冥界の門
そこは、全く「音」が存在しない世界だった。
暑くもなく、寒くもない、それでいて心地よさを全く感じさせない不思議な空間だった。反面、不快さも感じなかった。
風も全く感じない。
光も弱く、まるで夕暮れ時の薄暗さを思わせる。しかし、それ以上に視界は悪いと思えた。
すぐ隣にいるはずのセーラープルートの姿が、朧気にしか確認できない。
「プルート( ?」)
セーラームーンは不安げにプルートの名を呼んだ。こんな得体の知れない空間に置き去りにされたら、きっと数分で気が狂ってしまうだろうと思われたからだ。声が妙に響いた。いや、響いたように感じただけだった。実際は自分の体内で反響しただけだった。
「プルート( !?」)
プルートを呼ぶセーラームーンの声が、不思議な空間に木霊した。プルートから返事はなかった。姿は確認(朧気( だが)できるのだが、それが本当にプルートなのか、それとも虚像なのか、返事がない以上判断は難しかった。セーラームーンは心細くなる。)
頼りはプルートだけなのだ。そのプルートがいなくなってしまったら、自分はこの世界でどう行動すればいいのか分からなくなる。いや、彼女がいなければ、元の世界に戻ることすらできないのである。
「プルート( 」)
セーラームーンは三度目の呼び掛けを行った。声が震えてしまっていた。今にも泣き出しそうな声だった。
「大丈夫。わたしはここにいるわよ」
まるで母親のように優しく、歌うようなプルートの声が、何もない空間から流れてきた。その声を耳にしたセーラームーンは、ほっと胸を撫で下ろす。
「目で物を見ようとしていては、この世界では何も見えなくなってしまうわ。心に気を集中して、心で物を見るようにするのよ」
「心で………?」
そう言われても簡単にできるものではない。セーラームーンが心の目で視界を確保するようになるまでは、更に数分が必要だった。
心で感知したこの世界、セーラームーンたちが立っている場所は、草原のような広大な平地だった。だが、見えたと言っても、果たしてどのくらいの距離を確認できるようになっているのか、判然としなかった。草原の遙か先は、朧気に確認できるだけで、その先に何があるのかは、彼女たちの位置からでは全く分からなかった。
「この世界は音も伝わり難いの。だから、言葉で『話す』のではなく、心で『語る』ようにしなければ、相手に意志が伝わらないわ」
プルートは言う。そこで初めて、セーラームーンはプルートの返事がなかなか返ってこなかったことを理解した。ここは「音」のない世界なのだ。となれば、当然「声」が伝わるはずがない。プルートの声も、耳にではなく心に直接的に伝わってきていることを、今感じ取っていた。
「ここは、『魂の門』へのほんの入り口にすぎないわ」
プルートは説明する。
「『三途の川』って、知ってる?」
「もちろん、知ってますけど………」
「ここは、その手前に当たる場所よ」
プルートからそう説明を受けたセーラームーンは、背筋に冷たいものを感じた。できることなら、生きているうちには見たくない場所だろう。もちろん、生きているのなら、当然行くことすら叶わない場所でもある。
「さあ、急ぎましょう、セーラームーン( 。あたしたちがこの世界にいられる時間は限られているわ」)
冥界とは本来なら、命のある者が訪れることができる場所ではない。死した者の世界なのである。生ある者が存在してはならない空間なのだ。その世界にあって、唯一の例外が「魂の門」の番人をクイーン・セレニティによって命ぜられたセーラーカロンである。もし仮に、生ある者が訪れた場合、禁忌( を犯す者として、セーラーカロンが速やかに消去しに訪れるはずだった。それは即ち、来訪者の死を意味する。)
しかし、ふたりがこの地に訪れてから、既に十数分の標準時間が流れているはずである。セーラーカロンが消去に現れないと言うのがおかしい。セーラー戦士が任務を放棄することは、ありえないことなのである。特に、クイーン・セレニティの勅命となれば尚更だった。
プルートとて、クイーン・セレニティの勅命だからこそ、気の遠くなるほどの長い時間、たったひとりで「時空の扉」の番人をしていたのである。それは、セーラーカロンも同じはずであった。
この場に現れないということは、やはり、セーラーカロンの身に何か起こったと考える方が妥当のようだ。夏恋が本当にセーラーカロンであるならば、多少は納得することができる。しかし、セーラーカロンが自ら持ち場を離れているという事実が解せなかった。それに、夏恋がセーラーカロンとしての自覚を持っていなかったことも説明ができない。
「マーズ( 、夏恋の方はどう?」)
プルートは念を飛ばした。自分と同調しているレイとのやりとりは、テレパシーを使って行われる。
夏恋の様子は、常に把握しておく必要があった。
(変化はありません)
雑音混じりのマーズのテレパシーが伝わってきた。
彼女たちは今、精神体となってこの地に訪れている。通常空間では、一時的に仮死状態となっているのである。そのふたりの魂と精神で繋がれているのがマーズである。彼女と精神で直結することによって、死の空間で迷子にならないようにしているのだ。もし仮に、この精神の繋がりが断たれるようなことになれば、ふたりは永遠に精神体としてこの空間を堂々巡りすることになる。マーズの役目は重要だった。
(大丈夫。ふたりのトレースも問題ありません。あたしがしっかり捕まえてますから、安心してください)
マーズの声は頼もしかった。
「魂の門」へと急いでいるプルートの足が、不意に止まった。
「どうしたの? プルート( ………」)
セーラームーンが見上げたプルートの表情は、非常に険しいものだった。鋭い視線が前方に向けられている。心で「語る」ことに随分と慣れてきた。
「セーラームーン( 。どうやらそう簡単には、『魂の門』に行けそうにないわ………」)
「?」
セーラームーンはプルートの凝視している前方に、目を凝らしてみた。何やらユラユラと陽炎のように揺らめいているものが見える。
ビリビリと電気でも走ったかのような痛みが、肌に走った。
プルートはガーネット・ロッドを出現させた。臨戦態勢で身構える。
プルートの動きを見ていれば、セーラームーンとて状況は理解できる。エターナル・ティアルを実体化させると、油断なく身を構えた。
(こんなところで敵!? いったい、何者なの!?)
背筋に冷たいものを感じながら、セーラームーンは前方を凝視した。
陽炎のような揺らめきは、ゆっくりと何かの形を形成してゆく。
「おやおや、あのお姉ちゃんではではないか………。なんと、お前さんも死んでしまったのかのう? ならば今すぐ儂( と祝言を上げようぞ………」)
嗄れた老人のような声が響いた。もちろん、「聞こえた」のではなく、「感じた」のである。
「こんなところで俺の仇に会えるとは思ってもいなかったな」
「ほう、俺を殺したやつらの仲間か………」
嗄( れた声に続いて、別の二種類の声が聞こえてきた。)
前方に揺らめいていた陽炎が、次第にひとつの形に定まってゆく。人型の影が三つ構成され、急速に実体化し始めた。
「そ、そんな………!?」
セーラームーンは息を飲んだ。
そこに実体化した三つの人型のうち、ふたつに見覚えがあったのだ。ひとつは頭からフードを被った小男で、もうひとつはまがまがしい鎧を纏った屈強の戦士風の男である。
死んだはずのレプラカーンとタラントだった。
更にもうひとつの影も実体化する。
三メートルはあろうかという巨体は上半身裸で、見事なまでの筋肉で覆われている。黒い瞳のない白目だけの目、鮫のような歯、深海魚を連想させる顔。ヴェルサイユ宮殿にてエロスとヒメロスのリンク技に破れた、十三人衆のザンギーだった。
「『魂の門』を潜った者は、二度とこちらの世界には戻ってはこれないはず。どうして、お前たちがこんなところをうろうろしているの!?」
プルートはセーラームーンを守るように、僅かに歩み出た。隙のない構えのまま、前方の実体化した三人に、ぴしゃりと言い放った。威嚇の為に、ガーネッド・ロッドを突き付ける。
「『魂の門』だってぇ? そんなものあったかぁ?」
ニタニタとした嫌らしい笑いを浮かべながら、ザンギーはタラントに視線を流した。
「いやぁ、知らねぇなぁ………」
タラントは大袈裟に首を振ってみせた。
「そんなはずはないわ! セーラーカロンは本当にいないの!?」
「お前さんら、嘘はいかんよ………」
噛み付かんばかりの勢いのプルートを受け流すような形で、レプラカーンが喉の奥の方で笑いを発した。
「あれがお前さんの言う『魂の門』がどうかは知らんが、確かに門はあったよ………。ただし、開きっ放しだったがのう………」
「開いたまま!?」
「自分の目で確かめるといい」
フードを被ったままで影になっている両目を異様に輝かせながら、レプラカーンは嗄( れた声を発した。)
「おい、レプラカーン( 。こんなところで道草を食っている場合じゃないぞ。早いところ、この空間を抜けてあっちの世界に戻ろうぜ。うるさいやつが待っている」)
タラントがレプラカーンの背後から声を掛ける。
「おお! そうじゃったな………」
フードの小男は手をポンと叩くと、嫌らしくケタケタと笑った。
「まさか、あなたたち………」
プルートの表情に、緊張が走った。
「そう、そのまさかじゃよ。こんな何もない世界では退屈してしまってのう。現世に戻ることにしたんじゃよ」
レプラカーンはしゃあしゃあと言ってのけた。
「お前たちに復讐するつもりだったんだが、死んじまっているとは残念だったぜい。だけど、確かまだ仲間がいたよなぁ。そいつらにでも仕返しするか」
レプラカーンに続いて、タラントは言った。有り余る力を誇示するかのように、両腕をブンブンと振り回す。
「悪いけど、あなたたちをこのまま行かせるわけにはいかないわ」
現世に戻ろうとしているレプラカーンたちを、そのまま黙って行かせてしまうプルートたちではない。
「冗談ではない! 我らの計画の邪魔をするな!」
鮫のような歯を剥き出しにしながら、ザンギーは捲し立てた。鋼のような全身の筋肉を漲らせ、戦闘態勢に入る。
「あなたたちの背後で、糸を引いている者がいるわね。恐らく、そいつが『魂の門』にいるはずのセーラーカロンを襲った………」
既にガーネット・ロッドを実体化させているプルートは、オーブにパワーを集中させている。いつでも攻撃は可能だった。しかし、相手は霊体である。通常の攻撃技が通用するとは思えなかった。
「あんたは恐ろしいヒトじゃ………。ますます気に入ったよ」
プルートの言葉を肯定するかのように、レプラカーンはその嗄れた声で「ひひひ」と笑った。フードの奥の瞳が爛々( と輝き、舐めるようにプルートの体を上下する。それだけで鳥肌が立ってしまうような、何とも表現できぬ嫌らしい視線であった。)
プルートの背後のセーラームーンも、思わず身震いしてしまう。
「あなたたちの背後にいる者は、いったい何者なの!?」
「俺たちがしゃべるとでも思っているのか? よしんば知ったとしても、死んでいるお前たちにいったい何ができるというのだ?」
タラントは、プルートたちが死んでいると思いこんでいた。無理もない。この世界は死んでいなければ来れない場所なのだ。そう誤認してしまうことは、しごくあたりまえだと思われる。
「さあ、どきな! それとも、俺たちと戦おうって言うのか? もっとも、今の俺たちは死んでいるからな。そう簡単にはやられやしないぜ………」
ザンギーは魚面の顔を歪めて、卑猥に笑ってみせた。白目だけの瞳が、ギロリと動いたような気がした。
「ここを通すわけにはいかないわ!」
プルートの背後にいたセーラームーンが、凛と声を響かせた。脅しには決して屈しないという強固な姿勢で、三人の亡者たちを睨み付ける。
「強情な娘たちだなぁ」
タラントが言うと、
「仕方ない。行きがけの駄賃だ。少し遊んでやろう」
鮫のような歯を見せて、ザンギーはニタリと笑った。
「儂( の嫁になると言うのなら、許してやってもよいぞ」)
「冗談じゃないわ! 死んでもお断りよ!!」
毎度のレプラカーンのプロポーズには、プルートは吐き捨てるように答えた。レプラカーンのフードの奥の瞳が、仕方ないなという風に笑ったように見えた。
「ならば消え去るがいい!」
レプカラーンの号令を合図に、三人は一斉に襲いかかってきた。凄まじい妖気を放ちつつ、高速で突進してきた。
「ガーネット・ボール!!」
プルートは瞬時にシールドを張って、その攻撃を防いだ。物理攻撃のみに有効なシールドと思いきや、ガーネット・ボールは霊体による霊力の攻撃おも防ぐことが可能のようだ。
「さあ、どうした? 攻撃をして来ぬのか?」
嘲るようなレプラカーンの声が響く。相手が霊体では、通常の技では当然ダメージを与えることはできない。レイの法力なら、邪悪な霊を封じ込めるのも容易なのだろうが、生憎とレイはここにはいない。
(セーラームーン( 、プルート) ( 、何が起こったの!? とてつもない妖気を感じるわ!!))
マーズの緊張したテレパシーが伝わってきた。レプラカーンらの妖気は、通常空間のマーズにも感じられるほどの強烈なものだった。
「心配しないで! ちょっと、お客さんが現れたのよ」
プルートは落ち着いた声で答える。マーズを動揺させてはいけないと判断したからだ。プルートのその考えを察知したのか、セーラームーンも余計なことはしゃべらなかった。
「大丈夫。プルート( 、あたしに任せて!」)
エターナル・ティアルを握り直し、セーラームーンはプルートの背中に声を掛ける。既に戦闘準備は整っていた。
「うっかりしてたわ………。相手が邪悪な霊体なら、セーラームーン( の技が一番効果的よね」)
プルートは苦笑する。シルバー・クリスタルを使用して、強烈な浄化作用を伴ったセーラームーンの技は、当然霊体にも効果があるはずである。セーラームーンが同行したことは、正解だった。彼女でなければ、霊体に太刀打ちすることはできなかっただろう。自分ひとりで戦おうと考えていたプルートは、心の中で苦笑した。
「邪悪な霊体よ! 『無』に還りなさい!!」
セーラームーンはロッドを頭上に翳す。
「シルバー・ムーン・クリスタル・パワー・キッス!!」
エターナル・ティアルから、眩いばかりの光が放射される。通常は強烈な衝撃波を伴って放たれる必殺技も、セーラームーンがその衝撃波の威力をみごとにコントロールして、シルバー・クリスタルの浄化の光をのみを周囲に放射する。
「な、何だ、この光は!?」
「体が消滅する!?」
ザンギーとタラントが狼狽えた。先程までの威勢の良さは、どこかに消えてしまっていた。
「そんな馬鹿な!? 儂( らの存在そのものを消し去ろうというのかぁ!!」)
さしものレプラカーンも、為す術がなかった。
浄化の光を浴びた三人は、それぞれ悲鳴をあげた。
「こ、この力!? まさか、これが『やつ』の恐れた聖なる光かぁぁぁぁ!!!」
意味深の言葉を残し、最後まで光に抵抗していたレプラカーンも、ついに消滅していった。 シルバー・クリスタルの浄化作用によって、邪悪な心を持つ彼らは、その存在すらも完全に消滅することとなった。「無」へと還っていったのである。「無」に戻った彼らが、二度と再生することはない。
「悪霊封じはレイちゃんの専売特許だけど、あたしにだってできるんだから!」
自慢げに胸を反らして、どうだと言わんばかりにプルートを見た。その仕草があまりにも可愛らしかったので、プルートは思わず笑いをこぼしてしまった。
「ああ! プルート( 、笑ったわねぇ!」)
「ごめん、ごめん。セーラームーン( が、あまりにも可愛かったから、つい………」)
ご機嫌斜めに頬をぷくっと膨らますセーラームーンを、プルートは笑いながら宥める。もちろん、いつまでも拗ねているセーラームーンではない。自分たちが置かれている状況はきちんと把握している。遊んでいる時間はない。
「思わぬところで、時間を取られてしまったわ。急ぎましょう」
ふたりが冥界にいられる時間は限られている。レプラカーンたちとの戦闘で、計算外の時間が掛かってしまった分、余計に急がなければならない。
ふたりは「魂の門」に向かって足を早めた。
冷たい空気が肌を指す。鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが流れる。
「物凄い霊気だわ………。ありとあらゆる霊が、この場に漂っている。こんなことがあるはずがないわ」
プルートは大きく頭を振る。
「大丈夫? あたしたち、幽霊に取り憑かれたりしない?」
さすがのセーラームーンも不安である。いくら強大な敵と戦ってきたセーラームーンといえども、幽霊だけは別問題である。先のレプラカーンたちも幽霊ではあったのだが、戦って倒した「敵」であったという意識と、彼らが少なからず実体を持って動いていたことで、幽霊だと思わずに戦うことができたのである。
「大丈夫よ、セーラームーン( 。変身しているあたしたちに、霊体が取り憑くことはできないわ。それに、彼らは邪悪な存在じゃないわ。自分たちの行き場が分からなくて、右往左往しているだけ………」)
セーラームーンにそう説明している間も、プルートの視線は周囲に素早く走らされている。表情は硬く、幾分引き釣っているようにも見える。
彷徨う霊体が、助けを求めるようにふたりに絡み付いてきた。霊体の深い悲しみが、意識として直接心に響いてくる。それは「声」ではなく、思念波の類だろうと思われた。
「な、なに!?」
セーラームーンは怯えたように身を縮こませた。形の定まらない霊体が、何かを必死に訴え掛けるように体にまとわりついてくる。取り憑かれないとは言われても、とても安心して身を任せていられるような状態ではない。
「せ、せつなさぁん………」
今にも泣き出しような声となって、セーラームーンはプルートを呼び止めた。
プルートはひとり、探るような視線を周囲に向けていた。その視線がピタリと止まる。
「セーラームーン( 、あれを!」)
プルートは前方、やや左よりの地点を指で示した。その示された場所に目を向けたセーラームーンの瞳は、驚きで見開かれた。
「プルート( 、あれは!?」)
それは正に、肉の塊と呼ぶに相応しい物体だった。いや、物体ではなく、それは生物だと推測できた。五メートルはあろうかという、巨大な肉塊に似た生物だった。
それは、「呼吸」をしていた。表面はドロドロとしたヘドロのようなもので覆われ、疣( のように突き出た突起物は、時折弾けては黄色い気体を周囲に撒き散らしている。そのヘドロのような表面が、呼吸をしているが如く、波を打っているのである。)
「なにあれ!? 気持ち悪ぅい!」
まともに見るに耐えないその肉の塊は、不規則に蠢き、細胞分裂を繰り返しているように思えた。僅かずつではあるが、増殖をしているのだ。
「セーラーカロン!?」
プルートはその肉の塊のほぼ中央を凝視したまま、大きく目を見開いた。ドロドロとした表面に取り込まれるような形で、確かに人の顔が確認できた。埋め込まれているという表現の方が、適切なように思える。下半身は腰から下がほぼ完全に飲み込まれており、腕の部分も既に形を留めていない。取り込まれた際、最後まで脱出を試みたのだろうと想像できるように、胸の部分だけは大きく外側に飛び出しているが、その肌を覆っているはずのセーラースーツは、跡形も残さず溶かされてしまっていた。形のよい豊満な乳房が露わになっている。
辛うじて半分だけ残されている顔に虚ろに輝いていた瞳が、ようやくふたりのセーラー戦士に気付いた。
「セ、セーラー………、プルート………?」
生命の輝きを微塵にも感じさせない虚ろな瞳が、驚きとも戸惑いともつかぬように、僅かに見開いたような気がした。震える唇が少しばかり動き、耳を澄ましてやっと聞き取れるほどの声で、力無くプルートの名を呼んだ。
「カロン、なのね………」
確認するプルートの声も、少しばかり震えているようだった。その声からは、深い悲しみが感じ取れる。瞳は信じられない物を見ているかのように大きく見開かれ、瞬きをすることを忘れてしまっている。
異様な物体に同化していると思われるカロンは、プルートの言葉を肯定するかのように、ゆっくりと瞬きをした。後頭部が完全に肉塊に飲み込まれてしまっているカロンは、首を動かすことができないのだ。辛うじて動かせることができる瞼によって、意志表示をする他に方法がないようだった。
「どうして、こんな酷い姿に………」
目の前の現実を否定するかのように首を左右に振ったプルートは、その瞳からポロポロと涙を流していた。プルートの半歩後ろにいるセーラームーンも既に言葉もなく、口を両手で押さえるようにして絶句している。膝はガクガクと震え、体も小刻みに震えている。涙を流すことすら忘れ、目の前にいる酷たらしい姿のセーラー戦士を、瞬きもしないで見つめていた。
「………プリンセス!? プリンセス・セレニティ、なのですか?」
プルートの背後で絶句しているセーラームーンを見定めたカロンは、驚きの声をあげた。
「ええ、セーラーカロン………」
カロンの問いに答えたセーラームーンだったが、声は震えていた。
「………わたしの、油断でした………」
力のない声で、突然、カロンは話を切り出した。
「あれは、正しく地の底から甦ってきた悪魔です。気の遠くなるほどの長い時間、奈落の底でその力を蓄えていた、奈落そのもの………。そう、『アビス』と呼ぶに相応しい存在です」
ゆっくりとした口調でそこまで言うと、カロンは大きく息を吸った。話すことがよほど疲れるのであろうか、先程より息が荒くなっているような気がした。
「カロン、それは………」
質問をしようとするプルートを瞳で制し、カロンは話を続けた。
「一瞬の隙を付いて『魂の門』を潜った“奈落( ”は、まずは番人であるわたしを襲いました。わたしは持てる力の全てを使って、“奈落) ( ”と戦いましたが、その強大な力には適わず、破れてこのような惨めな虜となってしまったのです。わたしを破った“奈落) ( ”は、すぐさま『魂の門』を使って数人の仲間を召還し、表の世界をその手中に収めるべく、行動を開始したのです」)
「その“奈落( ”が、あたしたちの真の敵なの?」)
セーラームーンの呟きのような質問が耳に届いたのか、カロンはゆっくりと瞬きをしてみせた。肯定する意志表示だった。
「“奈落( ”にあるのは、表の世界に対する激しい憎悪だけです。表の世界を滅ぼし、自らの居城にしようと考えているようです」)
カロンは大きく深呼吸をした。息は荒々しく、言葉も途切れ途切れになってきている。
「カロン、もういいわ。少し休んで………」
「いいえ、プリンセス。わたしには、もう時間がないのです」
寂しげに瞳を潤ませ、カロンはセーラームーンを見つめた。
「間もなくわたしは、この化け物と完全に同化してしまいます。そうなればもう、わたしはわたしではなくなってしまいます。“奈落( ”の手先となって、冥界より“奈落) ( ”の仲間たちを召還し続けることになるでしょう………。今は辛うじてそれを押さえてはいるのですが、やつらはすぐそこまで来ています。それももう叶いません。わたしの生命の火は消えようとしています。そうなる前に、プリンセスにお会いできて、わたしは幸せに思います………」)
「カロン………」
セーラームーンは無惨な姿のカロンを見つめたまま、止めどもなく涙を流していた。慰めの言葉もない。おそらく、どんな言葉を掛けたとしても、それは慰めの言葉にはならないのだろう。
「表の世界に現れたカロンは、あなたの分身なの?」
プルートが疑問を投げ掛けた。今までの会話の中に、夏恋のことは触れていなかったからである。
「ここへ現れたということは、やはり彼女に会っていたのですね。ええ。どうしてもあなた方に、この事実を伝えたかったからです。そのために、わたしは禁忌( を犯しました」)
カロンはプルートに視線を移した。
「わたしと同じ波長を持つ、渡瀬夏恋という人物がいたのは、全くの偶然でした。………でも、おかげてこうして会って話をすることができました。わたしの役目も、渡瀬夏恋の役目ももう終わりました………」
「彼女の役目も終わった?」
プルートが怪訝な表情をする。
「ええ。実は、彼女は………」
「まだ終わったわけではないわ!」
何かを語ろうとするカロンの声を制するが如く、別の声が響いた。
陽炎のように揺らめいているその姿は、渡瀬夏恋その人だった。現世で仮死状態となっている夏恋の精神体が、この空間に現れたのである。
「夏恋………。あなたには申し訳ないことをしました。わたしのわがままで、あなたの人生そのものを狂わせてしまった。わたしは禁忌( を犯した罪を償わなければなりません………」)
「禁忌( を犯した………?」)
過去一度だけ禁忌( を犯したことのあるプルートは、その言葉を聞いて眉ひそめた。禁忌) ( を犯した者は、最悪の場合「死」が待っている。プルートはその「死」を、身を持って体験しているのである。三十世紀のネオ・クイーン・セレニティと、現代のプリンセス・セレニティの力がなければ、彼女は永遠の眠りについたままだったはずなのだ。ふたりの力がなければ、彼女は冥王せつなとして新たな生を受けられることはなかったのである。)
「本当のわたしは、死んでいるのよ、セーラー戦士のおふたかた………」
夏恋は衝撃の事実を語りだした。
「やっと思い出したわ………。あたしはカロンと融合( した影響で、記憶の一部を失っていたのよ。わたしが死んだという記憶と、融合) ( した際、残されるべきであったカロンの記憶のふたつを………」)
「どういうことなの?」
信じられないといった表情で、セーラームーンは夏恋に問いを投げ掛けた。
「あたしは不治の病に冒され、そしてその病魔に負け、この地に訪れた。そして、ここで虜となっていたセーラーカロンと出会ったのよ」
夏恋はセーラームーンを真っ直ぐに見つめ返し、彼女の疑問に答えた。
「わたしたちは取引をしたのです、プリンセス。まだ生きていたいと願っていた夏恋に再び命を与える代償として、わたしの任務を遂行して欲しいと………。わたしの任務とはすなわち、プリンセスに冥界の危機をお知らせすること、そして冥界より出し者の存在を伝えること。そのために必要だと思われる、戦闘のための能力の一部も、夏恋に分け与えました。ですが、強制的に魂を復活させたことのショックで、夏恋はその使命を行うことの記憶を欠落させてしまったようです」
「だけど意識化の中で、あなたに会わなければならないという思いが強く残っていたがために、イギリスにいたあたしは、日本に戻ってくることとなった」
カロンの言葉を引き継ぐ形で、夏恋は語った。
「ですが、やっとわたしの役目も終わりました………」
カロンは小さく呟くように言った。
「人の運命を変えるという最大の禁忌( をを犯してしまったわたしは、罰せられる運命) ( にあります。しかしながら、わたしはこの化け物と同化してしまいます。完全に同化する前に、………まだわたしの意志で、この化け物を制御できるうちに、プリンセス、あなたの手でわたしを罰して頂きたいのです」)
懇願するようにセーラームーンを見つめたカロンは、次いで夏恋に視線を移した。
「あなたには本当に申し訳ないことをしたと思っています。あなたの運命を、大幅に狂わせてしまったばかりか、さらに苦しめるようなことになってしまって………。わたしのわがままを聞き入れてくれて、本当にありがとう………」
カロンは大粒の涙をポロポロと流した。そして、再び視線をセーラームーンに戻した。
「さあ、お願いします。わたしが、わたしであるうちに………」
「でも、カロン………」
「禁忌( を犯してしまった罪のため、わたしは何) ( れその罪を償わなければなりません。自らの命をもって………。どのみち、わたしの運命は見えてしまっているのです」)
セーラームーンはどうしていいのか分からず、助けを求めるようにプルートに目を向けた。 プルートは無言で小さく頷いた。瞳はしっかりとカロンに向けられ、仲間の最期をその目で見届けようと言う意志が感じられた。
セーラームーンはエターナル・ティアルを実体化した。その目でカロンを捉え、ロッドを振り上げる。
「待って!!」
夏恋がセーラームーンとカロンの間に割って入った。
夏恋はセーラームーンの動作が静止したことを確認すると、カロンに振り返った。
「勝手なことを言わないで! あなたの役目が終わったら、それで終わりなの? あたしはどうなるのよ! あたしにはこのまま死ねって言うの!? それじゃあ、勝手すぎない!?」
「心配はいりません。あなたは渡瀬夏恋として、新たな生を受けています。セーラー戦士としての能力は失いますが、生き続けることはできます。わたしとともに、あなたの記憶に植え付けたわたしの記憶も消滅することになるでしょう。あなたは普通の女性として生活することができるのです」
夏恋の心は揺れ動いた。一度は病に倒れた自分が、再び普通の生活が送れるようになる。カロンが消滅し、自分の内にある彼女の記憶も失われてしまえば、普通の女性として天寿を全うすることができるだろう。しかし………。
「冗談じゃないわ! わたしがセーラー戦士として戦ってきた記憶はどうなるの? それも失われてしまうの? その間に出会った人たちとはどうなるの!?」
自分がセーラー戦士であったから、兵藤と出会うことができた。また、プリンセス・セレニティに会うために日本に来たわけだから、そのお陰でまことたちに出会うことができたのである。そうやって出会った人たちの記憶も、同時に失われてしまうのだとしたら、それは素直に受け入れられるものではない。
「戦士として戦った記憶も同時に失われるでしょう。あなたはわたしと出会う以前の記憶の状態に戻ります」
「そんなの嫌だわ! それじゃあ、あまりにも勝手すぎるじゃない! あたしがしてきたことは、いったい何だったの!? それだけじゃないわ………」
夏恋は声を大にして訴える。
「あなたのしようとしていることは、本当にこれで終わってしまったの!?」
「夏恋………」
「あなたには、まだやることがあるでしょう? 彼女たち、セーラー戦士を助けて戦わなければならないはずだわ!」
ふたりの話を身じろぎもせず聞いている、セーラームーンとプルートに潤ませた視線を向けたあと、夏恋は再び視線をセーラーカロンに戻した。
「でも、夏恋、わたしは………」
「あなたの能力( の全てを、あたしにちょうだい。あたしはこの体をあなたに提供するわ! もう一度、ひとつになるのよ。あの時、約束したように………」)
「夏恋! 何を言っているのか、自分で分かっているの!?」
「もちろんよ! セーラーカロン、気にすることはないわ。あたしは一度死んだのだもの………。あたしはあなたのお陰で、再び命を得たわ。今度は、あたしがあなたに命を分ける番なのよ。あたしの体を使って! あなたをそんな目に遭わせたやつを、自分自身の手で倒すのよ!」
夏恋は必死に訴え掛けた。その瞳に涙を溜めて。
「あなたには、まだ使命が残っているわ………。自分の仇を自分で討つのよ」
「夏恋、そんなことをしたら、再びあなたの運命が変わってしまうわ。セーラー戦士としての戦いの日々が始まるのよ」
カロンの拒絶の声が力無く響く。セーラームーンとプルートは、黙ってふたりの会話を聞いているしかなかった。どうするかはふたりの問題であり、彼女たちが口出ししていい問題ではない。
「覚悟の上よ………。あたしはブラッデッィ・クルセイダース( が許せないのよ。セーラー戦士となって、あいつらと戦いたいのよ。セーラーカロン、あなたとわたしがひとつになって、一緒にあいつらと戦いましょう」)
もはや夏恋の訴えを、カロンが拒絶することはできなかった。夏恋の熱意が、カロンの心を動かしたのだ。それはふたりの願いが、実は同じであるからに他ならなかった。。
カロンはゆっくりと瞬きをしてから、セーラームーンに視線を移動させた。
「わたしは再び禁忌( を犯すことになります。ですが、その禁忌) ( は間違いではないと信じています。プリンセス、わたしが禁忌) ( を犯すことを、許していただけますか?」)
セーラームーンは戸惑いの表情を見せ、一瞬だけプルートの瞳を覗いた。プルートの瞳は、拒否する理由がないという意志を持って、セーラームーンを見つめ返す。
セーラームーンは瞳を閉じ、僅かの間思案を巡らせていたが、やがて強い意志ある輝きを持つ瞳で、真っ直ぐにカロンの目を見つめると、
「プリンセス・セレニティの名において、あなたの行動を許可します」
しっかりとした口調で答えてやった。
「ありがとうございます、プリンセス。もうひとつだけ、わたしの願いを聞いていただけますか?」
「ええ、カロン」
「プリンセスの御力で、わたしを浄化してください。この化け物ごと、わたしの肉体を完全に消滅させて欲しいのです」
「え? でも………」
「大丈夫です。夏恋とひとつになるためには、必要なことです」
真っ直ぐにセーラームーンの瞳を見つめ、カロンは願いを込めるように言った。セーラームーンは無言のままゆっくりと頷いてみせると、エターナル・ティアルを右手の中に実体化させた。
「あなたの想い、しっかりと受け止めたわ!」
セーラームーンはティアルを頭上に翳した。
「お願い、銀水晶! カロンと夏恋さんの願いを叶えてあげて!! シルバー・ムーン・クリスタル・パワー・キッースッッ!!」
セーラームーンの掛け声に呼応して、エターナル・ティアルから眩い光が放射される。光はカロンと夏恋を同時に包み込み、更に輝きを増すと、だしぬけに弾けるように消滅していった。
カロンを取り込もうとしていた化け物は、凄まじい浄化の光に晒されると、何の抵抗もする間もなく、「無」へと還っていった。
カロンと夏恋も消滅し、「魂の門」には、何事もなかったかのような静けさが戻ってきた。
「ねえ、プルート( 。本当に、これでよかったと思う?」)
何もない空間を見つめ、セーラームーンは訊いてみた。
「ふたりが選んだ道だもの。ふたりの好きなようにやらせるのが一番だと思うわ」
プルートは答えた。
セーラームーンは『魂の門』に向かって、僅かに歩み寄った。行き場をなくしていた魂たちが、真っ直ぐに門に向かって進んでいく。
「カロンの本来の能力が戻ったことで、魂たちも自分たちが向かうべきところが分かったようね」
「どういうこと? プルート( 」)
「カロンはこの場にいなくても、『魂の門』を制御できるわ。あたしがどこにいても、『時空の扉』を管理できるようにね………。カロンはあたしと同じように、プリンセス・セレニティの力によって、新たなる戦士に生まれ変わったのよ」
「あたしの力………?」
「さあ、元の世界に帰りましょう。マーズ( が呼んでいるわ………」)
セーラームーンの背中に、プルートが呼びかけた。
「冥界の門」は、再び主が戻ってくる日を、再び待ち続けることになる。それがいつになるのかは、今は分かるはずもなかった。