ほたるの危機
平穏な午前中だった。
あさってから夏休みということも手伝ってか、休み時間の話題と言えば、夏休みの過ごし方についての話だった。
金持ちのお嬢様が多いT・A女学院生の大半は、親の別荘で過ごすことが多い。国内が多数を占めているが、中には海外の別荘に行く者も少なくない。
全く別次元の話だと思いながらも、ほたるは楽しげなクラスメイトたちのおしゃべりに耳を傾ける。
T・A女学院に通ってはいるものの、ほたるの暮らしは決して裕福ではない。基本的には、せつなの収入だけである。例外として、ほたるの学費だけは、はるかとみちるの収入から当てられている。実際にはもっと高額の仕送りがあるのだが、せつながほたるの将来のためにと、必要最低限の金額以外は、ほたる名義で貯蓄していた。いずれはほたるも、まことのように自立してゆかねばならない。いつまでも、冥王ほたるを名乗っているわけにはいかないのだ。彼女は、土萌ほたるが本来の名なのである。ほたるの親代わりの三人からは、高校を卒業してからは、土萌ほたるとして生活してゆくようにと言われている。ほたる自身もそのつもりだった。その代わりと言ってはなんだが、今は三人の行為に甘えていたいと思う。ほたるはまことのようにひとりで生活できるほど、自立はしていなかったし、強くもなかった。
昼食を取ると眠くなるというのは、しごく一般的である。お嬢様だとて、それは例外ではない。居眠りとは無縁のようなお嬢様たちも、睡魔には勝てないときがある。ただ、お嬢様としてのプライドが、居眠りなどという下品な行動を取らせないようにしているだけなのだ。
ほたるだとて、例外ではない。軽めの昼食ではあるが、やはり空腹感が満たされれば、次に襲ってくるのは睡魔である。梅雨の合間の暖かい太陽の光が、窓から教室の中に差し込められれば、眠くなってしまうのは自然の欲求だった。しかも、都合の悪いことに、ほたるは窓際だった。クーラーなどの設備のない学院では、窓は開け放しになっている。心地よいそよ風が吹き込んで来るのだ。暖かい陽差しと柔らかいそよ風は、まるで母親の子守唄のように五時間目の学生たちを包み込む。
窓から見ることの出来る東京タワーが、妙にぼやけて見えた。
ほたるは夢うつつで授業を聞いていたが、
「あら、緑川さん。どうかしましたか?」
五時間目の授業を担当している、古文のシスター絵里子の声で、現実の世界へと引き戻された。シスター絵里子が声をかけた緑川さやかは、ほたるのすぐ後ろの席だったのだ。
ほたるは後ろの席へ、体を捻らせた。
額に大量の脂汗を浮かべ、真っ青な顔をしている緑川さやかがいた。控えめな性格の彼女は、クラスの中にあって、存在感の薄い方であった。長い髪を三つ編みにした髪型がトレードマークなのだが、学院では同じような髪型をした生徒が多い。決して目立つトレードマークではないのだ。それがかえって、彼女を存在感の薄い生徒にしていた。
さやかは、瞳も虚ろだった。心配そうに声をかけているシスター絵里子の声も、耳には届いていない様子だった。
「気分でも悪いの?」
ほたるも声を掛ける。
授業は中断された。クラスメイト全員が、心配そうに緑川さやかに視線を向ける。
さやかは俯いたまま、体を小刻みに震えさせている。
熱でもあるのかと思ったのだろう。シスター絵里子が、さやかの額に手を当てた。だが、すぐに頬を強張らせて、その手を引っ込めた。
不思議に思ったほたるは、今度は自分がさやかの額に手を当ててみた。
冷たい。異常すぎる。体温が下がりすぎている。
さやかは殆ど反応を示さない。俯いて、震えているだけである。言葉も発しない。
「保健委員はどなたですか?」
シスター絵里子はクラス委員に目を向けた。
「はい。わたしです」
クラス委員が答えるよりも先に、ほたるが手を挙げていた。
「わたしもそうです」
廊下側の一番前の席に座る生徒が手を挙げた。早川まるみだった。彼女も保健委員なのだ。ほたるとは結構気の合う友人のひとりである。
「冥王さんと早川さんですね。おふたりとも申し訳ありませんが、緑川さんを保健室へ連れて行ってあげてくださらないかしら」
「はい。分かりました、シスター………」
ほたると早川まるみのふたりは、揃って席を立った。
「緑川さん、大丈夫?」
ほたるは肩を貸すようにして、さやかを支えてやる。体全体が、氷のように冷たい。
(おかしいわ。普通じゃない………)
体温がこれほどまでに低くなるという病気は、ほたるは知らない。将来看護婦を目指しているほたるは、ある程度の病気なら知っているつもりだった。しかし、さやかの症状は、ほたるの知っている限りのどの病状にも当てはまらなかった。
さやかは呼吸も荒く、目も虚ろだった。自力で立っていることさえできない。ほたるとまるみのふたりで支えていなくては、その場に崩れてしまいそうだった。
「………私も参りましょう。みなさんは自習をしていてください。クラス委員、よろしく頼みます」
ほたるとまるみのふたりだけで連れていくのは困難だと判断したシスター絵里子は、少し考えた結果、自分も同行することを決断した。
シスター絵里子はさやかを背中におぶることにし、ほたるとまるみのふたりを連れて廊下に出た。
さやかの体は鉛のように重かった。小柄で細身の体型のさやかだったから、せいぜい体重は四十キロ前後だろう。なのに、それ以上に重く感じられる。
「シスター、大丈夫ですか?」
苦しそうなシスター絵里子に気づいたまるみが、声をかけた。
「ええ」
と、言葉少なに答えたシスター絵里子の額には、汗が滲んでいた。シスター絵里子も小柄な方だったから、さやかを背負ってしばらく歩くと、息が乱れてきた。おまけに、さやかからは、彼女自身の体重以上の重さを感じられる。
ほたるたちの教室は二階にあった。保健室は隣の棟の一階にあるから、まだ距離はかなりある。とても運べそうになかった。
「ごめんなさい。少し休みましょう」
階段を降りきったところで、とうとうシスター絵里子は根を上げた。目に付いた教室で、一休みすることにしたのだ。階段を降りたところのすぐ横の教室は、現在使われていないはずだった。休憩するにはちょうどいい。
「悪いけど、ここまで保険医の先生を連れてきてくださらないかしら………?」
教室に入り、さやかを椅子に座らせると、シスター絵里子は額に浮かんだ汗を拭った。とても保健室までは運べないと判断したのだろう。ほたるもその方が正解だと感じた。保険医の先生を呼んできた方が、こちらからさやかを連れて行くより、遥かに早い。ここで症状を看てもらって、必要ならば救急車を呼べばいいのだ。
「じゃあ、わたしが呼んできます」
まるみが素早く教室を出ていく。活動的な彼女だったから、何事にも行動が早い。廊下を走る音が、しだいに遠ざかってゆく。普段なら、廊下は走らないようにと注意するシスターだったが、今はそんな気力すらないようだった。僅かな時間で、かなりの体力を消耗しているようだった。おかしいと、自分でも思う。二十代半ばの彼女である。それほど体力が衰えているとは思えない。確かにスポーツは得意ではないが、人ひとりを背負って運ぶくらいで、こんなにも疲労感が出るものなのだろうか。
「シスター、お顔の色が優れませんが………」
ほたるがシスター絵里子の異変に気づいた。ひどく疲れているらしい様子が、その表情からも読みとれる。
「ええ、なんだかひどく疲れて………。でも、大丈夫ですから………」
シスター絵里子は力無く答えた。
(変だわ………)
ほたるは思う。教室にいたときと比べると、自分も少々体が怠い気がする。自分は教室からここまで、ただ歩いてきただけだ。それなのに、こんなに疲れるはずはない。もちろん、午後の授業が始まる前までは、体調は万全だった。教室を出るときにも、気怠さは感じなかった。と言うことは、教室を出てからここまで歩いてくる間に、体力を通常の消費以上に消耗したことになる。
「まさか………!?」
なんでもっと早く気が付かなかったのかと悔やんだ。しかし、ほたるがそのことに気が付いたときは、少々遅かった。
「シスター! 緑川さんから離れて!!」
叫ぶと同時に身構えた。
シスターは突然のことで、何を言われたのか理解できていない。突然生徒に命令口調で叫ばれては、躊躇うのも無理はない。
「シスター、逃げて!!」
もう一度叫んだ。気を充実させ、能力を呼び起こす。ほたるにとって、シスター絵里子がアキレス腱になった。変身ができない。
緑川さやかは、異常なまでの邪気を放っていた。邪気を放つと同時に、マイナスのエナジーも放出している。ほたるでなければ、感知できないものだった。
椅子に腰掛けていたさやかは、ふわりと立ち上がり、そのまま宙に浮いた。髪が逆立ち、瞳が異様な光を放つ。まわりのありとあらゆるエナジーを吸収していた。あのまま気づかずに教室に置いていたら、クラス全員のエナジーを吸収されてしまっただろう。
「敵」の目的も、おそらくそれであったと思う。エナジーを奪い、気を失ったところを拉致する。タワーランドでも行った作戦である。
まさか学院内でそんなことが起こるわけがないと思っていたところに、ほたるの油断があった。先日のレイも、学院内での部活動直後に襲われたのである。結局レイを襲ったという弓道部の部員たちは、そろって行方不明になっている。マスコミさえも騒ぎ出しているというのに、どこか別の世界で起こっている事件のような気がしていた自分を、迂闊だったと思う。戦士としての緊張感が足りなかったと後悔した。
その自分の甘さが、イズラエルにも一方的にやられた要因を作っていたことに、今更ながら気付かされた。
「冥王さん、これはいったい………」
表情を青ざめながら、シスター絵里子は、ほたるの側に逃げるように後ずさりしてくる。
「逃げましょう、シスター!」
変身できないのではどうしようもない。ここは逃げるしかないと、ほたるは判断した。このままこの教室に、さやかと一緒にいるのは危険だ。明らかにさやかは、「敵」になにかされている。
「………!?」
ドアに手を掛けたが、ビクともしない。
「やだ! どうしちゃったの!?」
シスター絵里子も動揺し始めている。自分たちのいる教室の後ろ側のドアが駄目なら、前のドアがある。ほたるはすぐさま移動し、教室の前側のドアを開けようとする。開かない。何らかの力が働いている。この分では、教室の窓も開かないだろう。完全に閉じこめられてしまった。
「結界が張られている!」
ほたるは唇を噛んだ。全ては自分が招いた油断からだったが、今となってはどうすることもできない。
「だれか! だれか助けて!!」
シスター絵里子は、半狂乱になってドアを叩いている。人がやってくる気配がない。というより、教室の外の音が聞こえない。通常空間と隔離されてしまった可能性がある。かなり強力な結界のようだ。
さやかは髪を逆立て、異様なオーラを放っていた。体が宙に浮いている。
ドアを叩いて喚き続けていたシスターが、突然力無く床に倒れた。
「シスター!」
倒れたシスター絵里子を、ほたるは抱き起こそうとした。
「………!?」
体に力が入らない。エナジーを奪われている。意識が薄れてきた。
ほたるはさやかに目を向けた。
さやかは両手を目一杯広げ、オーラを纏いながら宙に浮いている。さやか自身に意識はないだろう。おそらく、教室で異変が起きたときから、彼女は意識を失っていたのだろう。無意識のうちに、何者かに操られていたのだ。
「サターン・クリスタル・パワー・メイクアップ!!」
ほたるは変身を試みた。しかし、セーラーサターンにはなれなかった。変身する際のメタモルフォーゼ・パワーをも、さやかは吸収してしまったのだ。
「そんな………!!」
ほたるはがっくりと膝を付いた。パワーが出せない。
意識が真っ白になった。
中等部の方がざわついていた。制服の警官の姿が二‐三見え、パトランプの赤い光がチカチカしている。
部室が壊され、部活動ができなくなってしまったレイは、早めに司令室にでも行って、ルナたちと打ち合わせをしようかと考え、陽子とふたりで下校するつもりで昇降口を出た。そして、この騒ぎを目撃した。
パトカーのサイレンが聞こえた記憶がなかったから、おそらくサイレンは鳴らさずに学院にやってきたのだろう。警官に混じって、私服の刑事らしい男性の姿も見える。
レイは知らなかったが、その私服の刑事は若木トシオという青年だった。警視総監の直属の部下で、最近起こっている謎の女学生失踪事件の捜査主任をしている。現在の若き警視総監は桜田夏菜という名前であり、何を隠そう十番中学校の桜田春菜先生の妹であるのだが、その事実はあまり知られていない。ましてや、彼女たちの父親が元警視総監であったことなどは、もっと知られていない事実である。
シスターに事情を聞いているのであろうか、若木トシオは凛々しい表情で手帳に何事か記入している。ハンサム青年の若木を、陽子がうっとりと見ている。
「何かあったの?」
レイは、手近の中等部の学生を捕まえて尋ねた。
「あ、火野サマ、こんにちは。ええ、シスターがひとりと、生徒がふたり、突然消えちゃったらしいんです」
レイの顔を知っているらしいその学生は、小さく会釈をした。詳しいことは、彼女は知らないと言う。
レイと陽子のふたりは、そろって首を伸ばして、若木らのいる方を覗き見た。さっきは気が付かなかったが、制服の婦警さんがひとりと、私服の渋いおじサマが見えた。美奈子が見たら
キャイーンと奇声を上げそうなおじサマ───おそらく刑事だろう───は、シスターに肩を抱かれるようにしている学生に、何事か聞いているようだった。殆ど半狂乱の彼女を、シスターと婦警さんが必死に宥めている。
「確かに、シスターも緑川さんも、冥王さんも教室に入っていたんですぅ!!」
「!?」
泣きながら説明する生徒───早川まるみの言葉を、レイは聞き逃さなかった。
「冥王さんて………」
陽子にも聞こえたようだった。頬を強張らせて、レイの顔を覗くように見る。
冥王などという名字は、大変珍しい。学院内でも、冥王と言えば、中等部のほたるしかいないはずだ。よくよく見ると、半狂乱の学生には見覚えがある。ほたると一緒に、火川神社にも来たことがある。
もっと事情が知りたい。レイはそう思って、学生の人垣を掻き分けようとする。そのレイの腕を掴む者がいた。
「せつなさん!?」
レイは振り向くと同時に驚いていた。なぜ、せつながT・A女学院にいるのかが、理解できなかった。学院は部外者は入れないことになっている。
「どさくさに紛れて入ってきたのよ………」
レイの心を見透かしたように、せつなは言った。視線でレイに場所を変えようと促す。陽子がいたのでは、話ができない。まだ陽子は、彼女たちがセーラー戦士であることを知らない。
「美童さん、ごめんなさい。あたしはせつなさんと話があるから………」
レイは野次馬の中に陽子を残し、せつなとふたりで、ひとけの少ない方へと移動する。
「せつなさんは、どうしてT・A女学院に………?」
「ほたるが自分の危機を知らせてきたのよ………」
せつなは言いながら、レイに時空の鍵を見せた。
「同じものを、ほたるにお守りとして渡していたの………」
時空の鍵を通して、ほたるはせつなに危機を知らせたようだった。ほたるは通信機を持っているはずだったが、わざわざ時空の鍵を使ったとすると、通信機が使えない状態であったと推測できる。シスターやクラスメイトと一緒だったために、通信機が使えなかったのだろうと、せつなは推測していた。
「だったら、せつなさんなら、ほたるの居場所は分かるんですね」
「ほたるが時空の鍵を身に付けていてくれたら、分かるわ」
そうでない可能性もあると、せつなは暗に説明していた。その可能性が充分に考えられることは、レイも承知しているつもりだった。
「じゃあ、急ぎましょう! 早い方がいいわ!!」
レイはせつなを急かす。変身を試みる。だが、せつなは慌てるなという風に、かぶりを降った。別の時空の鍵を、レイに手渡す。
「あたしは一足先に行ってるわ。レイはみんなを連れて、あとから来て………」
「せつなさん!?」
「大丈夫。無茶をする気はないわ。ただ、嫌な予感がするのよ………。この間のタワーランドのこともあるし、こちらもベストメンバーで向かった方がいいと思うの」
もし、ほたるをさらったのがこの間のイズラエルクラスの敵であったとしたら、確かにふたりだけで行くのは問題がある。ただ、戦うだけならばなんとかなるだろうが、同時にさらわれたシスターたちを救出しなければならないので、ここはやはり人数を集めた方が得策だと思えた。
タワーランドでの一件の報告を受けているせつなとしては、そう判断せざるを得なかった。
「その時空の鍵を使えば、例えその場所が地球上でないとしても、あたしのいる空間の近くに来れるわ」
「分かりました。すぐにみんなを集めて追いかけます。無理をしないでください」
「待ってるわ」
せつなは軽いウインクで、レイの言葉に答えた。