教の言葉に対し、それに続いた女性の言葉には明らかに叱責の語気が含まれていた。
「お言葉ですがマザー・テレサ。ここへ参らなければ報告ができません。来るなと言うことは、もうセーラー戦士は捜さなくて良いということなのですか?」
若い女性の声だった。恐らく、彼女がセレスだろう。
(セレス………。確か、十三人衆のひとりだ。セーラー戦士を捜すって、どういう意味だろう?)
もちろん、フォボスはセーラームーンたちが、この大司教ホーゼンによって、カテドラルに転送されてしまったことを知らない。
「屁理屈を申すな!!」
マザー・テレサと呼ばれた女性は、言葉を荒げた。だからと言って臆するセレスではない。睨むような視線で、マザー・テレサを見つめ返した。
「マザーよ、そう怒るな。セレスの言うことももっともじゃ………。さて、儂( に何の用じゃ?見るところ、セーラー戦士を捕らえたというわけではないようだが?」)
大司教に窘められ、マーザー・テレサは口をへの字に曲げた。そんな母親の姿を一瞥し、イズラエルは言葉を切り出した。
「セーラー戦士どもがどこへ潜り込んだのか、皆目見当も付きません。隈無く捜そうにも、それでは悪戯に時間を消費するだけです。そこで、そのセーラー戦士を囮に、誘き出そうと考えたのですが………」
「なるほど………」
イズラエルの言葉を受けて、大司教は顎に手を当てる。イズラエルは、セーラームーンたちを誘き出すための囮に、フォボスを使いたいと言っているのだ。
「コロシアムに呼び出し、一網打尽にします」
瞼を閉じ、しばし、大司教は思考を巡らす。やがて顔を上げると、
「イズラエル。お前に任せる。みごと、セーラー戦士を捕らえてみせよ」
「はっ!」
短く返事をするイズラエル。
「お待ちください」
「何だ、セレス。まだ何かあるのか?」
大司教の妖しい目が、セレスに向けられる。
「餌は多い方がよろしいかと存じます。十番高校で捕らえた学生も、数人使おうと思います。許可していただけますか?」
「学生を?」
大司教ホーゼンは、怪訝そうな顔をする。ホーゼンはセーラームーンたちの正体を知らない。セレスが十番高校の学生を指定してきたことに、合点がいかない様子だった。間髪を入れず、セレスは言葉を続けた。ホーゼンに余計な思案する時間を与えないためだ。
「セーラー戦士の戦力を削ぐ効果があります。彼女たちが学生の身を気遣い、能力を押さえた戦い方をすることは、大司教殿も身を持って体験されたはず」
「うむ。分かった。使うがよい。ただし、失敗したときの責任は取ってもらうぞ?」
数秒間思案したのち、ホーゼンは許可を下した。
「ありがとうございます」
セレスの礼の言葉を最後に、ふたりの気配は消えた。
「よろしいのですか?」
マザー・テレサは不機嫌そうに尋ねた。
僅かに間を置いてから、
「もし、取り逃がすようなことがあれば、セレス自ら責任を取ってもらえばよいだろう」
大司教はそう言った。
「殺すのですね」
「いや………」
嬉しそうに言うマザー・テレサの言葉を、首を横に振って否定する。
「聖地への人柱となってもらうとしよう」
「なるほど………。その方が、趣がありますわね」
マザー・テレサは満足げに笑いを漏らした。
「話はまとまったのか?」
一見して作戦司令室だと分かる部屋で、退屈そうに正面のメインスクリーンを眺めていたスプリガンは、足早に戻ってきたイズラエルとセレスの姿を見つけると、即座に訊いてきた。
作戦司令室には、スプリガンの他に五名のシスターがいた。それぞれ慌ただしく右往左往している。
正面のメインスクリーンは八分割されていて、ブラッディ・カテドラルの内部がそれぞれ映し出されている。一定のサイクルで、その画面が切り替わり、他の場所を映していた。
必死に走り回っているシスターたちの姿が確認できる。
「大司教が拒否をするものか! だいたい、今我々が行っている作戦は、大司教の失態の尻拭いなのだぞ!」
吐き捨てるようにイズラエルは答える。彼にしては、珍しかった。余程この作戦が不服と思える。
「コロシアムの準備は?」
「万全だよ」
イズラエルとは正反対に、あくまでも冷静なセレスの問いに、スプリガンは即答する。
スプリガンの合図でメインスクリーンの一画が切り替わり、巨大なコロシアムが映し出された。ブラッディ・コロシアムである。十万人を収容することができるこのコロシアムは、主に作戦を失敗した教団員の処刑が行われている。公開処刑を行うことで、教団員の危機感を高めているのである。それも大司教ホーゼンの趣味だった。
「コロシアムに来さえすれば、袋の鼠か………」
「見掛け上はな………。だが、そう簡単に行くとは思えんがな」
イズラエルの独り言に、スプリガンは答える。彼ら十三人衆は、初めからセーラー戦士を捕らえるつもりなどはない。大司教の失態の尻拭いなど、本気でするつもりはないのだ。
「セーラー戦士も馬鹿ではない。仲間が捕らえられたのなら、必死にその捜索を行っているはずだ。それだけの能力を持っているわ」
「やけに詳しいじゃないか………。伊達に女子高生をしていたわけではないな」
嫌みとも取れる、スプリガンの言葉だった。だが、セレスは気にも止めない。そんなセレスの横顔をちらりと見て、
「セーラー戦士の正体を知っているのだろう? 知っていて何故隠す?」
「隠しているわけではない。だいいち、そんなことを知ってどうする?」
「ふっ………。そうだな。正体を知ったからと言って、俺には何の関係もないか………」
声もなく肩を揺らしながら笑うスプリガンは、納得をしたようだった。
「おしゃべりはこのくらいにして、準備を始めるぞ」
既にきびすを返していたイズラエルは、言いながら作戦司令室を後にした。
まるで眠りから覚めるように、セーラームーンは意識を取り戻した。不快感はなかった。むしろ、よく眠った後の爽快な気分だった。しかし、肉体的には怠さが残っていた。激しい虚脱感のために、すぐには体を動かすことができなかった。
背中に床を感じる。仰向けに倒れているのだろう。
考えてみればおかしなものである。気分は爽快なのに、体が無性に怠い。理由は分からない。マーキュリーでもいれば、この症状を上手く説明してくれるのだろうが、残念ながら彼女はこの場にはいない。
瞼を開けた。自分が目を閉じていることに、ようやく気付いたからだ。
うっすらと天井が見える。薄暗かったが、全くの闇ではなかった。辛うじて周囲が確認できるくらいには明るさがある。蛍光灯はなく、天井自体がうっすらと光を放っている。発光パネルが填め込まれているのである。
薄暗いのは蛍光灯がないためだけではないようだった。その部屋(だと思われる)には、窓がないのである。
「サターン( とセーラーサン) ( は?」)
ふたりのことが脳裏をよぎった。
三人一緒に、あの暗黒空間に飲み込まれたところまでは覚えている。とすれば、彼女たちもここにいるはずである。
跳ねるように上半身を起こし、セーラームーンは周囲に視線を走らせた。
何もない部屋だった。奥の壁の前に、大きめの事務机がポツンと置かれている。この事務机があったから、セーラームーンはここが「部屋」だと確信できた。事務机の上には、ディスクトップタイプのパソコンが置かれていた。迷路のスクリーンセイバーが、ディスプレイで目まぐるしく動き回っている。
「だれかいる!?」
パソコンが作動しているということは、この部屋は現在使われていると言うことである。しかし、今のところ、自分以外の人の気配を感じない。
セーラームーンは目を凝らし、もう一度周囲を見渡した。
右側に、俯せに倒れているセーラーサンを見つけることができた。更にその向こうにサターンの姿も見える。
「セーラーサン( !」)
セーラームーンはセーラーサンの肩を抱き、揺り起こす。驚いたように目を見開き、セーラーサンは意識を取り戻した。
「う………。ここは………?」
セーラーサンが意識を取り戻したのとほぼ同時に、サターンも目を覚ました。頭を軽く二‐三度振って、朦朧としている意識を正常に戻そうとしている。
「セーラームーン( 、ここは………?」)
セーラームーンの腕の中のセーラーサンが、ひどく掠れた声で訊いてきた。
「たぶん、敵の本拠地だと思う。だけど、ギャラクシアのお陰で、多少、転移されられたポイントがズレたみたい。どうやら、どこかの部屋の中のようよ」
セーラーサンに答えるセーラームーンは、サターンにも聞こえるように言った。ややふらつく足取りで立ち上がったサターンは部屋の中を見回すと、迷路のスクリーンセイバーが作動しているディスプレイを視界に捉えた。
「パソコンが動いているの。すぐに人が戻ってきてしまうわ」
「………そのようですね」
サターンは言いながら、事務机の前まで移動した。マウスを僅かに動かすと、スクリーンセイバーは停止する。
「………これは!?」
正常画面に戻ったディスプレイを見つめたサターンが、驚きの声をあげた。
「静かに!」
同時にセーラームーンの声が飛ぶ。部屋の中が静まり返った。
耳を澄ませてみると、規則正しい靴の音が次第に近づいてくるのが聞き取れた。
「誰か来る!?」
緊張したセーラーサンの声。
三人が三人とも、その靴の音がこの部屋に向かっているだろうということを、敏感に感じ取っていた。違う可能性も五分五分なのだが、何故かそう思えたのである。
三人のその予感は的中した。
靴音は部屋の前で停止した。
今まで気付かなかったドアに、三人は足音を立てずに歩み寄った。
カチリと鍵を開ける乾いた音が響いた。
向かってドア右側にサターン。左側にセーラームーンやとセーラーサンが待機した。
ノブが回され、ゆっくりとドアが開かれてゆく。引きドアだった。
人影が部屋に足を踏み入れる。背が高い。男だと思えた。
まさか、部屋にだれかいるなどとは、夢にも思っていないだろう。男は全くの無警戒だった。
サターンが動いた。
風のように素早く動くと、男の左腕を掴んで背後に回り込み、思い切り捻り上げた。
「騒がないで! 大人しくしてれば、命までは取らない!」
威圧を込めた口調で、サターンは言った。
廊下に人影がないことを確認すると、セーラーサンがドアを閉める。
「き、キミたちは………!?」
「質問は後よ! 武器を持っていないことを確かめさせてもらいます!」
サターンが言うと、ドアを閉め終えたセーラーサンが男の前方に回った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! その声はまさか!?」
男の口調が変わった。明らかに動揺していると感じられた。
「しゃべらないで!!」
「その声は、まさか………。いいや、わたしが聞き間違えるはずはない。………キミは、ほたるなのか!?」
「え!?」
「ほたるなんだろう?」
「ど、どうしてわたしの名を………!?」
突然名を呼ばれたサターンは、狐につままれた気分だった。セーラーサンも男の身体検査を忘れて、茫然と立ち尽くしている。
「サターン( 、手を離していいわ。この人は………」)
セーラームーンの声は、心なしか震えていた。セーラームーンの表情から、この男が知っている人物であることが伺い知れる。
サターンは捻り上げていた男の手を離した。セーラームーンが驚愕するほどの人物の顔を、自分も見てみたかったからである。
男は振り向いた。サターンの顔を見つめる。
「この姿が、お前の本来の姿なのか………。その姿の方を先に見ていたら、わたしにもお前が分からなかったかもしれない。姿よりも先に、声を聞くことができたのは、わたしにとって幸運だった………」
目に涙を溜め、男は震える声で言った。これ以上は言葉にならなかった。
サターンは驚いたように、男の顔をまじまじと見つめた。とても信じられなかった。まるで夢でも見ているような気分だった。
そうだ。自分はまだ意識を失ったままなのだ。意識を失った状態で、夢を見ているのだ。そう思った。
「サターン( ………」)
耳に届くセーラームーンの声は、実に現実味を帯びていた。目の前でボロボロと大粒の涙を流している人物が、自分の想像している人物その人なのだと、セーラームーンの瞳は語っていた。
「パパなの………?」
サターンはその人物が何者なのか、確信した。その人物はほたるの父、土萠創一その人だったのである。
司令室を後にしたスプリガンは、一時、自分の自室に戻るべく足を運んでいた。
彼らの言う「ブラッディ・カテドラル」には、様々な施設がある。フォボスを囮にセーラームーンたちを誘き寄せようと考えているコロシアムの他、当然の如く大聖堂が存在する。バシリカ式の聖堂は、現存しているヨーロッパの数々の聖堂と比較しても、決して引けを取らない見事な造りとなっていた。奥の祭室も見事で、そこには大司教ホーゼン以外立ち入ることは許されていなかった。その他、いかがわしい研究室のあるラボを含めた幾つかの施設があるが、今は触れないでおくことにする。
スプリガンは自室の扉を開け、部屋に足を踏み入れる。その直後に不快な表情になった。
「セントルイス………」
自分の部屋で待ち受けていたのは、十三人衆のひとり、セントルイスだった。
窓から外の景色を眺めるていたセントルイスは、部屋に戻ってきたスプリガンに気付くと、ゆっくりと窓に背を向けた。
「男の部屋に侵入するとは、悪趣味なやつだな………」
大股で部屋の中央まで歩んできたスプリガンは、じろりとセントルイスに視線を向ける。部屋はかなりの広さだった。奥行きは七メートルほど、途中カーテンで仕切られているために横の広さは確定できないが、同じか奥行き以上あるのではないかと推測できた。広いからと言って、特別何か珍しいものがあるわけでもなかった。豪華なソファーのセットが部屋の隅に置かれ、その他はふたつの書棚があるだけだった。
「何もない部屋だな………。ブランデーぐらいは置いておけよ」
「俺は滅多にこの部屋にはいない。そんなものはここには必要ない」
ぶっきらぼうにスプリガンは答える。
「大司教の失態の尻拭いは、上手くいっているのか?」
「呑気なものだな………。本来なら、貴様も参加しなければならないのだぞ」
スプリガンはソファーにどっかと腰を下ろす。その視線の先には、アコーデオン式のカーテンがあった。
「カーテンの向こうは、見たようだな………」
「まあな………」
セントルイスは口元に薄笑いを浮かべた。カーテンに歩み寄ると、それを開いた。
両手を鎖で吊されているジュピターがいた。気を失っているのか、顔は俯いたままだった。
「『学院』に行って、貴様が手ぶらで戻ってくるわけはないと思っていたが、とんでもない土産を持ち帰ってきたな」
ジュピターに歩み寄ると、俯いたその顔を覗き込む。
「大司教に報告はしていないようだな。捕らえてきたこの娘、どうする気だ?」
「貴様の知ったことではない」
「ふん。そうだな………」
セントルイスはジュピターから離れると、ドアに向かって歩き出した。そのセントルイスの背中に向かって、
「俺のことを嗅ぎ回るのはいいが、自分の命も気に掛けていた方がいいぞ」
「俺を脅しているつもりなのか?」
「いや、忠告しているんだ」
その言葉にセントルイスは足を止め、顔だけをスプリガンの方に向けた。
「精々気を付けるとしよう。君の部下は、君を探っている相手を簡単に部屋に侵入させてしまうほど、素早しく優秀な部下だからな………」
皮肉たっぷりに笑みを浮かべて言うと、そのまま部屋を出ていった。
セントルイスの消えたドアを物凄い形相で睨みながら、
「ノーム………」
恐ろしく低い声で、部下の名を呼んだ。
呼ばれたノームが姿を現す。恐縮し、身を縮込ませている。俯( いたまま、顔を上げることもしない。まだ少年の面影を残すノームは、まるで親に叱られている子供のようだった。)
「無能な部下は必要ない。それは、分かっているな………」
「は、はい………」
消え入りそうな声で、ノームは答えた。スプリガンの留守の間この部屋を任されていたノームだったが、セントルイスの侵入には全く気付かなかったのである。それは、彼の表情から読み取ることができた。ノームは決して無能ではない。それはスプリガンも分かっている。だが、失態は失態である。スプリガンはつまらないミスを、激しく嫌う質だった。
「一度だけチャンスをやる。間もなく、セーラー戦士どもが、コロシアムにいる仲間を助けるために動き出す。おそらく、派手に暴れてくれるはずだ。そのゴタゴタの間に、セントルイス( を葬れ。失敗は即、お前の死を意味する」)
抑揚のない声で、スプリガンは告げた。
ノームには、その命令を拒否する自由は、もうなかった。
突然の再会に感動し、父の胸で一頻り泣いたサターンだったが、ふと、冷静になって顔を上げた。父の顔を見つめる。
「お前の言いたいことは分かっている」
優しく微笑みながら、土萠教授は答えた。
「死んだはずのわたしが何故、ブラッディ・クルセイダース( にいるのかを知りたいのだろう? そうだな、まずそれを説明しなければいけないな」)
土萠教授は言いながら、セーラーサンにちょうど彼女の真後ろの壁のスイッチを押すように頼んだ。
セーラーサンは警戒しながら、ちらりとセーラームーンに目をやる。彼女が頷くのを確認すると、壁のスイッチを入れた。
パッと部屋が明るくなった。天井の発光パネルの光量が増したのだ。どうやら、発光パネルのスイッチだったようだ。
「説明を始めようかと思っていたのに、その前にしなければならないことができたようだ」
土萠教授は言うと、自分に縋り付くようにしていたサターンをそっと遠ざけた。ドアに向かって歩を進める。
気が付かなかったが、外がかなり騒がしかった。通路を慌ただしく行き来している足音が、部屋の中にまで伝わってくる。
「書棚の陰にでも隠れていてくれ」
土萠教授は、部屋の隅に置かれている幾つかの書棚を指し示した。なるほど、かなり豪華な書棚である。彼女たちなら、充分身を隠すことができるだけの奥行きがある。
三人のセーラー戦士たちが書棚の陰に移動するのを確認すると、土萌教授はドアを半分程開け、外の通路に首だけけヌッと突き出した。
「何かあったのかね?」
通路を走り回っているシスターのひとりに向かって、土萠教授は声を掛けた。
「セーラー戦士どもがカテドラル内に身を潜めているようです。教授もお気を付けください。また、もしも姿を見掛けましたら、速やかに私どもにご通報ください」
「分かった。気を付けるとしよう」
「では………」
シスターは軽く会釈をすると、急ぎ足でその場を去っていった。
シスターの姿が見えなくなるのを確認すると、土萠教授はドアを閉めた。
「これでしばらくは時間が稼げるだろう」
土萠教授は言った。だが、
「いえ、あたしたちにはそれ程時間はありません」
セーラームーンが首を横に振った。
「あたしたちの仲間が囚われているのです。彼女の身が心配です。何か聞いてませんか?」
「いや、すまん。わたしにはそのような情報が流れてくることはない」
教授は申し訳なさそうに首を横に振ると、
「手短に説明しよう」
サターンに目を向けながら言った。
「わたしが蘇ることができたのは、セーラームーン、キミのお陰なのだよ。そしてほたる。お前のお陰だ」
土萠教授はいきなり核心に触れた。
「ゲルマトイドに乗っ取られたわたしの肉体を、セーラームーン、キミが完全に破壊してくれたお陰で、わたしの魂はゲルマトイドと完全に分離することができた。そして、彷徨っていたわたしの魂を組成させてくれたのがほたるなのだ」
そこまでの説明を聞いたとき、セーラームーンは、セーラーサターンがあのとき言っていた言葉を思い出した。
「いつでも終焉とともに、希望と再生があるのです」
あのとき、セーラーサターンはそう言っていた。
「ほたる。キミはその能力( で、わたしや香織君、そしてゲルマトイドの実験体となり、セーラー戦士と戦って破れた無限学院の六人の学生たちを蘇生させたのだ。新たな人生を歩むことができるように。狂ってしまった人生を再び歩ませるために」)
土萠教授はサターンの両肩に手を置いた。
「だけど教授。どうしてブラッディ・クルセイダースなんかに………?」
セーラームーンの疑問はサターンの疑問でもあった。不安げな瞳で、サターンは父親の顔を見上げた。
「わたしが遺伝子工学の権威だからだよ」
土萠教授は、セーラームーンに目を向けた。
「ほたるに再生されたわたしだったが、残念なことに記憶を失っていたのだよ。と言っても、全てを失っていたわけではない。ほたるに関する記憶と、あのデス・バスターズに関する記憶を失っていたのさ」
「だから、ほたるちゃんを捜さなかった。いえ、捜せなかったのね」
「うむ………。わたしは香織君とふたりで、小さな大学の研究室で、人の遺伝子を研究していた。そこで、やつらに囚われてしまった」
「教授は、ここで何をしているんですか?」
セーラーサンが質問した。
「超人類の研究だ」
土萠教授は即座に答えた。
「超人類?」
「優れた能力を持つ人類を、人工的に誕生させることができたら未来を変えることができる」
「優れた能力を持つ人類を、人工的に誕生させる………?」
土萠教授の言葉を、セーラームーンはそのまま反芻する。
「それが、あいつらの………。ブラッディ・クルセイダースの目的ですか?」
「そうだ」
「そんな人類を作り出して、あいつらは何をしようと言うのでしょう?」
「わたしにも分からない。ただ、彼らが十字軍を名乗っている以上、何かをしようとしていることは事実だ」
土萠教授は言葉を切ると、小さく息を付いた。中世の十字軍は、エルサレムの聖地を回教徒から取り戻すために結成されたものである。ブラッディ・クルセイダースも、十字軍を名乗っている限り、何か目的があって組織されたはずである。ただ、超人類を作り出すためではなく、その超人類によって行うであろう、真の目的が存在すると考えられる。
「ここには、パパの他に科学者はいるの?」
「もちろんだ。その殆どが超人類の研究をさせられている」
サターンの質問に、土萠教授はゆっくりとした口調で答えた。
「脱出は考えなかったの?」
「わたしひとりで脱出することはできない。香織君が囚われているのだ」
「香織さんが?」
「ああ………」
土萠教授は悔しげに呻いた。ここにいる多くの科学者は、家族、もしくは親しい知人を人質に取られているという。土萌教授にとっては、助手の香織がそうであった。
香織は以前から土萌教授の助手をしていた。その為、教授やほたる同様ダイモーンに体を乗っ取られることとなり、セーラームーンたちと戦うことになった。結果、セーラー戦士たちに破れ一時は命を落としたのだが、セーラームーンとセーラーサターンによって、新たな生を受けたのである。転生前、そして転生後も共に同じ研究をしてきた香織を、土萠教授は見捨てることができなかったのである。
「教授、その香織さんと言う人が囚われている場所の見当は付きますか?」
「だいたいの位置は分かる。わたしとて、このまま黙ってやつらの言いなりになっているつもりはなかったからね」
セーラームーンの質問に、土萠教授は答えた。白い歯を見せ、にやりと笑った。
セーラームーンは大きく頷いて見せた。
「ならば、サターン( はお父さんと香織さんの救出に向かって。フォボスはあたしとセーラーサン) ( で助け出す」)
「無茶ですよ! ふたりだけなんて………!」
「大丈夫。あたしたちがここに転送されてから、随分と時間が経つはずだわ。あたしたちの『仲間』を信じましょう」
確たる自信はなかったが、そう感じることはできた。間もなく、仲間が助けに来てくれる。
しかし、彼女たちは自分たちの置かれている状況を、少々甘く見ていた。
スピーカーから流れてくる声に、彼女たちは初めて自分たちが危機的状況に置かれていることを思い知らされたのだ。