セレスの策略


 陽子は夢を見ていた。
 美しい花畑だった。幼い頃の自分が、紋白蝶を追って、花畑を駆けている。
 暖かい、淡い光の中で、踊るように跳ねている自分が見える。
 そんな幼い自分を見つめている、優しい瞳があった。無精髭を生やした厳つい顔の男だった。
「誰だっけ?」
 陽子は自分自身に問うた。とても懐かしい人物のような気がするのだが、何故か思い出すことができなかった。忘れてはいけない人物だとは感じてはいるのだが、その無精髭を生やした男が、どこのだれなのかが思い出せなかった。
 幼い陽子は花畑を飛び回る。花の中に身を隠しながら、無精髭を生やした男の方に近付いてゆく。自分を見失ったのか、少し不安げな表情で回りをキョロキョロとしている。
 無精髭を生やした人物が、花の陰にいる自分に気づいた。自分を見て、僅かに驚いたような表情を見せたが、すぐに慈愛に満ちた瞳で、優しげに微笑んだ。
「お、お父さん?」
 陽子は一瞬だけ、その男がだれなのか思い出したが、すぐにその記憶は消滅してしまった。
 花畑が真っ白な光に包まれた。

「お目覚めのようね」
 ふんわりと柔らかいベッドに横たわっていた陽子は、朦朧とした意識の中で、その声を聞いていた。どこかで聞いたことのある声のようだったが、思い出せなかった。記憶が混乱している。
 自分は眠っていたのだろうか。それさえも分からなかった。
「気分はどお?」
 先程と同じ声が、自分に向けられているのが分かった。
 ゆっくりと目を開けてみた。白い天井が見えた。首だけを巡らしてみた。顔を右に向けると、ソファーに顔の右半分を黄金の仮面で覆った女性が、ゆったりと腰を下ろしているのが視界に飛び込んできた。ほっそりしたと長い足を、優雅に組んでいた。腕も胸の前で組まれている。片方だけ隠れていない深いグリーンの瞳が、真っ直ぐに自分の方に向けられていた。
「気分はいかがかしら? 美童陽子さん」
 仮面の女性は、同じ質問を繰り返した。
「あなたは………」
 答えの代わりに、陽子はその仮面の女性を見つめた。その仮面には見覚えがある。確か、タワーランドで自分の目の前に現れた女性だと記憶している。そして、彼女が目の前に現れたあとからの記憶が途切れてしまっている。
「そう、あたしはタワーランドであなたをさらった。そして、ここに連れてきた。あなたは眠っていたから分からないでしょうけど、もうあれから一週間経っているわ………」
「そんなに………」
 陽子は少しの間言葉を失っていたが、すぐに気を取り直した。
「何故、あたしなの? あたしでなければいけない理由があるの?」
 探るように質問した。どういう訳か、恐怖感がまるでなかった。陽子の心の中で、どこか夢の中での出来事のような感覚があるからだった。現実ではないかもしれないという認識が、陽子から恐怖感というものを排除していた。
「知りたい?」
 仮面の女性は、悪戯っぽく微笑んだ。ゾクリとする笑みだった。背筋に悪寒が走った。
「まずは自己紹介をしなくてはね」
 仮面の女性は言葉を続ける。
「この組織の中では、あたしはセレスと名乗っているわ、陽子さん」
 仮面の女性は、自己紹介をしてきた。「この組織の中で」という意味深な言葉が含まれている。「セレス」と言う名は、本名ではないと暗に告げているのだ。
「あなたには本当の名を名乗ってもいいんだけど、どうせ分からないでしょうからね。とりあえずはセレスと言う名で呼んでもらおうかしら………。本来なら、あたしの妹の名前なんだけどね」
 セレスはソファーから腰を上げた。短いスカートがフワリと揺れる。男ならドキリとする一瞬なのだが、女の陽子には何の感慨も沸かない光景だった。
「あたしをどうしようと言うの?」
 陽子は再び探るような口調で問う。やけに落ち着いている自分が、まるで本当の自分ではないような気さえしてきた。夢の中での会話のような感じだった。今まで気が付かなかったが、自分はただベッドに寝かされているだけで、特に身を拘束されているわけではなかった。つまり、逃げようと思えば逃げられる状態にあった。
「あなたに、思い出してほしいことがあるのよ」
 セレスの声が耳を打った。
「思い出す? 何を?」
 間髪を入れずに、陽子は答えた。ゆっくりと上体を起こした。逃げようなどとは考えなかった。このセレスという女性と、ゆっくり話がしてみたいと感じていたからだ。それがどういう理由からなのかは、今の陽子には全く分からない。捕らわれていながら、恐ろしいという感情は少しも沸かないのだ。
 むしろ、この状況を楽しんでいると思えた。不安を全く感じないのだ。
自分が何者なのか(・・・・・・・・)を、よ」
 陽子の瞳を真っ直ぐに見て、セレスは意味ありげに微笑んだ。
「あたしが何者かですって? おかしなことを言うのね、あなた………。あたしは美童陽子よ。さらってくる人間を間違えたんじゃないの?」
 陽子は、少しばかり相手を馬鹿にしているような口調で言った。セレスと言う女性の癇に触るだろうと言うことは予想してしたが、その予想はあっさりと覆された。
 セレスは別に気分を害した風でもなく、その状況を楽しんでいるかのような笑みを浮かべたのだ。
「別に間違ったわけじゃないわ。あたしは、あなたをさらったのよ。言ったでしょう? あたしはあなたに、本当の自分を思い出してほしいだけ………」
 セレスの美しいグリーンの瞳が、真っ直ぐに陽子に向けられる。
「本当のわたし………?」
 陽子は眉間に皺を寄せる。セレスが言っている意味が、全く理解できないのだ。
 同時にドアがノックされた。セレスが声を返すと、ゆっくりと扉が開かれ、セルシアンブルーの瞳をしたショートカットの女性が、一礼してから入室してきた。
「準備が整いました、フェ………、セレス様………」
 うっかり本当の名を言いかけてしまったのだろう、セルシアンブルーの瞳の女性は、慌てて訂正した。
「分かった。すぐ行くわ、キロン………」
 隠している本当の名を口に出してしまいそうだったキロンを別に咎めることもなく、セレスは微笑んでから答えた。
 恭しく一礼して退室するキロンをちらりと見てから、セレスは視線を再び陽子に戻した。「さて、一緒に来てもらうわ」
「あたしが嫌だと言ったら?」
「そんな心配はしてないわ。あなたは拒まない。自分が誰なのか知りたいのは、あなたの方だものね………」
 まるで小悪魔のような笑みを浮かべて、セレスは陽子を見た。陽子は観念したように微笑む。
「………そうね。あたしは自分が何者なのか知りたいわ」
 それは強がりではなく、陽子の本心だった。

 マザー・テレサは講堂にいた。少女たちが一心に祈りを捧げている講堂とは、別の講堂である。少女たちが祈りを捧げている講堂は、ブラッディ・カテドラルの西側にある。マザー・テレサが今いる講堂は、ちょうど反対側の東側にあった。
 造りは全く同じだった。ただひとつ違う点は、東側の講堂には崇拝の対象である、あの不気味な十字架がないだけである。まるで悪魔が十字架を抱えているようなあの像は、大司教ボーゼンが持ち込んだものだ。
「ここにいらしたのですか、母上………」
 声が響いた。イズラエルの声だ。
「大司教殿と一緒かと思っていました………」
 歩み寄ってくる足音が響く。西の講堂では、大司教ボーゼンが、依然として祈りを捧げている少女たちの監視を勤めているのだろう。
「セントルイスを呼んだそうですね」
 まるで歌うように、マザー・テレサは言った。だが、振り向かなかった。イズラエルに対しては、背を向けたままである。
「………もう、お耳に入っていましたか………」
 イズラエルは講堂の中程で立ち止まった。
「お前には、お前の考えがあってのこととは思いますが、あまり勝手なことをしてほしくはありませんね。慎みなさい」
「は、はい。申し訳ありません。………ですが!」
「言い訳は聞きたくありません」
 マザー・テレサはピシャリと言い放った。イズラエルには反論することも許されない。口を噤んだまま、立ち尽くすしかない。
「あのセーラー戦士とか言う小娘たちはどうしました? 捕らえよと命を下してから、数日が経ちますが、一向に成果がないようですね」
「ジェラールから、ひとり捕らえているとの報告がありました。囮に使って、更に仲間を捕らえるとのことですが」
「けっこうです。お前もカテドラルにばかりいないで、行動に移りなさい。預言の刻は迫っているのですよ」
 全く抑揚のない声だった。マザー・テレサは依然として振り向こうとしない。先程と同じく、自分の息子に背を向けたままである。
 振り向く気配のないマザー・テレサに、イズラエルはこれ以上ここに止まっていても仕方がないとと判断した。
「では、失礼致します」
 くるりときびすを返し、高らかに足音を響かせながら、イズラエルは講堂を出ていった。
「間もなく(とき)が来る。さすれば世界は我らのものだ。そうであろう? ファティマ………」  
イズラエルの気配が消えたあと、マザー・テレサは呟くように言った。
「その通りでございます」
 そのマザー・テレサに答えるかのように、若い女性の声だけが講堂に響いた。

 セントルイスはブラッディ・カテドラル内の通路を、自室に向かって歩いていた。
 前方から近づいてくる人影が見える。影はふたつだった。
「セレスか………」
 気配を感じ取ったセントルイスは、その人影がだれのものか確認する前に、認識していた。
「会うのは二度目ね………」
 通路の先に、セレスの黄金の仮面が見えた。彼女の背後に、見知らぬ女性の顔も見える。
「ニューヨークで一度会ったかな」
 セントルイスは立ち止まった。セレスとは、ニューヨークの支部で一度だけ会ったことがあった。が、その一度きりである。もともと、ブラッディ・クルセイダースの組織に入ってから間もないセレスは、十三人衆全員に会ったことがない。もっとも、十三人衆が一度に交いする機会もないのだが。
「長生きしたかったら、ニューヨークに帰った方がいいわよ」
「ご忠告ありがとう」
 口元に小さな笑いを浮かべると、セントルイスは歩き始めた。セレスとすれ違い、そして見知らぬ女性ともすれ違う。
「ん!?」
 何かを感じ、セントルイスは足を止めた。
「あたしに何か?」
 見知らぬ女性が、不思議そうな視線を自分に向けてきた。
「いや、何でもない。失礼する」
 単調に答えると、セントルイスはその場を後にした。
「あの娘、何か気になる………」
 セレスと一緒にいた女性がひどく気に掛かった。詮索してみる必要があると感じていた。

 祈りを捧げている少女たちを、大司教ホーゼンは無表情で見つめていた。その背後には、悪魔の十字架が、不気味な姿を淡い光によって照らし出されていた。ホーゼンの他は、ブラッディ・クルセイダースのメンバーは見受けられなかった。
 悪魔の十字架に一心に祈りを捧げている少女たちは、かなり衰弱している様子だった。しかし、彼女たちは自分の体が衰弱していることを、自ら認識することはない。彼女たちの精神は、大司教ホーゼンによって操られているからだ。汚れを知らぬ乙女の純粋なエナジーを受け取り、ホーゼンは満足げに笑みを浮かべた。
「足りぬぞ」
 どこからともなく声が響いた。男の声だった。だが、姿を見ることはできない。
「もっと膨大なエナジーが必要だ。これではこの空間で、我らが維持できぬ」
 別の声がした。今度は女性の声だ。
「お前はよい。エナジーが不足していても、そうして実体を維持できる。だが、我らは違う。膨大なエナジーを必要とするのだ」
 男の方の声だった。不満そうな口調である。
「あまり待たせると、そなたの肉体を喰らうことになるぞ」
 挑戦的な声は、女性のものだった。
「しばし待て」
 ホーゼンは威厳のある声で言い放つ。
「預言の(とき)は間近だ………。間もなく、この世界は我らのものとなる………。聖地に眠る秘宝は我らの物だ………」
 謎の声は押し黙った。
 大司教ホーゼンは、喉の奥で押し潰したような笑いを漏らした。