亜美の旅立ちの日に
「………おはよう、まもちゃん」
気配に気付き、ゆっくりと瞼を開けると、そこには自分を覗き込んでいる衛の顔があった。深く、吸い込まれそうな瞳に自分だけが映っている。
「なんだか、長い長い夢を見ていたみたい………」
衛の瞳に映っている自分を見つめたあと、うさぎは二‐三度瞬きをすると、吐息混じりに言った。
ふかふかのベッドに身を沈めたまま、次いでうさぎは、ぼんやりと天井を見つめる。
「どんな夢?」
半身を起こした衛が、興味深げな視線を向けてくる。肉付きがよいが、決して筋肉質ではない衛の胸板が、うさぎの視界に入ってきた。衛の半身は、素肌を曝したままだった。
夕べの衛の肌の温もりを思い出してしまったうさぎは、僅かに頬を赤らめると、
「………忘れちゃった」
悪戯っぽく答え、身を反転させた。両肘を付いて、少しばかり体を起こす。タオルケットが肩からするりと落ち、うさぎの健康的な肩が露わになる。
「ねぇ、まもちゃん」
うさぎは再び仰向けに寝転がると、恋人の名を呼びながら、彼の顔を引き寄せる。
「あのコトバ、もいっかい言って」
強請るように右手の人差し指を突き立てた。
「………もうゆうべ、五十回くらい言ったよ」
甘ったるい声で強請ってくるうさぎに、少々むくれたような表情で、衛は答えた。だが、衛は怒っているわけではない。愛おしそうな瞳を、うさぎに向けている。
「もいっかいだけ」
人差し指を立て、にっこり笑いながら再びうさぎは強請る。そうすれば、衛が願いに答えてくれることをちゃんと分かっているのだ。
「………じゃ、最後の一回だ」
「うさぎちゃん、時間よ! うさぎちゃんたら!!」
ルナの声だろうか?
(ちょっと、いいところなんだから話し掛けないでよって………。なんで、ルナがまもちゃんのアパートにいるの?)
うさぎはなぜルナの声が聞こえてきたのか、心の中で考えながら、
「結婚しよう、うさ」
衛のプロポーズの言葉を聞いていた。
「うさぎちゃんてばぁ………!」
再びルナの声がする。
「ちょっと、ルナうるさいわよ!」
もう少し我慢していようかとも思ったが、せっかくの衛との憩いのひとときを邪魔するなんて、いくらルナといえど許せない。
「ルナぁ! どこに隠れて………!!」
ついに癇癪を起こしたうさぎが、ルナの姿を捜そうと身を起こしたとき、宙が一回転した。
ドテ!
後頭部に激痛が走ったかと思うと、目の前で星が瞬いた。
「大丈夫? うさぎちゃん………」
目を開けると、そこには衛の顔ではなく、ルナの丸い顔があった。
「………なんだ、夢か。そういうもんよね………」
溜息混じりに言うと、うさぎはふてくされて再び布団を被った。
今日は日曜日のはずだった。寝直すつもりなのだ。
「う、うさぎちゃん! 何考えてんのよ! 起きなさいよ!!」
(うるさいなぁ………。もう少し、寝ていたっていいじゃない………)
うさぎは心の中で、文句を言っていた。声には出さない。
「遅れるわよ! 今日は大事な日でしょ!? のんびりしてたら、間に合わないわよ!!」
ルナは前足で、うさぎの顔をべたべたと叩く。
「………今日は日曜日だから、学校はお休みよ、ルナ………。だから、おやすみ………」
うさぎはもぐもぐとした口調で、やっとの思いで声に出した。そして、寝返りをうつ。布団を頭から被り直した。せっかくいい夢を見ていたのに起こされ、今度は寝直すのを邪魔されてはたまらない。先程の夢の続きを、早く見たかった。
「何寝ぼけてるのよ! だじゃれを言ってる場合じゃないでしょ!? 亜美ちゃん、行っちゃうわよ!!」
ルナは強い口調で言った。うさぎが被っている掛け布団を、必死に引き剥がそうと努力している。
「亜美ちゃん………!?」
亜美ちゃんがどうしたっけ………? うさぎは寝ぼけた頭で考えた。
亜美ちゃんが行っちゃう。行っちゃうって、どこへ………?
「げっ!?」
うさぎは跳ね起きた。
「今何時!? ルナ………!!」
いっぺんに目が覚めた。血相を変えてベッドから飛び起きると、乱暴にパジャマを脱いだ。
「やっと、目が覚めたようね。大丈夫よ、うさぎちゃんがなかなか起きないだろうと思ったから、少し早めに起こしたんだから………。慌てずゆっくりと支度すれば………ぶっ!!」
パジャマが降ってきた。うさぎの温もりのあるパジャマが、ルナを頭から覆った。
うさぎはルナの言うことなど、全く聞いてはいない。素早く外出着に着替えると、ドタバタと階段を駆け下りる。
「あん! うさぎちゃん、待ってよ!!」
慌ててルナは後を追った。
一階のキッチンでは、父親の謙之が朝食後のコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた。
───セーラーV フランスでお手柄! 強盗犯逮捕に活躍!!
という大きな見出しが、一面を華々しく飾っていた。
(美奈子ちゃん、がんばってるわね………)
うさぎはクスッと笑った。
美奈子が父親の仕事の都合でフランスへ渡ったのは、三ヶ月ほど前のことである。三学期の期末試験が終わって、すぐのことだった。父親がフランスのパリ支店に転勤になるということで、一家でフランスに渡ることとなったのだ。
家族とともにフランスへ行くべきかどうか、初めは悩んでいた美奈子も、仲間たちから説得され、両親より二日遅れてフランスへ経った。
史上最悪の戦いであった、セーラーギャラクシア率いるシャドウ・ギャラクティカとの壮絶な戦いののち、彼女たちの待ち望んだ平和な日々が、長く続いたこともあった。彼女たちも戦いから解放され、ごく普通の女子高生として生活を送っていた。来年の三月は、いよいよ卒業である。それぞれに目標を掲げ、それに向かって今年一年努力する計画を立てた。
彼女たちが再びセーラー戦士として戦わなければならないような、大きな事件さして起こらなかった。ただ美奈子は、もし新たな敵が現れたとき、自分がうさぎの側にいないのは、四守護神としてはあってはならないことだと考えていた。ましてや、セーラーヴィーナスは、四守護神のリーダーなのである。リーダーの自分が、守るべきうさぎの側を、離れていいものだろうか。美奈子が悩む理由は、そこにあった。だが、仲間たちは彼女を説得した。美奈子がいなくても、うさぎをしっかり守ってみせると約束した。両親と一緒に生活するのが一番だという、まことの意見も、美奈子の心を動かしたのだ。
そうして、美奈子はフランスへと渡っていった。
美奈子がフランスへ行ってしまって、寂しくなってしまったのは、何もうさぎや四守護神の女の子たちだけではなかった。アルテミスが美奈子とともにフランスへ行ってしまったことで、ルナも寂しくなってしまったはずである。口ではせいせいしたと悪態をついているルナだったが、そんなはずはないと、うさぎは思う。
「行って来ます!」
うさぎは慌ただしく家を出た。そのあとを、ルナが付いてくる。
待ち合わせの場所には、既にレイとまこと、そしてほたるが来ていた。充分時間には間に合ったうさぎだったが、一番遅かったという理由で、レイに文句を言われた。もちろん、遅刻をしたわけではないので、うさぎが反論したのは言うまでもない。
空港に着いた。
移動中は、ルナはずっとバスケットの中に入れられていたため、やっと出られたという解放感が、彼女に大あくびをさせた。
「ああ、しんどかったわぁ………。こんなことなら、人間の姿で来るんだった………」
ルナはひとりぼやいた。スター・シードが完全に成長したルナとアルテミスは、自分たちの意志で人間の姿に戻ることができた。もちろん、以前のように能力を使うこともできる。おかげで、戦闘でのサポートもできるようになった。と、いっても彼女たちが戦闘で活躍するような局面は、今のところ訪れていない。
「ルナ、置いてっちゃうわよ!」
念入りに毛繕いをしているルナを尻目に、うさぎはぴしゃりと言った。ルナの苦労など、うさぎは全く考えていない。
ロビーは相変わらず混雑していた。
その中で、うさぎたちは、すぐに亜美の姿を見つけることができた。亜美は、同じく見送りに来ていた、元基と宇奈月と話をしている。
亜美の横に、彼女の母親の姿も見える。
「亜美ちゃぁん!」
うさぎが手を振って、亜美を呼んだ。亜美もうさぎたちを見つけ、笑顔で手を振ってくれた。
「よかった、間に合って………」
うさぎが言うと、
「うさぎってば、ギリギリに来るんだもん! 置いてっちゃうおうかと思ったわよ!」
と、レイが突っ込む。
「何言ってるのよ! 今日はちゃんと間に合ったじゃない!」
「………でも、一番遅かったじゃない!」
言い合いになった。先程ケリが付いたと思っていたのにも関わらず、再び争いになるなど、昔から全く進歩がない。いつものパターンだ。まことは頭を抱えたが、亜美は嬉しくなって、思わず吹き出していた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
笑顔で亜美は答える。いつもと変わらない仲間たちがそこにいることが、亜美にはとても嬉しかったのだ。
「亜美さん、ごめんなさい。仕事の方が忙しくって、せつな姉さん、お見送りに来れなくて………」
ほたるが見送りに来た仲間たちの中に、せつなの姿がないことを、簡単に説明した。
「うん。夕べ、電話をもらったわ」
亜美は笑顔で答える。せつなは宇宙開拓事業団に勤務していた。最近、新しい発見があったとかで、連日忙しい日々が続いているのだ。重要なセクションを任されているせつなは、日曜日だというのに、休みが取れないらしいのだ。
うさぎたちに僅かに遅れて、海野たちがやってきた。なるちゃんと浅沼が一緒だった。
「元気でね、亜美ちゃん」
「ありがとう、なるちゃん」
なるちゃんは名残惜しそうに亜美を見ている。お守りだと言って、小さな包みを亜美に手渡した。
亜美は笑顔を絶やさない。にこやかに応対している。
「亜美さん、寂しいですぅ………」
何故か浅沼は、ボロボロと大粒の涙を流していた。そう言えば美奈子を送るときも、浅沼はわんわんと泣いたものだ。
「涙もろいんだよ。浅沼ちゃんは………」
まことは肩を竦めていた。
見送りにきた全員が、それぞれに別れの言葉と激励を言う。海野やなるちゃん、浅沼の言葉に、亜美は笑顔で頷く。
「いよいよだね、亜美。がんばってな」
まことが亜美の肩を、ポンと叩く。
「ドイツで、衛さんに会えるかもね」
レイがウインクした。
「そうね。衛さんも、ドイツでがんばってるのよね」
亜美は言いながら、うさぎを見る。
「うん。この前、手紙がきたよ」
うさぎは嬉しそうに答える。ギャラクシアに襲われたために、彼が憧れていたハーバード大学の留学をキャンセルしなければならなくなってしまった衛だったが、彼の才能を認めていた恩師が、再びチャンスを与えてくれたのだ。恩師の知り合いが勤務しているというドイツの大学病院に留学が決定したのは、昨年の十二月のことであった。
「まもちゃん、今度の夏休みに、帰って来るって!」
「うさぎちゃんたら、ニコニコしちゃって、毎日大変なんだから………」
足下のルナが、亜美にだけ聞こえるように小さく囁いた。このメンバーでは、ネコの姿のルナは、おおっぴらにはしゃべれない。
「亜美、そろそろ時間よ」
亜美の母親が、亜美を促した。
「うん」
頷いて、亜美は自分の見送りに来てくれた一同の顔を、ゆっくりと見回した。
「わざわざ、お見送りに来てくれて、本当にありがとう。あたし、もう行くね」
亜美は最後に、自分の母親の顔を見た。
「………ママ」
病院一筋の母親が、わざわざ病院を休んでまで、自分を見送りに来てくれた。亜美はそう考えただけで、胸が一杯になった。だけど、亜美は涙は見せなかった。
「行って来ます、お母さん」
「しっかり、勉強してくるのよ」
もう少し、気のきいた言葉を言ってやりたかったが、他に言葉が見つからなかった。亜美の母親は、娘以上に胸を詰まらせていたのだ。
亜美はくるりときびすを返すと、一同に背を向けて歩き出した。
少し歩いたところで、亜美は別の方向から、自分に向けられている視線があることに気づいた。
亜美は、視線を感じる方向に顔を向けた。
中年の男性がいた。丸い縁の眼鏡を掛けている。暖かな笑みを浮かべ、自分を見ている。
「パパ………!?」
亜美は我が目を疑った。だが、あそこにいる男性は、まごうことなき、自分の父親だった。
(パパが、見送りに来てくれた………)
亜美は堪えきれず、ついに涙をこぼした。それでも笑顔をつくって、元気に手を振った。
父親は、二‐三度頷いてから、手を振り返してくれた。
「あれ? だれかいるのかな………?」
明らかに、自分たちとは別の方向に手を振っている亜美を見て、うさぎが首を傾げた。
亜美の動作を、母親も見ていた。娘の手を振る方向に、視線を向けた。
「………あなた………」
連絡したのは自分だったが、本当に見送りに来てくれるかどうかは不安だった。
だが、彼もまた父親だった。娘の旅立ちを、見送りに来ないわけにはいかなかった。
丸縁の眼鏡を掛けた中年の男性は、こちらを向いて、大きく頷いた。
亜美を乗せた飛行機が飛び立つ。
行き先はドイツ。医学の勉強のための留学だった。
半年程前に、やはり留学という形でドイツへ渡っている衛の紹介で、高校生である亜美が大学病院で勉強することができるよになったのだ。
亜美は躊躇わなかった。自分のレベルアップは、必ずや仲間のためにもなる。そう考えた。亜美はドイツで学ぶことを、自分の意志で決めた。
今回の亜美の留学は、衛のお陰だと言っても過言ではなかった。
窓際の席に座っていた亜美は、窓の外を眺めた。既に空港は雲の下だった。
いろんな思い出が、走馬燈のように亜美の頭の中を駆け巡った。仲間たちや、母親から遠く離れてしまうという不安もあった。唯一の救いは、美奈子のいるフランスとは陸続きだということと、オーストリアのウイーンにもみちるが音楽留学をしているということだった。はるかも今はモナコにいるはずだった。自分がドイツへ行くことは、既に美奈子にも連絡してある。ウィーンのみちるへは、ほたるが連絡してくれたようだった。
寂しがる必要はない。これは、自分が望んだことなのだ。
「永遠のお別れじゃないんだから、そんなにセンチになることもないわよね」
悲劇のヒロインのように心を痛めていた自分に対し、思わず苦笑を漏らした。自分のわがままを聞いてくれた母親と、そして理解を示してくれた仲間たちのために、亜美は自分自身をレベルアップさせて、彼女たちに恩返しをしなければならないのだ。
亜美を乗せた飛行機は、どこまでも続く、青く美しい空の中に吸い込まれるようにして、やがて見えなくなった。