D・J


 話は少し前に戻る。T・A女学院で、ほたるが危機に陥る一時間程前のことだ。

 六本木の交差点まで歩いて五分というところに、大道寺潤人の探偵事務所があった。
 アマンドでお茶菓子を買ったせつなは、その大道寺の探偵事務所に向かって歩いていた。
 天文台の帰りに大道寺に送ってもらってから、せつなは度々彼の事務所を訪れるようになっていた。私立探偵という職業に興味もあったし、なによりもせつなは、彼に惹かれるものがあったからだ。
 私立探偵という職業柄、大道寺は事務所を留守にしていることが多かったが、そんなときはせつなが事務所で電話番をしていた。
 以前の事務所では、留守電が流れていた。

『はい、大道寺探偵事務所です。只今留守にしておりますので、御用の方は発信音のあとに、連絡先とメッセージをお入れ下さい。のちほど、こちらから連絡致します』

 大道寺の声で、事務的にメッセージが流れるだけであった。その為かは分からないが、この留守電に依頼のメッセージが入っていたた試しがないのである。依頼人からしてみれば、一刻を争うものが多いために、わざわざ留守の探偵に仕事を依頼するより、今すぐ会ってくれる探偵の方を選ぶ。よって、大道寺探偵事務所には、事件の依頼は少なかった。大道寺はそれほど有名な探偵ではないのだ。
 人を雇えばいいのではないかと、大道寺に勧めたが、給料が払えないと、彼は乾いた笑いを発したものだ。
 だからなのである。せつなが自分の休日には、事務所に居座り、ボランティアで電話番をするようになったのである。さながら、押し掛け秘書といったところだろう。
 せつなが電話番をしていたおかげで、仕事の依頼が二件ほどきた。二件とも簡単な浮気の調査の依頼だったが、選り好みしている余裕は、大道寺探偵事務所にはなかった。公共料金の支払いが、随分溜まっているのだ。このままでは、来月には電気もガスも止められてしまう。
 大道寺からしてみれば、せつなの行為はありがたいものであった。仕事は決まるし、事務所の掃除もしてくれる。おまけに、簡単な食事も用意してくれるのだ。いいことずくめである。悪いとは思いながらも、ついついせつなの行為に甘えてしまっていた。
 せつなはいつものように、ドアをノックせずに事務所に入った。今日は大道寺は事務所にいる予定だった。だから、お茶菓子を買ってきたのだ。
 事務所に入ったせつなに、三人の男性の視線が集まった。仕事の依頼だろうか。ひとりは実業家風の青年で、もうひとりは女性的な雰囲気を持つ美形の青年だった。ふたりとも、大道寺と同じくらいの歳に思えた。
「ごめんなさい。お客さま?」
「ああ。俺の古い友人なんだ」
 間髪を入れずに、大道寺は答えた。紹介された友人ふたりは、応接用のソファーから立ち上がると、軽く会釈をした。
「俺は三条院正人」
「わたしは美園麗人。よろしくね」
 ふたりは握手を求めてきた。せつなはそれに答えた。
 実業家風の青年が三条院正人。がっしりとした体格で、背が高い。ウェーブの掛かった髪を、肩胛骨の辺りまで伸ばしている。力強く、それでいてやや遠慮がちに、せつなの手を握った。
 まるで女性ではないかというほどの美しい顔立ちをした美園麗人は、最初の直感通り、歴とした男性だということだった。握手を交わした彼の手は、女性のようにしなやかなであり、ふわりと柔らかく、そして暖かかった。腰まで伸ばした髪を、首の辺りでひとつに束ねていた。非常に女性的ではあるが、いわゆる「ニューフェイス」のような妙な女性っぽさではなく、何もかもが女性そのものの動きをしていた。本人が言っているように、男に生まれてしまったのは、何かの間違いではないかとも思えた。
「心配しなくても、本当にわたしは男だから………。それに、あっちの趣味もないから、安心して」
 大道寺に対するせつなの気持ちを、敏感に感じ取ったのだろうか、美園はせつなにしか聞こえないような小さな声でそう言った。せつなは微笑して、その言葉に答えた。
「あたし、もう一度出てきます」
 せつなはアマンドの紙箱を目配せしながら、大道寺に言った。ふたり分しかないのだ。それに、どうやら込み入った用件を話していたらしい。せつなを気にしてか、話が先に進んでいないようだ。
「ああ。すまない………」
 大道寺の答えを確かめるまでもなく、せつなは事務所をあとにしていた。
「綺麗な娘ね」
 せつなを見送ったのち、美園が口を開いた。
「ああ。いい娘だよ………。彼女が雑務をこなしてくれるので、大助かりだよ」
「そういうつもりで言ったんじゃ、ないんだけどね」
「………分かっている。だが、俺にはもったいない娘だよ」
 言いながら、大道寺はテーブルに視線を落とした。
「そう卑屈になるなよ。お前を捜し出してしまった俺たちが、悪人に思えてくる………」
 三条院が苦笑する。
 大道寺は胸ポケットから赤い箱を取り出し、中から煙草一本取り出し、口にくわえた。三条院と美園にも勧めたが、ふたりとも煙草は吸わないと遠慮をした。
「もうひとりの居場所の見当は、付いているのか?」
 愛用のZippoで煙草に火を付けながら、大道寺は訊いた。
「ああ、近くにいる」
「近くって、この辺にか?」
「ああ。向こうから、この街に来てくれたよ」
「わたしたちは、ちゃんと巡り会うように定められているのよ。彼女たちがそうであったようにね………」
 美園は切れ長の目で、大道寺を見た。大道寺は苦笑を返した。
「仕事の方はどうする?」
 三条院が訊いてきた。
「まずはマスターと合流する方が最優先だな。それから今依頼されている事件を、本格的に調査にしようと思う」
「今度の事件と関係がありそうなのか?」
「おおありだな。俺が私立探偵という仕事ををやっていたのも、偶然ではないように思えてくるよ」
 大道寺は半分しか吸っていない煙草を、テーブルの上のガラス製の灰皿で揉み消した。

「なんか、こう…、まったくやる気がでないわよねぇ………」
 昇降口を出たうさぎは、ぽつりと呟いた。
「あんたのそれは、今始まったことじゃないじゃない」
 なるちゃんの突っ込みは、相変わらず見事である。横でまことと舞のふたりがクスクスと笑っている。
「ほんと、いいコンビだよねぇ………」
 舞は感心したように言った。
 昼食後の腹ごなしを兼ねて、サッカーを楽しんでいる、男子生徒のいる校庭を右側に見ながら、うさぎたちは正門へと向かっていた。もちろん、午後の授業が残っているから、帰宅するわけではない。連れだって、テニス部の練習を見に行くところなのだ。
 大会の近いテニス部は、昼休みもそのための練習をしているはずだった。
「舞ちゃんは、部活やらないの? この間、ひかるちゃんにバレー部に誘われてたみたいだけど………」
 スポーツ万能の舞が帰宅部を決め込んでいるのは、うさぎとしては不思議でならなかった。その気にさえなれば、一躍スターになれると思う。あちこちのスポーツ部から、お声が掛かっているのは事実である。
「面倒くさいからさ………」
 舞は肩を竦めてみせた。確かに、彼女はチームプレイをするスポーツには向いていないかもしれなかった。体育の時間でも、個人プレイが多いのである。舞が優秀なために、結果としてチームは勝ってはいるが、チームメイトからすれば、あまり気持ちのいい勝ち方ではなかった。よって、相変わらず舞は、クラスの同姓からはよく思われてはいない。親しく付き合っているのは、八方美人のうさぎぐらいだろう。ただし、持ち前のその美しい顔立ちとバツグンのスタイルのおかげで、男子生徒には高い人気があった。それが、余計に女生徒から反感を買う原因にもなっているのである。要するに、僻んでいるのだ。
「あれ? 彼女黒月さんだっけ? テニス部だったんだ」
 金網の向こう側に、黒月晶の姿を見付けたまことが、驚いたような声をあげた。
「はぁ………。黒月さん、素敵よねょ………」
 左側にある硬式のテニスコートで、晶が華麗なフォームでラケットを振るっていた。うさぎがうっとりとした視線で晶を見つめる。
「あっ! 瑠衣姉さんだ!」
 晶の相手をしているのは、なるちゃんの幼なじみの西園寺瑠衣だった。一人っ子のなるちゃんが、まるで本当の姉のように慕っている、女子テニス部のOBである。
「黒月さんて、テニス部だったっけ?」
 うさぎはなるちゃんに訊いた。
「違うんじゃない? 黒月さんて、三年になってから転校してきたから、部活には所属してないんじゃないかなぁ………。前の学校でテニス部だったのかもね」
 夏休みが終われば、三年生の殆どは部活を引退しなければならない。就職や進学のための受験勉強をするためである。
 テニス部OBの瑠衣がここに来ているのは、もちろん後輩たちの面倒を見るためである。三年生は夏の大会の後、部活動を引退する。最後の大会でできるだけいい成績を残し、悔いを残さずに引退をさせてあげたいと願ってのことだ。だから、後輩のコーチに度々高校を訪れているのだった。
「西園寺先輩は、進学したんだろ?」
 まことが尋ねた。
「うん。短大に行ってるよ」
 なるちゃんは答える。
「あ、あの人………」
 舞がフェンスの向こう側から、晶と瑠衣の試合を観戦している人物を見つけた。テニスコートを挟んで、向こう側のフェンスである。ちょうど、道路側からコートを覗いているような格好である。
「あいつだ………」
 まことも気づいて、くぐもった声を発した。
 うさぎとなるちゃんは、そのふたりの視線を追った。
「あっ!」
 うさぎが小さく声を上げた。もちろん、見覚えのある人物だった。それもあまり会いたくない人物である。
 その人物───十文字拓也は、じっと瑠衣たちの試合を見つめていた。反対側で観戦してい
るうさぎたちには、彼は気づいていないようだった。
「あの瞳、普通じゃないね………」
 舞が低い声で呟くように言った。警戒心を含んだ口調だった。
「普通じゃないって?」
 怪訝な表情で、なるちゃんが尋ねた。舞の顔と、遠くの十文字を交互に見ている。
「獲物を狙っている野獣の瞳だ。あのふたり、どうやらあの男のお眼鏡に適ったようだ。あんたの知り合いに、忠告しておいた方がいいよ」
 何もかも知っているような舞の口振りに、なるちゃんは驚きを示しながらも、素直に頷いていた。十文字のよくない噂は、海野を通してもなるちゃんは知っていたし、クラスメイトにも被害にあった娘がいる。舞の話は話半分だとしても、瑠衣に注意を促すだけはしておこうと思った。
「そう言う意味では、うさぎちゃんも狙われているんだから、注意した方がいいよ」
 まことは諭すように言う。状況に流されやすいうさぎは、どうもあの手のタイプには弱いと思えた。注意をしていても騙されてしまうのだ。
「うん。気を付ける………」
 うさぎは答えたが、言葉ほど深刻には考えていなかった。

 三条院と美園のふたりは、長居はしなかった。
 せつなの買ってきたお茶菓子を食べると、頃合いを見計らって帰っていった。去り際に何事か大道寺と話していたようだが、食器の後片付けをしていたせつなには、話の内容は分からなかった。
「お昼、どうしよう………?」
 ちらりと時計を見て、せつなは訊いた。壁掛け時計は一時五分を差していた。
「ああ………。俺はいらないが………」
 せつなはどうするのかと、目で尋ねてきた。せつなは首を横に振る。三時頃に食べるはずだったお菓子を、お客が来ていたために、昼近くに食べてしまったから、取りあえずはお腹は空いてはいなかった。
「なあ、せつな………。実は事務所を当分の間、閉めようと思うんだ………」
 実に言い難そうに、大道寺は言った。煙草を加えて火を付ける。
「事務所を閉めるって………?」
「やらなければならないことができたんだ………」
 大道寺の言葉は、どこかぎこちない。
「さっきいらしてた、お友達と関係があるの?」
 問いつめるような口調になってしまったが、仕方のないことだった。
「ああ。大事な用事なんだ」
 大道寺は、せつなとは視線を合わせないようにしていた。明らかに何かを隠しているようだが、せつなにはそれ以上質問は許されなかった。それ以上踏み込んで質問できるほど、せつなと大道寺は親密な関係ではなかった。もちろん、恋人同士でもない。せつなが勝手に事務所の手伝いに来ているだけなのだ。大道寺が事務所を閉めるというのなら、それを黙って聞くしかないのが、今のせつなの立場だった。
「仕事はどうするの………?」
「今受けている仕事は必ず片づける。心配はいらない」
「そう………」
 せつなは大道寺に背を向け、事務所の机の上を整頓し始めた。
「!?」
 不意に警報が鳴り響いた。実際に聞こえたわけではない。せつなの心の中で響いたのだ。ペンダント代わりにしていた時空の鍵が、細かく振動している。
(ほたる………!?)
 ほたるの身に、何かが起こった。このところ、女学生の失踪事件が急激に増加した。用心のために、今朝方ほたるに時空の鍵を渡していたのだ。いくら戦士とは言っても、ほたるは中学三年生である。一緒に暮らしているせつなとしては、やはり心配なのだ。だから、お守りとして時空の鍵を渡したのだ。自分の鍵と連動するようになっている。ほたるに何かあれば、すぐに分かるようになっていた。
 その時空の鍵が、ほたるの身に異変が起こったことを知らせてきた。
「どうかしたのか?」
 突然、表情が変化したせつなを見て、大道寺は不審に感じた。
「ごめんなさい、出かけてきます!」
 早口で言うと、せつなは大道寺の返事も訊かずに、彼の事務所を飛び出していた。