夕闇の吸血鬼


 ビクトリア宮殿を右に見ながら、亜美とみちるのふたりは、陽の沈みかかったブカレストの街を歩いていた。
 ルーマニアに観光に来る日本人は珍しいのか、街ゆく人々は珍しげに亜美たちを見ていた。初めはその視線から逃げるように街を歩いていたふたりだったが、一週間もブカレストに滞在していると、すっかりその視線にも慣れてしまった。
 ルーマニア人がじろじろと自分たちを見ていても、それほど気にならなくなった。
「まったく手掛かりがないというのも、なんかおかしいわよね………」
 みちるは立ち止まり、街並みを眺めながら呟いた。
「吸血鬼の地元、ルーマニアでそれらしい事件が何も起こってないわ」
 必要に迫られて、ルーマニア語をマスターしたふたりは、吸血鬼について街の人々に聞き込みを始めたが、返ってくる答えは在り来たりなことだけだった。自分たちが求める答えは、なにひとつ得られていない。
「ブカレストでは、吸血鬼も“毛むくじゃら”も現れていないようですね」
 亜美は半ば諦めかけていた。情報が全くないのである。調査をする場所を間違えているとしか考えられなかった。
「亜美の言いたいことは分かるわ。でもね、あたしは何か引っかかるのよ。もう一日だけ、調査させてもらえないかしら………」
 みちるは哀願するように、亜美を見つめた。みちるにそう言われてしまったのでは、亜美には反対することなどできはしない。みちるが納得するまで付き合うまでだ。それに、みちるの勘はよく当たる。
 ビクトリア宮殿を通り過ぎ、勝利広場に到着すると、ふたりは右へ折れた。アヴィアトリロル通りをしばらく歩くと、程なく左側にキセレフ公園が見えてくる。
 悲鳴はだしぬけに響いた。
 神経が過敏になっていたふたりは、かなり遠くの悲鳴だったが、それに反応することができた。考える間もなく、体が悲鳴が響いた方向に向かっていた。
 悲鳴はキセレフ公園内で響いたように感じた。
 公園に走り込む。
 人集りができていた。
 亜美とみちるのふたりは、その人集りを掻き分けた。輪のようになった人集りの中心に、若い女性がひとり倒れていた。
「どうしたの?」
 みちるは手近な青年に早口で尋ねた。
「分からない。悲鳴が聞こえたので来てみたんだが、そしたら彼女が倒れていた」
 どうやらその青年も、悲鳴を聞いて駆けつけた口のようだ。
 医学の心得がある亜美は、既に倒れている女性の脇に腰を落として、首筋に手を当てている。脈を取っているのだ。
「そっとしておいた方がいいんじゃないか?」
 先程みちるが声を掛けた青年が、亜美の行動を見て注意をしてきた。
「大丈夫よ。彼女は医者の卵だから………」
「へぇ、そうなの………」
 みちるが答えると、青年は感心した眼差しで亜美の背中を見つめた。
 亜美が顔をあげた。視線をみちるに向ける。どうやら脈はあるようだ。
「ひどく衰弱しているようです。早く病院に運んだ方がいいわ」
 亜美はまわりの人々に聞こえるように、少し大きめの声で言った。全体に聞こえるように言えば、誰かひとりは気を利かせて、病院に連絡してくれるだろうと考えたからだ。
 異変はまたも突然だった。
 倒れていた女性が、亜美の左の足首を掴んだかと思うと、突然立ち上がった。咄嗟のことで、亜美にはどうすることもできない。足首を掴まれたまま、逆さまに持ち上げられてしまう。スカートが捲れ上がる。
 亜美は逆さまの状態のまま、顔を真っ赤にしながら、慌てて両手でスカートを押さえようと藻掻いた。彼女はミニのフレアスカートだった。逆様にされたら、下着が丸見えになってしまう。前の方は何とかスカートを押さえ込んで隠せたが、後ろ側はどうすることもできない。
 周囲にいる人々も、これにはただ唖然とするばかりである。
「亜美!!」
 みちるの行動は素早かった。亜美の足首を掴み上げている女性の背中に、渾身の体当たりを仕掛けた。だが、女性は僅かによろめいただけで、ビクともしなかった。亜美の足首を掴んだまま、ゆっくりと体を反転させた。
 目に精気がない。振り向かれた瞬間、視線が合ってしまったみちるは、全身に鳥肌がたった。体が硬直してしまった。
 ようやく事態を把握した勇敢なふたりの若い男性が、辱めを受けている亜美を助けようと、果敢に女性に挑んだ。しかし、男性の手が女性に触れることはなかった。近付いてきた瞬間、もの凄い勢いで弾き飛ばされてしまったのだ。
 ふたりの男性は訳が分からないまま、地面にへたり込んでいる。
 先程みちると会話をしていた青年も、先のふたりに僅かに遅れて突進してきた。しかし、結果は同じだった。
 見えない力に弾き飛ばされ、地面に無惨に転がってしまう。
 女性は足首を掴んでいる手を更に上にあげ、剥き出しの亜美の太股が自分の顔の前に来るようにした。
 白い亜美の太股を、その精気のない瞳で一瞬見つめると、突然牙を剥いた。
「亜美!!」
 みちるは思わず手で顔を覆った。亜美の太股に噛み付く吸血鬼の姿を、さすがに直視できなかったのである。
 悲鳴が響いた。しかし、それは亜美のものではなかった。牙を剥いた女性のものだったのだ。
「!?」
 悲鳴が亜美のものではないと悟ったみちるは、顔を覆っていた手をどけた。
 悲痛な表情でのたうち回っている、女性の姿が視線に飛び込んできた。女性の背中には、ちいさな銀の十字架が突き刺さっている。のたうち回る女性のすぐ脇で、腰を抜かしているらしい亜美が、地面にペタンと腰を落としているのが見えた。
 悲鳴をあげながら苦しみ藻掻いていた女性は、やがてもの凄い異臭を放ちながら灰になっていった。
 周囲にいた人々も、この光景を目の当たりにして、さすがに声も出ない。
「大丈夫?」
 人垣の間から抜け出るようにしてきた年若い女の子が、茫然としている亜美に手を差し出した。
 日本人だった。

 彼女の名前は、柴 新月。十七歳だそうだ。高校三年生ということになる。亜美とは同学年だ。
 新月は、亜美とみちるのふたりをひとめ見るなり、
「ふたりとも、強い星の輝きを持っているのね………」
 奥深い、神秘的な瞳で、ふたりを交互に見つめた。
 面倒なことに巻き込まれるのを避けるため、新月は亜美を助けたあと、亜美とみちるを連れ、直ちにその場から逃げるようにして立ち去った。
「あなたたちを助けたのは、あなたたちふたりが、わたしと同じものを持っていると感じたからよ」
 新月は、走りながら言っていた。
 結局、自分たちの泊まっているホテルが一番落ち着けると言うことで、亜美とみちるは新月を自分たちの泊まっているホテルへと案内した。
 ルームサービスで頼んだドリンクを飲んで一息付いたあと、みちるは、
「あなたは何者?」
 神秘的な瞳の輝きを持つ少女に、怪訝な表情を見せた。助けてもらった成り行き上、一緒にホテルまで来てしまったが、みちるはこの得体の知れない少女を信用したわけではなかった。
「わたしは自分を知ってくれている人を捜しているのよ」
 神秘的な瞳を寂しげに輝かせて、新月は答えた。
「どういうこと?」
 みちるの表情が曇った。
「わたしは以前の記憶を持っていないの。気が付いたら、この地にいたのよ。どうしてこの地に赴いたのか、わたしはこのあとどうするつもりだったのか、全く分からないのよ。ただ、わたしは日本人の柴 新月という名だということしか、自分自身のことを知らないわ」
 十七歳という年齢にしては、ひどく落ち着いた話し方をする少女だった。
「ご両親は一緒じゃないの?」
 尋ねたのは亜美だ。いくらなんでも、十七歳の少女が日本からひとりでルーマニアまで来たとは思えなかった。
「分からないわ」
 新月は首を横に振った。
「気が付いた時には、わたしはひとりでこの地にいたのよ。そして、あなたたちに出会った………」
「いくらなんでも、それはおかしいわ………。でも、あなたの言うことが正しければ、何かの拍子に記憶を喪失したという説明も付くけれど………」
 みちるは納得していない。確かに、記憶喪失という言葉を使えば、ひとことで説明が付いてしまうが、彼女の場合には、それだけでは説明が付かないように感じられた。
「パスポートは持ってる?」
 亜美が質問した。確かに国外に出るのならパスポートがいる。新月が日本人である以上、通常の手続きで出国したのなら、パスポートを持っていなければおかしい。
「ないわ………」
 新月は短く答えながら、首を横に振った。これでは彼女の身元が確認できない。彼女が「柴 新月」である証拠がないことになる。
「あたしたちを、星の輝きを持つ者と言ったわよね」
 みちるのその言葉には、警戒が含まれていた。慎重に、言葉を選ぶように尋ねた。
「わたしと同じものを持っていると感じたわ。あなたたちふたりからは、わたしと同じ波動が感じられたのよ。だから、わたしはあなたたちを助けた。もしかしたら、わたしを知っているかと思って………」
 新月のその言葉を聞くと、亜美とみちるはお互いを見つめ合った。確かに、新月から星の輝きを感じるのである。スター・シード、それも自分たちと同じセーラー・クリスタルの輝きを、新月からは感じるのでだ。
「あなたは、セーラー戦士かもしれない………」
「セーラー戦士?」
 みちるの口から出た聞き慣れない単語を、新月は反芻していた。
「しばらく、あたしたちと行動を共にするといいわ。あなたが本当にセーラー戦士ならば、やがて覚醒する時が来るでしょう」
 みちるは複雑な心境だった。新月がもしセーラー戦士だとしても、味方である可能性は五分五分である。もしかしたら、自分たちの首を絞める結果になるかもしれないと思いながらも、みちるはどうしても新月が気になって仕方がなかった。
「なんだか、外が騒がしいですね………」
 ふと、亜美は席を立った。窓際に足を運び、外の様子を眺める。外は夜の闇に包まれていた。きらびやかなネオンなどはないから、窓から見ても、夜になってしまえば殆ど外の様子は分からないが、窓は開けていたから、音だけは絶えず聞こえてくる。
 悲鳴と怒号が入り交じって聞こえてきた。ただならぬ様子である。
 亜美たちの部屋は五階にある。街灯ぐらいしか明かりがない道路の様子を見るには、この距離ではいささか困難だった。
「みちるさん! 確かめてきます!!」
 亜美はそう言うと、みちるの返事も待たずに、地上五階のベランダから、道路に向かって飛び降りた。もちろん、落下途中でセーラーマーキュリーへと変身するつもりなのだ。亜美にしては、大胆な行動だった。
「亜美!!」
 咄嗟の出来事で、みちるは亜美を止めることができなかった。単独で行動しては危ない。
「また、やつらかもしれないわ。彼女ひとりでは危険よ」
 亜美が五階のベランダから飛び降りたにも関わらず、新月は平然としていた。別に驚いている様子などは感じられなかった。亜美の行動を当然のことのように、冷静にみちるに注意を促していた。
()はいったい………)
 ひどく冷静な表情の新月は、ある意味で不気味でさえあった。

 ベランダから飛び降りた亜美は、瞬時にセーラーマーキュリーにメイク・アップする。普段なら慎重に行動する亜美だったが、この時ばかりは体が先行して動いてしまった。
 マーキュリーにメイク・アップすると、直ちに体をウォーター・ガーダーで包み込み、地上五階からの落下のショックに備える。
 着地した。ウォーター・ガーダーのお陰で、ショックは全く感じない。
 マーキュリーはゴーグルを装着した。周囲を索敵するためだ。
「悲鳴が途切れた………!?」
 ベランダから飛び出すまでは、確かにそこかしこから悲鳴があがっていた。しかし、地上に到着する僅かな間に、全く聞こえなくなっていた。
 街灯の淡い光に照らされた道路は、不気味なまでに静かだった。
「静かすぎる………」
 ゴーグルで索敵しながら、マーキュリーはその異常さを敏感に感じ取っていた。
 夜も更けたと言っても、まだ九時前である。人々が寝静まるにはまだ早い。だが、マーキュリーのいる周辺は、まるで丑三つ時のような静けさがあった。
 通行する人もいない。車も通らない。
 ゴーグルは生命反応をキャッチしていない。つまり、周囲に人がいないのだ。周囲に、全く生命の息吹を感じないのだ。
「そんなはずはないわ!」
 索敵した結果に、マーキュリーは首を振る。自分がいたホテルにさえ、生命反応がない。いや、動いている反応がある。生命反応はふたつ。エレベーターで下に向かっている。
 みちると新月に違いない。
「まさか!?」
 マーキュリーは何かを感じ取り、その場から駆け出した。
 人影のない玄関からホテルへ戻り、ベルボーイのいないロビーに駆け込む。フロントにも人の気配がない。
 マーキュリーは再度索敵をする。ホテルの内部には、やはり生命反応がない。あれだけ泊まっていた人々は、いったいどこに消えてしまったのか。いや、それよりもホテルの従業員はどこに行ってしまったのだろうか。
 エレベーターが到着した音が聞こえてきた。マーキュリーは顔を向ける。みちると新月が降りてきた。
 フロントの前で茫然としているマーキュリーを発見して、みちるは怪訝な表情を見せた。
マーキュリー(あみ)、外の様子は?」
 みちるは、マーキュリーが外で調査をしているものとばかり思っていたのか、いささか不思議そうに尋ねた。まさか、フロントの前にいるなどとは考えてもいなかったのだろう。
「みちるさん、気が付きませんか?」
 緊張した面持ちで、マーキュリーは反対に尋ねた。みちるは一瞬不可解な表情を見せたが、そこはやはり歴戦の戦士である、すぐにマーキュリーの意図に気付いて、
「あたしとしたことが、すぐに気が付かないなんて………」
 苦笑してマーキュリーの顔を見た。
「ホテルの人たちがいないわね?」
 新月も異常に気付いた。その神秘的な瞳で、周囲を見回す。その視線が、マーキュリーを捕らえたところでピタリと止まった。
「その姿がセーラー戦士なのね? 亜美さん………」
 亜美の変身した姿を見ても、新月はさほど驚いた表情を見せなかった。しかも、マーキュリーが亜美だと気付いている。確かに、みちるがマーキュリーのことを亜美と呼んだが、普通の人が見ただけでは、マーキュリーが亜美だとは気付かない。例え肉親でも、一目見ただけでは分からないのである。
「どうして、あたしだと分かったの?」
「亜美さんと同じ星の輝きを持っていたからよ。それに、みちるさんが亜美さんと呼んでいたし、この状況で話をするのならば、ベランダから飛び降りた亜美さん以外、考えられないわ。簡単な推理よ」
 確かに、新月の言う通りである。不思議に思う必要などはないのである。
「何が起こるか分かりません。みちるさんもネプチューンに………!」
 マーキュリーはみちるに、変身することを促した。

 マーキュリーとネプチューンは、新月を連れ、ホテルの外へ出た。相変わらず人の気配はない。マーキュリーのゴーグルにも、生命反応はキャッチできなかった。
「空間がシールドされた可能性は?」
 ネプチューンはマーキュリーに尋ねた。超次元空間のような結界が張られた場合、通常空間から完全に遮断されてしまうため、自分たち以外の生命反応がキャッチできない場合がある。しかし、それは自分たちだけが結界内に封じ込められてしまった場合に限られてしまう。
 ポケコンでデータを弾き出していたマーキュリーは、ネプチューンを見て首を横に振った。
「あたしたちが封鎖空間に閉じこめられた可能性は、九十五パーセントの確率で、ありません」
「残りの五パーセントの可能性は、なに?」
 ネプチューンの指摘は鋭い。マーキュリーもそのことを予測して、答える準備をしていた。
「魔術による結界です。それもかなり大規模な………。魔術による結界は、特殊なフィールドを発生させる、わたしやプルート(せつなさん)の超次元空間とは異質の空間です。空間ごとにシールドしてしまう超次元空間とは違い、術者の任意の物質だけを封じ込めることができるのが、魔術による結界です」
「レイが得意としている特殊フィールドね………」
 ネプチューンは納得する。もっとも、レイの場合は法力による結界で、魔術の結界とは根本的に違うのだが、本質を知らないものにとっては、どちらも同質のものに見える。
「超次元空間のような空間ごとの転移の結界であれば、転移させられたときに気が付きます。あたしもネプチューン(みちるさん)も気が付かなかったのだとしたら、魔術による結界の中に閉じこめられてしまった可能性はあります。ただし、見て分かるように範囲がかなり広いですから、並の術者でこれだけのフィールドを発生させることは困難です。もし、魔術の結界なら、かなりの強敵が潜んでいるということになります」
 マーキュリーの表情は硬い。五パーセントしか確率がないはずなのにも関わらず、何故かその五パーセントの方に分があるような気がしてならないのだ。
「もし、亜美さんの言う通りだとしたら、敵はわたしたちのことを知っていて、わたしたちを封じるために結界を張ったことになるわ」
 新月からは、微塵の不安も感じられなかった。まるで、初めからこうなることを知っていたかのように、ひどく落ち着き払っていた。特に怯えている様子もなかった。蝋人形のように無表情のまま、周囲に目を向けている。
「………でも、この結界はわたしじゃないわよ」
 ネプチューンの考えを見透かしたように、新月は言った。心の中を見透かされたネプチューンは、苦笑するしかない。
「問題は、術者がこの結界内にいるかいないか、ね」
 新月は、ふたりを順に見た。
「いると思うわ。この結界の中に………」
 普段は慎重なマーキュリーが、ひどく断定的に言った。かなりの自身があるようだった。
「何故、そう思うの?」
 ネプチューンは尋ねる。
「狙いがあたしたち(・・・・・)だからです」
 マーキュリーはすぐさま答えた。
「敵はあたしたちのことを知っています。だからこそ、あたしたちだけを結界の中に閉じこめたのです。結界の中で、決着を付ける気なのです」
「わざわざ結界を張ったということは、結界の中の方が、自分の能力が生かせるからというわけ?」
「そう思います」
 マーキュリーは話す間中、ポケコンのキーを叩いている。もちろん、無駄なことをしているわけではない。マーキュリーなりに考えがあって、何事か計算しているのだ。
 マーキュリーが計算をしている間、ネプチューンはチラリと新月に目を向けた。
「あたしが邪魔だって顔をしているわ。いいわよ、いざという時は見捨ててくれても」
「そんなことはしないわ」
 またもや心の中を見透かされたネプチューンは、僅かに表情を曇らせた。
(やはり、得体が知れない………。彼女を百パーセント信じるわけにはいかないわね)
「どうぞ、ご自由に」
 新月は、三度ネプチューンの心を読んだ。
 今度ばかりは、ネプチューンも驚きの表情で新月を見た。新月は無表情のまま、ネプチューンの顔を見つめ返した。その神秘的な瞳は、ある意味不気味でさえあった。
「見つけたわよ!!」
 マーキュリーは真上を見上げた。逆さまになって、天井から真っ直ぐと立っている女性が見えた。
 ネプチューンと新月も、マーキュリーに習って天上に顔を向けた。
「やっと見つけてくれたわね………」
 女性は逆さまの状態で、ゆっくりと首を上に向けた。自分を見上げている三人の女の子たちが確認できた。発見してくれるのを待っていた、という口振りだった。
「あたしたちのことを嗅ぎ回っている輩がいるからというから、はるばる来て見れば、何とも可愛らしいお嬢さんたちだこと………」
 女性は真っ赤な唇を、チロリと舌先で舐めた。天井から足を離し、重力を全く無視した優雅な動きで、ふわりと床に降り立った。
「こんばんは、お嬢さん方。あたしはマチュア………」
 大人の色気を感じさせるゾクリとする微笑を、マチュアというその女性は浮かべ、伏し目がちな瞳を三人の少女たちに向けた。
「出たわね、ヴァンパイア!!」
 ネプチューンは身構え、新月を自分の背後へとまわらせた。新月はセーラー戦士である可能性は高いが、今のところは非戦闘員である。記憶が戻らない限り、変身することもできないだろう。得体の知れない少女ではあるが、今は守ってやるしかない。
 新月もそれが分かっているのか、ネプチューンの指示に大人しく従った。
「あら、怖い顔だこと………。そう言えば、お嬢さんたちのそのコスチュームには、見覚えがあるわね………」
 マチュアはネプチューンの姿を、上から下まで見回した。
「ああ………。あのお嬢さんのお仲間なのね………」
 納得したように言うと、妖艶な微笑を浮かべた。
 マチュアは自分たちのコスチュームを知っている。自分たち以外のセーラー戦士を見たことがあるのだ。この事件に関わっている、自分たち以外のセーラー戦士と言うと………。
ウラヌス(はるか)を知っているのね!?」
「さあ………。あたしの知っているお嬢さんが、あなたの言うお友達だとは限らないけど、確かにそのコスチュームには見覚えがあるわよ………」
ウラヌス(はるか)を返して!!」
 ネプチューンは噛み付かんばかりの勢いだ。
「あたしに言われても困るわね………」
 マチュアは困ったように肩を竦めた。小さな溜息を付く。
ウラヌス(はるか)はどこ!?」
「詳しくはあたしも知らないわ」
「惚けるのなら、力尽くでも聞き出すまでだわ!!」
 言うが早いか、ネプチューンはディープ・サブマージをマチュアに向けて放っていた。
 不意打ちだったが、マチュアは動じなかった。マチュアの瞳が怪しく光を放つと、超水圧の水球は、マチュアの手前で四散させられた。
「シールド!?」
 ネプチューンの表情が険しくなる。これだけの結界を張るほどの魔力を持ったマチュアである。シールドなどお手の物だろう。
 マチュアはゾクリとする笑みを浮かべた。余裕の笑みである。
「何故、後ろのお嬢さんだけ普通の恰好をしているのかしら?」
 マチュアは変身していない新月のことを言っているのだ。
「こちらにも事情があるのよ」
 答えたのはネプチューンだった。
「事情ね」
 マチュアは肩を竦める。新月の顔をじっくりと眺めた。
「………?」
 そのマチュアの表情が、僅かに曇った。
 その僅かな変化を、ネプチューンも見逃さない。
(新月を知っている?)
 そう直感した。だが、口には出さない。チラリとマーキュリーに目をやる。彼女はマチュアのシールドを破る方法を、ポケコンを駆使して計算中だった。
 三人と対峙していたマチュアが、急に諦めたような表情を見せた。
「お嬢さんたちの若々しい血をいただこうかと思っていたけど、気が変わったわ………。シギショアラにいらっしゃい」
「シギショアラですって!?」
 マーキュリーは驚いたように、声を張り上げた。ネプチューンが何か知っているのかというような尋ねる視線を、マーキュリーに向けた。
「トランシルバニア地方にある小さな城下町よ。吸血鬼ドラキュラで有名な、ブラド・ツェペシの生家があるところです………」
 マーキュリーはネプチューンに説明する。ルーマニア語を勉強するとともに、吸血鬼についても調べていたマーキュリーは、「シギショアラ」という地名を知っていた。そして、そこに何があるのかも勉強済みだった。
「物知りね、お嬢さん………」
 マチュアは満足げな微笑を浮かべる。
「捜し物は、そこで発見()つかるかもよ………」
 重力を無視して踊るように飛び上がると、マチョアは霧のように掻き消えた。途端に違和感が体を襲う。結界が解除されたのだ。
 人の気配とざわめきが、一瞬にして戻ってくる。
 ホテルの従業員が、怪訝な表情でこちらを見ている。それが自分たちのセーラースーツ(きばつなかっこう)のせいだとは分かっていたが、それよりも彼女たちは、マチュアが言ったことの方が気になっていた。
「シギショアラに捜し物がある」
 妖艶な彼女はそう言っていた。ネプチューンとマーキュリーの「捜し物」は即ち、捕らわれたウラヌスである。マチュアはそのウラヌスを知っているらしい。
「シギショアラに行くのね?」
 ネプチューンの背後に隠れるようにしていた新月が、ネプチューンの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「もちろん、行くわ。それが、例え罠でもね………」
 ふたりのセーラー戦士の心は、新月がわざわざ確認するまでもなく、既に決まっていたのだ。
「あたしも行くわ。連れていってもらえるわよね?」
「ええ。でも、あたしはあなたを味方だと信じているわけではないわ」
 ネプチューンのその言葉からは、「警戒」が感じ取れた。本当に、新月を味方だと信じているわけではないようだった。
「この状況では仕方のないことだわ」
 新月は答えた。しかし、例え、駄目だと言われても付いていくつもりだった。それが自分を知るための、唯一の方法だと思えたからだ。自分の記憶を取り戻すためには、セーラー戦士と行動をともにする必要があると、新月は感じていた。
 しかし、そのために、別の悲劇が生まれることになろうとは、この時誰ひとりとして予測できなかった。そして、それが別の新たな戦いであるなどということは、夢にも思わなかったのである。