黒い森
亜美とみちるのふたりが、ブカレストのオトペニ国際空港に到着したのは、三日前の午前中のことだった。その日の内にあらかじめ予約をしておいたホテルに入り、行動の拠点を作ると、ふたりは街へ出て情報の収集を始めた。
片言のルーマニア語と堪能なドイツ語を駆使し、亜美は情報を集める。みちるの得意な英語とフランス語は、残念ながら役に立たなかった。観光案内所やホテルではみちるの流暢な英語は威力を発揮したが、(もちろん、亜美も英語はしゃべれるが、海外生活の長いみちるの方が、さすがにコツを掴んでいる)ブカレストの市民には、英語は殆ど役に立たなかった。
ルーマニアに行くことになったことで、亜美が一夜漬けで覚えたルーマニア語は、やはりある程度の情報を入手するのには役に立った。
「あたしもルーマニア語を勉強しないとね………」
棒のようになった足を、ソファーに腰を降ろしながらマッサージしていたみちるが、ぽつりと呟いた。まる二日かけて情報収集にあたった彼女たちだったが、残念ながら彼女たちが求めるような情報は得られなかった。
「やはり、言葉の壁が問題ですね………」
タオルで髪を拭きながら、バスルームから出てきた亜美が、みちるの呟きに答えるように言った。ルーマニア語が話せなければ、現地の人々から情報を聞くことは難しい。ブカレスト市内ならば英語でも通じる住民もいるのだが、市内から離れるとそうはいかないだろう。亜美たちがこれから向かおうとしているトランシルバニア地方のブラショフでは、英語は殆ど通じないという。ドイツ系の住民が多少いるため、ドイツ語でも通じる人たちはいるだろうとは想像はできるが、やはりルーマニア語は必要だろうと思えた。
「アルテミスに頼んでいた翻訳機は、まだ着かないんですか?」
フランス語が全く話せない美奈子のために、アルテミスが作ったという高性能翻訳機を、ルーマニアに向かう前に、送ってくれるように彼に依頼していたのだ。ブカレストのホテルはあらかじめ予約をしておいたので、ホテル宛に送ってくれる手筈になっている。
だが、彼女たちは、アルテミスがブラッディ・クルセイダース十三人衆のジェラールによって、深手を負わされてしまったことを知らない。昏睡状態のアルテミスが目を覚ますのは、この次の日のことなのだ。
「機械に頼ってはいけないわね………。仕方ないわ。街で調査するのは一時中断して、ルーマニア語の勉強をしましょう。あたしと亜美なら、まる三日も勉強すれば大丈夫でしょう?」
ともに頭脳明晰のふたりである。本気で勉強をすれば、三日である程度は話せるようになのだろうというのが、みちるの考えであった。(本当かよ………)
アルテミスから翻訳機が到着しないまま、三日がたった。その間、みちるがアルテミスに連絡をしようと試みたが、美奈子は家を留守にしているというし、助っ人に来ているマゼラン・キャッスルのふたりのセーラー戦士の連絡先も分からない。結局、アルテミスとの連絡は付かなかった。
そもそも、ふたりがルーマニアに来ることになったきっかけは、はるかが行方不明になった翌日に起こった事件にあった。はるかの行方を捜していたふたりは、ドイツ南西部にある黒い森と呼ばれている広大な丘陵地帯に足を踏み入れていた。最近になって、旅行客の変死体や行方不明者が続発しているというニュースを知った彼女たちは、はるかをさらった敵との関連性を調査するため、黒い森の山岳道路脇にある小さな山村に向かった。
「変死体というのは、ただごとじゃないわ」
というのが、みちるの意見であった。
変死体は、体中の水分を吸い尽くされたように干涸らびており、死後二‐三日しか経過していないというのに、殆どミイラ化した状態で発見された。それが、一体や二体ではないのだ。山岳道路から森の奥に少しばかり入っていったところにある名も無き村では、村人全員(といっても十数人だが)が、ミイラ化した死体で発見された。
異常である。
原因究明に向かった調査団も、「悪魔が出た」という通信を残し、消息を絶った。
ブレーメンで購入した日本車(亜美はレンタカーでいいと言ったのだが、返すのが面倒だからという理由で、みちるは日本車を購入してしまったのだ)で、みちると亜美のふたりはバーデン・バーデンに到着した。
このバーデン・バーデンを拠点にして、黒い森探索に乗り出そうというのが、ふたりの立てた計画だった。
到着したその日の内に、ふたりは行動を起こした。
連邦道路五百号線で三十キロほど南に走り、ムンメル湖の畔で車を止めた。
変死体が発見された村は、ここから数キロ森に入った場所にある。そこに行く前に、何か情報は得られないかと車を止めてはみたものの、湖畔には人影は見えなかった。興味深げに事件の起こった現場を一目見ようと訪れるのは、どうやら日本人特有の悪い癖なのだろう。大量の野次馬を想像していたふたりは、拍子抜けしてしまった。
警察関係者の姿すら見かけなかった。
「いくら待っても駄目ね。人が来る気配もないわね………。仕方ないわ、現場に向かいましょう」
早々に諦め、ふたりは再び車に乗り込んだ。
はるかの影響なのだろう、みちるの運転は少々荒かった。安全運転の母親の車に慣れていた亜美には、少々神経的に疲れる旅だった。
村に到着した。
やはり、人の姿はなかった。不気味なくらいの静けさである。
「警察はいないのかしら………」
亜美はまわりを見回した。古ぼけた家が点在しているだけで、これといった珍しい建物はない。もちろん、人の気配は感じられない。
馬小屋があったが、中に馬はいなかった。使われなくなってから、しばらくたっているような感じだった。
「調査団が消息を断ったのは、この村を調査中だったわよね」
「新聞にはそう書いてありましたが、事実かどうかは分かりませんよ。何しろ、調査団全員が消息を断ったわけですから………」
亜美は手近な家の窓を覗いてみた。中は乱雑で、何者かと争った形跡がある。家具は倒され、壁には銃の痕らしい丸い穴がある。
「やっぱり、ヴァンパイアの仕業でしょうか?」
亜美は背後にいるはずのみちるに声をかけた。が、返事がない。
不思議に思って、亜美は振り向いてみた。みちるの姿が見えない。
家と家の間には、かなりの間隔がある。つい先程まで一緒だったみちるが、かなり離れた隣の家に行けるはずはない。行くとしても、亜美に一言あるはずである。
亜美は自分が覗いていた家を、一回りしてみた。やはり、みちるの姿は見えなかった。
「まさか………」
考えたくはないが、みちるの身に何か起こったに違いない。自分の背後にいたはずのみちるが、一瞬のうちに消えてしまうような何かが起こったのだ。
亜美は素早くセーラーマーキュリーに変身した。敵が潜んでいる可能性が非常に高い。生身のままでは危険だと判断した。
マーキュリーはゴーグルを装着し、索敵を開始した。ポケコンを実体化させ、同時に敵の潜んでいそうな場所を、計算で割り出させる。
(見つけた………!)
マーキュリーはポケコンを仕舞うと、
「ウォーター・ストリーム!!」
頭上に向けて、一気に水流を放出させた。マーキュリーの足下から導き出される聖なる水は、彼女を中心に渦を巻きながら上昇する。飛び込んできた相手に対し、防御し弾き飛ばすための技なのだが、真上の相手に対しても攻撃能力がある。
バシャァ!
聖なる水が弾けた。
思わぬ攻撃を受けたマーキュリーの頭上に潜んでいた敵は、人質として捕まえていたはずのみちるを手放してしまった。
上空から落下するみちるは、慌てることもなくネプチューンに変身すると、宙空でくるりと回転し、地面に着地した。
「マーキュリー、来るわよ!!」
ネプチューンが叫ぶのと同時だった。
いったい何処に潜んでいたのだろう。牙を剥き出しにした男たちが、一斉にふたりに飛び掛かってきた。血に飢えた獣のような目をし、醜く顔を歪ませてはいるが、元は普通の人間であると思えた。
「この人たちは、まさか………!?」
マーキュリーは飛び退きながら、ネプチューンに視線を送る。
「そう。きっと、行方不明になっている調査団の人たちだわ!」
マーキュリーの想像通りの答えを、ネプチューンは口に出した。
元調査団だった人たちは、文字通り血に飢えた獣の如く、マーキュリーとネプチューンに襲いかかってくる。
「彼らと戦っている場合ではないわ!」
ただ、がむしゃらに飛び掛かってくるだけの男たちを躱すことは容易だったが、それでは問題は解決しない。彼らを操っている人物を倒さなければ、彼らは命のある限り襲いかかってくるだろうと思えたからだ。
彼らを操っている人物とは、おそらく先程みちるを捕らえていた人物だろう。
「シャイン・スノー・イリュージョン!!」
ネプチューンの作戦を理解したマーキュリーは、一端目眩ましの吹雪を放つ。意表を突かれた彼らは、一瞬動きを止めた。
「アクア・フリージング!」
続けてネプチューンが氷結の技を放つと、襲いかかってきた男たちは瞬時に凍り付けにされてしまった。これで彼らは、当分の間動けない。
同時に索敵をしていたマーキュリーは、彼らを操っていた者に対して水蜃気楼を放っていた。
「ぐっ!」
直撃を受けた「敵」は、短い呻き声を発すると、即座に退却していった。
「逃げた………!?」
逃走されるなど考えてもいなかったふたりは、一瞬戸惑ってしまった。あわよくば、「敵」を捕らえて彼らのアジトを聞き出そうと考えていたネプチューンの作戦は、脆くも崩された。
カサリ。
物音がした。
ふたりは、音の聞こえた方に視線を走らせる。
家があった。おそらく、「音」はその家の陰から聞こえたものだろう。
ふたりは慎重に足を運んだ。二手に分かれ、家の両脇からそれぞれ裏手へと回った。
先に飛び込んだのは、右側から回り込んでいたネプチューンだった。続けてマーキュリーが左側から裏へ飛び込む。
「あなたは………!?」
女性がひとり、恐怖に怯えるように身を震わせながら、蹲っていた。
「お願い! 殺さないで!!」
震える声で、女性は叫んだ。
女性は調査団の一員だった。吸血鬼伝説の研究をしている大学教授の助手で、ベス・マイヤーという名だった。
調査団のただひとりの生き残りだった。
ネプチューンが凍り付けにした男たちは、「敵」が去ったあとで元に戻したのだが、彼らに既に息はなかった。ブレーメンのシュトロンハイム城で、はるかとみちるを襲った生ける死者と同じ、「動く死体」だったのである。「敵」の支配を逃れたために、元の死体に戻ったのである。
「………一瞬の出来事だったので、あまりよく覚えていません。気が付いたときには、わたしはひとりで森の中を彷徨っていたのです。どこをどう歩いたのか、いつの間にか元の村まで戻っていたのです。そして、あなた方に出会った。わたしはてっきり、パーティを襲った悪魔だと勘違いして………」
大分気が静まったのか、ベスは落ち着いた口調で話し出した。ルーマニア出身というベスは、ドイツ語があまり上手ではなかったが、マーキュリーにも理解できる語学力は持っていた。
「まあ、確かに普通の人ではないけどね………」
自らの姿を気にしながら、ネプチューンは僅かに肩を竦めてみせた。
「襲ってきた相手は見ましたか?」
マーキュリーは訊いた。ベスは首を横に振った。
「夢中で逃げましたので………」
その時の状況を思い出したのか、ベスは体を小刻みに震えさせながら答えた。恐怖が再び甦ったのだろう。
「手掛かりはないわね………」
ネプチューンは残念そうに言った。ベスの話からは、事件の手掛かりになりそうな情報は得られない。
民家の中に場所を移すことにした。鍵は掛けられておらず、ノブを回すとドアは難なく開いた。リビングは散らかっていたが、ソファーは原型を留めていた。ソファーに腰を降ろすと、幾分気分がリラックスする。
他人の家に勝手に上がり込むことにマーキュリーは抵抗を覚えたが、ネプチューンは遠慮なく部屋の中を物色し始めた。何とも空き巣狙いのような気分にさせられ、マーキュリーは苦笑いを漏らしていた。
キッチンを拝借し、ネプチューンが紅茶を入れてきた。もちろん、紅茶の葉も拝借した物だ。
「電話は使えませんね」
家の中を調べていたマーキューリーが、紅茶を運んできたネプチューンに、残念そうに言った。電話が使えれば、警察機構にベスの無事を連絡し、保護してもらうこともできたのだが、残念ながらそれは無理のようだった。
「それにしても、あなたたちは不思議な格好をしていますね」
ベスが素朴な感想を述べた。彼女たちセーラー戦士は、端から見れば、確かにおかしな格好をしていると思えた。水夫の服によく似たコスチュームに、意味もなく短いスカートとくれば、不思議に思うのは当然だろう。彼女たちは変身は解かなかった。敵がまだ近くにいるような気がしてならなかったからだ。
「この格好でいるときは、気にしないようにしているんだけど、改めて言われると恥ずかしいものがあるわ」
自分で入れた紅茶を飲みながら、ネプチューンは言った。足を組んでソファーに深々と腰を降ろしているネプチューンの正面にいるベスは、女性であるにも関わらず、目のやり場に困っているようだった。男性であれば、ネプチューンのごく一部に視線が集中してしまうような光景である。ネプチューンにしてみれば、目の前にいる人物が女性なのだから、それ程気にする必要もないと思っているのかもしれなかった。
「あなた方は、新たに派遣された調査団の方たちですか?」
ベスが新たに質問してきた。
「いいえ」
ベスの背後にいるマーキュリーが、ティー・カップをソーサーに戻しながら答えた。彼女はソファーには腰を降ろしていなかった。
「あたしたちは政府の調査団ではありません」
「政府の方ではないとすると、どこか別の組織のエージェントですか?」
「答えられませんね」
マーキュリーは肩を竦めるしかない。何と言えばベスが納得してくれるのだろうかと、言葉を探しながらも、マーキュリーはネプチューンに目で助けを求めるが、ネプチューンも僅かに肩を竦めただけだった。
「何か、特別な任務をお持ちなのですか? おふたりとも不思議な能力を持っているようですが………」
「あたしたちが、戦うところを見ていたの?」
ネプチューンは眉を潜めた。そんな余裕が、彼女にはあったのだろうか。ネプチューンたちがベスを発見したときは、彼女は恐怖に怯えていたのだ。それに、自分たちの戦いを見ていたのなら、発見されたとき、殺さないでくれと言うのはおかしい。
ネプチューンの脳裏に、閃くものがあった。
「墓穴を掘ったわね」
低く、鋭い声で、ネプチューンは言った。言葉の意味を理解したマーキュリーは、ベスから離れ身構えた。
「ちっ!」
舌打ちすると、ベスは大きくジャンプした。窓を突き破り、外へと飛び出した。常人とは思えない跳躍力だ。
マーキュリーとネプチューンが、ベスの後を追って窓から外へ出た。
「あたしの生ける死者( よ! 目覚めよ!!」)
ベスの声に呼応して、動きを止めていた死体が、再び活動を始めた。ベスの魔力によって、再び仮初めの命を与えられた死者たちだ。
「凍らせたままにしておくんだったわ!」
再び動き出した死体を見て、ネプチューンは毒づいた。が、今となっては後の祭りだ。もう一度行動を封じるしかない。しかし、
「ネプチューン( !」)
アクア・フリージングを放とうとしたネプチューンを、マーキュリーが制止する。彼女は上を示していた。
先にベスを倒すべきだと言うのだ。冷静な判断だ。
ネプチューンは矛先をベスに変えた。ベスの戦闘能力は大したことはない。それは、先程の一瞬の戦いで分かっていた。彼女もまともに戦っては、自分では勝てないと判断したから、あのような姑息な手段を執ったのだ。調査団の生き残りだと偽って、ふたりを油断させておいてひとりずつ倒すつもりだったのだろう。だから、ふたりが本気で戦えば負ける相手ではない。
マーキュリーがシャボン・スプレーで援護をする。ネプチューンは素早くベスの背後に回り込み、彼女の首を締め上げた。
「なかなかいい作戦だったけど、詰めが甘かったわね」
「くっ………!」
ベスは悔しげに呻いた。
「あなたたちのアジトはどこ!? あなたたちは、何をしようとしているの!?」
ネプチューンは首を絞めている右腕に力を入れた。ベスは必死に藻掻いているが、藻掻けば藻掻くほど、首は締め付けられる。
「言いなさい!!」
更に腕に力を込めた。さしものベスも観念した。
「ル、ルーマニアの………」
ベスの口から掠れた声が漏れた。と、その時、
「!!」
光が迸った。光はネプチューンに首を締め上げられているベスを直撃した。
「なっ!」
絶句するネプチューンの眼前で、ベスは悲鳴を上げる間もなく消滅していった。
「新手!?」
地面では生ける死者( を再び凍り付けにしていたマーキュリーが、慌ててゴーグルを再装着し、周囲を索敵する。しかし、敵らしい影は発見できなかった。)
ネプチューンに視線を向け、首を左右に振ってみせる。
「………口封じね。迂闊だったわ。仲間がいたなんて………」
ネプチューンは力無く呟いた。せっかく情報を得るチャンスだったというのに、結局は得るものはなかった。
「ルーマニアのどこでしょうか?」
ベスの最後の言葉は、マーキュリーにも聞こえていた。彼女は確かにルーマニアと言った。あの場面で、ベスが嘘を言うとは思えなかった。
手掛かりはルーマニアにあり───。
「行ってみるしかないようね………」
ネプチューンが呟いた。
ベスの残した、「ルーマニア」という言葉だけを頼りに、彼女たちはブカレストにやってきたのだ。手掛かりは、今のところその言葉しかない。調べてみる必要はあると、判断した為だった。
ヴァンパイアとルーマニア。
偶然にしては、話が出来過ぎている。
「ドラキュラの国、ルーマニアか………」
ホテルのベランダからブカレストの街並みを眺めていたみちるは、吐息のような呟きを漏らした。
はるかの行方は、依然として掴めていなかった。