大道寺の依頼
開け放しの窓から、潮風が吹き込んでくる。
初夏の潮風は微風であれば肌に心地よいのだが、今日の風はいささか強く、心地よいと呼べるほどの微風ではなかった。
(今日は風が強いな………)
風によって散らかされた、机の上の書類を整理しながら、宇宙翔は窓を閉めた。
エアコンのスイッチを入れた。使い古されたエアコンは、最新式のものと比べれば冷却効率は極端に悪い。
さすがに締め切った状態では、蒸し暑すぎて作業が捗らない。あまり涼しいとは言えないが、全くないよりはマシである。扇風機と併用することも考えたが、それでは窓を閉めた意味がない。潮風によって書類を飛ばされることを嫌って窓を閉めたのだから、扇風機を回す行為は矛盾していると思えた。
今日の最高気温は三十七度になるだろうと、朝の天気予報で女性アナウンサーが言っていた。夏は嫌いではないが、ジメジメとした暑さだけは苦手だった。
ドアが遠慮がちにノックされた。
翔はわざわざドアまで出向いて、来訪者を迎えた。
「あれ? 今日は休みじゃなかったの?」
部屋の入り口に立つ、せつなの姿を見て、翔は首を傾げた。確か、彼女は休暇中のはずだった。自分の頼んでいた仕事が一段落付いたので、長期休暇を許可したのだ。
「家にいても退屈ですから………。差し入れを持ってきました」
せつなは紙包みを見せると、にっこりと微笑んだ。
「気を遣わなくてもいいのに………。ボクは勝手に仕事をしてるんだから………」
口ではそう言ってはいるものの、翔としても悪い気はしない。もともと口下手な方だから、喜びを素直に表現できないでいるだけだ。長い付き合いではないが、せつなも翔の口下手は承知している。美人の助手が差し入れを持ってきてくれたのだから、嬉しいはずである。
「ちゃんと、家には帰ってますか?」
「も、もちろんだよ………」
翔の返事は歯切れが悪い。
「その様子じゃ、帰ってませんね。奥さん、怒ってますよきっと………」
「………だから、帰り辛いんだよ」
翔の言葉は、きっと本音だろうと思えた。
せつなはクスッと笑ってから、
「さすがは奥さんね。ずばりだわ………」
そう言って、ドアの方に目を向けた。
「………でしょう?」
笑いながら、女性がつかつかと部屋に入ってくる。
「ひ、姫子………」
翔は驚いたように、入ってきた女性を見つめた。
「何て顔してんのよ! まさか、自分の女房の顔を忘れたなんて言うんじゃないでしょうね!?」
腰に両手を当て、ずいっと顔を近づける。自分の女房の顔のどアップを見るはめになった翔は、思わず二‐三歩後ずさりした。
「今朝電話で話したときは、来るなんて一言も言ってなかったじゃないか」
「当たり前よ! 驚かそうと思ったんだもん! 何よ、せつなちゃんに差し入れもらって鼻の下なんて伸ばしちゃってさ!」
「ど、どうしてそうなるんだよ!」
少し離れた位置でこのふたりの夫婦漫才を見ているせつなが、たまらずクスクスと笑っている。
「ほ、ほら、せつなちゃんが笑ってるじゃないか。………ところで、姫子。航はどうしたんだ?」
後ずさりしながら、翔は訊いてきた。当然一緒にいるのだろうと考えていた、自分の息子の姿が見えない。
「お母さんに任せてきたわ。連れてきてもよかったんだけどね。そんなに顔を見たいのなら、ちゃんと家に帰ってくればいいのに」
姫子はさらりと答えた。彼女なりの緻密な作戦で、息子はわざと連れてこなかったのである。連れてきて会わせてしまったのでは意味がないのだ。
「そんなことじゃ、航に顔を忘れられちゃうよ。家に帰ってきても、『知らないおじちゃんが来た』なんて言われるかもよ」
「こ、怖いこと言うなよ………」
三人は連れ立って、食堂へと足を運んだ。
昼前の食堂には、殆ど人の姿はなかった。窓際のテーブルに、一組座っているのが見えるだけだ。中年の展望台の職員と、部外者らしい青年のふたり組だった。
「あら?」
せつなが小さく声をあげた。その声を聞いて、青年がこちらへ顔を向けた。
「せつな………」
青年は、少しばかり意外そうな顔をした。こんなところで、会うとは思わなかったのだろう。
「お知り合い?」
姫子が訊いてきた。
「ええ」
せつなは頷いてから、
「仕事中?」
青年───大道寺に対して尋ねた。
「ああ」
大道寺は短く答え、再び職員の方に顔を戻した。中年の職員は、何やら深刻な顔をしていた。やつれたその表情からは、深い苦悩が感じ取れた。
翔の顔を見上げた中年の職員は、少しばかり困った表情を見せた。
翔は軽く会釈をすると、せつなと姫子の背中を押すように、その場から離れた。
「気象観察をしている佐竹さんだ」
大道寺たちから離れた位置に腰を降ろしてから、翔は大道寺の正面に座っている中年の職員の名を、姫子とせつなに教えた。
翔は、食堂のおばさんが入れてくれた特製のコーヒーに、たっぷりと砂糖を注ぎ込む。翔が甘党であることを知っているせつなは、その豪快さに苦笑いをする。
普段なら「糖尿病になるぞ」と注意をする姫子だったが、今日のところは遠慮をした。食堂で夫婦喧嘩をするわけにはいかない。
「なんか、深刻そうな話をしていたわね………。せつなちゃんの知り合いって、天文台の人じゃないみたいだけど………」
「え、ええ………」
何と答えればよいのか迷ったせつなは、曖昧に頷くしかない。中年職員が、大道寺に何を依頼しているのかは知る由もないが、探偵に相談事を持ち込むのだから、余程のことなのだろう。
「………お嬢さんが行方知れずらしいんだ」
佐竹を気遣ってか、翔は小声で言った。姫子は納得したような表情を見せた。
「行方知れずって、翔。まさか………」
「ああ。最近の謎の女子学生失踪事件だ。佐竹さんのお嬢さんも巻き込まれたらしい。確か、お嬢さんは港区の女子校に通っていたはずだな………。え……と、あのお嬢様学校の………」
「もしかして、T・A女学院?」
「そう! それだ!」
翔は相槌を打つ。
せつなは背筋に冷たいものを感じた。表情が強張る。大道寺への依頼の内容が、何となく分かったような気がした。
「そう言えば、せつなちゃんの妹さんも、T・A女学院に通っているんだったよね」
「T・A女学院って、一番失踪者の多い学校でしょう? 妹さんも気を付けないと………」
姫子も心配げな表情をする。
「ええ………」
せつなは曖昧にしか返事ができない。イズラエルの一件で、校内にもかなりの被害が出たのだが、マスコミで報道されることはなかった。敷地内での出来事だったので、T・A女学院側が、マスコミに面白おかしく取りざたさられることを嫌ったためだと聞いてはいるが、素直に納得できるものではない。T・A女学院に関しては、不審な点が多すぎるのである。
窓際のテーブルに座っていた、大道寺と佐竹氏が席を立った。佐竹氏は立ち去ろうとする大道寺に、深々と頭を下げている。縋るような眼差しで、大道寺の背中を見つめていた。
せつなも席を立った。翔と姫子が不思議そうに見上げたが、せつなは無言で大道寺の後を追った。
「待って、D・J!」
食堂を出た廊下で、せつなは大道寺を呼び止めた。
「事件の内容なら、答えられないぜ。依頼内容を他人に漏らすのは、契約違反だからな………」
「あたしにも、言えないことなの?」
「そう言うことだ」
おそらく大道寺は、事件に関してのことは、何を訊いても答えてくれないだろう。彼は、そういう目をしていた。何も訊くな。瞳がそう語っている。
「この事件を調べるために、事務所を閉めたの?」
「そう言う訳じゃない。他にしなければならないことができたんだ。ただ、この依頼だけはきっちりとカタを付けたいだけだ」
せつなと出会う以前に、大道寺はこの依頼を受けていたのだろう。思い起こしてみれば、彼と会ったのは、天文台の近くのバス停であった。きっとあの日も、調査の経過を佐竹に報告するために、天文台に来ていたのだろう。そして、その帰りにせつなと出会ったのだ。
「もう俺に関わるな」
突き放すような口調だった。
「そう………」
せつなは寂しげな表情で、大道寺を見つめた。自分が大道寺に惹かれていることは気付いていた。口にこそ出してはいないが、大道寺も自分の気持ちを分かってくれているだろうと思う。
「そう言う目をするのは反則だ。俺たちは、別に恋人同士でもないんだぜ」
しかし、大道寺は苦笑いをしてみせる。明らかに嘘を付いているという瞳で、せつなを見つめ返した。大道寺が自ら作ったせつなとの境界線を、彼が越えることはなかった。また、せつながその領域に足を踏み入れることも、今まではなかった。お互いとも一歩身を引いた形で付き合っていたのだ。何故そうしなければならなかったのかは、問い掛けられても明確に答えることはできない。せつなとしては、自分がセーラー戦士であると言うことが、自分の気持ちに正直になれない直接の原因だったが、大道寺の理由は分からない。
友達以上、恋人未満───
誰が作った言葉かは知らないが、今のふたりにとっては、これ程皮肉な言葉はないだろう。
せつなは再び寂しげな表情をすると、
「あなたが、恋人になろうとしなかったんじゃない。あたしは………!」
せつなは自分の気持ちを初めて口にした。だが、言葉を続けようとするせつなの唇に、大道寺の人差し指が触れた。せつなは言葉の続きを飲み込むしかなかった。
「………その先は、言いっこなしだ。それが、お互いのためでもある」
大道寺はそう言うと、くるりときびすを返した。せつなが飲み込だ言葉の続きは、分かっているつもりでいた。彼女の態度を見ていれば、余程恋いに対して鈍感でない限り、気付くことはできる。しかし、自分にはやらなければならないことがある。そして、彼女も遂行しなければならない任務があるはずなのだ。
「お願い、待って!!」
背中から突き刺さるようなせつな声に、大道寺は足を止めた。
「D・J、あたしは………」
「せつな………!」
大道寺はせつなの言葉を、再び封じた。今は聞いてはいけないことなのだ。せつなも口にしてはいけないはずの言葉だ。
「今は駄目だ………。お互い、やらなければならないことがあるはずだ」
大道寺の言葉は、まるで電撃のようにせつなの体を走り抜けた。
(この人は、あたしがセーラー戦士であることを知っている!?)
せつなは驚きを隠せない。そして、
やらなければならないこと───
今の自分がやらなければやらないことは、大道寺に対する自分の気持ちの告白ではない。もっと他に行わなければならないことがある。
恋いに生きる女性を演じていてはいけないのだ。
「D・J、あなたはいったい何者なの( ………?」)
せつなの耳には、遠く離れていく大道寺の靴音だけが、いつまでも響いていた。