ハンブルグにて
ハンブルグの街の中心から少しばかり離れた端正な住宅街の一角に、衛の借りているアパートがあった。築十年は経過しているであろうか、これといって大した特徴もない、ごく普通の木造二階建てアパートである。
亜美はポシェットからメモを取り出すと、住所とアパートの名前を確認する。
間違いない。ここが、衛のいるアパートである。
亜美は鉄製の階段を上がり、二階へと足を運ぶ。二階に部屋は四つあった。
衛の部屋は階段から一番離れている、奥の部屋だった。
階段から繋がっているコンクリートの通路を、亜美は奥へ向けて足を踏み出した。
ドアを三つ通り過ぎ、四番目のドアの前に立った。「M・TIBA」とネーム・プレートが張り付けてあった。
間違いない。亜美は安堵の微笑を浮かべた。
うさぎから教えてもらった住所を頼りに、ブレーメン郊外のホームステイをしている家からハンブルグまで、ひとりで来た亜美だったが、迷わずに衛のアパートまで辿り着けるかどうかは非常に不安だった。勝手の分からぬ異国の地である。亜美にとっては、かなり勇気のいる行動だった。ホームステイ先のシュタイン一家の長女、カタリナが同行しようかと申し出てくれたのだが、亜美はその性格が災いしてか遠慮してしまった。ハンブルグのハラーシュトラーセ駅を降りたときは、さすがに後悔したものだった。
亜美はもう一度、ネームプレートを確認した。初めて目にした数秒前と何ら変わりはない。
深く深呼吸をする。いざとなると、物凄く緊張する。なにしろ亜美は、男の人の家にひとりで訪問するというのは、初めての経験だった。事前に連絡もしていないので、尚更だった。心臓が、まるで別の生き物のように躍動している。
ドアとそのまわりを、一通り眺めてみた。呼び鈴がない。念のため、隣の部屋のドアのまわりも確認してみた。やはり、呼び鈴らしきものは確認できない。呼び鈴のないアパートのようである。ようするに訪問したら、ドアを叩けということなのだろう。
トントン。
軽く二回、ノックしてみた。
返事がない。
もう一度ノックする。
結果は同じだった。ドアの向こうからは、物音ひとつ聞こえてこない。どうやら、衛は留守のようである。
「連絡、しておかなかったものね………」
「仕方ないな」という風に溜息を付く。突然訪問して驚かせようと言う亜美の目論見は、脆くも崩れ去った。いつ戻って来るのか分からないのに、ドアの前で待っているわけにもいかない。亜美は戻るべく、体を左に向けた。
「!」
不意に視界に、人の姿が飛び込んできた。女性だった。
亜美は思わず、小さな悲鳴を漏らしていた。
女性は目元を少しばかり釣り上げるようにして、亜美を見ている。
白いオープンシャツにジーンズという、ラフなスタイルをしている。シャツは第二ボタンまで外されていて、下着を身につけていない胸の谷間をこれ見よがしに見せつけている。背中まで伸ばされているブロンドの髪は、ろくな手入れもされていないのか、かなり痛んでいるように見えた。スラリとした体に絶妙のバランスで、小さな顔があった。顔のほぼ中央にあるちょこんとした鼻のまわりに、僅かにそばかすが浮いている。切れ長の目は、先程から端の方を釣り上げて、亜美を睨んでいる。
もちろん、亜美は見ず知らずの女性に睨まれるような覚えはないが、その女性は明らかに敵視しているという視線を、亜美に向けていた。
「アンタ、マモルのなんなんだい?」
ひどくつっけんどんに、そばかすの女性は訊いてきた。当然ドイツ語である。顎を少しばかり上に向け、亜美を見下すようにしている。
呆気に取られていた亜美は、ドイツ語で話し掛けられた言葉を理解するのに、数秒掛かってしまった。
「い、いえ、あたしは………」
咄嗟に日本語で答えて、亜美はたじろいでしまった。女性の内から発せられる“気”に、圧倒されてしまったのだ。もしレイがこの場にいたなら、一言「妖気を感じるわ………」と言ったかもしれない。
「ニホン人だね、アンタ………」
女性は無遠慮に、亜美の姿を上から下までじろじろと観察した。
亜美は両手を口の前で小さく握って、ただただ呆気に取られてしまっている。
「フン!」
そばかすの女性は鼻を鳴らした。
「乳臭いガキじゃないか! ニホンでマモルと何があったか知らないけど、今はあたしがマモルのカノジョなんだ。ここにはもう来ないでおくれ!」
そばかす女性は一方的にまくし立てると、
「分かったね! 二度と来るんじゃないよ!」
と、念を押すように言うと、くるりときびすを返し、階段のすぐ横の部屋へと乱暴に入っていった。
ひとり残されてしまった亜美は、キョトンとするだけで、動くことすらできない。
カチリ………。
鍵が開けられたような音がしたので、亜美はようやく我に返ることができた。
衛の隣の部屋の住人が、ゆっくりとドアを開けた。ひょいと首を伸ばすと、まわりをキョロキョロと見回す。若い青年である。大学生だろうか。亜美の他にだれもいないことを確認すると、体を外へと出してきた。
「やあ」
白い歯を見せて、学生風の青年は、亜美に笑いかけてきた。
「あ、あの………」
亜美はどうしたらいいのか分からず、おどおどとしていた。
「ボクはカール。カール・エッフェンベルグ。え…と、ドイツ語は理解できるんだろう?」
尋ねもしないのに、青年は名乗ってきた。
つられて亜美も自己紹介をしてしまった。しかも最後に、「よろしくお願いします」と言って、ペコリとお辞儀までしてしまった。もちろん、今度はドイツ語で答えた。
カールというその青年は、そんな亜美の様子がおかしかったらしく、プッと吹き出してから小さく笑った。
「………笑ったりしてごめんね。気分を悪くしたかな………?」
カールは困ったように眉間に皺を寄せると、亜美に訊いてきた。
亜美が首を横に振ると、「よかった」と言って、また白い歯を見せた。
「部屋が隣だということもあって、マモルとは親しくさせてもらってる。………キミは、マモルのニホンにいるカノジョの友だちかい?」
カールは亜美のことを、「マモルのニホンのカノジョか」ではなく、「マモルのニホンのカノジョの友だちか」と訊いてきた。それで亜美は、カールは本人の言うとおり、衛と親しい友人関係であると悟った。これで安心して話ができる。
「衛さんは、お出かけですか?」
「もう一週間は戻ってきてないよ」
一瞬躊躇したようだったが、カールは正直に答えてきた。
「一週間もですか?」
「うん………。ボクも直接本人に聞いた訳じゃないから、本当かどうかは分からないけど、どうやらニホンに行っているらしい。彼の大学の人たちはそう言ってた」
「日本に………?」
亜美は訝しんだ。自分がドイツへ来てからは、まだ二日しか経っていない。それなのに、衛は一週間も前に日本に帰っているらしいのだ。これはどう考えても不可解である。うさぎからは衛が帰ってきているなどとは聞いていない。なにしろ、そのうさぎ本人から、衛の様子を見てきてほしいと、ドイツでの衛の住所を教えられたのだ。担がれている以外、こんなことは起こりうるはずがない。しかし、うさぎがそんなことをする女の子でないことは、本人の亜美が一番よく知っていた。だとすると、いったいどういうことなのか?
「こんなことカノジョの前だったら言えないけど、二週間ぐらいまえになるかなぁ………。マモルがニホン人の女の子らしいのと歩いているのを見たんだ。もしかしたら、それと関係があるのかもしれないなぁ………。マモルのやつ、急に慌ただしくしだしたから」
カールは自分の記憶をたどるべく、瞳を僅かに上に向けながら言った。
「女の子ですか?」
「ああ。女の子だった」
「頭におっきな赤いリボンをしてませんでしたか?」
亜美が言っているのは、美奈子のことだ。可能性があるとすれば美奈子以外考えられない。美奈子ならフランスにいるので、日本に比べればずっと近い。他にはるかもみちるも海外にいるが、このふたりをつかまえて、「女の子」という表現はしないだろう。
「いや………。綺麗なカチューシャは付けてたのは分かったけど、そんな目立つようなリボンはしていなかったよ」
カールは答える。仲間の中でカチューシャを好んで付けているのは、みちるくらいだった。みちるはウィーンにいるので、可能性が全くないとはいえない。
「女の子ですよね」
「ああ。ジュニア・ハイスクールにでも通ってそうな女の子だったけど………」
ますます分からなくなった。カチューシャの女の子がみちるなら、どうみても中学生には見えないだろう。カールが言っていることが本当なら、カチューシャの女の子はみちるではないことになる。だとすると、いったいだれが衛に会いにきたのだろうか?
「ニホンには、帰ってないのかい?」
「ええ………。あの、さっきの女の人は………?」
亜美は急に、先程のそばかすの女性のことが気になった。だから、何の関連性もないのに質問してしまったのだ。
「ああ、彼女はブレンダ。でも、彼女の言っていることはウソだよ。マモルには、全然相手にされていないんだ。悔しいから、自分で言い回っているだけだよ」
「そうですか………」
亜美は少しばかりホッとした。彼女の言っていることが全て事実なら、一大事だったからである。
「マモルには、可愛い恋人がいるからね。ブレンダは相手にもされないんだ」
「ご存じなんですか?」
「ああ。マモルのやつ、後生大事に恋人の写真を持ち歩いてるんだぜ」
「え? 衛さんが!?」
「ああ。おかしいだろ? あいつ、よっぽど彼女のことが好きなんだな」
しみじみとカールは言う。
亜美は何だか、自分のことのように嬉しくなった。遠く離れていても、衛はうさぎのことをずっと考えてくれている。そんなうさぎが、羨ましくも思えた。
カールは亜美に対し、「気を付けて帰れよ」と言って、部屋の中に戻った。
衛が本当に日本に戻っているのかは、今は確かめる術がない。今日のところは、ホームステイ先の家に、このまま帰るしかない。
亜美は小さくため息を付くと、通路を歩き出す。
ブレンダの部屋に差し掛かったとき、不意に乱暴にドアが開けられた。開けたのは、もちろんブレンダ本人である。顔だけ出して、亜美を睨む。
「カールのやつが何を言ったか知らないけど、マモルのカノジョはあたしなんだかんね! 変なちょっかい出したら承知しないよ!!」
ブレンダは怒鳴ると、乱暴にドアを閉める。
亜美はまた呆気に取られてしまった。
階段を下りた亜美は、道路から衛のアパートを見上げている男性がいることに気付いた。
女性っぽい服装をし、雰囲気までもが女性そのものなのだが、亜美にはその人物が男性であると思えた。確信はない。ただなんとなく、そう思っただけなのだ。
だが、やはり、その人物は男性であった。非常に整った美しい顔立ちをしている。スカートを履き、化粧をすれば、見ただけでは男性とは分からないだろうとも思う。
道路からアパートを見上げていた女性のような男性は、自分を見ている亜美の視線に気付き、顔を向けてきた。あらためて見てみると、はっとするほどの美形の青年であると分かった。ギリシャ神話に出てくるナルシスという人物は、彼のような顔立ちの人物だったのだろうとも思う。
「?」
亜美は小首を傾げた。だれかに似ているような気がするのだが、それがだれなのか思い出せない。
「地場衛さんは、留守だったの?」
女性のように柔らかい口調で、その青年は訊いてきた。流暢な日本語だった。よく見れば、東洋系の顔立ちをしている。金髪に染めているので、一瞬分からなかったのだ。それも染めているとは分からないほどの、見事な金髪だった。整った顔立ちなので、日本人でありながら、髪を金色に染めていても、決して違和感がない。
「衛さんのお知り合いの方ですか?」
思い切って、亜美は尋ねてみた。
美形の青年は、小さく微笑んだ。
「ええ………。古い知り合いなのよ………。古いね………」
そう言うと、深く吸い込まれそうな瞳で、亜美を見つめる。この瞳は、やはりどこかで見ている。だが、どうしても思い出せない。衛の知り合いに、こんな人物がいたのかと改めて驚かされたが、自分もどこかで会ったことがあるような気がするくらいだから、きっと衛と一緒にいるところを見たことがあるのだろうと納得することにした。
「お隣の方から伺ったんですけど、衛さん、日本に帰っているらしいんです」
「日本に………。そう、ありがとう………」
女性的な笑みを浮かべ、その青年は礼を言った。視線をアパートへ戻す。
「では、失礼します」
亜美は会釈をすると、アパートをあとにした。
「………」
無言のまま、その男性は亜美を見送る。
「………日本に行かれたのか」
どこにいたのか、いつの間にか女性的な青年の背後に、もうひとり男性が現れた。レイバンのサングラスを掛けている。すらりとした長身の青年だった。女性的な青年同様、長髪にしている髪は、軽くウエーブしていた。
「どうする? 追いかける?」
サングラスの男性を見ずに、女性的な青年は訊いた。視線はさっきからずっと、アパートを見上げたままだ。
「もちろんだ。………だが、その前に俺たちはあとのふたりを捜さなければならない」
サングラスの男も、ちらりとアパートを見上げる。
「案外、日本に戻れば捜し物は一気に解決するかもよ、三条院………」
口元に僅かに笑みを浮かべ、女性的な青年は言った。
三条院と呼ばれたサングラスの男は、同じような薄い笑いを浮かべ、
「………だといいがな」
と、答えた。
衛のアパートを離れた亜美は、ひとり暮れなずむ街を歩いていた。間もなく、陽も暮れてしまうことだろう。日曜日の夕方とあってか、人通りは普段よりも少ないと思う。
衛に逢えないとは考えていなかった亜美は、こんな寂しい道をひとりで歩かなければならないとは予想だにしていなかった。亜美にしては、らしからぬミスである。
亜美のドイツ留学には衛の助力があったからなので、一言礼も言いたかった。彼が推薦してくれなければ、亜美の留学の話はなかったのだ。
「早く帰ろう………」
元気を出すためにわざと声に出して言うと、亜美は駅へと続く道を急いだ。
ふと、妙な視線を感じて顔を上げると、前方にいるふたり組の男性が、自分を見てニヤニヤとしている。全く、気味が悪い。
きびすを返して別の道を行こうかとも考えたが、別のルートを使えるほど、亜美はこの辺の地理に詳しいわけではなかった。駅へ戻る道も、うる覚えなのだ。
何も起こらないことを願いながら、亜美は男たちの前を通り過ぎることにした。
「ヘイ! カノジョ! キミはニホン人かい?」
ひょろりと背の高い男の方が、声をかけてきた。
亜美はもちろん無視をしている。視線も合わさないようにして、そのまま通り過ぎようとしている。
「どっか行くんだったら、ボクたちの車に乗せてあげるけよ! そのかわり、ボクたちもキミに乗せてもらうけどね。ヒーッ、ヒヒヒ………」
いかにもいやらしげに笑いながら、筋肉質の男の方が言ってきた。下心まる出しである。
背の高い男も、一緒になっていやらしい笑い声を発している。
亜美は無言のまま、男たちの前を通過していった。
「待ちなよ! カノジョ!!」
筋肉質の男が、亜美の腕を掴んできた。物凄い力だった。
「俺たちといいことしようよ。………もっとも、こんなとこひとりで歩いてるということは、襲ってほしいってことかなぁ?」
筋肉質の男は、亜美を自分の懐へ引き寄せると、脂ぎった顔を近付けてきた。息が非常に臭い。
「放してください! 人を呼びますよ!!」
亜美は毅然として言い放つ。何者をも寄せつけぬという鋭い目で、筋肉質の男を睨む。
「おほほっ! 怖い怖い! でも、怒った顔が、これまた、そそられるねぇ!」
いかにも嬉しそうな顔をして、筋肉質の男は臭い息を吐いた。あまりの臭さに、亜美は一瞬石になる。気が遠くなるのを必死に押さえ、亜美は男の丸太のような腕を振りほどこうと身を捩る。
「無理無理。そいつに捕まったら、もう逃げられないよ! 諦めて、ボクらと遊びに行こうよ」
背の高い男が、口笛を吹く。
それが合図だったのか、滑るように車が近付いてくる。ワゴン車だ。しかも皮肉なことに、日本製である。
「へぇ! けっこうマブイじゃん!! 東洋人かい? こりゃあ好都合だ!」
車を動かしてきた男が、ウインドゥを開けて顔を突き出す。眼鏡をかけた、ひ弱そう男だった。
背の高い男は、既にドアを開けて待っている。舌なめずりさえしている。
「さあて、おとなしく乗ってもらおうか。なあに、明日の朝には帰してやるよ」
筋肉質の男は、亜美を抱え上げるようにして車の中に連れ込もうとする。
「いや! 放して!!」
手足をバタつかせ、亜美は最後の抵抗を試みた。だが、筋肉質の男は意に介さない。平気の風で、亜美を車に押し込む。変身してこの場を切り抜けようなどとは、考えもしなかった。相手が普通の人間であるが為に、亜美からさの選択肢を奪ってしまっていたのだ。
今の亜美は、ごく普通の女の子になっていた。これでは、三人掛かりの男性に勝てるわけがない。
先に乗り込んでいた背の高い男が、車の中からそれを手伝う。
「もう、観念しな!」
必死の抵抗を見せる亜美を、乱暴に車に押し込もうとしている筋肉質の男腕が、突然、ぐいと外側に引っ張られる。
「いててっ! なにしやがる!!」
筋肉質の男は振り返り、自分を引っ張った者を睨むようにして見る。
半分車の中に押し込まれていた亜美も、その者の姿を見た。
「あっ!」
思わず声がこぼれた。
「はるかさん!? みちるさん!?」
亜美は我が目を疑った。他人のそら似かもしれないとも思った。亜美がはるかだと思った女性は、亜美に対して軽くウインクしてみせた。薄いイエローのシャツにジーンズという、動きやすい服装をしていた。はるかのやや後ろにいるみちるらしき女性も、亜美のよく知っている笑みを浮かべていた。上品な薄いブルーのワンピースが、彼女をより美しく見せていた。
「なんだよ、女じゃないか………。脅かしやがって………」
筋肉質の男は、安堵の溜息を漏らす。だが、彼は、この女性に体を引っ張られたことを忘れている。相手が女性なので油断しているのだ。
「とびっきりの美人じゃないか! このお嬢ちゃんの友達かい?」
筋肉質の男は、ニタニタしながらはるかとみちるを視姦している。
「ちょうど三人ずつだ。今夜は楽しくなりそうだぜ!」
背の高い男は、車の中で小踊りをする。
「そういうわけだ。ねぇちゃんたち、俺たちと楽しいことしようぜ」
筋肉質の男が、その大きな脂ぎった顔をはるかに近付けた。はるかから漂う香水の香りを思いっきり吸い込んで、恍惚の表情をしている。
「暑苦しい顔を、近付けんじゃないよ!」
「え? なんだってぇ? 聞こえないなぁ………」
筋肉質の男は、間抜けな顔で惚けて見せた。
「暑苦しい顔を近付けんじゃないと言ったのよ。………とっとと消えな!」
「へっへー。消せるもんなら、消してみなよ」
「そうかい。じぁあ、消えな!」
言うが早いか、はるかの裏拳が男の顔面に炸裂した。
筋肉質の男は、もんどりうって倒れた。
その隙に、亜美は車から離れる。
「この女!!」
車から飛び出してきた背の高い男が、はるかに掴み掛かろうとする。はるかは僅かに体を横にずらし、男を避ける。
はるかに避けられることを考えていなかった背の高い男は、大きくバランスを崩して、みちるの前でつんのめるような形になる。
ドカッ!!
みちるの廻し蹴りが飛んだ。薄いブルーのロングスカートが大きく靡く。が、もちろんその中身を他人に見せるようなドジはしない。素早い一撃だった。滑らかな黒のハイヒールの踵が、男の顎を直撃する。
カウンターを食らった格好となった背の高い男は、一メートルほど宙を飛ぶと、地面に激突して失神した。
「ぶっ殺す!!」
顔面にはるかの裏拳の一撃を浴びた筋肉質の男は、鼻血を流しながらはるかに突進してきた。
「へぇ。あれで気を失わなかったなんて、けっこうタフなのね。そのガタイはダテじゃないんだ………」
へんに感心してみせるはるかだったが、突進してくる筋肉男に、再度裏拳を浴びせることは忘れてはいなかった。もちろん、鼻血ダラダラの潰れてしまった鼻に触れるほど、はるかはバカではない。次の一撃は、眉間を狙っていた。そのくらいの余裕が、はるかにはあったのだ。
はるかの裏拳二発で、筋肉男は沈んだ。眉間への一撃が利いたのだ。
筋肉男はヘナヘナと腰砕け状態で、その場に倒れ込んで、そのまま動かなくなってしまった。
「死んでないでしょうね?」
「大丈夫だと思うよ、たぶん………」
はるかは大きく肩を竦めた。
「ひぃっ!」
一部始終を車の中から見ていた眼鏡の男が、絞り出すような悲鳴を上げた。
「!!」
はるかが睨みをきかせると、眼鏡の男は、仲間を置き去りにしたまま、車を急発進させて逃げていく。
「あらあら、お仲間を置いて行っちゃったわね」
みちるが肩を竦めてみせる。
「一撃で黙らせるつもりだったんだけどな………。一発目に加減しすぎたかな」
白目を剥いて倒れている筋肉男を一瞥して、はるかは言った。
「本当に、はるかさんとみちるさんなんですね?」
亜美は安心したことで、涙腺が緩んでいた。瞳を潤ませている。
「他に、だれに見える?」
悪戯っぽく、はるかは笑う。
それを受けるようにして、亜美は微笑んだ。目の前にいるのは夢でも幻でもなく、正真正銘のはるかとみちるだ。
「でも、亜美がドイツに来ているなんて、知らなかったわ」
みちるがはるかの横に並ぶ。
「衛さんの紹介で、ドイツに留学に来たんです」
亜美はその礼が言いたかったがために、衛のアパートを訪ねたが、留守であったことをはるかたちに話した。
「ふたりとも、なぜドイツに………?」
たった今、ウェイトレスが運んできたミルクティーを一口飲むと、亜美が質問した。
お洒落とはお世辞にも言いがたいカフェテラスであったが、妙に落ちついた雰囲気のあるところであった。店舗も結構広い。若いカップルから子供連れまで、客層は幅広かった。
「何から話そうかしらね………」
向かい側の席に座るみちるが、隣の席のはるかにちらりと目を向ける。ふたりは一瞬瞳で会話をする。全てを話すには長くなると、暗に亜美に告げていた。
はるかはカフェオレの入ったカップを手に取ると、ゆっくりと口に運び、一口だけ飲んだ。
「ウィーンで起こった事件が発端だったんだけどね」
はるかは話を始めた。
「モナコでのレースが終わったんで、あたしはウィーンのみちるに会いに行ったのよ。みちるがウィーンにいることは、せつなから聞いて知っていたしね。そしたら、空港でとんでもないものを見てしまった」
「とんでもないもの?」
「ああ。ヴァンパイアだよ」
「ヴァンパイア、ですか?」
亜美は首を傾げる。ちょっと信じられない話だ。はるかが「ヴァンパイア」と言うくらいだから、いわゆる本物のヴァンパイアなのだろう。ヨーロッパの吸血鬼伝説は有名だが、亜美だとて、実際にいるとは考えていない。あくまで伝説だと思っているのである。
その「ヴァンパイア」という言葉が、はるかの口から出るとは、思ってもいなかった。
「信じられないという顔で見ないでよ………。あたしたちが今まで戦ってきた連中より、ヴァンパイアの方が、よっぽど現実味があるわよ」
確かに、はるかの言う通りだった。自分たちが戦ってきた敵は、想像上のどのモンスターより現実離れしていた。あんなとても常識離れした敵が信じられて、ヴァンパイアが信じられないというのは、確かにおかしな話だった。
「まぁ、もっとも、みちるもこの話は信じてくれなかったけどね………」
はるかは隣のみちるに目を向ける。みちるは小さく肩を竦める。その様子では、みちるは未だにヴァンパイアのことを信じてはいないようだった。
はるかは不満そうに、僅かに口を尖らせる。
「あたしがヴァンパイアを倒した次の日のことよ」
はるかは「ヴァンパイアを倒した」という部分を、故意に強調して言った。みちるが信じてくれていないことが、どうも気に入らないらしい。
みちるは素知らぬふりで、カモミールティーの入ったカップを口に運ぶ。オレンジの香りが香ばしい。オレンジの果汁とブレンドされたカモミールティーのようだった。
「“毛むくじゃら”のバケモノが出たのよ」
はるかは言う。
「“毛むくじゃら”のバケモノ………?」
そう言われても、亜美にはピンとこない。亜美は付き合いでうさぎのR・P・Gをプレイしたことはあるが、本来はテレビゲームなどプレイしないのだ。かといって、ギリシャ神話にそれほど詳しいわけでもない。そういったモンスターの類の容姿の想像には、亜美は疎いものがあった。
「原始人に近いかしら………。猿人と言った方が分かりやすいかしらね。みちるは『野人』と言ったけど………」
「浦和レッズの………?」
「そうそう、あの選手によく似て………って。ボケないでよ、亜美!」
もちろん、亜美はおおまじめだった。こんなボケをかますほど、亜美は落ちぶれてはいないと思う。たぶん………。
サッカーを全く知らないみちるは、この手の話題には付いていけず、ひとりカモミールティーを啜( る。それより、亜美がサッカーを知っていることの方が驚きである。)
「冗談はさておき、どうも最近この手の事件が増えているようなのよ………」
はるかは神妙な顔つきになる。亜美は「冗談のつもりはなかったのに」と思いながらも、それ以上、サッカー選手の話はしないことにした。
「ヴァンパイアの事件ですか?」
「いや、“毛むくじゃら”の方よ」
「ふたつの事件の関連性は?」
「全くない。少なくとも、あたしの知っているかぎりではね………」
はるかは意見を求めるように、みちるをチラリと見る。
「あたしはヴァンパイアを見たわけではから、関連があるかどうかは分からないわ。だけど、“毛むくじゃら”の方は、はるかがくる前にも、あたしはウィーンで何度か目撃してるのよ」
みちるはウィーンで起こった幾つかの事件を、亜美に話して聞かせた。
「………で、あたしたちは次に、フランスへ行くことになった」
はるかはカフェオレを口に含み、喉を潤した。
「フランスでも、この手の事件が続発していたのよ」
みちるが補足する。相変わらず、いいコンビネーションである。
「フランスですか?」
亜美は僅かに身を乗り出した。ある人物の名が出てくることを、期待してのことだった。フランスでも同様の事件が起こっているというなら、彼女たちが知らないわけがない。
はるかも、亜美が何を期待しているのか分かっていた。だから、じらすような真似はしない。早々に、その人物の名を口に出した。
「亜美が思っている通り、あたしたちは、美奈子を訪ねた。単独で、何か掴んでいるかもしれないと思ったからよ。案の定、美奈子たちはやつらと一戦交えたと言っていた。しかも、かなりの大物だったらしい」
「“毛むくじゃら”を操っていたやつがいたのよ。それは、あたしたちも知らないことだったわ。あたしたちは、“毛むくじゃら”は単独で動いていると思っていたから、操っている者がいると聞かされたときは、正直言って驚いたわ」
みちるがはるかの言葉を継ぐ。
「しかも驚くべきことに、“毛むくじゃら”は人間が変貌した姿だったの」
「人間が………」
「ええ。断定はできないけど、どうやらフランスでは女の子ばかり襲われているらしいわ。少なくとも美奈子たちが助けた人たちは、全員女の子だったそうよ」
「………しかし、あたしたちはドジを踏んでしまった」
薄い笑いを浮かべて、はるかは言った。みちるもバツが悪そうな表情をする。
「ドジの内容は訊かないでね………」
みちるは苦笑する。よっぱど、らしからぬドジを踏んでしまったらしい。
もちろん、亜美はふたりのミスを問いただすようなことはしない。ふたりが言いたくないと言うのなら、あえて質問するようなことをするつもりはなかった。
「亜美、エロスとヒメロスを知ってる?」
みちるの唐突な質問に、亜美は即座には答えられなかった。僅かに間を置いて、亜美は肯いてみせた。
「マゼラン・キャッスルのセーラー戦士ですね」
「彼女たちがいなかったら、あたしたちはやつらの餌食になっていたわ」
「地球に来ているんですか?」
「ええ。緊急事態が起こったそうよ」
「緊急事態?」
「みちる。それは今話すべきじゃない」
はるかが制した。
「それよりも、あたしたちがドイツに来たわけを話そう」
みちるは納得したように頷く。
亜美はその「緊急事態」の内容が気になったが、今は訊かないことにした。いずれ、はるかたちは話してくれるだろう。今、話さないと言うことは、何か理由があるのだろう。亜美はそういう風に納得する事にした。
はるかは亜美が質問してこないので、「すまない」と言って、話題を切り替えた。
「ドイツで起こっている、妙な事件は知ってる?」
「いえ。まだなにも………。大きな事件なんですか?」
「いいえ。事件そのものにはあたしたちも興味はないわ。むしろ問題なのは、その事件の背後関係よ」
みちるは声のトーンを少しばかり低くした。重要な秘密を明かすときの、みちるの癖だった。
「その事件の裏に、フランスやウィーンでの事件に関係していたモンスターが絡んでいるんですね」
「いや、むしろ、もっと巨大なものかもしれない」
「ドイツでは、モンスターの存在を表立って公表はしていないから、ドイツ( の事件に“毛むくじゃら”が絡んでいるのかは分からないわね。ただ、フランスで美奈たちが戦ったって言う相手が、組織の幹部らしかったの。と言うことは、この一連の事件には、何か巨大な組織が絡んでいる可能性があるわ」)
「巨大な組織………」
「アルテミスが掴んだ情報によると、ドイツにその組織の支部があるらしい。あたしたちは、それを確かめに来たのよ」
みちるの言葉の裏には、暗に亜美に協力してもらいたいというニュアンスが含まれていた。
亜美はゆっくりと頷いてみせることで、了解の返事とした。
はるかとみちるも、頷き返してくれた。
「短い平和だったわ………」
亜美はぽつりと言った。
「仕方ないさ。それがあたしたちの宿命だ」
はるかは言いながら席を立った。化粧室にでも行くのだろう。
「日本では、何も起こらなかった? もちろん、そんな話は、せつなからもほたるからも聞いてはいないけど………」
はるかの後ろ姿をちらりと見、すっかり冷えてしまったカモミールティーを飲み干すと、みちるは訊いてきた。
「ええ。少なくとも、あたしが日本を発つ前までは、何も起こっていませんでした」
そう答える亜美は、自分が日本を出発したすぐあと、その空港で事件があったことなぞ、もちろん知る由もない。
ガチャーン!
ガラスの割れる音が響き、甲高い悲鳴が聞こえた。
「!?」
ふたりは反射的に席を立ち、悲鳴の聞こえた方に顔を向けた。
ウエイトレスが尻餅を付いている。その近くに、モンスターのマスクを被った少年の姿が見える。尻餅を付いているウエイトレスの脇には、ひっくり返ったトレイと、無惨にも砕けたグラス類が散乱していた。
「脅かさないでよね………」
みちるは短く嘆息する。
「本当に………」
亜美は肩を窄ませた。
亜美とみちるはお互い顔を見合わせると、自分たちが神経過敏になっていることに対し、苦笑しないわけにはいかなかった。