ロードス島へ


 潮風が頬を打つ。雲ひとつない青空が、どこまでも続いていた。そして、見渡す限りの青い海。
 穏やかな海原を、古びた中型の客船が航行している。けっして豪華だとは言えない客船だった。
 愛を語らい合っている若いカップルや、微笑ましいかぎりの熟年のカップル。甲板を走り回る元気な子供たちの姿は、世界の各地で起こっている事件など絵空事のように思えるほど、平和すぎる光景だった。
「こんなところにいたの………」
 長い髪を潮風に靡かせて、何の代わり映えもしない青い海を眺めていたアルテミスに、若い女性が声を掛けた。
「俺だって、物思いに耽ることぐらいあるよ。(すばる)………」
 曖昧な笑みを浮かべながら、アルテミスは振り向いた。背中を手摺りに凭れかけ、声を掛けてきた女性を遠慮がちに見つめる。
 その女性は、変身を解いたセーラープレアデスであった。地球名を星集(ほしつどい)(すばる)と名乗っている彼女は、パリで出会ったときのような奇抜な服装はしていなかった。地球生まれではないはずのプレアデスが、何故地球名を持っているのか謎なのだが、アルテミスは訊くつもりはなかった。不思議なことにパスポートも所持していて(偽造か本物かは別として)、日本人を名乗る彼女は、港区麻布十番にあるマンションで暮らしていることになっている。恐ろしい偶然である。
 プレアデスいや、昴はアルテミスの横に並び、水平線の彼方を見つめるようにする。
「キミの服装は目立ちすぎる」
 パリを旅立つとき、やはり派手な格好をしていた彼女に、アルテミスが指摘した。アメリカの西海岸でも歩いていそうな彼女の服装は、パリの市内ではとにかく目立った。もっとも、アルテミスが自身の目のやり場に困るから、もう少し肌を隠すような服装をして欲しいと、彼女に頼んだのだ。
 昴にしてみれば、自分のナイスバディを誇示するためにわざと露出度の高い服装をしているのであって、見たいなら見ればいいのにと口では文句を言っていたのだが、意外と素直に質素な服装に着替えた。
「持っているのなら、初めから着てくれよ………」
 そう、アルテミスがぼやいたのは言うまでもない。
 ネコの姿のままのアルテミスだったら、別にそのような指摘はしなかったのだろうが、(現に美奈子がミニスカートを履くことは反対していないし、よく足下からスカートの中を盗み見することがある)人の姿ではそうはいかない。やはり、変に意識してしまう。
「ロードス島へは、あとどのくらい?」
 クリティ海の美しい海を眺め観ながら、昴は尋ねた。
「いや、この船はロードス島にはいかないよ。行き先はクレタ島だ」
「え!? どうして!?」
 昴が不思議がるのも無理はない。そうでなくても時間の掛かる船で移動しているのだ。寄り道などしている暇はない。もし、クンツァイトたち一行が飛行機で移動しているとすると、彼らはとっくにロードス島に着いているはずなのだ。
「クレタ島で調べたいことがある。ロードス島へは、クレタから飛行機で向かう」
「………でも、急いだ方がいいんでしょ?」
「急いてはことをし損じると言う諺がある。急ぐのは当然だが、焦ってはだめだ。俺たちをわざわざアジトのあるロードスへ誘ったということは、敵はロードスでの防衛戦に絶対の自信を持っているということになる。やつらのアジトの規模が分からなくては、俺たちは動きようがない。むざむざ殺されに行くようなもんさ」
「意外と慎重派なのね………」
「慎重にもなるさ………」
 アルテミスは遠くを見つめた。美奈子が捕らわれてから、もうどのくらい経ってしまったのだろう。正確には覚えていない。日にちの感覚がなくなってしまっていた。
「無事でいるといいわね………」
 アルテミスの考えていることが分かったのだろうか、昴は海に背を向け、足下に視線を落としながら呟いた。
 アルテミスは答えない。無言で青い海を見つめているだけだった。

 甲板にアルテミスを残し、昴はひとり船室に戻ってきた。
 旅費を節約すると言う理由で、ふたりはずっと同じ部屋に寝泊まりをしている。ホテルでも、船でもそれには変わりがない。
「あたしって、魅力ないのかなぁ………」
 鏡に映る自分の姿を見ながら、昴は呟く。彼女はアルテミスと行動をともにしているうちに、知らず知らずのうちに彼に惹かれてしまっていたのだ。
「美奈子さんて、どういうヒトだろう………。美人なんだろうな………」
 まだ見ぬ恋敵に嫉妬しながら、昴は船室で佇んでいた。
 ドアが開き、アルテミスが戻ってきた。
「? どうした?」
 普段と様子が違う昴を見て、アルテミスは不思議がった。昴から、いつもの元気が感じられない。先程甲板で会ったときには、全く気が付かなかった。
「ねぇ………。あたしのこと、どう思う?」
 ひどく聞き取りにくい小さな声で、昴は訊いてきた。
「どうって、言われても………」
 へらへらしながら、アルテミスは後頭部をボリボリと掻いた。鈍感なアルテミスは、彼女の質問の真意にまだ気付いていない。
「あたしたち、もう五日も同じ部屋で寝泊まりしているんだよ………」
「あ、ああ。そうだよね」
 予算の都合上、部屋をふたつ取ることができなかった。ネコのままでは何かと不都合が生じるため、アルテミスも人間体で移動しなければならない。仕方がないこととはいえ、ふたりは今まで同じ部屋で寝泊まりをしてきた。ルナが知ったら、きっと激怒することだろう。
「男と女が五日も同じ部屋で寝泊まりしていて、何事も起こらないって言うのは、ちょっと変じゃない?」
 昴がアルテミスににじり寄った。
「へ、変て、何が………」
 昴の言っていることを理解し始めたアルテミスは、言葉がしどろもどろになってきた。額に汗が浮かぶ。
 昴は上目遣いで、アルテミスの顔を下から見上げるようにした。
 昴の付けているコロンの甘い香りが、アルテミスの鼻孔を擽った。脳が痺れてきた。
 気持ちが抑えられないかもしれない。アルテミスはそう思った。理性を保つことができないかもしれない。
「す、昴………。あ、あのさぁ………」
 アルテミスは話題を変えようと必死に模索するが、適当な話がまるで浮かばない。
 既に眼前まで迫ってきている昴が、物憂げな表情でアルテミスの顔を見上げた。今日の昴は、真っ白いブラウスにジーンズという、彼女にしてみれば非常に地味な服装である。しかしながら、ブラウスが白いことが災いしてか、薄いブルーの下着が透けて見える。男としては、どうしてもそちらに目が行ってしまう。近くで見ているので、胸の谷間もうっすらと見える。豊かなバストに加え、その形の良さも見事という他はない。その辺は変身している時にチェック済みだ。
「エッチ。どこ見てるのよ」
 胸を見られていることに気付いた昴が、優しい口調で咎めた。まるで恋人同士の会話である。
(や、やばい………)
 さしものアルテミスも焦った。ここは、ほとぼりが覚めるまで、しばらく部屋を退散していた方がよさそうだ。
「あ! ちょっ、ちょっと用事を思い出した! すぐ戻ってくるよ!!」
 するりと昴を躱し、アルテミスは逃げるように部屋を出ていく。
「あん! ちょっとぉ! アルテミスったらぁ!」
 昴は甘ったるい声で呼び止めたが、アルテミスは戻ってくることはなかった。
「もう! 意気地なし!!」
 アルテミスが消えていったドアに向かって、昴は思い切りアカンベーをするしかなかった。

「じょ、冗談じゃないぜ………」
 冷や汗をどっぷりと掻いたアルテミスは、大きく深呼吸をして自分の心を静める。再び甲板に出て潮風に当たる。
「ルナに知られたら、殺されるな………」
 健康な男女が五日間も同じ部屋に寝泊まりしていて、何もなかったと言う言い訳は、世間ではあまり通用しない。ルナにも美奈子にも言えることではない。特にルナは、絶対に信じない。
「俺だって辛いんだ………」
 アルテミスはぼそりと呟いた。

「女はどうしている?」
 ワインを片手に、テラスから見えるプールを眺めていたジェラールに、ヴィクトールは声を掛けた。
「部屋にいるよ」
 純白に塗装された手摺りに、もたれ掛かるようにして振り向いたジェラールは、部屋の中のヴィクトールをチラリと見やると、赤いワインを喉に流した。
「お前も茶番が好きだな………」
 少しばかり皮肉を込めて、ヴィクトールは言う。
「持ち駒は有効に使わなくてはいけない」
 ジェラールはテラスに置いてある小さな丸テーブルに自分のワイングラスを置くと、あらかじめ用意されていた別のグラスに、ボトルからその赤い液体を半分ほど注ぎ込んだ。新たに赤い液体が注ぎ込まれたグラスを手に取り、ヴィクトールに差し出した。
 ヴィクトールは遠慮するという風に右手を動かし、部屋からテラスに出てくると、階下に見える無人のプールに視線を落とした。
「やつらの力、どう思う?」
 グラスを口に運びながら、ジェラールは訊いた。
「侮れんな………」
 無人のプールに視線を落としたまま、ヴィクトールは短く答えた。ゆっくりとした動作で、体を反転させた。背中を手摺りに凭れ掛けさせる。
「やつらからは、強いパワーを感じる。我々と同じく、特別な能力を持った人間のようだ」
 ヴィクトールは、ジェラールの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ザンギー、タラント、そしてレプラカーンが破れた。その力は、評価すべきだ。侮っていては負ける」
「俺が戦ったときには、それほどの力は感じなかったがな………」
 ジェラールは一度、アルテミスと剣を交えている。その時は、ジェラールがアルテミスを圧倒した。セーラーVに変身していた美奈子も、難なく捕らえている。
「それがやつらの全てだと思うな。戦いでは、相手の力を見くびった方が負ける。………お前に教わったのだぞ」
「そうだったな………」
 ヴィクトールの言葉を受けて、ジェラールは苦笑する。グラスに僅かに残っていた赤い液体を、一気に飲み干した。
「俺とお前が負けるとも思えんがな………」
「ふっ………」
 ヴィクトールは自身満々のジェラールの言葉を聞いて、安心したように微笑むと、
「もしもの時は、俺の命でお前を守ろう」
 ジェラールの瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「もしもは、ない」
 断定的にジェラールは言うと、小さく笑った。

 地中海側に位置するロードス港から、ロードス島に上陸した清宮、望、アンテロス、マクスウェルの四人は、マリーンの門を潜って、旧市街に足を踏み入れた。これから新市内に移動し、拠点を構え、行動を起こす予定であった。
「観光気分ではいけないのだけれど………」
 望は反省気味に呟くが、移動中の船の中といい、ロードス島に上陸してからといい、こう観光客が多いのでは、気が緩みがちになってしまう。アンテロスなどは、すっかり観光気分だった。
「マゼラン・キャッスルにはこういうところはないから、仕方がないと言えば、それまでなんだけど………」
 何か言いたげな清宮を前に、望は先手を打って独り言のような愚痴をこぼす。人工都市マゼラン・キャッスルで生まれた彼女たちにとっては、自然の美しい光景は全てが新鮮である。生まれて初めて見る光景ばかりなのである。シルバー・ミレニアムがあった頃の月へ出向いたこともあったが、月の光景も人工的に作られた光景である。いくら美しいと言っても、自然の美しさに適うはずもない。
「はしゃぐのもいいが、俺たちの本来の目的を忘れないようにして欲しいものだな………」
 あくまでもクールな清宮は、望にだけ聞こえるようにピシャリと言った。アルテミスたちの生死が不明の状態のままである。彼らが生きていれば、合流しやすいようにと、わざわざ時間の掛かる船で移動してきたのである。自分たちが行動を起こす前に、できれば合流してもらいたいと思っていた。
 清宮の頭の中では、アンテロスとマクスウェルは戦力外なのである。
「明日一日だけ待って、行動を開始する。今日を含め、明日の夜までは好きなように行動しろ」
 アルテミスたちが来なければ、明後日には自分たちだけで行動を開始するつもりなのだ。四人で美奈子救出に向かうことになる。
「大丈夫。アルテミス様は、きっと来ますよ………」
 自分にも言い聞かせるように、望は呟いたが、変装して敵地に乗り込んでいるセーラーエロスから一向に連絡が入らないことが、ひどく気掛かりとなっていた。