パーラー“クラウン”
「いらっしゃいませ!」
硝子ドアを開けると、元気のいい声がレジの前で聞こえた。
その知っている声に笑みを浮かべながら、浅沼はレジを見やった。
「おや? 浅沼ちゃんも帰ってきてたのか。早かったね。………やっぱり電車の方が早かったかなぁ………?」
レジの前にいたまことが、パーラーに入ってきた浅沼を見つけ、そう言いながら近寄ってきた。「やっぱり………」からの部分は、浅沼の耳元で、囁くように訊いてきた。同時に、奥に目配せする。
(ああ………!)
浅沼は納得した。奥の専用席に、まことを車で連れてきた本人の元基が、コーヒーを飲みながらくつろいでいる。その横に、パーラーのウエイトレス姿の宇奈月も見える。
自分に気付いてくれた元基たちに、軽く会釈をすると、浅沼はお気に入りの水槽の横の席に座った。水槽は宇奈月の趣味である。名前も知らない熱帯魚が目を和ませてくれる。心が落ち着く席なので、浅沼は気に入っていた。
「何にする?」
浅沼が水槽の中の熱帯魚を眺めていると、まことがお冷やとおしぼりを持ってきた。慣れた手つきで、それらをテーブルに置く。
まことの体臭が、ふわりと浅沼の鼻腔から肺へと流れ込んでいく。まことはコロンを付けない質だったが、薔薇の香りを思わせる何とも不思議な香りが、浅沼の肺の中に充満した。年上の女性の持つ独特の甘い香りは、純情このうえない高校一年生の浅沼には、少しばかり刺激が強かった。
「どうしたんだ………?」
突然頬を赤らめた浅沼に、まことは不思議そうな顔を向けた。
「い、いえ! 何でもないんです!」
やっと我に返ることのできた浅沼は、慌ててその場を取り繕った。自分の身体に僅かばかり起こった異変を、まことに知られるわけにはいかなかった。
「へんなやつだなぁ………」
まことは小首を傾げる。
「………で、何にするんだい?」
重ねてまことは訊いてきた。
「カ、カフェオレ」
どぎまぎしながら、浅沼は答える。
まことはそんな浅沼に対し、もう一度「へんなやつだなぁ」と言うと、奥のカウンターへと歩いていく。
「ふう………」
浅沼は、大きく息を付いた。
(人の気も知らないで………)
心の中でぼやきながら、まことの後ろ姿を身で追った。形のいいお尻に、つい目が行ってしまうのは浅沼だけではないらしく、隣の席の小汚いおやじも、目をギラつかせていた。
浅沼と目が合うと、小汚いおやじは、にやにやとしながら赤鉛筆を舐め、競馬新聞をめくった。小汚いおやじに同類だと思われた自分が、無性に腹立たしかった。しかしながら、女性のお尻や胸につい目が行ってしまうのは、男の悲しい性である。
「マスター、カフェオレひとつ」
パーラー“クラウン”のマスターに注文を伝えるまことの声が、浅沼の耳に届く。浅沼は引かれるようにカウンターを見たが、観葉植物の陰に隠れてしまって、まことの姿は見えなかった。
まことは高校に入ってから、アルバイトをするようになった。中学時代は、飛行機事故で亡くなった両親の保険金と、親戚からの僅かばかりの仕送りで生活していたが、まことが高校に進学すると、その仕送りはぱったりと途絶えてしまった。高校などには行かず、仕事をして生計を立てろというのが、親戚一同の意見だった。進学するならば、仕送りはしないと言われたのだ。両親の保険金がまだ残っているので、当面の生活費は困らなかったが、収入源が絶たれてしまったので、いずれは貯金はなくなってしまう。完全になくなってからでは困ると思い、まことはアルバイトをすることにしたのだ。
どんなアルバイトを始めようかと、考えあぐねていたときに、元基からパーラーの方で人手が不足しているという話を聞かされた。面接に行くと、きょうからでも働いてくれないかと、人の良さそうなマスターは、忙しそうに訊いてきたものだ。
まことが高校に進学する気になったのは、うさぎたちがいたためである。うさぎたちと出会っていなければ、おそらくまことは、親戚連中が言うように、社会に出て働いていただろう。しかし、うさぎたちとの出会いが、彼女を変えた。うさぎたちと一緒に、もう少し学生をやっていたいと願うようになった。だから、親戚連中の反対を押し切って、まことは高校に進学したのである。
ただ、最近まことは少しばかり、オーバーワーク気味だった。高校で授業に出、放課後は料理研究部の部活動に参加し(まことの場合、園芸部も掛け持ちしている)、パーラーでのアルバイトは六時からだった。パーラーは九時には閉店するのだが、後片付けやなにやらで、帰りは十時をまわってしまうことがしばしばあった。それを、月曜日から金曜日まで続けるのである。土曜日には休みをもらい、次の日の日曜日は開店の十時から、閉店の時間まで仕事をするというパターンが多くなった。アルバイトを始めたばかりの頃は、こんなにも忙しくなかったのだが、今まで働いていた女子大生がの殆どが、大学を卒業することもあって、今年の三月でアルバイトを辞めてしまったのだ。そして、そのとばっちりを、まことが受ける形になってしまった。もちろん、経営者の娘である宇奈月も、とばっちりを食らってしまった。まことはその性格から、頼まれると嫌とは言えない性格だったことが災いした。結果的に、まことの仕事の時間が急激に増えてしまったのである。
しかし、今日だけは、亜美の旅立ちを見送るという特別な日だったので、無理を言って宇奈月とふたり、他のアルバイトの学生と時間をチェンジしてもらったのである。
まことがカフェオレを運んできた。浅沼のテーブルに置く。もちろん、「お待たせしました」の一言と、愛情を込めたウインクのサービスも忘れない。
浅沼は「カフェオレ」としか言っていなかったのだが、まことが運んできたカフェオレはアイスだった。もちろん、アイスカフェオレが飲みたかった浅沼は、気の利くまことに感謝しながら、アイスカフェオレを美味しそうに口にした。
「がんばりますね、まことさん。………でも、あんまり無理をすると、体こわしますよ」
浅沼はまことの体のことを、人一倍心配していた。彼女がオーバーワーク気味であることにいち早く気付いたのも、浅沼だった。
「へーき、へーき。丈夫なだけが、取り柄だからね」
力瘤をつくり、笑顔を見せるまことだったが、浅沼の目からはかなり無理をしているように感じられた。
一緒に働いている宇奈月も、まことが疲れていることは知ってはいたが、本人が大丈夫だと言うからには、宇奈月はどうしてやることもできない。せいぜい、自分が開いている時間は、まことのかわりにアルバイトに入ってやることぐらいしかできない。
「彼女、頑張り屋だな………」
そう、宇奈月に言うマスターも、まことのオーバーワークには気付いていた。休ませてあげたいのは山々なのだが、如何せん人手不足なのである。それに彼女ほどまじめに働いてくれるアルバイトは多くない。オーナーの娘の宇奈月も、けっこう不真面目なのである。
ちりりりん………。
ドアに付けられた鈴が鳴り、新たに客が入ってきたことを従業員に告げる。
「いらっしゃいませ!」
まことと宇奈月は、声を揃えた。
普段は客が席に着くまで、あまり視線を向けることのないまことだったが、この時にかぎっては、何かに引かれるように、入ってきた客に視線を向けていた。
若い男性だった。大学生だろうか。背が高く、体格がいい。体操選手のようながっしりとした体格である。しかし、髪が長い。こんなに長くては、体操をするときに邪魔になってしまうだろう。別のスポーツをやっているのだろうか。
その男の顔を見た、まことの表情が凍り付いた。
(クンツァイト!?)
緊張が駆けめぐった。その男性があまりにも、プリンス・エンディミオンの四人の親衛隊のひとり、クンツァイトに似ていたからだ。しかし、今のクンツァイトは、肉体を持たないはずだった。彼の魂が宿っている淡いピンク色の翡翠は、衛がドイツに持っていってしまっている。
「何か?」
クンツァイトに似た青年は、硬直したまま自分を見ているまことに、怪訝そうな視線を向けた。
「い、いえ。すみません………。知っている人に、よく似ていたもので………」
まことはぺこりと頭を下げた。
「そう………。だけど、人違いだと思うよ。俺はキミを知らない………」
低く、渋みのある声で言うと、青年は空いている窓際の席に着いた。
(声も、確かこんな声だった………)
クンツァイトに似た青年は、その容姿だけでなく、声もそっくりなように思えた。
(………でも、あの人が言うとおり、人違い………、いや、他人のそら似だよな………)
まことはそう思うことにしたが、窓際の席に座る青年は、見れば見るほどクンツァイトに似ていた。
「どうかしたんですか?」
まことの視線に敏感に反応したのは、やはり浅沼だった。まことの視線が今入ってきたばかりの体格のいい青年に向けられているために、心中は穏やかではない。
ひ弱そうに見える浅沼は、筋肉質の二枚目には少々コンプレックスを抱いていた。
「いや、何でもないよ」
はっきりと作り笑いだと分かる笑顔を浅沼に向けたあと、まことは観葉植物の陰へと消えてしまった。
浅沼は不安そうにまことを見送った後、青年の方に視線を向けた。窓際の席に座る青年は、まるで誰かを捜しているかように、視線を外を歩く通行人に向けていた。