ヴェルサイユ宮殿


 ヴェルサイユ・リブ・ゴーシュ駅を出た美奈子は、右手に持ったバスケットの蓋を、パカリと開けた。
 中から白い物体が勢いよく飛び出し、地面に着地する。アルテミスだ。
 アルテミスは背筋をおもいっきり伸ばし、大きく伸びをすると、クワッとばかりに大欠伸をした。そういう仕草は、猫そのものだと思う。
「ああ………。しんどかった………」
 溜息混じりに一言そう言う。
「贅沢言うんじゃないの! 連れてきてもらっただけ、ありがたいと思いなさいよね!」
 美奈子は人差し指を立て、お得意のポーズでアルテミスに説教をする。
「ひとりでヴェルサイユ宮殿なんかに行くって言い出すから、こうして俺がボディ・ガードとして付いてきたんじゃないか! 別に好きで来たわけじゃないんだぞ!!」
「まったく、そんなナリして、よくボディ・ガードだなんて言えるわね!」
 屈み込み、ずいっとアルテミスに顔を近付ける。
「あたしひとりでも、大丈夫よ! なんなら、ここからひとりで帰ったっていいのよ、アルテミス」
 美奈子はすっくと立ち上がると、ブツブツと文句を言う。アルテミスがいると、なにかと不便なのである。小姑がいるようなものなので、おもいっきり羽根を伸ばして遊ぶことができない。
「甘い! 甘いぞ、美奈! キミの考えは、落雁にシロップをかけたくらいに甘いぞ!」
 アルテミスは妙な例え方をする。
「美奈子はニュース番組なんて見ないから知らないだろうけど、日本人の観光客が襲われる事件て、非常に多いんだぞ! とくに女の子だけの集団というのは危険なんだ。随分前になるけど、たったひとりの男に四‐五人の女の子が乱暴されたっていう事件があったし、だいたいキミはひとりなんだぞ! どうぞ襲ってくださいと、言ってるようなもんじゃないか!!」
 アルテミスは鼻を鳴らしながら力説した。
「そのくらい、あたしも知ってるわよ! 失礼ね!」
 美奈子は反論する。口げんかのようになってしまっては、アルテミスは美奈子には適わない。九割方、やり込められてしまうのだ。ルナになんぞは、勝った試しがない。
「もう! 心配性ね、アルテミスは! あたしだって、もうコドモじゃないんだからね! 大丈夫よ!」
「コドモじゃないから心配なのに………」
 アルテミスの呟きは、美奈子には聞こえなかったようだ。
「ま、いざとなれば、変身すればいいことだし、そんな心配してたら、外を歩けなくなるじゃない」
 美奈子はあくまでも、ノーテンキに振る舞う。
「変身する前に気でも失ったら、どうするつもりなんだよ………」
 そう嘆くアルテミスの声は、既にスタスタと歩き出してしまった美奈子の耳には届かなかったろう。

「あ、あれがヴェルサイユ宮殿ね!!」
 美奈子が嬉しそうに指を指す。無邪気にはしゃぐ姿が、なんとも美奈子らしい。
 アルテミスもその方向に目を向けた。パリ大通りと交差する十字路の手前右側に、お城のような建物が見える。
「違うよ美奈! あれは市役所だよ………」
 物知りアルテミスが訂正をする。
「ええ!? うそぉ!? 違うのぉ………?」
 美奈子はがっかりしたように、アルテミスを見た。
「観光案内を、ちゃんと見ろよ………。日本から、持ってきてるんだろ?」
「そうだけど………。面倒臭いじゃん!!」
「あ、そう………」
 もう何も言うまい。アルテミスはうなだれた。よくよく考えれば、ゲームの説明書もろくに読まない美奈子が、観光ガイドをまじめに読むとは思えなかった。当然ながら、教科書などという代物には、手を付けることもしない。本は本でも、漫画本くらいしか、美奈子は真剣に読んだことがない。
 パリ大通りを左に曲がって、真っ直ぐに歩いていく。並木の美しい大通りである。
 門が見えてきた。金色の荘厳な門である。
 ルイ十四世の騎馬像を見ながら、ようやく美奈子たちはヴェルサイユ宮殿の前の広場に到着することができた。これもひとえに、アルテミスのおかげである。もちろん、美奈子はそうは思っていないが。
「カップルが多いわねぇ………」
 こういった光景は、日本もフランスもあまり変わりはないと思う。仲むつまじい男女が、幸せそうに談笑している。
 足下のアルテミスが、この広場は別名「武器の広場」と呼ばれていると、うんちくを披露した。
 どーでもいいことだと思っているから、美奈子はあえて口には出さないが、足下から見上げるのは、できればやめてほしいと思う。スカートの中が、丸見えなのである。きょうの美奈子は、キュートなミニスカートをはいているのだ。今更アルテミスに隠したところで、どうなるわけでもないのだが(今まで、そうとうの醜態を見せつけてきた)、下から見上げるアルテミスも、もう少し遠慮してもらいたいものである。ラブリーな下着は、別にアルテミスに見せるためのものではない。
 もちろん、アルテミスは美奈子の下着が見えるのを承知で、下から見上げているのである。普段苛められているのだから、そのくらいのサービスはしてくれてもバチはあたらないと、本人は思っているとかいないとか。ルナに言わせると、ただ単に助平なだけだとか。確かに言われてみれば、アルテミスはムッツリスケベだと感じる。もっとも、アルテミスは美奈子の足下以外には、他のメンバーの足下に立っていることはない。彼なりに他のメンバーに遠慮しているようだが、そうは思われていないのが彼の気の毒なところである。

 六十フランを払って、トリアノンとの共通パスポートを買った。いよいよあこがれの(美奈子は幾つもあこがれがある)ヴェルサイユ宮殿内部に入る。
 鏡の間と、マリー・アントワネットの寝室を見物(この二カ所は必見と観光ガイドに書いてあった。当然、読んでいるのはアルテミスである)し、更に宮殿内を見て回る。
 ヴィーナスの間の「アレクサンドロスとロクサーヌの婚礼」の絵にうっとりとし、更にマルスとメルクリウスの間を見て回ったあと、美奈子たちは庭園へと出た。
 見学している最中、気の毒にアルテミスは、狭いバスケットの中に押し込まれている。
「ネコだから、しょうがないけどさ………」
 この頃のアルテミスは、諦めるのが早かった。
「うわぁ! すっごーい!!」
 「太陽の基軸」と呼ばれる、はるか先の大運河まで挑める景色が、美奈子の目を奪う。感嘆の声を漏らして、しばし立ち止まって、この素晴らしい景色を堪能した。あまりにもの雄大な景色のために、知らず知らずのうちに、体は震えを覚えていた。感激して、言葉を失っていた。が、立ち直りが早いのも、美奈子である。
「つぎ、行くわよ! アルテミス………」
「へ!? そんなに慌てるなよ、美奈!!」
「のんびりしてたら、日が暮れちゃうわよ!!」
 アルテミスはつい、うっかり忘れていた。美奈子がわりかし、せっかちな性格であったことを。
 美奈子は足早に移動してゆく。
 テトーヌの泉から「緑の絨毯」と呼ばれる道を通って、アポロンの泉へとやってきた。
「アポロンの泉………。アポロンか………」
 バスケットの中のアルテミスは、しみじみと呟く。
 瞳をキラキラさせながら景色を眺めている美奈子は、そんなアルテミスには気付くわけもないし、アルテミスが感慨に耽る理由も分からない。
 近くにいたフランス人カップルに頼まれて、写真を撮ってあげた。カップルが使っていた使い捨てカメラは、日本でもお馴染みのものだったので、美奈子にも簡単に扱えた。
 流暢なフランス語で会話をしている美奈子だが、英語も赤点の美奈子が、もちろんフランス語など話せるわけもない。ひとえにアルテミスの作った、ふたつの翻訳機のおかげである。
 耳たぶに付けているハート型の鮮やかなオレンジ色のピアス型翻訳機が、フランス語を日本語に訳し、首に巻いているおしゃれな純白のチョーカーに仕込まれている翻訳機が、美奈子の日本語をフランス語にして発音させているのである。つまり、美奈子はフランス語を日本語として理解し、美奈子が日本語で答えると、翻訳機が勝手にフランス語に直してくれるというわけだ。
 おかげで美奈子は、フランスで何不自由なく生活できるというわけである。
 もちろん、突然フランス語がしゃべれるようになった娘を、両親が不思議に思わないはずがないが、それはそれ、美奈子の得意のはったりで、両親を無理矢理納得させてしまったのである。両親は我が子の優秀ぶりに、涙を流して喜んだものだ。日本にいるときにも、これくらい勉強してくれれば苦労はなかったのにと、嫌味の言葉も言われたが、美奈子は軽く聞き流した。

 再び宮殿の近くまで戻ってきた美奈子は、プティ・トランという移動用の乗り物に乗ると、プティ・トリアノンの庭園に向かった。
「あ………」
 美奈子は庭園の中に、ひっそりと佇む神殿を見つけて足を向けた。と、いうより、勝手に足が向いてしまったのだ。
 それは、「愛の神殿」と呼ばれているものだった。マリー・アントワネットが最も好んだと言われている庭園に、ひっそり佇む小さな神殿である。足を踏み入れてみた。
「………!!」
 体が硬直した。美奈子の中で、何かが弾ける。そして、不可思議な感覚が美奈子を包んだ。神秘的な感覚だった。柔らかく、暖かい。無重力帯にでもいるかのような、浮遊している感覚がある。パワーが注ぎ込まれているような気がした。全く別のパワーだ。今までにない、神秘的なエナジー。
 一瞬だった。
 ほんの一‐二秒の間だったろう。
 気が付くと、心配そうな表情のアルテミスが目の前にいた。
「どうした? 気分でも悪くなったのか? 顔が真っ青だぞ」
「………アルテミス………。大丈夫、なんともないわ………」
 美奈子は弱々しく微笑んだ。体が異常にだるい。僅かに熱を持っているような気がする。
 「愛の神殿」を離れた。すうっと気分が楽になった。だるさは残っているが、休まなければならないというほどではない。
(いまのは、いったい………)
 美奈子は改めて、神殿を見てみた。神殿には、なんの変化も見られない。
アポロンの泉で写真を撮ってあげたカップルが、「愛の神殿」に入ってゆく。仲むつまじそうなふたりに、自分が味わったような感覚はないようだった。幸せそうに微笑みながら、美奈子に手を振っている。
「少し、休もうか?」
 ぽつりと言った。さっきまでの元気がない。
 バスケットの中から、アルテミスが不安げに見上げている。
 プティ・トリアノンの庭園で、少しばかり休息をとることにした。

 悲鳴が響いた。五分ほど休憩したのちのことだった。
 悲鳴だけは万国共通。別に翻訳機の力はいらない。
 美奈子は咄嗟に、悲鳴の聞こえた方向に向かって走っていた。殆ど条件反射だった。
「うそっ! 敵!?」
 毛むくじゃらの熊のようなバケモノが、狂ったように暴れている。
「美奈!!」
 バスケットの中のアルテミスが叫ぶ。言わんとしていることは、聞かなくても分かるつもりだった。まずは、アルテミスをバスケットから出す。
「敵かしら?」
「分からん。微量だが妖気も感じるが、何か変だ」
「変?」
「苦しんでいるようにも見える………。が、今のままでは、まわりの人たちが危険だ」
「分かってる!」
 美奈子は毛むくじゃらのバケモノに、鋭い視線を向けた。
「ヴィーナス・クリスタル・パワー! メイク・アップ!!」
 声高らかに、変身の呪文を叫ぶ。が、何も起こらない。セーラーヴィーナスに変身できない。
「ま、またなの!?」
 美奈子は自分の両の掌を見つめ、困惑した。以前のパワー・アップのときと同じく、また変身ができない。
「どういうわけだ!?」
 アルテミスにも理由は分からない。スーパー戦士にバージョン・アップした今の彼女たちは、既に前世のときのパワーをはるかに凌ぐ能力を持っている。それすらも凌駕する、もう一段階のパワー・アップがあるというのか? 美奈子が変身できないのは、以前と同じで、パワー・アップのためのステップなのか? それとも、別の理由からなのか?
 別の方向からも悲鳴があがった。毛むくじゃらのバケモノが、他にも潜んでいたのだ。“毛むくじゃら”は、合計で三体。
 怪我人も出ているようだ。何れにしろ、このままではいけない。
「美奈、俺がなんとかする! キミは隠れていろ!!」
 アルテミスは叫ぶように言うと、“毛むくじゃら”の一団に向かってダッシュする。
 アルテミスの体が光った。眩いばかりの光が、アルテミスを包んでいく。光は膨らみ、人の形を型どってゆく。
 長髪をなびかせながら、剣士アルテミスが光の中から出現した。
「はっ!」
 気合い一閃。“毛むくじゃら”に手刀を浴びせる。一撃で一体の自由を奪った。
 続いて回し蹴りを一体の顎に炸裂させる。正確に顎を狙ったその蹴りの一撃で、“毛むくじゃら”は昏倒する。
「モロい!?」
 あまりにも手応えがないので、アルテミスの方が驚いてしまっている。
 残りの一体を黙らせるのも、二秒とかからなかった。
「ひゅう! かっこいい! アルテミス!!」
 美奈子が茶化しながら走り寄ってくる。
「アンタ、案外強いじゃない!」
「相手が弱すぎるんだ!」
 おちゃらける美奈子だが、アルテミスは油断していない。鋭い視線を四方に投げる。
「隠れていろって言ったのに、どうして出てきたんだ!?」
「何よ、恐い顔して………」
「こいつらは単独じゃない。操っているやつがどこかにいるはずだ!」
 アルテミスの考えは正解だった。大物がこの場に隠れていたのだ。
「中途半端に強いと、死ぬことになるぞ………」
 三メートルはあろうかという大男だった。鍛え上げられた筋肉が、まるで鎧のように体を覆っている。その自らの筋肉を誇負するかのように、上半身は裸であった。肌は浅黒く、艶がある。濃緑色の髪は伸ばし放題伸ばされ、白目のない目は、血のように赤かった。深海魚を連想させる顔がにたりと笑うと、鮫のように鋭い歯がちらりと見えた。
「あの“毛むくじゃら”は、お前が操っていたのか?」
 アルテミスは凄んでみせた。が、魚面の男は、意に介さない。
「男には用はない」
 赤い目をすうっと細める。その瞳には、美奈子が捉えられていた。
「!」
 美奈子は背筋がぞっとするのを覚えていた。生理的に、受け付けない顔だった。身の毛もよだつ嫌らしい視線に、肌が泡だった。
「アルテミス、手っ取り早くやっつけちゃってよ!」
 魚面の男の視線を拒むように身を堅くすると、美奈子は身構えているアルテミスの背中に怒鳴った。
「バカを言うな! あいつ、そうとう手強いぞ………」
 アルテミスは一瞬にして、魚面の男の技量を推し量っていた。あの筋肉質の体、隙のない構え、ただものではない。まともにやりあっては、今のアルテミスでは勝ち目はないかもしれない。美奈子が変身できないことと何か関係があるのか、アルスミスの体にも異変が起こっていた。パワーが集中できないのである。本来の半分の力も出ていない。それでも全力で戦えば、まだ何とかなりそうな相手ではある。この辺一帯をめちゃくちゃにしていいというならば、まだ勝算はあるのだが、人類の文化遺産を壊してしまうわけにはいかない。格闘戦となれば、体格的にも不利であった。
「………やるっきゃないか………」
 アルテミスは覚悟を決めた。黄金の剣を鞘から抜いた。大技を使えない以上、小技の連発で倒すしかない。
 人々はとっくに避難しているから、多少なら派手に戦っても平気だろう。
「せりゃあ!!」
 アルテミスが先に仕掛けた。黄金の剣を下段に構えたまま、魚面の男に向かってダッシュする。目にも留まらぬ早さとは、正にこのことだろう。だが、魚面の男は動じない。そればかりか、なんと素手でアルテミスの黄金剣を受け止めたのだ。右腕を前に出し、ガードの構えのまま黄金剣を受けたのである。鋼のような筋肉は、殆ど鎧と同じ守備力を持っていたのだ。
 しかし、アルテミスも素人ではない。黄金剣を受けとめられたことを驚いていたのは美奈子だけで、アルテミスは既に次の行動に移っていた。受けとめられることは、計算済みだったのだ。
 魚面の男のみぞおちに、強烈な蹴りをぶち込む。
「ぐっ!」
 さしもの筋肉男も、数歩後退した。
「貴様、ただの人間ではないな………」
 魚面の男は、赤い瞳を不気味に光らせて、アルテミスを睨みつける。
「名を聞こうか」
「失礼なやつだな。人に名を尋ねるときは、まずは自分が先に名乗るもんだ」
 もちろん、アルテミスは時間稼ぎのために、こんなことを言っているのである。魚面の男の動きを少しでも多く観察し、弱点を探る気なのだ。パワー・ダウンした今の状態でこの男に勝利するには、弱点を探し出してそこを攻撃する以外にない。
「ブラッディ・クルセイダース 十三人衆がひとり、ザンギーだ。貴様の名は?」
「マゼラン・キャッスル剣士 プリンセス・アフロディアが側近 アルテミス」
「アルテミス? 女の名ではないか」
「余計なお世話だよ」
 だから名乗りたくなかったのに………。アルテミスは心の中でぼやいた。
「マゼランなどという国は、聞いたこともないぞ。最近独立でもした、ヨーロッパの小国か? そこのプリンセスが、お忍びで宮殿見学しているとでも言うのか?」
「自分で調べな。だいいち、ブラッディ・クルセイダースなんていう組織は、俺は知らないぞ。どこぞの三流組織か?」
「フッ………。お互い様というわけか………」
 ザンギーという魚面の男は、見かけに寄らず、喋るのが好きなようだ。余裕からなのか、ザンギーは隙だらけである。しかし、かえってそこが不気味である。こちらを油断させる作戦かもしれない。
 アルテミスは警戒しながら、それでもじりじりと間を積めていく。自分の間合いにするためだ。
「アルテミス! おしゃべりしてないで、とっととやっつけちゃいなさいよ! 日が暮れるわよ!!」
 何とも無防備な格好で、美奈子はアルテミスの横まで歩いてきた。これでは標的にしてくれと言っているようなものだ。アルテミスは気が気ではない。
 しかし、美奈子は、そんなアルテミスには気付かずに、鋭い視線でザンギーを見据える。
「あなた、ザンギーっていうの?」
「そう、名乗ったはずだが」
「だったら、どうってことはないわ。ザンギーってのは、ここで死ぬことになってるんだから」
「聞きずてならんな」
「54ページでタラントって人が言ってるのよ。ザンギーはやられたってね。ちゃんと、読んでよね」
「なに、わけわかんないこと言ってるんだよ、美奈! 馬鹿なこと言ってる暇があったら、どこかに隠れててくれよ!!」
 アルテミスの嘆きはよく分かる。美奈子はまったく、ストーリー展開を無視している。自分の登場が遅いことへの当て付けだろうか。
 アルテミスは美奈子の腕を引っ張り、自分の背後へと追いやった。
 そこに隙ができた。
 懐にザンギーの侵入を許してしまった。
 ズン!!
 ザンギーの重いパンチが、アルテミスのノーガードのどてっぱらに深々とめり込んだ。
「ぐえっ!!」
 胃液を吐き散らしながら、アルテミスは十メートル後方に吹っ飛ばされる。
 普通の人間なら、もちろん即死である。
「自ら後方に飛んで、ショックを和らげたか………」
 ザンギーは舌打ちした。彼にしてみれば、一撃でケリをつけたつもりだったのだ。
「アルテミス!!」
 しかし美奈子も、ちらりとアルテミスの方向を見ただけだった。すぐに正面に向き直り、ザンギーを睨み付ける。
「ヴィーナス・クリスタル・パワー! メイク・アーップ!!」
 再度変身を試みた。だが、結果は同じだった。
「どうして………。どうして変身できないの!?」
 美奈子は悔しさのために目を潤ませる。アルテミスがピンチだと言うのに、何も手助けできない自分が歯痒かった。
 ザンギーの赤い瞳が、美奈子を捉えていた。その目が、すうっと細くなる。ミニスカートから伸びている健康的な美奈子の足を、舐めるように見回す。
 美奈子は本能的に身を引いた。
「大司教なんぞにくれてやるには、惜しい女だ。この俺が、じきじきに正味するとしよう」
 舌なめずりをし、にたりと笑った。そして、目にも留まらぬ早さで、美奈子の目前まで移動してくる。
「一緒に来てもらうぞ!」
 ザンギーは丸太のような腕で、美奈子の腕を掴もうとした。
 バチッ! バチバチバチ!!
 火花が散った。
 サンギーは大きく仰け反る。何が起こったのか理解できない。美奈子の腕を掴もうとしたとたん、衝撃波のようなもので弾き飛ばされたのだ。
「やつか!?」
 体勢を立て直すと、ザンギーは美奈子の後方に倒れているはずのアルテミスに目を向ける。
 しかし、ザンギーの予想に反して、アルテミスはまだ蹲ったままだった。とても、今攻撃したとは思えない、無様な格好だった。
 美奈子でさえ、何が起こったのか理解していない。目前まで迫ってきていたザンギーが、突然弾き飛ばされたのだ。もちろん、自分は何もしていない。
「!」
 頭上から殺気を感じた。
 ドーン!
 ザンギーに強力なエネルギー波が直撃する。
「ヌウ!!」
 ザンギーの強靭な肉体は、そのエネルギー波を弾き返す。物凄い表情を上空に向けた。
「どこを見てるの? こっちよ!」
 正面から声が聞こえた。女性の声だ。
 ザンギーは顔を正面に戻す。
 美奈子の前に、ふたりの女がいた。ふたりとも、超ミニのスカートをはいている。すらりと伸びた足が眩しく見える。
「姫様には、指一本触れさせない」
 女のひとりが言った。ロゼ色の美しい髪をした女の方だ。もうひとりの女の方は、やけに長いクリーム・イエローの髪を、首筋からふたつに分けている。ふたりとも、とびきりの美人である。
「どうして………?」
 美奈子は我が目を疑うかのように両目を見開き、驚きの表情で自分の前にいる見覚えのあるふたりを見ている。
 ロゼ色の髪の女性が、僅かに顔を美奈子の方に傾けて、優しげな笑みを浮かべた。
「わたしたちは、姫様をお守りするために参りました」
「姫様が変身できないことは、既に予言されていたのです。ですから、わたしたちが遣わされました。姫様をお守りするために………」
 クリーム・イエローの髪をした、ロングヘアーの女性は言った。
「あたしが変身できないのには、理由があるの?」
「説明は、のちほどゆっくりとさせていただきます。まずは、あやつを倒さねばなりません」
 ロゼ色の髪の女性は、そう言うとふわりと身を踊らせる。しなやかな身のこなしだ。苦しげに呻いているアルテミスの前に、これまたふわりと着地する。
「アルテミス様、お怪我の方は………?」
「………!? エロスか!? どうしてここに………!?」
「ヒメロスも参っております。説明はのちほど………」
「そうか………。俺はいい! 美奈を頼む」
 アルテミスは脂汗の浮かんだ顔を上げ、エロスに笑みを送った。エロスも笑みを返すと、すぐさまザンギーの方へ、鋭い視線を走らせた。
「その女を守る戦士というわけか………。そう言えば、プリンセスと言っていたな。どこぞの王女様か知らないが、よくもこれだけの少人数で出歩いているものだ」
「お前が知る必要なはいわ!」
 エロスの鋭い声が飛ぶ。
「ふん。威勢がいいな………。それにしても、ふたりともいい女だ。大司教にいい手土産ができた」
 ザンギーは嬉しそうに言うと、赤い瞳を不気味に光らせる。
「ヒメロス、まともにやりあっては駄目よ。アルテミスでさえ、かなわないんだから………」
 美奈子が忠告する。何だかんだ言っても、美奈子はアルテミスの実力は認めている。そのアルテミスが歯が立たない相手なのだから、相当の手練れだと感じていた。
「ご心配には及びません。姫様が変身できないことで、アルテミス様も影響を受けて、パワー・ダウンしているのです。本来ならば、難なく勝てる相手でしょう。………逆にわたしたちは、姫様たちをお守りするために、パワー・アップしております」
 ヒメロスは、ニッと笑う。確かに以前会った時とは、コスチュームにも若干の違いがある。以前は自分たちの初期のコスチュームとほぼ同じデザインであったが、今目の前にいるふたりのコスチュームは、自分たちがクリスタルパワーで変身していた時と同じデザインだった。
 エロスとヒメロスは同時に動いた。エロスは上空にジャンプし、ヒメロスはザンギーの懐に潜り込む。どちらも俊敏な動きだ。あまりの早さに、一瞬見えなくなるほどだった。
「ハァァ!!」
 ヒメロスはザンギーの懐で、気合いを放った。彼女のお得意の「気合い砲」だ。
「なに!?」
 まさか自分が、こんな女に気合いだけで吹き飛ばされるとは思っていなかったザンギーは、宙を舞っている自分に驚愕していた。
 更に頭上から、エネルギー弾の雨が降り注ぐ。エロスのエレガント・ボーミングだ。
「ぐはっ!」
 エネルギー弾を数発食らったザンギーは呻いた。致命傷ではないが、かなりのダメージを受けている。強靱な肉体がなければ、瀕死の重傷を負っていたに違いない。
 ヨロヨロと起き上がるザンギーに対し、ヒメロスが得意の体術で挑む。
 エナジーを纏った強烈な廻し蹴りが、ザンギーの側頭部に直撃する。大きく仰け反ったところに、気合いの塊をぶつける。先程の「気合い砲」よりも大きい「気」の塊である。彼女が「気孔砲」と呼んでいる技だ。
「ぐわぁぁ!!」
 悲鳴を上げて、ザンギーは吹っ飛んだ。
 エロスがヒメロスの横に並んだ。呼吸を合わせる。リンク技を放つつもりなのだ。
 ひと呼吸置いた。
「セーラー・マゼラン・アタッーク!!」
 すさまじいエネルギー波がザンギーを襲う。さしもの強固な肉体を持つザンギーも、ひとたまりもなかった。絶叫とともに、エネルギー波の光の中で消滅していった。
 ザンギーが絶命したことで、倒れていた毛むくじゃらのモンスターたちに、異変が起こった。全てが、女性の姿になったのだ。しかも、三人とも若い。おそらく、十代前半だろう。
「どういうことだ!?」
 黄金剣を鞘に納め、まだ痛む腹をさすりながら、アルテミスは歩み寄ってくる。
「彼女たちのことは、わたしたちにも分かりません」
 毛むくじゃらのモンスターが変貌した女性たちを見やりながら、ヒメロスがかぶりを振った。
 パトカーのサイレンらしき音が聞こえてくる。ようやく警察が来たようだ。
「わたしたちは、姫様をお守りするために、地球へ来たのです」
「さっきもそんなことを言っていたな」
 アルテミスが怪訝そうな顔をする。
「美奈が変身できないのには、理由があるのか?」
「はい」
 エロスが頷く。
「今、姫様は、新たなるパワー・アップのために、力を溜め込んでおいでです。昆虫で言う、サナギの時期に入られたのです」
「いつになったら変身できるようになるの?」
 美奈子が歩み寄ってくる。その表情は晴れない。
「サナギの期間がどれほどのものなのか、わたしたちには分かりません。ですから、わたしたちがお守りするのです」
「エロス、俺では役不足だと言っているように聞こえるが………?」
 アルテミスは不満そうに言う。確かに自分は、あのザンギーという魚面の男に勝てなかった。自分の力不足ではあると思うが、面と向かって言われると、やはり腹が立つ。
「誤解なさらないでください。姫様が変身できないことで、アルテミス様にも影響が出ているのです。力が充分に発揮できないはずなのです」
「ヒトの姿で戦うのは、かえってアルテミス様が危険です。遠慮された方がいいと思います」
 エロスの言葉をヒメロスが受け継ぐような形で、アルテミスに説明する。実際に戦ってみて、アルテミスも気付いたことではあった。パワーが充分に発揮できなかった。
「………でも、ふたりはどうしてあたしが変身できないことを知っていたの? 知っていたからこそ、こんなにもタイミングよく現れることができたんでしょう? まさか、作者の都合だけってことはないと思うんだけど………」
 美奈子は痛いところを突く。やはり出番が遅いことを、根に持っているようだ。あとで、貢ぎ物をしておこう。
「もちろん、理由はあります」
 美奈子のジョークはさらりと聞き流し、ヒメロスが答える。
「クイーン・セレニティが現れたのです」
「クイーンが? まさか………」
「事実です。クイーンは近い将来、姫様が変身できなくなることを予言されていました。そして、わたしたちに、姫様たちをお守りするための、新たなるパワーを授けてくれたのです。真なるセーラー戦士としての………」
 ふたりは「変身」を解いた。ふたりの美しい地球人の女性の姿が、そこにはあった。
「あなたたち………」
 美奈子が言葉を詰まらせた。意味することを理解したからだ。ふたりは本来のマゼラン・キャッスルの戦士としての肉体を捨てたのだ。長寿である本来の肉体を放棄し、地球人として、強制的に転生をしたようだ。そうすることによって、地球人として生活できる土台を作ったのだ。美奈子と立場を同じくするために。
「姫様、そんなお顔をなさらないでください。パワー・アップの為には、必要なことです。わたしたちは、自ら望んで地球人として新たな生を受けたのですから」
 そう言いながら微笑むエロスは、素敵に思えた。輝いていたのだ。
 アルテミスとしては腑に落ちないところはあった。幾らスーパーパワーを手に入れる為とは言え、地球人として転生する必要が本当にあったのか。彼女たちが地球人として転生したのには、他に理由があるのではないのか。だが、今はそれは口には出せないことであった。
「マゼラン・キャッスルのミネルバ様には、四剣士が付いておりますし、アクタイオン様もおります。わたしたちは必要ではないのです。それにもともとわたしたちは、姫様にお仕えしていた守り役です。わたしたちは、むしろ喜んでいるのです」
「エロス………」
「いいえ、姫様。今のわたしは、地球人 愛園澪です」
「わたしは、愛羽望です」
 ヒメロスも優しい笑みを浮かべていた。美奈子も笑い返す。
「じゃあ、あたしのことも、もう姫なんて呼ばないでね」
「はい、姫………いえ、美奈子様」
「『様』もいらないわ」
 美奈子はウインクをした。
 アルテミスがその三人の視界に、すうっと入ってきた。
「警察が来たようだ。面倒なことになる前に、俺たちも退散しよう」
「そうですね、場所を変えましょう。クイーン・セレニティからのメッセージも伝えなければなりませんので」
 エロスが神妙な顔つきになる。何か、よからぬメッセージのようである。ヒメロスの表情も、固い。
「なんだ?」
 気になったアルテミスは、思わず訊いていた。
「“外宇宙(そと)”から、“追放されし者”が帰ってくると………」
「“追放されし者”?」
 初めて聞く言葉だった。当然、美奈子も知らない。
「話が長くなります。先ほども言いましたが、この場では………」
 エロスが遠慮がちに言った。
 そして彼女たちは、もうひとつ重要な問題を忘れていることに、まだだれも気付いていない。
 “毛むくじゃら”だった、女の子たちのことだ。自分たちの話に夢中になりすぎて、そのことをすっかり忘れている。気の毒に、“毛むくじゃら”だった女の子たちは、未だ全裸のまま地面に横たわっている。
「いっけなーいっっ!! 彼女たち、どうしよう………!!」
 美奈子が気付いたときには、警官たちがすぐ近くまで来ていた。
「面倒臭いことにことになる前に、俺たちは逃げよう。女の子たちのことは警察に任せるしかないだろう。俺たちにはどうすることもできない」
 アルテミスが、以外にも無責任なことを言った。が、この場合は、この無責任な意見に従うのが得策と思えた。
「調査ならあとでもできる」
 アルテミスはこうも言った。無責任男の面目躍如といったところか。もちろん、面倒に巻き込まれる方がもっと困る。
 そういうわけで、彼らは場所を変えて話をすることにした。
 この後、エロスとヒメロスによって伝えられたクイーン・セレニティのメッセージは、アルテミスと美奈子を恐怖させるのに、充分すぎる内容だった。だが、日本にいるうさぎたちがこの戦慄のメッセージを知るには、もう少し時間が必要だった。