吸血鬼の里へ
ブカレストから特急を使って約四時間半。シギショアラ駅に到着したみちる一行は、この町唯一のホテル、スチャウアに宿を取った。
ホテル内のレストランで軽い食事を済ませると、長旅の疲れを癒す間もなく、はるかの手掛かりを求めて町に出ていった。
駅から町を目指す際に目印とした時計塔に、一行は向かうことにした。小高い丘に建てられている時計塔は、町のシンボルだというだけあって、遠くからでも非常に目立った。駅から町へ向かう途中、ティルナヴァ川に掛かる橋の上から時計塔を発見したときには、新月は彼女にしては珍しく、歓声をあげて喜んだものだ。
「本当に小さな町ですね………」
歩いてまわっても、二時間も掛ければ町中を歩けてしまうだろうと思えるほど、小さな町であった。
彼女たちが想像していた町より、かなり規模が小さい。
「あの女の出任せに、まんまと填ってしまったってところかしらね………」
半ば諦めたように、みちるは言った。
ブラド串刺し公の生家であるドラキュラの家も、今ではレストランになっている。特に調査すべきところではない。丘の上にある山上教会へは、礼拝か観光ツアーの見学以外は中へ入ることはできず、ここも調査をすることはできない。邪悪な気配は感じないから、あえて調査をする必要もないと思えた。
「まいったわね………。こう何にもないんじゃ、調べようがないじゃない」
みちるは肩を竦めるしかない。
町の人々も吸血鬼の存在は信じているようだが、今現在この町に吸血鬼が出るかという質問には、誰もが笑って「Nu」と答えるばかりである。
「ブカレストに戻りましょうか?」
仕方なく、亜美はそう口にせざるを得ない。このままここにいても、時間の無駄のように思えてならなかった。
「夜までホテルで休憩しましょう。ヴァンパイアは夜出るものと、相場は決まっているものね。調査をするなら、夜の方がいいかもしれないわ」
確かに、昼日中から堂々と現れる吸血鬼は滅多にいるものではない。そう感じたみちるの勘は、実は正しかったのだ。もちろん、その勘が当たっていたと分かるのは、この日の晩のことである。
「あら?」
亜美が小さな声をあげた。みちると新月は、その亜美の視線を辿る。
男の子がいた。歳は五歳くらい。物珍しそうな視線を、自分たちに向けている。
「ブナ ズィア」
亜美は笑顔を作った。ルーマニア語で「こんにちは」と言ったのだ。
異国の女性に警戒しているのか、男の子は物陰から顔を半分だけ出すようにしてこちらを見ているだけである。
「行きましょう、亜美」
みちるが亜美を促した。みちるにしてみれば、異国の男の子の相手をしている暇はないのだ。はるかの手掛かりとなる事柄以外は、殆ど関心を示さなくなっていた。
焦っているのである。
亜美もそのみちるの焦りは感じていたから、いつまでもこの場に留まるようなことはしない。物陰から覗く男の子に笑顔で手を振ると、みちるのあとを追うようにして歩き出した。
ホテルに向かってしばらく歩いていた亜美は、物陰に隠れるようにして自分たちに付いてくる、小さな影があることに気付いた。
「みちるさん」
亜美は、前を歩くみちるに小声で話し掛けた。みちるも小さな尾行者に気付いたらしく、諦めたような笑顔を作って立ち止まった。
「付いて来ちゃったの? あの男の子………」
新月はチラリと後方を振り返る。小さな追跡者は、慌てて物陰に身を潜めた。
「そんなところに隠れてないで、出ていらっしゃい」
みちるは物陰に向かって声を掛けた。男の子がひょっこりと顔を出した。好奇心旺盛の瞳で、自分たちを見ている。
「外国の人が珍しいの?」
亜美は笑顔で質問する。しかし、考えて見ればそれほど珍しいことではないはずだ。串刺し公ブラドの生家があることで有名なこの小さな町は、外国からの観光客もしばしば立ち寄るはずだ。
「お姉ちゃんたち、どうしてこの町に来たの?」
男の子がようやく口を開いた。好奇心旺盛な目は相変わらずである。
「この町は、夜になると本当に吸血鬼が出るよ! 若い女の人は危険なんだ。この町の人たちは、絶対に夜は外に出ないんだ」
「へぇ………。怖いわね」
亜美はその言葉は男の子のジョークだと思った。
「疑ってるの?」
男の子は不満そうに言う。好奇心旺盛な瞳に、翳りが生じた。答えに困っている亜美に代わって、
「吸血鬼が出るって、本当なの?」
新月が男の子に対して質問を投げ掛けた。
「嘘じゃないよ! この町は、本当に吸血鬼が出るんだ!」
男の子は体半分を物陰に隠していたのだが、いつの間にか隠していた半身を彼女たちに見せていた。その何かを訴えたいという必死の表情は、鬼気迫るものがあった。
その必死の表情に、彼女たちは顔を見合わせた。
「吸血鬼を実際に見たのね」
その男の子の表情から、尋常ならざるものを感じたみちるは、そう判断した。ずばりを指摘され、男の子は急に押し黙ってしまった。警戒心を強め、僅かに後ずさった。
「大丈夫。このお姉さんたちは、キミの味方よ。もの凄く強いんだから」
機転を効かせた新月が、救いの手を差し伸べた。男の子の興味をそそうような言い方を、わざとしたのだ。
案の定、男の子は瞳を輝かせた。
「お姉さんたち、強いの?」
「もちろんよ、正義の味方だから」
新月はにっこりと微笑んで見せる。男の子の心は、ようやくほぐれたようだった。新月の神秘的な瞳に惹かれたのかもしれなかった。
男の子の名はイワンと言った。この町で生まれ、この町で育った、五歳の男の子だった。病弱らしい彼は、殆ど家の外に出ることはなかったらしく、たまに親の目を盗んでは、きょうのように表に出ることがあるようだった。
一週間前の晩、やはり両親の目を盗んで夜中に外へ出たときに、事件を目撃した。時計塔の前で、見知らぬ女性が吸血鬼に襲われていたというのだ。この町は、小さい。いくら病弱で、殆ど家の外に出ないイワンでも、それなりに町の人の顔は覚えている。見たことのない顔だというなら、おそらくその女性は観光客だと思えた。
牙を剥きだし、女性の首筋に噛み付いていた吸血鬼は、なんとイワンに気付いていたというのだ。首に噛み付いたまま、イワンの方をジロリと見た吸血鬼は、ニタリと笑ったというのだ。にわかに信じられない話であるが、イワンの真剣な眼差しを見れば、それは事実だと判断できる。
「そのあと、吸血鬼はどうしたの?」
「どっか行っちゃった」
亜美の質問に、イワンはあっけらかんと答えた。吸血鬼は何故イワンを襲わなかったのか。女性の血だけで満足したのだろうか。謎は残る。
吸血鬼を目の当たりにして恐ろしくなったイワンは、すぐさま家に逃げ帰り、ベッドの中に潜り込んだのだという。
「夢でも見てたんじゃないかしらね………」
新月がみちるの耳元に囁く。
「夢じゃないよ!」
小さな声で囁いたつもりだったのだが、神経が過敏になっているイワンの耳に届いてしまったようだった。イワンは顔を真っ赤にして怒る。
「やっぱり信じてくれないんだ!」
「ごめんなさいね。信じるから………」
亜美が優しく微笑んだ。その笑顔に安心したのか、イワンもつられたように笑い返す。
「お姉さんたちは、満月って見たことあるよね? ボクね。満月って、見たことがないんだ………」
笑顔だったイワンの表情に、急に翳りが生じた。
「どうして、満月を見たことがないの?」
「満月が近くなると、パパもママも何故かボクの部屋で一緒に寝るんだ。だから、夜部屋を抜け出そうにも、それができないんだ。パパもママも言うんだ。ボクの病気には、月の光がよくないって。特に満月の光が駄目なんだって………」
イワンは寂しそうに言った。
「満月の光が病気に悪い………?」
亜美は思案したが、月の光に影響される病気など聞いたことがない。みちるに視線を送ったが、みちるも首を横に振るだけだった。
「この町の迷信かな?」
新月も不思議がる。確かに、その町独特の迷信が、昔から根強く信じられている場合がある。吸血鬼の町として有名なこの町にも、そういった類の迷信があっても不思議ではない。
吸血鬼は満月の夜に、最大の能力を発揮する。これも一般的に知られている言い伝えであるが、それがこの町にも浸透していて、幼い子供を吸血鬼の魔の手から守るために、そう言って子供が夜中に外に遊びに出ないようにしているのかもしれなかった。
イワンの両親も、きっと彼が夜中にこっそり遊びに出ているのを知っているのだろう。だから、せめて満月の夜だけはと、監視も兼ねてベッドを共にしているという可能性はある。
「だから、ボクは満月の夜が嫌いなんだ」
少しばかりむくれた表情で、イワンは言った。
「ねぇ、お姉さんたち。いつまでこの町にいるの?」
「特には決めてないわ」
亜美は腰を落とし、イワンの目線と同じ高さになるように調整をした。
「じゃあ、ボク、あしたも抜け出してくるから、またお話しようね!」
「あんまり、パパとママに心配をかけては駄目よ」
「うん!」
にこやかな笑顔を振りまいて走り去っていくイワンからは、病弱という言葉はとても連想できなかった。
「変わった子ね………」
時々振り向いては手を振ってくるイワンに答えながら、みちるは微笑み混じりに言った。
夜もすっかり更けた八時ちょうど。ふたりは行動を開始した。
何が起こるか分からないため、新月はホテルに残していくことにした。新月も足手まといになるといけないからと、みちるの意見を素直に聞き入れた。
「ホテルが安全だとは限らないけど、あたしたちと一緒よりは少なくても危険は少ないと思うわ」
メインストリートに出たみちるは、ホテルを見上げて呟くように言った。新月を残していくことに亜美も賛成だったから、あえて何も言うことはしなかった。みちる同様、無言でホテルを見上げるだけに留めた。
「満月ですね………」
ホテルを見上げていた亜美の視界に、真ん丸い月が入ってきた。太陽の光を反射して白く輝く月は、とても神秘的に見えた。満天の星空が、更にふたりを幻想的な世界に誘う。
「満月は嫌いだ」
昼間のイワン少年の言葉を思い出して、ふたりは同時に苦笑した。
「満月はこんなに綺麗なのにね………」
みちるは亜美に流し目をする。
美しい満月と満天の星空。
空気が澱んでしまっている都会では、決して見ることの出来ない光景である。
「宇宙には、こんなにも星があったんですね………」
分かってはいることだったが、亜美の意志とは関係なく、言葉が口から出てしまった。みちるは微笑んで、亜美の肩を軽く叩く。いつまでも幻想気分に浸っているわけにはいかなかった。
「変身するわよ、亜美………」
今宵は満月。それが何を意味するものなのか、ふたりは充分理解しているつもりだった。
「魔」の力を持つ者にとって、満月の夜は自らの能力が倍増する最高の夜なのだ。満月から降り注ぐ白い月の光は、「魔」の力を持つ者に、無限のパワーを与える。吸血鬼の能力が満月の夜に最高潮に達するという言い伝えは、あながち間違いではないように思えた。
「月の神秘な光が、魔性の者の能力を無限に引き出すなんて、不思議な話ですよね………」「シルバー・クリスタル・パワーが魔の力を呼び起こす………。考えられない話ではないけれどね………」
全ての人々に平等に力を分け与えるシルバー・クリスタル・パワーが、魔性の者のパワーを倍増させたからと言って、別に不思議なわけではない。月にシルバー・ミレニアムが存在し、浄化作用を加えた光ならば、魔性の者の活力源になることはないのだろうが、残念ながら、現在は月にシルバー・ミレニアムは存在しない。プリンセス・セレニティの復活で、ミレニアム自体は再生されたが、かつてのような能力は、もう無きに等しかった。月から浄化作用を加えた光が地上に降り注ぐためには、クイーンがシルバー・ミレニアムにいなくてはならないのだ。
「イワン君の言ったことが気になるんですか?」
考え込んでいる様子のみちるに、亜美は声を掛ける。
「何か引っかかるのよね………。月の光と吸血鬼………。あたしたち、何か重大なミスを犯しているような気がする………」
「重大なミス?」
「分からないわ………。何かきっかけさえあれば………」
言いかけたみちるの表情が険しくなる。
「さっそく、お出ましのようよ………」
ふたりの目の前に、ふらふらと浮浪者ののような集団が近付いてくる。その数は六‐七人。なんとも鈍重な動きではあるが、確実にふたりを目指してきていることは感じ取れた。
「変身よ、亜美」
みちるの言葉に亜美は頷く。
集団の数が増えた。十人はいるだろう。
ふたりは即座にメイク・アップした。
先手必勝とばかりに、ネプチューンは集団に向かって突進した。敵の正体をその目で確かめる意味もある。ウラヌスとのコンビを組んでいた時の癖が、ここで出てしまったのである。今ならマーキュリーに分析を任せればいいのだ。
十人の集団が一斉に動いた。瞬時に散開したのだ。その動きは今まで見せていた鈍重な動きとは比べものにならないほど、素早かった。
「!」
ネプチューンが自らの迂闊さに気付いたと同時に、マーキュリーの援護が来た。凄まじい水流が、瞬時に集団を飲み込んだ。
だしぬけに頭上から悲鳴が降り注いだ。
「しまった!」
ネプチューンはホテルを見上げたが、既に遅かった。
蝙蝠のような羽根を持つ奇怪な生き物に、新月は捉えられてしまっていた。
「新月!」
蝙蝠の羽根を持つ生き物は、新月を小脇に抱えると、満月が美しい夜空に向かって飛びたって行ってしまう。
「追うわよ!」
わざわざネプチューンに言われるまでもなく、既にマーキュリーはゴーグルを装備し、手にはポケコンを持っていた。
「念のため、新月には発信器を持ってもらっています」
「さすが、抜かりはないわね」
蝙蝠人間に連れさらわれた新月のトレースはマーキュリーに任せ、ネプチューンは視線を元に戻した。その表情が曇る。
「そう簡単に追わせてくれそうにないわよ、マーキュリー( ………」)
ネプチューンの言葉に、マーキュリーも視線を前方に向けた。
「囲まれてるわ」
素早く周囲に視線を走らせていたネプチューンは、前方を見つめたままのマーキュリーに事態を告げる。
ゆらゆらと、まるで水草のように体を揺らしながら、精気のない瞳を不気味に輝かせながら、十数人の男女が一定の距離を置いて、ふたりのぐるりを取り囲んでいた。全身が濡れている者は、先程のマーキュリーの攻撃を受けた集団に加わっていた者だ。
「肌がピリピリと痛むわね………」
「ええ………。もの凄い妖気を感じます」
ふたりの周囲には、おびただしい妖気が漂っていた。それが、ぐるりを包囲している精気のない者たちから発せられている“気”だと想像するのは、さほど難しいことではない。
俯いたままだった者たちが、一斉に顔をあげた。瞳は金色に輝き、牙をむき出しにする。筋肉が盛り上がり、着ている服が裂けた。服の下からは闇よりも黒い毛に被われた、別の皮膚が現れる。
「人狼( !」)
その容貌を変化させた人々を目の当たりにして、ネプチューンは叫んでいた。金色の瞳を持ち、闇よりも黒い毛に被われた人々は、獣そのもののように思えた。
「この町の人々は、人狼( に変えられてしまっている!?」)
マーキュリーも驚きを隠せない。
「突破するわ! こんなやつらに構っている暇はないわ!」
ネプチューンは前方を鋭い眼差しで見据える。発信器の電波が届く範囲は限られている。相手が蝙蝠人間( なら、早めに追跡をしなければ、見失ってしまう可能性がある。新月をみすみす敵の手に渡すことはできない。)
「シャボーン………スプレー!!」
町の人たちが姿を変えた人狼と戦うわけにはいかない。町の人たちには罪はない。傷つけるわけにはいかないのだ。
マーキュリーは相手を攪乱させる作戦を取った。
「行くわよ! マーキュリー( !!」)
マーキュリーの発生させた霧によって、視界を妨げられた人狼人狼( の一団を、体術でねじ伏せたネプチューンは、その脚力を生かして風のように走る。)
遅れてマーキュリーが続く。ネプチューンほどの脚力はないが、混乱している人狼( の集団を振り切るのには、充分すぎるほどのスピードだった。)
「町を離れます!」
マーキュリーの脚力に合わせ、走るスピードをダウンさせたネプチューンの耳に、マーキュリーの声が届く。
程なく、前方に密林が見えてきた。蝙蝠人間( は、その密林の中に姿を消した。)
密林の向こうに小高い丘が見えた。その丘の上に、不気味な古城が、満月に照らされてそびえ立っていた。
「ようこそ、お嬢さんたち………」
不意に目の前に、影が降り立った。重力を無視し、ふわりと地面に着地する。
「やはり出たね、マチュア!」
ふたりの目の前では、ブカレストで一戦を交えた、吸血鬼マチュアが妖艶な笑みを浮かべていた。
「あたしと戦うつもり………?」
挑発的な眼差しで、マチュアはふたりを交互に見つめた。
「あたしたちの邪魔をするというのなら、容赦はしない!」
ネプチューンは毅然とした態度で叫んだ。
「この町を教えてあげたのは、あたしなのにね………。恩知らずなお嬢さんたちだこと…………」
マチュアの瞳は笑っていた。余裕の笑みだと感じた。
「さぁ、いらっしゃい。あたしのしもべたち………。このお嬢さんたちを、懲らしめてあげなさい………」
マーキュリーとネプチューンの背後には、いつも間にやら町の人々が集結していた。その中には、昼間出会ったイワンの姿も見える。
町の人々は瞳を金色に輝かせると、その容貌を人狼( へと変化させた。)
「満月は嫌いだ………」
イワン少年の声が、再びマーキュリーの脳裏を掠めた。
「イワン………」
モンスターへと変化してしまったイワンには、昼間のような好奇心旺盛の少年の面影はない。マーキュリーは潤んだ瞳を伏せると、後方のマチュアを鋭い視線で捉えた。
「なんて卑劣な手を使うの!? あなただけは、絶対に許せない!! 知の戦士セーラーマーキュリーが、彼らに代わってあなたを倒す!!」
いつになく闘志を漲らせたマーキュリーは、ネプチューンの瞳に頼もしく映っていた。